日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―
日本における死への準備教育―死の実存的把握をめざして―
本研究は、日本私立学校振興・共済事業団の学術研究振興資金に係る研究であり、日本における死への準備教育の1つの実践形態を、様々な死生観に鑑み、文学・宗教・哲学・社会学の側面から呈示することを目的とする。研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究分担者 役割分担
高城 功夫 研究員 研究代表 中世仏教文学における死生観
大久保 廣行 研究員 万葉人の心性と死
菊地 義裕 研究員 万葉挽歌と古代の喪葬習俗における死生観
原田 香織 研究員 能楽にみる死生観
谷地 快一 研究員 近世俳諧師における死生観
山崎 甲一 研究員 近代作家の死生観
竹内 清己 研究員 現代作家の死生観
川崎 信定 研究員 仏教にみる死生観
渡辺 章悟 研究員 冥界信仰における死生観
中里 巧 研究員 ターミナルケア・ホスピス
相楽 勉 研究員 死への存在としての人間存在―死とどう向き合うか―
榎本 榮一 客員研究員 摂関期の古記録にみられる葬送・追善供養
大鹿 勝之 客員研究員 生命倫理と死の問題
大谷 栄一 客員研究員 宗教教団の死への関わり
本年度の研究調査活動は、以下のような研究計画にしたがって行われた。
・死を主題とする公開講座の開催
平成17年度のテーマ「死と宗教」
・公開講座の準備段階としての資料研究・調査
講座担当者による未検討の資料研究および国内各地への調査
・死生学(サナトロジー)の研究
①資料研究 ②死生学の概念に関するデータベースの構築
・死への準備教育における相互交流
国内の、関東圏や中部地方を中心とした、各地の研究機関や団体における、死への準備教育の取り組みの調査と研究交流
・仏教学者・医療関係者を講演者に招いての公開講演会の開催
以下に、研究調査活動を行った研究分担者別のテーマ・期間・調査地と、公開講座、公開講演会の概要を記す。
研究調査活動
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
中世文学と浄土思想・死生観との関連性についての遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成17年2月26日〜2月28日
調査地 京都(日野御香宮・法界寺・日野薬師・鴨長明方丈庵の跡、宇治橋姫神社・宇治神社・宇治上神社・平等院鳳凰堂など)
2月26日は日野を中心にした調査を行なった。まず日野への途中大変信仰の篤い御香宮を参拝した。ここは特に香を中心にした信仰を集め、平安時代より参拝のたえないところである。今は境内よりわき出る香水が日本名水の1つとされ、多くの人たちが、水を戴きに参詣していて有名なところである。次に平安時代の阿弥陀仏を安置する法界寺を調査、浄土思想と日野氏一族の遺跡を見学した。日野薬師は病を癒す仏として今でも信仰厚く、衆生の参詣のたえないところであり、その遺跡を調査した。鴨長明方丈の庵の跡は冬の時期に調査してみたほうが木の葉が落ち、方丈記の記述を辿ることができるということで好都合であった。
次の日は宇治を中心に調査した。特に源氏物語の死生観の背景としての字治川や宇治十帖の舞台、あるいは修復中であったが平等院鳳凰堂は平安時代の浄土思想を考える際の遺跡として調査することができた。宇治神社や宇治上神社はそれぞれ土着の信仰ということと源氏物語の仏教思想や神道思想の背景の信仰として重要なところであるので種々の面からの調査をした。またその他宇治十帖との関わりで字治に点在する神社遺跡も調査することができた。
姨捨棄老伝説の背景と当地の葬送儀礼の調査
中里 巧 研究員
期間 平成17年3月16日〜3月17日
調査地 長野県千曲市
相楽勉研究員と同行し、鳥葬儀礼等の調査をおこなった。
16日長野県立歴史館と長野県埋蔵文化財センターに行き、調査した。歴史館では、主としてシャーマニズム的要素をもつ縄文土器や縄文時代の生活様式における熊祭り的要素を調べた。また、埋蔵文化財センターでは、調査部長と面談し、鶴萩七尋岩陰遺跡遺構の調査時における状況やデータの所在、当時の発掘調査研究者の所在等について、詳細に聴き取った。
17日鶴萩七尋岩陰遺跡遺構跡を現地調査した。高速道路工事により、発破をかけられ、巨石それ自体は、まったく現存していないことを確認した。この後、県立歴史館に所蔵されている人骨・縄文土器・鉄器等を、伊藤氏や水沢氏などの研究員のアドバイスに従い写真撮影した。
姨捨棄老伝説の背景と当地の葬送儀礼の調査
相楽 勉 研究員
期間 平成17年3月16日〜2月17日
調査地 長野県千曲市
16日はまず千曲市にある長野県立歴史館を訪ね、常設展示を見学。前回調査時に「姨捨」の語源「ハツセ」を介してたどり着いた長谷寺(長野市塩崎)わきの「七尋の大岩」(鶴萩七尋岩陰遺跡)に関する資料を発見。次に、この資料を発掘し整理した長野県埋蔵文化センター(長野市篠ノ井)を訪ねる。この発掘に関する様々な情報を聴取、また発掘の調査報告書、長野県の他の葬所遺跡に関する資料を入手した。
17日はこの報告書に基づき、まず鶴萩七尋岩陰遺跡を調査しようと現地を訪ねるが、発見できなかった。報告書の写真と照合すると、高速道路敷設の時に破壊されたことがわかった。わずかに残存する岩群を撮影。午後、長野県立歴史館を再訪し、この発掘に関わった学芸員伊東友久氏に発掘に関する話を聞いた。また保存されている遺跡出土物(人骨・石器・土器など)の閲覧を申請、出土物を閲覧し撮影した。
