二〇一九年十月十九日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
ジャイナ教空衣派シュバチャンドラ著Jñānārṇava における修行法
是松 宏明 院生研究員
〔発表要旨〕本発表ではジャイナ教空衣派シュバチャンドラ(Śubhacandra, 十一世紀頃)によって書かれたヨーガ文献Jñānārṇava(以下、JA)所説の瞑想(dhyāna)において身体的機能がどのように活用されていたのか論じた。
JA 以前に瞑想について纏まった詳細な記述があるジャイナ教文献としてはウマースヴァーミン(Umāsvāmin, 二─ 五世紀頃) のTattvārthasūtra(別名Tattvārthādhigamasūtra, 以下TAS)がある。TAS は瞑想を「苦悩・残忍・美徳・純粋」の四種類に大別している。JA はこの四区分を踏襲しつつも、TAS の頃にはなかった新しい四種類の瞑想方法を説く(後述)。これらの瞑想方法はTAS の瞑想方法と多くの点で異なっている。例えば、JA は地水火風という四大のイメージ喚起によって身体を浄化する観想法やマントラの念誦などのタントラ的な修行方法を取り入れている。
タントラ思想はインド仏教のその後の修行体系に大きな影響を与えた。 しかしジャイナ教は当時流行していたタントラ思想にどのような態度を取っていたのかまだ未解明の点が多い。本発表ではTAS の瞑想論における身体観とJA におけるタントラ的な身体観の記述を中心に論じることで、上述した問題の解決の糸口とすることを試みた。
TAS においては瞑想者には生き物としての個性を決める個性業(nāmakarma)の一種である関節の強度(saṃhanana)が最上であることが求められていた。瞑想者は強靭な身体でなければならないという考え方はJA の著者にも継承されている。しかし、TAS の段階では、身体内部の機能を瞑想に積極的に活用する傾向は見られない。
JA ではTAS にはなかった「物質的な対象に関わる瞑想」と「言葉に関わる瞑想」、「形象に関わる瞑想」、「形象を超えたものの瞑想」と呼ばれる四種類の瞑想方法が説かれる。JA 所説のこれらの瞑想方法は前述したようにタントラ的な影響が濃厚なため、先行研究者はTAS 所説の美徳の瞑想を「聖典に説かれた美徳の瞑想」、JA 所説の美徳の瞑想を「タントラ的な美徳の瞑想」と呼んでいる。
「物質的な対象に関わる瞑想」と「言葉に関わる瞑想」では身体内の蓮華と呼ばれる、他派のタントリズムのcakra に該当するものが瞑想対象に含まれている。「物質的な対象に関わる瞑想」では八種類の業が心臓の八葉蓮華から生じるものとしてシンボル化されており、「言葉に関わる瞑想」では字母やマントラの文字を身体に布置する。
このようにJA 所説の瞑想方法では身体の要素が活用される。
JA 二十六章「調気法(prāṇāyāma)」では、調気法の実践方法が説かれ、その内容はクンダリニー・ヨーガからの影響がみられる。シュバチャンドラは調息法の結果として予言や他の生き物の身体への侵入などの様々な神通力の獲得を説く。しかしJA 二十七章「制感(pratyāhāra)」の記述によれば、シュバチャンドラは調気法よりも制感を行法として推奨しており、調気法に対しては否定的な見解を持っていることが判明した。
二〇一九年十月十九日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
インド密教における五護陀羅尼と女尊
─ Mahāmāyūrī とMārīcī を中心に─
園田 沙弥佳 奨励研究員
〔発表要旨〕五護陀羅尼(Pañcarakṣā)のうち、『孔雀経』Mahāmāyūrīは初期密教経典の中でも最初期に成立した経典とされる。日本には空海によって請来され、鎮護国家の大法の一つとして古くから重要な密教経典の一つに位置づけられた。本発表で取り上げる女尊Mahāmāyūrī(以下、マハーマーユーリーと称す)は、この『孔雀経』にあらわれる孔雀の持つ特性が神格化された女神と言われている。
マハーマーユーリーは単独あるいは五護陀羅尼の一尊として信仰される以外にも、同じく女尊であるMārīcī(摩利支天、以下マーリーチーと称す)とともに、女尊ターラーの脇侍として説かれる例も見られる。マーリーチーとは陽炎・日光等が神格化した女神で、インドにおいて古くから信仰され、その後仏教に取り入れられた尊格である。五護陀羅尼と同様に、マーリーチーは特定の陀羅尼経典と関係が深い女尊としても知られている。
本発表では、孔雀の特性をもつマハーマーユーリーと、日光が神格化されたマーリーチー、両女尊がターラーの脇侍としてあらわれた際の成就法の特色を比較検討した。方法としては、実際の作例などをスライドで示しながら、十一~十二世紀前半頃にインドの学匠アバヤーカラグプタAbhayākaragupta によって編纂されたインド後期密教文献の一つであるSādhanamālā(略号SM)と、Niṣpannayogāvalī(略号NPY)に収録されているマハーマーユーリーとマーリーチーの成就法を取り上げた。なお、使用したテキストは、Bhattacharya, Benoytosh(ed.).1968. The Sādhanamālā vol.II. Gaekwad's oriental series, vols. 26, 41,Baroda.、および、Bühnemann, Gudrun and Tachikawa, Musashi (eds.)1991, Niṣpannayogāvalī Two Sanskrit Manuscripts from Nepal, The Centerfor East Asian Cultural Studies. の校訂本を基に、京都大学等の梵文写本、チベット語訳を適宜参考にした。
