平成三十年十一月十日 東洋大学白山キャンパス 六三一二教室
自殺と不条理―自殺予防の基礎としての哲学―
岩崎 大 客員研究員
〔発表要旨〕現代における死生観の現状とそれがもたらす諸問題についての哲学研究として、本発表では自殺に焦点を当てた。統計データによれば、日本の自殺既遂者は五十歳代をピークに高齢世代に多いこと、男性の比率が高いこと、うつ病などの精神疾患を含む「健康問題」が原因として最も多いこと、そして先進諸国のなかで日本は唯一、自殺が若年層の死亡原因の第一位であるといった特徴がある。
自殺予防運動は、精神疾患との強い関連性ゆえに、メンタルヘルスが主軸になっているが、デュルケーム以来、自殺を個人の心理ではなく、社会的問題とする認識が根付いた。WHOの報告書では、貧困、過労、いじめ、家庭など、自殺の要因は様々でありかつ複層的であるが、自殺は包括的アプローチを実践する社会的努力によって予防可能な問題であるとされている。
一方で、自殺の哲学は、現状として自殺予防運動に寄与しているとは言い難い。というのも、自殺念慮者のほとんどは、生と死について哲学的、宗教的思索の果てに死を選ぶわけではなく、むしろ思索が不可能なほど視野狭窄に陥っているからである。それゆえ、哲学的自殺予防は、危機介入(intervention)より以前の、自殺念慮を抱かせない死生観形成としての予防(prevention)に重点を置くのが現実的である。その実践のヒントとなるのが、カミュの「不条理(lʼabsurde)」の思想である。意味と明晰さを求めて生きる人間と、意味も明晰さもない世界との間の根源的な関係である不条理は、それを自覚した者に必然の絶望をもたらす。しかし、カミュはその不条理な感情をもつ人間の帰結は、自殺ではなく、「反抗」(la révolte)」であるとする。意味と明晰さを求めるという人間の存在性格は、不条理の原因であるが、この存在性格を放棄し、自殺を選択するのは、人間としての態度と矛盾する。カミュは、「自殺とは認識の不足である」とはっきり断ずるほど、苦境や感情に支配されて人間の理性と生命を否定する自殺という態度を否定する。そして、自らの死を自覚しつつ生の態度を選び取る死刑囚の態度に、不条理への反抗と、真の自由、情熱、幸福を認める。
カミュの思想を実際の自殺予防に還元するとすれば、まず、自殺念慮者は、日常を生きる多くの「まるで死を知らないかのように生きる」人々よりも、不条理の自覚に近づいていると言える。それゆえ、通常の自殺予防が行う固有な困難をいかに解決するかという対応よりも、固有な困難を契機に、いかに根源的な不条理を自覚するかという逆方向の対応が示唆される。それはともすれば絶望を深めることになるが、そこには視野狭窄から解放された反抗という答えがある。自殺予防の基礎となる哲学的実践として、体験と対話による死生観形成を実現するためには、命のたいせつさを学ばせるのみならず、根源的事実による価値観の破壊と創造を促すことも必要である。
平成三十年十一月十日 東洋大学白山キャンパス 六三一二教室
『徹通義介喪記』における衣と鉢盂
―〈物質文化研究〉視点から―
金子 奈央 客員研究員
〔発表要旨〕本発表は、『徹通義介喪記』に記述のある「提衣」という儀礼に登場する「もの」―「袈裟」・「鉢盂」―に読み込まれる教義的意義及びそれらの儀礼での動きによって何が産み出されるかについて考察する。その際には、近年の物質文化研究の動向に留意した上で考察を加える。
『徹通義介喪記』は、延慶二年(一三〇九)九月一四日に示寂した徹通義介(一二一九―一三〇九)の葬送について、その法を嗣いだ瑩山紹瑾が記録した文書である。ここに記される「提衣」という儀礼は、二ヵ所記される唱衣(遺品の競売儀礼)の項目内に記される儀礼であり、瑩山紹瑾を含む徹通義介の三名の法嗣に「法衣(伝衣)」・「衣(常衣)」・「鉢盂」が伝授される内容である。特にこのうち瑩山紹瑾に与えられた「法衣(伝衣)」は、伝法の印として既に徹通義介の示寂前の永仁二年(一二九四)正月一四日に瑩山紹瑾に対して伝授された、道元から受け継がれた袈裟と同じと考えられる。