今回の調査では、ハツセの大岩が縄文早期以来の遺跡であり、多量の人骨の出土からして葬所である可能性にたどり着いたことが大きな収穫であった。岩陰や大岩が葬所遺跡である他の例に関する情報も得た。
分担課題「能楽にみる死生観」に基づく研究調査
世阿弥の佐渡配流における『金島書』にみられる死生観の調査
原田 香織 研究員
期間 平成17年7月16日〜7月18日
調査地 佐渡(長谷寺、正法寺ほか世阿弥の配所)
初日は両津より金井地区泉の正法寺において世阿弥の遺品と伝わる雨乞いの面、寺宝の世阿弥像(入江実法作)を御住職の御好意により拝観。寺内の世阿弥大夫腰掛の石は昨年の台風のため古木が倒壊し、唯一の遺跡の石は現在周辺を工事中であった。その後『金島書』にみられる順徳院ゆかりの黒木御所跡、真野宮をめぐり観世家の信仰対象でもあったゆかりの豊山長谷寺において『金島書』の内容と実際の風景を確認した。
2日目は順徳院関係の小木地区、小比叡神社、蓮華峰寺、順徳院の御所桜(天然記念物)のある海潮寺、矢島経島をめぐり、その後世阿弥配流の際、最初に上陸した多田浦港を確認した。佐渡能楽館より本間家能舞台、牛尾神社能舞台、大膳神社能舞台をめぐり、『金島書』にある佐和田の八幡神社を確認、八幡宮は源氏足(利将軍家は源氏)ゆかりの社で、世阿弥の心情吐露と重ね現地調査を行った。
3日目は佐渡唯一の謡曲遺跡である日野資朝関係の壇風城跡を拝観、これは日蓮ゆかりの五重塔のある妙宣寺内にある。日野資朝は金『島書』でも世阿弥が扱っており中世文学の中では特色ある人物である。近隣の国分寺跡(国分寺)、世尊寺、そして椎崎諏訪神社の能舞台を確認した。
佐渡における世阿弥関係、能楽関係の調査をほぼ十全に行い大変有益な実り多き研究旅行であった。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の仏道観と死生観に関わる熊野とその周辺の遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成17年7月29日〜8月1日
調査地 熊野三山・中辺路(花山院遺跡・青岸渡寺・那智大社・新宮熊野速玉大社・西行遺跡・熊野本宮・伏拝王子・近露王子・滝尻王子・八上王子・田辺南部ほか)
第1日目7月29日は那智大社に参詣し、花山法皇の旧跡を訪ね、『とはずがたり』の記述を確め青岸渡寺を調査、そのあと那智の奥、弘法大師が開いた妙法山阿彌陀寺、いわゆる女人高野の修験道場を調査した。さらに補陀洛渡海をした補陀洛山寺から熊野灘を調査した。熊野灘を巡回し、紀伊松原の一島維盛島を調査した。これは平家物語の平維盛の熊野灘入水を考える際の予備調査である。
翌2日目は新宮に出て熊野速玉大社に参詣した。熊野三山の1社であり、熊野信仰を現実に調査するためには重要な1社であった。さらに熊野本宮大社の調査をした。そのあと、西行遺跡の実地調査をした。西行は度々熊野参詣をしているので各地にその遺跡が存するが、西行の歌による七越の峰は熊野本宮大社を見下ろす位置にある山で歌碑や石像などが多数存し、西行信仰の跡を偲ぶことのできるところである。
第3日目は中辺跡の王子の遺跡を調査した。伏拝王子は和泉式部伝承の地であり、近露の王子は花山院関係の遺跡が多く、滝尻王子に熊野古道の資料の調査をした。
第4日目は紀伊田辺周辺の調査をした。特に八上王子は西行の遺跡として重要であり、古社と西行歌碑二基が存した。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の仏道観と死生観に関わる東北の遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成17年8月5日〜8月7日
調査地 山形(蔵王・滝山)、仙台(榴ヶ丘・国分寺跡など)、福島(信夫山・文知擢観音)
第1日目と2日目にわたって山形における西行の瀧山という修験道場の遺跡の調査をした。山家集に「又としの3月に出羽国に越えて、滝の山と申寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅の色濃き花にて…」という詞書と「たぐひなき思ひでは桜かなうすくれなゐの花のにほひは」という歌がある。その「滝の山と申す寺」はどこにあり、どのような伝承があるかと実地を探索するための調査であった。西蔵王300坊と称する瀧山寺跡が広範に存する遺跡を調査し、江戸時代の古文書の類や春には咲いていたであろう、赤い桜を求めての調査であり、西行の足跡を確認した。また山形市の蔵王とは反対の西山の方に滝山寺桜田があり、その跡地に西行の歌碑が存するのでそちらも調査したが、こちらは蔵王の天台系に対し真言系であった。そのような伝承地が山形には多く在するので、今後も調査を続けたい。仙台は専ら榴ヶ丘公園周辺の源俊頼の歌碑や国分寺跡さらに国分尼寺などの調査をした。福島市では西行の遺跡として信夫三山を調査し、また西行の和歌や伊勢物語の故地文知擢観音を調査、その地形を考え西行和歌の背景を探るための調査をした。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の仏道観と死生観に関わる姫路・吉備路・瀬戸内の遺跡調査
高城 功夫 研究員
期間 平成17年8月18日〜8月21日
調査地 姫路(書写山円教寺)、岡山(牛窓・児島西行遺跡)、吉備路(吉備津彦神社・備中国分寺・風土記の丘)、真鍋島、尾道
播州姫路の書写山円教寺は性空上人によって創建された天台宗の古刹である。平安時代和泉式部が「冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」と性空上人に詠み送った山としても有名であり、西行も書写の山を詠んでいるので、その円教寺の古刹を調査し、和泉式部の歌塚や諸堂宇を実地調査した。
