平成二十九年十二月二十三日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
『学処集成』における信と菩薩行
鈴木 伸幸 院生研究員
〔発表要旨〕本発表はインド仏教の学僧シャーンティデーヴァが8世紀前半頃に著したと伝えられる『学処集成』(Śikṣāsamuccaya)の第一章「布施波羅蜜章」に説かれる信śraddhāについて、特に菩薩行との関連に焦点を当てながら考察を行ったものである。『学処集成』は大乗の菩薩が学ぶべき修道項目を数多くの大乗経典からの引用から構成される論書であるが、従来、『学処集成』の研究は引用経典の分析を行うものがほとんどで、論書そのものの思想の解析については多くの課題が残されたままである。
これらのことを踏まえて本発表では、まず『学処集成』そのものの先行研究についての解説を行った上で、仏典一般におけるśraddhāの意味を確認した。次に『学処集成』「布施波羅蜜章」に説かれるśraddhāの位置付けを確認し、当該箇所で引用される大乗経典と、śraddhāの語義の分析を行うことにより、『学処集成』に説かれるśraddhāの特色について考察を試みた。
『学処集成』におけるśraddhāは菩薩が六波羅蜜の実践に入る前の入門次第の一つとして説かれるものである。『学処集成』におけるśraddhāの語義は仏典に説かれる一般的な概念を踏襲したものであると言える。一方、『学処集成』におけるśraddhāの説明意図は独特である。すなわち、自他平等の思想にもとづく菩薩の発心とśraddhāとの関連、śraddhāの功徳によって菩薩道を歩む上での不遇を避けること、śraddhāによって生じる福徳の広大さ、さらに、śraddhāによる福徳の全ての衆生への廻向が説明されるところに独自性が見られる。
その説明の中ではRatnolkādhāraṇīとDaśadharmasūtra、Lalitavistarasūtra、Siṃhaparipṛcchāの四つの経典が引用されている。それらのうち、śraddhāの説明のほとんどは『華厳経』「賢聖品」に相当するRatnolkādhāraṇīに依拠している。しかしその引用は長大で、まとまりを欠く。そのため、その他の引用経典はRatnolkādhāraṇīの引用の要所を強調する役割を果たしている。
これらのことから、『学処集成』に説かれるśraddhāは、大乗の実践に即する説明がなされるところにその特徴がある。すなわち、『学処集成』ではśraddhāという修行者の内面的な徳目でさえ、他者の救済と関連して説かれているのである。ここには『学処集成』の実践的な性格が強く現れており、『学処集成』が伝える大乗の菩薩行とśraddhāとの深い関連性を見ることができるだろう。
本発表の詳細は拙稿「Śikṣāsamuccayaにおける信(śraddhā)の特色」『東洋大学大学院紀要』第五十四集に掲載予定である。
平成二十九年十二月二十三日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
初期真宗における無戒と念仏生活―高田顕智を中心に
板敷 真純 院生研究員
〔発表要旨〕親鸞は持戒が成り立たない末法の世においては、破戒、無戒の罪業があるものでも往生が可能であると主張し、戒律を持つ僧は自力の行であり、真実報土には生じないと説いた。このため念仏集団内の戒行的統制を期待する制誡を製作していない。一方親鸞の門弟たちは、門徒集団をまとめるために規範を定めていたことが、彼らの「制禁」から読み取れる。先行研究では、彼らの念仏生活について、「制禁」をもとに研究されてきたが、「制禁」以外の資料から門弟たちの念仏生活を追究する研究は行われてこなかった。本論では、高田顕智が記した『聞書』等に焦点をあてて分析を試みる。その結果以下のことが分かった。
