平成三十年七月七日 東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室

 正岡子規と中川四明

  ―新聞『日本』紙上の交流―

根本 文子 院生研究員

 〔発表要旨〕中川四明(重麗)は、子規周辺の一人として近代俳句の黎明期を支えた人物である。第一高等中学校の教師であったが、明治二一年二月一一日、陸羯南が創刊した新聞『日本』に参加する。第一高等中学校の学生であった子規は創刊号を入手。四明は『日本』で時事風刺の「風叢」を担当していたが、明治二二年一一月二四日から一二月一八日まで六回に渡り霞城山人譯で「美術家」を掲載する。

 翌明治二三年九月、子規は文科大学哲学科に入学、審美学の書物を求めて「丸善などをあさりしに審美の書めきたるは一冊も無し」(随問随答)という。叔父の加藤拓川からハルトマンの「美学」を受け取ったが、理解出来ないことに失望し「再び審美書を手にせざりき」という結果に了る。当時の子規にとって、四明が『日本』に掲載した「美術家」はもっとも身近にあった「審美学」の入門書ではなかったろうか。明治二八年子規が『日本』に発表した「俳諧大要」は近代俳句の基点とされる。その「俳諧大要」は子規が俳句革新を進める中で、直接的には『小日本』の画家中村不折や、また日清戦争従軍による鷗外との出会い、松山での漱石との生活などを通して次第に西洋の美学を咀嚼し、論述した子規の俳論書である。その「俳諧大要」には、四明の「美術家」の影響も確かに認められる。

  ▲ 霞城山人(四明)譯「美術家」

    美術家の天性も亦頗る種々なるを知る。則ち甲は建築の事に適し、乙は繪畫の事に巧に、丙は詩学、丁は音楽、戊は又彫刻に妙なる如き是なり(『日本』明治二二・一一・二四)

  ●子規「俳諧大要」

    ~文學の標準は俳句の標準なり則ち繪畫も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし(『日本』明治二八・一〇・二二)

子規は、美術家(芸術家)の天性は様々であることを四明の「美術家」に学び、これに「同一の標準を以て論評し得べし」と自らの論を重ねる。

 明治二七年二月一一日、新聞『日本』の発行停止処分救済のため、子規が責任者となり『小日本』が創刊された。四明はこれに協力し、清新な航海小説「貴公子遠征」を五月二日まで二五回にわたり連載する。

 そして四明もこれを契機として子規俳句の新しさを学び、やがて日本派の俳人として東の鳴雪、西の四明と併称されようになる。

 二人の風刺の句

  君が代も二百十日は荒れにけり   子規(明治二五)

  もののふの河豚にくはるゝ悲しさよ 子規(明治二五)

  知事殿の帽子捨てたる柳かな    四明(明治二六)

 四明は子規の俳句革新が時代の要請であることを理解し、やがて京阪俳友満月会を立ち上げて、その伝播に積極的に尽力した。


平成三十年七月七日 東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室

 江戸時代におけるインド哲学研究―『金七十論』をめぐる諸問題

興津 香織 客員研究員

 〔発表要旨〕仏典は伝統的に、インド正統哲学のうちサーンキヤ学派とヴァイシェーシカ学派の思想に言及し批判することが多い。それは、この二学派の注釈書である『金七十論』(真諦訳)と『勝宗十句義論』(玄奘訳)だけがサンスクリット語原典から漢訳され、ほとんどの一切経に収録されているという事実と相俟って、仏教徒の側にとって、その二学派に対する関心は非常に高かったであろう事が推察できる。

 日本において『金七十論』の注釈書の存在が確認されるのは、『金七十論』が元禄十年(一六九七)に単行出版された後の江戸時代中期から二百年ほどの間のみで、注釈書の作者には「天明の三哲」と称される真言宗豊山派の智幢法住や林常快道、そして様々な宗派の第一級の学僧たちが名を連ねていることから、当時の仏教界への影響は無視できないものがあったと考えられる。

 本発表では、江戸期における学僧たちによるインド哲学研究の中でもサーンキヤ研究に着目し、学僧たちがなぜこの時期に本格的にインド哲学研究を行ったのかについて、いくつかの手がかりを検討した。