そのあと岡山周辺の調査をした。特に牛窓は西行の山家集に「牛窓の瀬戸」とあるので牛窓を見、瀬戸のあたりを歩き、さらに西行歌に「備前の国、小嶋と申す島」といった児島半島を調査、灘崎町にある西行の歌碑を探索した。児島のあたりはだいぶ開発されているため西行遺跡を探すのに苦労した。吉備路は備中国分寺の象徴によって自然そのものが残っているところである。国分寺の五重塔からこうもり塚古墳、吉備路郷土館のある風土記の丘、さらに国分尼寺跡を調査し、さらに吉備神社、吉備津彦神社と探訪した。翌日、笠岡港より船で真鍋島に渡り、西行が「真鍋と申す島」と記しているのでその漁港周辺を調査した。さらに尾道へと行き、かつて西行が歩をとどめた千光寺を調査、文人墨客の遺跡を調査した。
分担課題「中世仏教文学における死生観」に基づく調査
西行の仏道観と死生観に関わる高野山・橋本・和歌山における遺跡調査
高城 功夫研究員
期間 平成17年8月26日〜8月28日
調査地 高野山(金剛峯寺・苅萱堂・奥の院など)、橋本周辺(慈尊院・丹生官省符神社・町石道・丹生津比売神社など)、和歌山(粉河寺・根来寺・紀三井寺)
高野山は弘法大師空海によって開かれた真言密教の聖地であり、空海を慕って登山した西行は高野山を本拠として30年を過ごした聖地であり修験道場である。西行の仏道心や死生観を考える際に高野山はその根本になる山であるので調査したがまだ十分とはいかなかった。まずは弘法大師の御廟である奥の院を参拝した。西行が西住と高野の月をながめた一の橋を調べ、金剛峯寺参拝の前に苅萱道心の故事の残る苅萱堂を見学した。金剛峯寺は真言宗の総本山であって尊崇と信仰の篤い所である。西行が庵を結んだところは不明であるが、三味堂があって西行堂といわれ、西行桜が植えられていた。その隣が大会堂で鳥羽院皇女のために西行が勧進したお堂であるので西行ゆかりの地といえる。そのあと諸々いくつか調査をしたが省略する。但し蓮華定院(女人堂の近く)は西行が最初に止宿をしたところと伝えられている。次は天野の別所へ行つた。その前に慈尊院・丹生官省符神社へ参拝、天野は女人高野であるので丹生津比売神社周辺を調査した。西行妻と娘の墓があり西行堂には西行木像があった。その前の田を西行日といって西行の草庵生活を偲ぶことができるところである。そのあと和歌山へと伺う間に西行が中納言局などを伴った粉河寺また覚錢上人によって開かれた根来寺を参拝した。また名草山中腹にある札所紀三井寺へと拝し、時間が足りず再度の調査をと考え帰路についた。
姨捨棄老伝説の背景と当地の葬送儀礼の調査
中里 巧 研究員
期間 平成17年9月15日〜9月16日
調査地 長野県千曲市、長野市
15日 鳥羽山洞窟遺跡は、鳥羽山直下の小規模な渓谷状にある幅4〜5mの川辺から、3〜4mほどの上方にあり、鳥羽山の岩壁の洞窟である。遺跡の形状は、鶴萩七尋岩陰遺跡と大変よく似ている。岩壁と岩壁下部の回廊がその主要素である。鳥羽山洞窟遺跡のばあい、その回廊に、さらに洞窟が付加されている。丸子町の岩谷寺およびその脇に保存されている岩谷洞窟も、岩壁・洞窟が付加された岩壁下部の回廊から成っており、形状は、ほぼ共通している。昨年度の調査結果から類推して、かつて風葬地もしくは鳥葬地であったのは、間違いない。
16日 坂北村の岩殿山にある岩殿寺の修験信仰の至聖域であった山頂付近にある岩殿神社は、台風被害により登行不可能であったため、周辺を調査した。聖山南麓の福満寺の修験信仰の至聖域である頂上直下付近を、福満寺から観た。岩殿神社と聖山の至聖域も、岩壁・岩壁下部の回廊から成っており、風葬地もしくは鳥葬地の条件を満たしている。また、聖山頂上直下にある桶智神社には、雨乞い儀式がおこなわれた聖域が、現在なお保存されている。白樺樹林であり、水資源に豊富な場所であり、泉が聖域となっている。
姨捨棄老伝説の背景と当地の葬送儀礼の調査
相楽 勉 研究員
期間 平成17年9月15日〜9月16日
調査地 長野県千曲市、長野市
今回は姨捨伝説の背景となる古代人の葬送儀礼の跡を、少し範囲を広げて調査した。
15日は、前回の鶴萩七尋岩陰遺跡と同じ性格を持つ曝葬跡(風葬跡)と見られる丸子町の鳥羽山洞窟遺跡を訪ねる。川に隔てられて洞窟内に立ち入ることはできなかったが、まわりの状況を調査。次にこの遺跡の発掘物を保存している丸子町の民俗資料館を訪ねるが、臨時休館だった。最後に丸子町の岩谷寺を調査。
16日は、姨捨山の西方にある聖山周辺を調査。坂北村の岩殿山周辺、聖山南麓の福満寺、聖山北面の高峰寺と樋智神社、聖湖畔の聖博物館を順次調査。
今回調査したいずれの場所も、姨捨伝説の背景にあると見られる葬送儀礼を予想させるものだった。多くが古墳時代以来の曝葬跡と見られ、その場所は集落近くに聾える岩山であった。その多くはまた集落と川を隔てた対岸に響えていた。岩殿山山頂直下にあるという祭祀跡は訪ねることができなかったが、ふもとの集落の人から聞くところでは、10年ほど前まで7月15日に村人50人前後がこの山頂で祭祀を行っていたとのことである。古代人の死生観の基本的な幾つかの点を明らかにできたのが、今回の調査の成果であった。
分担課題
「万葉人の心性と死」に基づく調査および実地踏査
大久保 廣行 研究員
期間 平成17年9月20日〜9月21日
調査地 福岡県(桂川町・飯塚市・鴨生町など)
分担課題を考察するには万葉歌人では山上憶良が最も適当かと考え、国司として勤めた筑前国(福岡県)の関係遺跡を調査した。
第1日(9月20日)
桂川町の王塚古墳を見学し、王塚装飾古墳館で九州地方に独特な装飾古墳の内部(復元)を詳しく見てその死生観を考えた。また資料収集。
第2日(9月21日)