①高田顕智は持戒持律の人と伝えられてきたが、顕智が記した『聞書』には、顕智が戒律を守っていたという記述はない。しかし江戸時代の真淳の『下野大戒秘要』には、顕智が戒を持っていたという記述を見ることが出来る。このように顕智の持戒の記述は、江戸時代以降の文献であるため、顕智の持戒の根拠とはならない。また『聞書』には『摩訶僧祇律』の三種沙弥の引用が見られ、『大名目』には、小乗戒、大乗戒、十無尽戒など戒律の種類について非常に細かく記している点が確認出来る。このことから顕智は戒律について精通していたと考えられる。
②高田顕智の『聞書』には、五辛を食べた後の処置や肉食を容認する典籍を引いている。これは顕智が場合によっては五辛や肉食を食べることもやむを得ないと考えており、その後の処置や食べる理由に関心があったと推察する。
以上のことから見て、当時の初期真宗は、戒律を得ていない身でどのように念仏生活を目指すかという問題が生じていたことが推測される。この問題は親鸞が戒律を否定し、自らも戒律に代わる制誡を製作しなかったことが原因の根底にあった。そして戒律に関心が深かった高田顕智は、戒律にそむいているという罪悪感をもっており、戒律にそむく場合でもどうすれば罪悪感を解決し、よりよい念仏生活を送ることが出来るかという問題意識があったと考えられる。その結果戒律にそむいた際の対処方法を戒律の典籍に求めたと推察する。
このように親鸞が往生に戒律は不要と主張してもなお、門弟たちは無戒の念仏生活を送るために、その根拠を戒律の典籍に求めたことは非常に興味深い。また顕智の典籍の引用は、他の高田門徒にも見ることが出来る。これらの点については次回の課題としたい。
平成二十九年十二月二十三日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
真言密教における如意宝珠観
―『二十五箇条御遺告』と『釈摩訶衍論』との関係―
関 悠倫 客員研究員
〔発表要旨〕『釈摩訶衍論』(以下『釈論』)と真言密教の関わりを述べると、『釈論』は『大乗起信論』(以下『起信論』)の注釈書であり、「三十三法門」という三十二法門を因位、不二摩訶衍法を果位とする修行道論を説く論書として知られる。真言宗の宗祖空海(七七四~八三五)は同論を『真言宗所学経律論目録』において、真言末徒の必学の書と定め、自身の著作にも大いに取り入れた。
一例を示すと、不二摩訶衍法を「自性法身」と位置付け、さらに三十三法門に曼荼羅諸尊を集約させて根源としての位を付加させていく。空海の理解には「三十三法門」に真言密教の世界観・仏身観を当てはめていこうとする構想が看取できる。換言すれば、空海、すなわち真言密教の中には独特な釈論観が存在しているといっていい。
本研究で検討する真言密教における「如意宝珠」について述べると、狭義的には釈迦牟尼の遺骨を指す舍利(仏舎利)をいい、広義的にはその舍利に密教特有の観法・修習法を付与したものである。いずれにしても、真言密教ではあらゆる願いを叶える聖なる珠として信仰を集めた。詳しくは、修法の本尊として迎えられ、曼荼羅諸尊とも結びつくようになり、最終的には日本固有の神と習合を果たしていく。その崇拝方法や意義を最初に説いたのが、十世紀中頃に成立されたとされる『二十五箇条御遺告』(以下『御遺告』)なのである。
本研究で取り扱う問題は、近年、舍利と宝珠の同異説、真言各流派との相異説、神道との交渉説、造立方法とその典拠の検討説、荘厳美術としての宝珠説、といった各方面の研究分野で取り上げられ検討されている。これらは今まで整備されていない文献を蒐集し新たな知見を提示している点で評価できる。そして本考察で検討する問題についても既に分析を試みた指摘を確認している。しかし『御遺告』が示す宝珠造立に必要とされる舍利の数がなぜ三十二粒必要であるのか、どのような思想に基づくものなのかは依然、未解明であるといえる。
