平成16年12月11日 東洋大学甫水会館401室
平成16年12月11日 東洋大学甫水会館401室
ヴァイシェーシカ思想の評価について
―「自然哲学」的性格と「宗教性」の問題―
三浦 宏文 奨励研究員
〔発表要旨〕インド正統派6派哲学の1つ、ヴァイシェーシカ学派は、従来自然哲学とされ、その合理主義的な特性から、「宗教性は希薄である」という評価を受けてきた。この評価に属する最新の研究が、服部正明氏の説である。しかし、近年ヴァイシェーシカ思想を自然哲学と呼ぶことは誤解をまねくことであり、むしろ同学説の特徴として抽象的な形而上学的議論が多いことから「インドの実在論哲学」と呼ぶべきであるという説が野沢正信氏から出された。本発表では、野沢説とは違う側面から、自然哲学説を検討した。
まず、服部説では、ヴァイシェーシカ学派のヨーガ・解脱説は、現象を自然学的・自然哲学的に説明することを目的としており宗教的関心によるものではないとし、その例として同学派の基本文献『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』(6世紀:以下『バーシュヤ』と略)のアートマンの論証の部分などを挙げる。しかし、同書のアートマンの定義の部分では、経験的な論証と論理的な論証の両方が存在する。例えば、アートマンを定義する時、目の開閉や身体の成長など経験的観察に基づく根拠を示す。しかし、そのアートマンの属性の楽や苦が、なぜアートマンの属性なのかといったことは経験的観察によって論証されることはなく、自派の教義によって定められたという以上の説明はない。また、そのアートマンが関連する精神活動は、因中無果論という独自の因果論によって整然と説明されている。したがって、これは極めて自派の教義(因果論)に論理整合的な説明だということが言える。
また服部説では、アートマンが解脱論に積極的に関係しないとする。しかし、同文献の輪廻・解脱説では、アートマンを直接原因である内属因とする善と悪や欲望や嫌悪が重要な役割を果たし、輸廻と解脱は因果論的にアートマンと密接に関連している。したがって、アートマンが輪廻・解脱説と積極的に関連しないから宗教性がないという議論はもはや成立しない。
以上のように、『バーシュヤ』では、経験的観察によってカテゴリーの定義をしていく経験論的側面と、自学派の学説にしたがってカテゴリー同士を厳密に論理的に秩序づける論理主義的側面が、分かちがたく組み合わさっている。この経験論的側面を「自然に関する説明」と解釈し、「自然哲学」と呼ぶことは、確かに不可能なことではないが、同時に論理的なカテゴリー論的側面をとらえて実在論と呼ぶことも可能である。結局、ヴァイシェーシカを自然哲学と呼ぶか否かは、その研究者自身が自然哲学という語をどう捉えるかというところに起因する問題である。したがって、同時に宗教性があるか否かも、その研究者の宗教性という語の捉え方の問題の方が大きいと言える。
古代チベットにおける医学の形成と発達
石川 美惠 客員研究員
〔発表要旨〕代替医療として、近年ますます注目されているチベット医学だが、根本聖典である『ギュー・シ』成立以前、ことに医聖として知られる古ユトク以前の、古代チベットで活躍した医師達や彼らがもたらした医学に関する研究は、未だ充分になされていない。
本発表では、チャンパティンレー(1928―)編著『蔵族歴代名医略伝』の記述に沿いながら、ドゥージョム・リンポチェ(1904―87)の『ニンマ派仏教史』、パドマサンバヴァやヴァイローチャナ及びユトクの伝記などを参照し、古代チベットの医師達にスポットをあて、彼らの治療法、翻訳書あるいは著書、後継者等を掘り起こしながら、『ギュー・シ』に至るまでの医学の形成と発達の様子を探った。
チベットにおける医療のはじまりは、古代シャンシュン時代のポン教の創始者(もしくは改革者)であるトンパ・シェンラプの長子・チェーウティシェーにまで遡る。このシャンシュン流医学は瀉下法を特質とし、現在の『ギュー・シ』にも取り入れられていく。
『ユトク伝』には、シャンシュン、チベット、ユンドゥン・ポンの3流派とそれぞれの特徴が紹介されており、チベットにおいて医学は当初、諸流派が併存する形で、各流派の得意分野を活かして行なわれていたと推察される。
従来、チベット医学の基礎になったと見倣されてきたのは、インドのアーユル・ヴェーダだがシャンシュンの医学を担った代表的人物であるチェーウティシェーから、『ギュー・シ』の原型をチベットにもたらしたヴァイローチャナまでの、古代チベットの医学者・医典翻訳者の出身地や留学先(外国人であれば入蔵状況)、またチベットに紹介した治療術を考察する限り、これまでの説よりもはるかに多様性に富んだ流派や教説が、諸国から流れ込んでいたことが明らかになった。
チベット医学が1つの体系として今日まで連綿と続いていくのは、ヴァイローチャナが埋蔵し、後に取り出され、新ユトクによって増補・改訂された『ギュー・シ』の成立によるわけだが、それが埋蔵宝典であり、しかもヴァイローチャナが、翻訳する文献によって筆名を使い分けていること、仏教だけでなくポン教やゾクチェンとも結びつきの深い人物であったことを考慮すると、『ギュー・シ』は、シャンシュンの医学をベースにしながら、諸国の医学のエッセンスを取り込み、かつインド伝来の体系的な治療法で整備したうえで、チベットの風土に合わせながら誕生したものであり、それはそのまま古代チベット医学史そのものを象徴的に表わす形でもあったと考えられるのである。