飯塚市の歴史資料館で古の嘉摩(郡)の地の成り立ち及び奈良時代の状況について調べる。嘉摩の郡衛(郡役所)は隣の稲築町鴨生の地とされそこで有名な嘉摩3部作(特に「哀世間難住歌」)の詠まれた地であるので、そのテーマである老から死へと向かう者の心を考える。(地形を調べ万葉歌碑などを巡る)
分担課題「現代作家の死生観」に基づく調査
北方の医学と宗教と文学に関する研究調査
竹内 清己 研究員
期間 平成17年9月20日〜9月23日
調査地 渡辺淳一記念館(札幌)、静様天理教会
北海道立文学館の書庫にて北海道関係書にあたって北方の医学、宗教、文学関係の知識を補った。さらに特別企画展「原田康子の北海道」を見学。北のいのちは北のロマネスクを生む、渡辺淳一の文学にもそれがあるのではないか。
有珠の善光寺、厚岸の国泰寺とともに江戸幕府の蝦夷三官寺の1つ等潮院のある様似。ここは日高線の最終駅で襟裳岬を果てとする。北海道には、江戸以来明治以降盛んに行われた本州からの移民と共に本州の宗教が北上した。そのあとを、天理教の伝播において見ることとなった。それは、北方における生と死の看取りの1形態をあらわすだろう。
静様分教会の栄町114番地。しずさまぶんきょうかいと読む。3つの祭壇がしつらえられ、太鼓、拍子木が置かれ、清掃が行き届いている。朝づとめ――午前7時、夕づとめ――午後5時。「おふでさき」「おかきあげ」などが掲げられている。山辺の道の石上神社の近郊、大和国山辺郡三味田に生まれた1主婦の中山みきがうけた啓示に始まる天理の陽気ぐらしの教えがここまで伝道したのだ。現在の教会長宮川静江氏に面談して聞き取りを開始する。宮川家は福井からの開拓農民。鶴吉の四男、五之助の入信に始まる。「天理教伝道史』北海道篇に記述される洲本系に属する。分厚い『洲本大教会史』第1巻を借覧する。3代官川五之助、昭和15年10月29日、3代所長任命のお許しを戴く。五之助、札幌在住して八百屋を営んでいたが、妻の「出直し」(*身は神からの借り物、死は出直し)と商売の行き詰まり、その後妻の身上と度重なる節に出会っていたころ、石上市平の導きによって入信し道一条定めて静内宣教所に入り込む。しかし妻は出直し、その後トメを妻に迎え、昭和9年石上市平の指示に従い郷里の様似にて夫婦共に布教を開始し、同14年8月には別科を修了してなおも布教に専念した。分教会の設立――御分霊を御下附戴く。鎮座祭。奉告祭。「出直し」――祭壇を飾る。位牌を置く。1祝詞2お祓い3遷霊祭4鎮霊祭の順序。四拍一礼四拍一。祭主は親教会長。翌日は発葬祭(告別式)。副祭主(分会長)しのびの祝詞。戒名はない。五之助の墓には、故宮川五之助大人之霊と彫る。女性の場合、刀自。昭和52年11月3日出直し78年(*1歳加算)。10日祭。20日祭。30日祭。50日祭で墓入り。100日祭。1年祭と祀る。
渡辺淳一文学館は札幌中島公園裏にある。北海道の近代医学の設立は、大正のこと北海道大学医学部、渡辺氏が整形外科の助手をしていた札幌医大は戦後。助手時代に医局の隣の心臓外科のあの日本初の和田教授の心臓移植について書いた『小説心臓移植』(文芸春秋)が医学研究から小説家への転機となる。だからその文学は、医学と生命(エロス)の探究であった。「脳死をどう考えるか」「麗しき白骨」「空自の実験室」「死化粧」……命削る性愛(エロス)の讃歌「失楽園」が産まれる。
分担課題
摂関期の古記録にみられる葬送・追善供養のための調査研究
榎本 榮一 客員研究員
期間 平成17年11月11日〜11月13日
調査地 宇治市・京都市(平等院、法界寺、即成院、仁和寺等)
11日。宇治市の平等院に行く。11世紀平安時代中期の浄土教美術を代表する、藤原頼通が建立した鳳凰堂と阿弥陀如来像を拝観、極楽往生希求の切実さを実感。台座、光背等修理継続中。
12日。京都市の仁和寺に行く。9世紀創建当初の仁和寺金堂の本尊であった阿弥陀三尊像を拝観。ここでは藤原道長の妻倫子の父源雅信の追善法華八講が行われた。木幡に程近い日野の法界寺に行く。11世紀建立の阿弥陀堂と阿弥陀如来像を拝観。残存する天女の壁画や柱絵をも見ながら堂内を廻り、当時の常行三味を偲ぶ。
13日。東福寺塔頭の同衆院に行く。道長が建立した法性寺五大堂の跡といわれる同衆院に現存する不動明王を拝観に行くも、厨子の開扉日でなく拝観できなかった。泉涌寺塔頭の即成院に行く。平安時代後期の阿弥陀如来像と二十五菩薩来迎像を拝観する。阿弥陀来迎をより実感できるように立体的に表現した、現存唯一のものである。以上、現存する摂関期の頃の、聖衆来迎を表現した阿弥陀堂などからは、当時の来世往生と追善供養に対する切実さを実感することができた。
分担課題
「冥界信仰における死生観」に基づく調査
渡辺 章悟 研究員
期間 平成17年12月23日〜12月26日
調査地 大阪府寝屋川市・奈良県生駒郡平群町(生駒山中)
12月23日、午前9時30分頃に東京駅を出発したが、大雪のため新幹線が大幅に遅れ、大阪には2時半頃に到着。東寝屋川駅着は3時頃になってしまったため、タクシーに乗って大急ぎで「正縁寺・秋玄寺・明光寺・大念寺」を巡り、各寺の十三仏板碑の調査を行った。薄暗くなり、かつ寒風吹きすさぶ中で、なかなか大変な調査であったが、それぞれの写真も撮ることができ、最低限の仕事をすることができた。
24日は奈良県生駒郡平群町周辺の寺院に残る十三仏遺跡の調査を行った。真言宗室生寺派金勝寺とそこから10キロほど離れた千光寺まで、生駒山中を徒歩で往復したため、この日はこの2か寺のみで終了。
25日は真言律宗大本山の生駒山宝山寺とその周辺の遺跡調査。宝山寺は大和十三仏霊場の第1番でもあり、もともと生駒山系の中心寺院の1つである。修験という山岳信仰が十三仏信仰の成立と展開に影響を与えた可能性を確認。
26日は信貴山朝護孫子寺及びその周辺の塔頭寺院に残る十三仏板碑(生駒山系最古の遺跡)を調査して、午後に帰京。これらの成果は、研究最終年度に刊行する研究報告書に掲載する予定である。