 まず、『金七十論』注釈書に記された作者たちの序文等から、その研究の必要性を検討し、『金七十論』そのものが刊行された当時から、その後注釈書が作成されはじめ、末期までの間に意図が変化していったことを示した。

 次に、『数論二十五諦記』(以下『諦記』)なる新出写本を手がかりに、『金七十論』注釈書作成以前の時代に、『倶舎論』を真に正しく理解するために『金七十論』を研究した痕跡を見出した。

 そこから『倶舎論』、『金七十論』、『諦記』の関連を林常快道に見出し、彼の『倶舎論』研究の姿勢を示すことによって、『金七十論』研究の必要性を考察した。

 また同時に行われていた『勝宗十句義論』研究からの手がかりとして、快道が大きな影響を受けた同宗派の智幢法住は智山派の浄空に教えを受けており、浄空は『諦記』の元となった文献『倶舎論光記講輯』を著した道空に教えを受けていたことが判明した。

 その他、因明研究においても快道は『諦記』の影響を思わせる記述をしており、今後さらなる検討の必要性を示した。

 他方、『金七十論』が単行出版された後に注釈書が作成されたことと、出版によって、それまで特権化されていた学問が社会に開放されていった当時の状況との関連性を、『金七十論』単行出版時に付された跋文においても見出し、検討した。


平成三十年七月七日 東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室

 『死霊解脱物語聞書』の基礎研究

  ―増上寺三十六世祐天誕生の背景に着目して―

愛宕 邦康 客員研究員

 〔発表要旨〕後の浄土宗大本山増上寺三十六世祐天が、菊の体に憑依した累の怨霊を称名念仏によって得脱させる怪談「累ヶ淵」は、寛文十二年(一六七二)の春に下総国岡田郡羽生村で実際に起きたとされる憑霊事件が題材となっており、その模様は元禄三年(一六九〇)に刊行された残寿編『死霊解脱物語聞書』によって窺い知ることが可能となる。しかし、憑依現象や悪霊などの概念が研究テーマとして馴染まないことも影響しているのだろう、これまで本研究をリードして来たのは仏教学を除く諸分野の研究者であり、仏教学の視座からアプローチが加えられることは皆無であった。そのため首を傾げざるを得ないような解釈が一般論として罷り通っているのも事実であり、「浄土宗の悪霊祓い師」などというパラドックス(論理矛盾)はその最たるものと言ってよいだろう。

 仮に祐天が行使した宗教的行為をキリスト教的エクソシズムの概念に倣って悪霊祓いと位置付けるのであれば、そこで救済の対象とされているのは憑依された菊ということになる。しかし、祐天が本憑霊事件を聞き付けて羽生村へ向かう際、「我行て弔はん」と宣言していることからも明らかなように、ここで救済の対象として位置付けられているのは憑依した累の方であり、その宗教的行為が称名念仏による追善供養であったことが見て取れる。別言するならば、浄土宗僧である祐天にとっては、累の怨霊に極楽往生を遂げさせる以外に苦悶する菊を救済する術がなかったのである。悪霊祓い師やエクソシストなどというイメージ論によって祐天のパーソナリティーが誤解され、今日の研究の進展を阻害する事態となっている点は由々しき問題とすべきであろう。

 そもそも、筆者は『死霊解脱物語聞書』が悪霊祓いを題材とした浄土宗の勧化本であるとは見ておらず、逆に自身の対応が称名念仏による追善供養であったことについての宗門への弁明と、当時頻発していた細民の小児遺棄を取り締まる「捨子禁令」のプロパガンダを担うことによる幕府への迎合の二点を目的に刊行されたものであると捉えている。祐天は数々の憑霊事件への関与によって勘当や追放の憂き目に遭っており、その存在は浄土宗においてスティグマ(負の表象)となっていた。それは荻生徂徠が『政談』に「祐天ナドノ様ナル僧ハ、人ノ帰伏シタル僧ナレ共、無学ナル故、僧衆ノ方ニテハ帰伏セズ」と述べていることなどからも立証されよう。すなわち祐天には「個人(祐天)」と「組織(浄土宗)」との間に介在する対立関係の修復を図る必要があり、『死霊解脱物語聞書』刊行の背景にはそのような状況を打開するための企図が内在していたのである。本発表では祐天が如何にして大本山増上寺三十六世にまで登り詰めたのかについてパネル十五枚を用いて解説した。