まず、マハーマーユーリーの図像的特色について、体色がSMNo. 206 およびNo. 91, 116 で黄色、他の成就法は緑の体色であることが共通する。また、孔雀の尾羽(Mayūrapiccha)を持つことはすべての成就法に共通しており、毒を取り除く孔雀の力が説かれる『孔雀経』が神格化したマハーマーユーリーの特徴が反映されている。
次に、マーリーチーに関しては、実際の作例にも現れている三面八臂の姿が説かれているSM No. 134 の成就法の内容構成について具体的に述べた。他の成就法と比較して、SM、NPY におけるマーリーチーの観想上の姿は二種に大別できる。第一に、アショーカの枝、弓矢、針と糸、鉤を持つ基本的な姿、第二にカパーラや三叉戟を有するシヴァの要素が取り入れられたマーリーチーの姿である。
最後に、脇侍としてのマハーマーユーリーとマーリーチーの関連性について考察した。前述のように、両女神はターラーの脇侍として登場する。ターラーとは東南アジアの諸国で最も信仰を集めた仏教の女尊であり、その作例は釈迦、観音に次いで3番目に多く、女尊の中では第1位である。観音の脇侍であった最初期のターラーの基本的な体色「白」「緑」と言われている。SMでは「白ターラー(Sita-tārā)」の脇侍としてマハーマーユーリーとマーリーチーが説かれている。両女神の共通点としては、一面二臂の姿で、それぞれ名前の特徴を表したシンプルな姿であらわされている。アショーカカーンター・マーリーチーはアショーカの樹、マハーマーユーリーは孔雀の尾羽を持つ、という具合である。初期のターラー信仰に両尊が登場することから、この三尊は仏教女尊の中でも早い段階で成立していたことうかがえる。
ターラーの脇侍としてマーユーリーとマーリーチーが選ばれた背景については明確ではないが、両者とも天体・天候と関係する女神であることが特徴的である。マーリーチーは自身が日光が神格化された尊格であり、また、月食・日食を司るラーフと共に説かれる例がある。一方マハーマーユーリーは、『孔雀経』で長雨、干ばつを解消する功徳が説かれるほか、SM No. 206 では二十七星宿、九曜に称賛される女神であることが説かれている。マハーマーユーリーとマーリーチーをターラーの脇侍にすることで、特に天候による災害がもたらす様々な問題の解決という功徳が強調されていたと推察される。今回の成果を基に、陀羅尼経典から神格化された五護陀羅尼と、既存のイメージから神格化されたマーリーチーの特色を比較考察し、経典と神格化の関連性について今後さらに検討したい。
二〇一九年十月十九日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
戦後日本社会の変容と新宗教の現在
隈元 正樹 客員研究員
〔発表要旨〕日本の新宗教は日本社会の近代化とともに生まれ、その変容と密接に関連しながら展開してきた。本発表は、戦後の日本社会の変化と、新宗教の展開を関連付けて整理し直し、新宗教の現在の運動・組織論的な課題を析出することを目的とした。
新宗教の研究は、戦後から高度経済成長期にかけて、新宗教が最も社会的な注目を集めた時期、飛躍的に進展した。しかし『新宗教事典』(弘文堂、一九九〇年)の刊行でピークを迎え、その後、停滞してきた。研究史上、本発表は、その後の新宗教研究を補完するための準備という意味がある。
日本の戦後復興から高度成長期にかけての経済伸長を支えたのは、人口増加に伴う国内市場の拡大と、生産年齢(働き世代)人口比率が高く従属人口(子供や高齢者という経済的に支えられる人々)の比率が低い状態である「人口ボーナス」であった。しかし一九七〇~九〇年代から、急速に少子高齢化が進み、二〇一〇年以降、人口も減少へと転じた。それに伴う経済の停滞は「人口オーナス」(onus =重荷)と説明される。
新宗教も高度経済成長期までは、中年以下の比較的若い人々が運動を担い、急速に組織が拡大した。以降、教勢は停滞傾向がみられ、信仰継承の苦戦とともに、一般社会以上の人口(信者)減少と少子高齢化が進んでいる。一九九〇年代以降は、明確に縮小局面へ入ってきている。
並行して、産業構造、家族形態、性別役割分業観の変化もある。日本の産業構造は戦後直後まで五十%弱が農林漁業(第一次産業)であった。高度成長期にかけて、第一次産業の激減、商工自営(+家族従業者)の相対的減少があり、「国民総サラリーマン」(二〇一〇年時点で八十六%が雇用者)となった。
典型的な新宗教の信者は、戦後、高度成長期にかけて、地方農村から都市に出た次三男の核家族であった。そして新宗教の活動力の源は、比較的時間を調整できた都市部商工自営と家族従業者、そしてサラリーマン家庭の専業主婦だった。「教え」もそのような家族観に沿っていた。
ところが九〇年代を境に、日本の家族は転換期を迎えた。女性の社会進出(男女雇用機会均等法、一九八六年)、晩婚・未婚(平均初婚30歳、男性の四人に一人が生涯未婚)、少子化(合計特殊出生率一・四)、共働き世帯の増加(九〇年代半ば、専業主婦世帯と逆転)などである。
加えて、戦後新宗教の教団発達的要因もある。九〇年前後は、教祖的カリスマ指導者が亡くなる時期とも重なっている。社会の構造的変化と教団発達的要因の二重の意味で教団史の新たな段階に入っている。
今日、多くの新宗教は、戦後から高度成長期の「教え」、組織構造から脱皮できていない。今後の新しい社会状況に新宗教が如何に対応していくのか、調査を進めていきたい。