分担課題
「近世俳諧師における死生観」に基づく調査
芭蕉塚を通じての追善の考察における、八戸市立図書館蔵『諸国翁墳記』の文献調査
谷地 快一 研究員
期間 平成18年1月21日〜1月22日
調査地 八戸市立図書館(青森県八戸市)
『諸国翁墳記』は芭蕉の墓がある義仲寺が芭蕉顕彰を目的として諸国の芭蕉塚を申告させ本として出版に及んだもので、年を追って増補するかたちで幕末から明治時代までの芭蕉神格化を助長し、蕉風俳諸の普及に貢献したものである。その諸本は全国に分布し、谷地は東大本と天理図書館本を10数点収集して、芭蕉信仰と近世俳人の死生観について調査を続けているが、八戸市立図書館本は、その芭蕉塚建立の経緯と神格化がどのような手続きでなされたかを知るのに有効な書き入れがある1本であることが注目されてきた。このたびはその書き入れ本の書誌的調査と書き入れの全体を把握できたことはきわめて大きな収穫であった。
具体的には、『諸国翁墳記』が単なる句碑集成を目的としたものでなく、芭蕉を宗祖とし、義仲寺を本山とする芭蕉教ともいうべきものが江戸時代にできあがっていたことを伺わせ、明治政府によって作られた俳諧教導職の原型ともいうべきものが、江戸時代にできあがっていたことを想像させて面白い。なお、その俳諧教導職を請け負った旧派の俳人を排斥した正岡子規と同じ時代に生きた青森の俳人大塚甲山関係の図書を、八戸市立図書館で偶然発見する幸運に巡り会い、今後の研究の大きな刺激となったことを書き添える。
公開講座
平成17年6月8日東洋大学甫水会館401号室
日本人の死後観―十三仏信仰を中心として―
渡辺 章悟 研究員
十三仏信仰は死がより日常的であった戦乱の中世日本に生まれ、長い間日本人の死後観に大きな影響を与え続けている。この信仰は、紛れもない仏教信仰であるが、教義的な裏付けがなく、仏教学の対象としては扱いにくいものである。しかし、他の国には見られない日本独自の生きた信仰である。実際にこの信仰は葬送儀礼とともに展開し、日本人の豊かな死後観を形成してきた。その意味では、日本人が死をどのように受け入れ、死の準備をしてきたのかを知るには格好の対象であるといえる。
十三仏信仰は非常に重層的な成立構造を持う。まず中国の十王信仰が基礎となる。葬祭を重視する中国の民衆は、インドに由来する七十七日、すなわち四十九日までの7回の葬祭に加え100箇日、一周忌、三回忌からなる十二斎、または十仏事を成立させた。これは道教や儒教などの民間信仰を背景としたもので、特に敦煌で流行した地蔵十王信仰から展開し、冥界と年忌の考え方を基礎づけた。その教義的な根拠は偽経とされる『仏説預修十王生七経』により、石像遺品や碑文・図画などの資料によれば、その作例は、中国から日本の各地に見ることができる。今回は臼杵の石仏で知られる中の「堂が迫石仏」(ホキ石仏第1群)の第4命を資料に、十三仏と地蔵十三信仰との関連を指摘した。その次に十三信仰から十仏信仰がわが国において成立する。
その信仰上の意味は、冥界の司法官としての十五に対して、救済者としての十仏ということになる。いわば、死者を厳しく裁く十三に対して、救いの仏として日本文化が生み出した本地仏としての十仏であり、これらを死後世界(冥界)の守り本尊として礼拝するのが十仏信仰である。この信仰の教義的根拠となったのが鎌倉時代にわが国で撰述された『地蔵菩薩発心因縁十王経』である。
さらに、12世紀頃から14世紀頃までの間に、七回忌、十三回忌、三十三回忌という3回の年忌が延長され、それぞれに対して、阿閥・大日・虚空蔵という忌日仏が要請され、十三仏が成立したと考えられる。さらに重要なことは、これら十三仏信仰は、かつては現世に生きる者の預修として、行われていたという点である。十三仏信仰は、その意味で「死の準備教育」という意義を担っていたのである。
公開講座
平成17年7月2日東洋大学白山校舎6311教室
近代日本の法華系在家仏教教団にみる死生観
大谷 栄一 客員研究員
本講座では近代日本に成立した法華系在家仏教教団の国柱会を取り上げ、その教義と儀礼にみる死生観を検討した。国柱会は、1880年(明治13)に田中智学(1861〜1939)によって創設された教団である。日蓮宗一致派(現在の日蓮宗)の伝統を継承する一方、日蓮主義と呼ばれる独自の信行体系を築きつつ、仏教系新宗教にみられる個別的な現世利益よりも、現世における社会救済を重要視した法華系在家仏教運動の1運動体である。現在は約2万人の信者を抱え、東京都江戸川区一之江に本部を構え、活動を継続している。
創始者の智学は、「仏教夫婦論」(1886年)と「仏教僧侶肉妻論」(1889年)によって、夫婦を中心とした在家者本意で現世中心の在家仏教を主張した。また、明治中期に教団独自の法要・儀礼を整備する過程で、頂経式(新生児の帰敬式)や本化正婚式(仏前結婚式)を制定し、仏教が生前の通過儀礼に果たす役割を重視している。死の位置づけを見ると、1902年(明治35)に智学によって体系化された教義体系「本化妙宗式目」の中で、日蓮主義の信仰の受持によって、人間の生死が有意義化されると説いている。
国柱会の死生観が集約されている宗教的シンボルが、妙宗大霊廟という一塔合安式の合祀墓システムである。この霊廟は1928年(昭和3)に東京の一之江に建立され、「法華経」と智学の日蓮主義の理念が体現されている。現在もこの霊廟で唱題供養や回向等の法要・儀礼が営まれており、霊廟は、国柱会の中心的な儀礼空間として存続している。