筆者は、従来説を補強しつつ、これまでに提供されていない知見を呈示し、真言密教の如意宝珠の一端を明らかにした。それは以下の二点である。一つは、「三十三法門」が独特な舍利観(如意宝珠観)に基づいており、従来指摘されてきた『維摩経』影響説ではない。二つは、そのような教理を空海が重要視したことによって、『御遺告』創作の思想的基盤とされ、結果的に三十三法門の法門数によって三十二粒という数が規定されるにいたったのである。
平成二十九年十二月二十三日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
インド絵画史の一局面 ―ムガル宮廷画とラージプート絵画
石川 寛 客員研究員
〔発表要旨〕ムガル朝(一五二六―一八五八)の宮廷で描かれた絵画、いわゆるムガル宮廷画は、ペルシャのサファヴィー朝宮廷で描かれていた平面的な描写で装飾性に富んだ細密画を手本として、二代皇帝フマーユーンの時代にその歩みを開始した。フマーユーンが一五四〇年から一五五五年にかけてサファヴィー朝に亡命し、その宮廷に身を寄せていたことがきっかけであった。皇帝はインドへの帰還がかなうと、技量のすぐれた二人のペルシャ人絵師を自らの宮廷に招来し、多くのインド人がその指導の下で絵画制作に従事した。制作は三代皇帝アクバルによって継承されさらに発展を見せたが、全体としてはペルシャ絵画の描法を採り入れながらも、その誕生の当初から、装飾性が豊かで人物を描いても類型的表現の域を出ることは稀なペルシャ宮廷画とは袂を分かって、現実の光景とその場の人物の動態を積極的に表現し、写実性・記録性を志向するインド独自の絵画が描かれるようになっていった。その一つの典型がアクバル帝の事績を記した『アクバル・ナーマ』の写本挿画で、そこでは皇帝個人がそれとはっきり分かるように描かれており、人物を特定できるように表現することは許されていないイスラーム世界では特異な絵画であった。背景にキリスト教宣教師を通じて知った西洋絵画の透視図法の影響があったことも知られている。写実性の追求は、四代ジャハーンギールの時代に多く描かれた動植物の博物画に至って一つの頂点を迎えたといえる。次の五代シャージャハーンの治世にかけては、写本の挿画から絵が独立した一枚絵として描かれ、個人としての人物のみを描く肖像画も多く生み出されて、それらを綴じたムラッカーと呼ばれるアルバム形式の画集が作られるようになっている。イスラーム教の伝統的宮廷画という範疇を大きく踏み越え、ある意味では近代性を帯びた絵画が制作されていたのである。
こうした傾向に大きな歯止めをかけたのが、六代皇帝のアウラングゼーブであった。イスラームの教えを逸脱したとして宮廷画院を廃止したのである。盛時には二百人を越えていたともいわれるインド人絵師は一挙に職を失い、そのうちかなりの数の者がラージプートと総称されるヒンドゥーのマハーラージャの宮廷に抱えられるようになったと考えられる。こうして十七世紀後半以降新たな展開の中で制作された絵画を、一般にラージプート絵画と呼んでいる。多く制作されたのは、西部インドのラージャスターンの諸王国と、北西部インドのパンジャーブ丘陵の諸王国で、前者の絵画をラージャスターニー、後者をパハーリーと呼びならわしている。ラージプート絵画は、ヒンドゥー神話や宮廷風俗を描いているという共通点はあるものの、その表現法は決して一様でなくヴァラエティに富む。その特徴を把握するために、一つの目安としてムガル宮廷画の影響の度合いの大小があげられる。影響を大きく受けて遠近を強く意識し、中間色を多用して自然な色調の表現をめざしたものと、影響の度合いは比較的小さく、インドの絵画伝統の表現である平面的・装飾的描写を強く保持し原色を大胆にほどこしたものとをその両極として位置づけることができよう。発表では、前者の代表としてパハーリーに属するカーングラー絵画を、後者の例として、ラージャスターニーに属するメーワール絵画、ブンディー絵画、パハーリーに属するバソーリー絵画を取り上げ、その表現のあり方を検証した。