「提衣」に登場する「法衣(伝衣)」および「鉢盂」にどのような意味が読み込まれたのかについては、道元の撰述した『正法眼蔵』に収められる「伝衣」・「袈裟功徳」(十二巻本)・「鉢盂」が参考となる。そこでは、「法衣(伝衣)」や「鉢盂」は、「絹や布、石や瓦ではなく」、「仏袈裟は仏袈裟、…仏鉢盂は仏鉢盂なり、…」、すなわち、これらはそれ自体を構成する物質ではなく、「仏そのもの」であるという道元の解釈が展開される。
「提衣」という儀礼では、このような「正伝の仏法そのもの」という意味を与えられた「法衣(伝衣)」や「鉢盂」が法嗣に伝授されるが、中国で撰述された諸清規のうち、唱衣の項にこの「提衣」を記す清規では、「提衣」は法語の後に競売にかける遺品を掲げるという内容が記されるのみである。さらに、永平寺を退いて大乗寺を開いた徹通義介の法を継いだ瑩山紹瑾が、後に永光寺に置いた五老峯の存在からは、瑩山が自らの「天童如浄―道元希玄―孤雲懐讓―徹通義介―瑩山紹瑾」という法系を強調したことが伺える。このような瑩山紹瑾の法系観が背景となり、徹通義介からの法の継承を明示する儀礼として「提衣」を解釈し直して実施したとも考えられる。
このように、『徹通義介喪記』に記される「提衣」という仏事に登場する「もの」―「法衣(伝衣)」や「鉢盂」―には次のような二つの方向からの解釈が可能となると考えられる。一つは、当時の大乗寺教団の中で「もの」に「正伝の仏法」という宗教的意味が読み込まれていること。もう一つは、宗教的意味が読み込まれた「もの」の儀礼における動き―法の継承者への伝授―により、法の継承が可視化されて、教団において上記の法系の正統性が既成事実となることである。
平成三十年十一月十日 東洋大学白山キャンパス 六三一二教室
高田門徒の高田顕智『聞書』の資料的価値
―醍醐本『法然上人伝記』をめぐって―
板敷 真純 院生研究員
〔発表要旨〕醍醐本『法然上人伝記』(以下『醍醐本』)とは、真言宗醍醐寺に現存している法然の伝記や法語をまとめたものである。この『醍醐本』は、大正六年に望月信亨氏により発見されたが、醍醐寺座主義演准后の写本しか残っておらず、手本となった原本は見つかっていない。
ここで注目すべきは、この『醍醐本』が初期の高田門徒の中で書写されている点である。先行研究では、永井隆正氏が『見聞』に注目し、『見聞』中の『醍醐本』書写の筆跡を親鸞の門弟である高田顕智とみなした上で、『醍醐本』と『見聞』の該当箇所の比較を行っている。しかしその後の筆跡研究により顕智筆と考えられてきた『見聞』は、その筆跡から顕智の弟子である高田専空であることが判明し、永井氏の主張に誤りがあることが分かった。つまり高田門徒が書写した『醍醐本』の断簡は二点が伝わっており、一点目の『聞書』は、顕智が記した書写断簡で、二点目は、高田門徒の要文集である『見聞』中に専空が記した書写断簡であった。
本論は、高田門徒の顕智が書写した『聞書』内の『醍醐本』の書写断簡に焦点をあて、義演准后が書写した『醍醐本』との相違点について論究を行う。これにより、『醍醐本』に書写された『聞書』の資料的価値を明らかにすることが出来、さらに高田門徒の実態を究明することが出来ると考える。
『醍醐本』と顕智の『聞書』の書写断簡を比較検討した結果以下のことが分かった。
① 『醍醐本』と『聞書』の書写断簡を比較すると、相違点が大きく二点に分けられる。一点目は「文字の相違」であり、二点目は「法然に対する尊称の相違」である。一点目は、義演准后が書写した『醍醐本』と『醍醐本』より先に成立した『聞書』を比較することで、義演准后が書写した『醍醐本』の誤字を指摘することが出来た。これらは先行研究でいわれてきた誤字の校異を裏付けるものである。
これにより『聞書』には、『醍醐本』の原形を正すことが出来る資料的価値があることが分かった。
② 二点目は、『醍醐本』と『聞書』では、法然に対する尊称が「上人」と「聖人」で違いが見られる点である。法然に対する尊称は、すでに親鸞が「聖人」と記している点が確認出来、また『西方指南抄』などの親鸞の著作やその写本を高田門徒が所持していたことがわかっている。これらは顕智が親鸞の法然に対する尊称を継承しようとした結果、「上人」から「聖人」へと修正したものと考えられる。このように『聞書』には、顕智の親鸞に対する強い敬慕の念が見られ、顕智が親鸞に対する姿勢を理解する上で、重要な資料的価値があることが分かる。