松村壽厳によれば、近代日蓮宗の儀礼と行事は(1)修道型儀礼、(2)報恩型儀礼、(3)回向型儀礼、(4)祈願型儀礼、(5)信行型儀礼、(6)特殊型儀礼に大別される。国柱会でもこれらの儀礼と行事は実修されている。ただし、原則的に現世利益を否定するという教学的立場に立つため、(4)の祈願型儀礼は少ない。また、霊友会系諸教団のように、先祖供養を強調することもない。国柱会の場合、創設以来、信仰の「純粋」化(プロテスタンティズム的な近代仏教の信行体系の形成と維持)を掲げており、その儀礼体系は伝統教団や他の在家仏教教団の儀礼とは異なる面もあることがわかる。
以上の考察を通じて、国柱会においては、在家者が信仰に主体的に関わることが重視され、その生死は日蓮主義の理念によって意味づけられていること、また、死は生前の信仰の延長あるいはその帰結として位置づけられていること、そして、妙宗大霊廟の理念にみられるように、生前と死後に及ぶ新しい共同性(絆)の構築が強調されていること(ただし、現在ではそれが形式化している傾向がある)が明らかとなった。
公開講座
平成17年10月8日東洋大学白山校舎スカイホール
『チベットの死者の書』と日本の四十九日中陰回向
川崎 信定 研究員
死は、生きているわれわれに断絶をもたらす。「ひとは死への存在である。」と喝破したのはハイデガー。たしかに人間には自分の死を知ることはできない。自分に意識がある間は死んでいないし、死んだ時には知る自分がもはや存在しない。しかし、生きて知る自分の断絶である死を終局点として、死に至るまでの生きて知る自分を考えるだけでよいのだろうか。古くからの仏教伝統を伝える『倶舎論』には、これとは逆に死(死有)を起点として以後の中有・生有・本有を設定する輪廻観(四有)があった。現代日本の都会でも、家に葬式が出た後で新円寂精霊の初7日から7週間にわたって僧侶が同向する四十九日・満中陰の風習は根強く残っている。
『チベットの死者の書』を読んで、「あれ!これと同じもの、どこかで出逢ったことがある。」とのデジャヴィユ感覚を味わった識者は多いはず。8世紀の文献とされる『チベットの死者の書』は、死のカ―テンが引かれて3日半後に突然に意識を回復する死者の姿を提示する。この時の死者に生前の肉体は既にない。死者が声をかけても肉親・縁者に彼の声が聞こえない。死者の意識はますます明晰になる。しかし、今の彼には何かをどうできるという手段がない。彼の前途に待つのは、多くの回数にわたって繰り返される生死であり、無限の輪廻である。永久に走り続け止まることのない車に乗っているのに気付いた乗客と似た恐怖を死者は感じるだろう。無限なるものの怖さを味わされながら、しかもどうすることもできない状態は何よりも耐えがたい。
『チベットの死者の書』は、「われわれのすべてに死後3日半後に例外なく起こる」と、一片の疑惑の余地もない断固たる口調で、すべての人の死後の目覚めを断言する。すべての人は死後3日半を過ぎて覚醒する。そしてそれからの四十九日間に次の生に再生する。ただこのように輪廻転生していても、われわれには前の生と今の生との間にアイデンティティ(自分が自分であることの証し)の取る術がないだけなのである。「今の時代にリンネ・テンショウなんて!」と哺く現代の自称〈理性派〉に対して「でも、ご自分の個体存続の証しとしてのアイデンティティにしてからが、そんなに確かなものかね?」と冷やかな反論を投げかけるのが、本書である。確固たる口調のもとに、死を超えての存在の体験を説く。生か死かという単純な三分法の枠組みを超えた存在の意味を語りかけてくる。本書によって、死がもはや終局の意味と特権を独占できないことを知らされて、かえって現在を生きている意味が浮き彫りになってくる。『死者の書』と呼ばれながら、生きている人にその生の意味と内容を厳しく問い掛けてくるのが『チベットの死者の書』である。常識的な生死の枠組みを超えた、壮大な精神世界を示す本書は、現代日本の揺れ動く「死の準備」教育にとって、1つの確たる指針を与えてくれるのではなかろうか。
公開講座
平成18年1月28日東洋大学白山校舎6301教室
摂関期の日記に見られる「死」の周辺
―『御堂関白記』『小右記』を中心として―
榎本 榮一 客員研究員
『延喜式』にみられるように、死穢は穢とされるものの内で最も重いものである。摂関期の貴族が、「死」とどのように対処し、また向き合おうとしたのかを、貴族の日記を中心にしてみた。
摂関期には、人や動物の死などによる穢の発生に敏感であった。大内裏あるいは貴族の邸宅に、しばしば犬が人の死骸を街え込み、触穢したことが日記に記されている。それほどに京中には死骸がうち捨てられていたことがわかる。しかし穢の伝染の程度とそれの公事への影響については注意が向けられるが、他の人の死を見聞して、それに対する宗教的感情の反応はみられない。それは正しく、源信の『横川首楞厳院二十五三味起請」に「必死の人を疎んずべし」とあるように、死は忌むべきものとして対処されてきた。
しかし、死と直面せざるを得ないあるいは差し迫った状態になった時、それを乗り越える手段として、最も頼るべきものが仏教であった。
当時、病気にかかったり出産に際しては、死に直結する恐れの多いものであった。そのような時、病気平癒や安産祈願のための仏事が催行された。時に、死の間近い事を強く意識した場合や正に死に瀕した場合、しばしば出家という行動がとられる。藤原道長は、病気がちになった寛仁3年に出家し、翌年に無量寿院(法成寺)を建立している。時に童数人を併せて出家させることもみられる。これらはいずれも、出家の功徳により後世善処に往生せんことを願ってのことである。
触穢することをも許容する近親者や親しい人の死に臨むことであるいは故人を追善供養することで、人が死を意識する契機ともなり得る。道長は、寛弘2年それまであまり足が向けられることの少なかった藤原氏一門の墓所である木幡に、先祖供養のために浄妙寺を建立する。その後度々近親者を連れ立って浄妙寺に詣るのであるが、これは先祖供養のためのみではなく、一門の者を極楽に引導するためでもあった。この法華三味堂の追善供養の始行は、法華八講による円融・一条天皇、藤原兼家などの追善供養の始行と恒例化といったものと関連する。これらは、当時漸く高まりつつあった個の自覚と関わりがあろう。
藤原道長や藤原実資などの貴族の多くは、仏教に対する知識は十二分に持っていたといえる。しかし、彼らが生死を「無常」のものとして積極的に諦観し行動したとはあまり思えない。では死にどのように対処したのかといえば、種々の仏事という作善行を行いあるいはそれに結縁することの功徳の量を以て、阿弥陀あるいは弥勒の浄土への再生を願うという行動をとったと考えられる。
公開講座(研究調査報告)
平成18年1月28日東洋大学白山校舎6301教室
北方の医学・宗教・文学
―渡辺淳一文学館と天理教静様分教会を訪ねて―
竹内 清己 研究員
渡辺淳一は札幌医大の整形外科の助手時代、日本室の和田教授の心臓移植について書いた『小説心臓移植』で医局を追われ小説家となる。その文学は、医学と生命(エロス)の探求であり、北方の命削る性愛の賛歌を産む。
有珠の善光寺、厚岸の国泰寺とともに蝦夷三官寺の1つ等洲院のある様似は、日高線の最終駅、その先はえりも岬。明治以降の植民と共に本州のありとあらゆる宗教が上陸した。天理教の伝播もその1つであり、それは北方における生と死の看取りの1形態をあらわす。
1、北海道立文学館に立ち寄り副館長平原一良氏に今回の調査内容を説明し、書庫にて北海道関係書にあたって北方の医学、宗教、文学関係の知識を補った。折から催されていた特別企画展、「原田康子の北海道」にも招かれて見学。原田文学通して北のいのちは北のロマネスクを産むの思いに至り、渡辺淳一の文学にもそれがあるのではないか、と考えた。
そのやさしさをわけてください
その清浄をわけてください
その羽ばたきと律動と相聞の声
わけてください
それは私が失ったもの
ふるさとにおいてきたもの
きょうは雪
雪のかなたのふるさとの
鶴よ
赤いベレーを返してください 原田康子「鶴に」
伊藤整『若き詩人の肖像』の少女たち、原田康子『晩夏』の怜子、三浦綾子『氷点』の陽子、渡辺淳一『阿寒に果つ』の天才少女画家の奔放な愛の遍歴のモデル加藤純子もそうした少女の1人だろう。
2、渡辺淳一文学館は同じく札幌中島公園裏にあった。学芸員の親切な解説を受ける。
渡辺淳一年譜、作品リストから
昭和8年空知郡上砂川町に生まれる。札幌南高→北大理類→札幌医大→昭39整形外科助手
昭40・12 「死化粧」芥川賞候補
昭41・4 整形外科講師
昭40・1 「訪れ」直木賞候補
43・8 札幌医大の和田胸部外科部長の心臓移植手術施行
43・10 「脳死人間」
昭44・1 『ダブル・ハート』文藝春秋
43・2 医大講師を辞職、上京
44・3「小説・心臓移植」直木賞候補
昭45・6 「光と影」直木賞受賞
45・6『花埋み』河出書房新社、ベストセラー
昭26・5 『リラ冷えの街』
昭48・9『雪舞』河出書房新社
48・11『阿寒に果つ』中央公論社、映画化
以後、『化粧』(京都3部作)『化身』『失楽園』は著名、とくに、平15『工・アロール』(角川書店)は老人の生と性、色恋を銀座の施設を舞台に描いたもの。
3、天理教と近代文学のかかわりは、有島武郎『カインの末裔』や志賀直哉『暗夜行路』など少なくない。静様分教会は、日高線の終着駅様似の様似栄町114番地。しずさまぶんきょうかいと読む。3つの祭壇がしつらえられ、太鼓、拍子木がおかれ清掃が行き届いている。朝づとめ―午前7時、夕づとめ―午後5時。「おふでさき」「おかきあげ」などが掲げられている。山辺の道の石上神社の近郊、大和国辺都郡三味田に産まれた1主婦の中山みきがうけた啓示に始まる天理の陽気暮らしの教えが、明治以降ここまで伝道したのだ。大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和しうるはじ
聞き取り
現在の分教会長宮川静江氏に面談して聞き取りを開始する。宮川家は福井からの開拓農民。鶴吉の四男、五之助の入信に始まる。
高野友治著『天理教伝道史』9北海道篇(天理教道友社昭45・4)に記述される洲本系に属する。分厚い『洲本大教会史』第1巻(立教163年1月天理教洲本大教会史史料編纂所)を借覧する。
3代目宮川五之助、昭和15年10月29日、3代所長任命のお許しを戴く。五之助、札幌に定住して八百屋を営んでいたが、妻の「出直し」(※身は神からの預かり物、よって死は出直し)と商売の行き詰まり、その後妻の身上と度重なる節に出会っていたころ、石野市平の指示に従い郷里の様似にて夫婦共に布教を開始し、同14年8月には別科を修了してもなお布教に専念した。分教会の設立――御分身を御下附戴く。
静江教会長の穏和な口調に開拓地の厳しい生活に広まった陽気暮らしの教えを思った。大和の天理の地場で修行を終えた氏の孫直人氏がその年、出直し(天理教では死は出直し)した襟裳支分会長の墓に案内してくれた。エルム岬をのぞむ丘に墓地はあった。氏の解説によると、送葬の儀は、鎮魂祭。奉告祭。「出直し」―祭壇を飾る。位牌を置く。1祝詞、2お祓い、3遷霊祭、4鎮魂祭り、の順序。四拍一礼四拍一。祭主は親教会長。翌日は発葬祭(告別式)。副祭主(分会長)しのびの祝詞。戒名はない。
五之助の墓は、「故二呂川五之助大人之霊」と読む。女性の場合、刀自。昭和52年1月3日出直し78年(*1歳加算)。十日祭。二十日祭。三十日祭。五十日祭で墓入り。百日祭。一年祭と祀る。お別れに「おふでがき』(昭和27・4、編集兼発行者天理教教会本部、印刷社天理時報社)と「陽気」通巻677号(平成17・9、発行所養徳社、印刷所天理出版)を頂く。その後者に「創立のころ養徳社創立60年2川端康成が創立パーティーで祝辞」があり、堀辰雄の当該本は『晩夏』(昭16・9甲鳥書林)『曠野』(昭19・9養徳社)『曠野抄』(昭21・七養徳社)であって、私(竹内)の研究に親しい。
公開講演会
平成17年11月19日東洋大学白山校舎6202教室
仏教を中心とした死の種々相
―我々はシュレーディンガーの猫なのか―
佐々木 閑・花園大学教授
デカルトを起点として、キリスト教世界の中で発生した自然科学は、その視点を次第に神から人間へと降下させてきた。そして20世紀は、その「科学の人間化」が加速度的に一気に進んだという点で、きわめて特異な時代であった。死の概念も、「神の御許への魂の回帰」という一元的なものから、視点の違いによって区分される種々様々な階層における多様な概念へと変化したのである。自然科学の領域に限定しても、現在の死の概念は、視点によって異なってくる。そのいくつかを挙げてみると、
(1)一般的な意味での個体死:普通に我々が考える、人間個体の死。
(2)遺伝子を生命の本体と考える場合の死(利己的遺伝子説など)
(3)アポトーシス(プログラムされた細胞死)
(4)テロメアと細胞老化
(5)ニュートン的世界観から量子論、そしてエベレットの多世界解釈:量子論により、我々の存在は多次 元的なものとなり、死もまた、平行世界の中の1現象としてとらえられるようになる。
こういった多様な死の概念の中でも我々にとって最も切実な死は、我々の肉体と意識の死である。いくら科学的に多様な死の概念が現れても、常に我々を悩ませ、怯えさせるのは、この、肉体レベルでの死である。しかし、最近の脳科学の発達はめざましく、近い将来、死の恐怖を感知する脳領域も解明されるに違いない。その結果、人為的に死の恐怖を取り除いて、楽しく生きることが可能となるであろう(場合によっては、そのような療法が絶対に必要となる)。そういった人工の幸福の中で生きることも1つの選択肢であるが、それは一面、人間としての大切な要素を失うことでもある。死の恐怖なき人生や社会は、なんの陰影もない、率直で残酷なものにならざるを得ないからである。では、絶対者の存在が希薄化している現代社会で、それでも敢えて死と向き合いながら生きることが我々には可能であろうか。
ここで我々は仏教という宗教の価値をあらためて見いだすことになる。大乗仏教など後代の変化形は別としても、釈迦によって作られた最初期の仏教は、超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明するものであり、しかもそのような世界の中で、死の恐怖を乗り越えようとするものであった。これからの時代、この仏教が持つ基本的世界観は、科学的世界で生きる我々が、死と向き合って生きる上での、重要な拠り所となることが期待されるのである。
公開講演会
平成17年12月2日東洋大学白山校舎1404教室
緩和ケアと哲学
岩瀬 哲・東京大学医学部附属病院緩和ケア診療部副部長
緩和ケアにおいてスピリチュアル・ケアとは、患者が死を意識することで起こってくる苦痛や苦悩(スピリチュアル・ペイン)を緩和することを意味し、一般的な手法として傾聴やカウンセリングが行われています。しかしながら、これらの手法によってガン患者を緩和することはほとんど無理と言っても過言ではありません。それでは、どのようなスピリチュアル・ケアがわが国のガン患者に有効なのでしょうか?これまで500人以上のガン患者を見送ってきた私には1つの明確な答えがあります。それは、日本人の伝統的な死生観をガン患者本人が持てるよう導く、というスピリチュアル・ケアです。倫理学者の相楽亨は、日本人の伝統的な死生観は「悲しみを残した諦め」だと分析しています。もし、これが本当なら、私は日本人の死生観というものはとてもすばらしいと思うのです。
私はイギリス人に親友がいるのですが、その親友に「君は死で何を連想するのか?」と聞いたことがあります。すると、彼の口からは「恐怖」「罪」という言葉が出てきました。彼の死のイメージが西欧人を代表するものかどうかは定かではありませんが、キリスト教圏には「死=恐怖」という構図がありそうです。そして、彼は死を「悲しみ」や「諦め」という感覚ではとても理解ができないと言っていました。しかし、現代の日本人は、その、せっかくの死生観を持っておらず、死が「恐怖」になっているようにみえます。死が恐怖であれば当然、人は自分の死を考えないように、認めないようになります。ですから、現代の日本人は最期まで治療を諦めることがありません。このことはデータでも示されています。ガン患者は主治医に「もう治療がない」と言われたら、代替療法に活路を見出そうとします。当然のことながら、代替療法に救いを求めても死は確実にやってきます。
私が見送ってきたガン患者さんの多くは、最期までもがき苦しみ、死を恐れながら逝かれた人がほとんどです。その一方で、私はたいへん美しい死にも出会ってきました。家族に別れを告げながら逝かれた人、家族にお礼を言って逝かれた人、お子さんに残る奥さんのことを頼んで逝かれた人、そんな人たちが居ました。「悲しみを残した諦め」のなかで、残つた時間を精一杯生きる。私はそういう死をみて感動した経験があるのです。幸い、現在ではどんなに辛い身体の症状も、緩和ケア医が上手く取り除いてくれます。しかし、死がいつまでも恐怖であれば、人は最期まで苦しむことになります。残った時間を有意義に使うことなど決してできないのです。現代の日本人が日常生活のなかで死を本当に意識することはありません。ガンなどの不治の病になってはじめて意識するようにみえます。しかし、死の予感は唐突に、必ずやってきます。生まれたからには老病死は必然です。それが生きるということです。ですから、私は日常生活の中でこそ哲学して、死を想うことが1番重要なことと思うのです。