平成二十七年十月十七日東洋大学白山キャンパス五一〇二教室
ベンガルのガジョン祭祀の伝承に見られるヒンドゥー・テクストの流用
澁谷俊樹客員研究員
〔発表要旨〕ガジョン祭祀は、低カーストが主な担い手となり、棘の生えた木の枝や刃物の上に飛び降りるなど自傷儀礼が伴う。これらの儀礼に根拠を与える正統的なテクストは存在しないという見解は、ガジョンの自傷儀礼の段階的法的禁止(一八六五―一八九四年)へと結実する植民地主義的な眼差しばかりか、この眼差しを反省的に捉えようとした独立以降の研究者からも支持されてきた。ところが近年の研究により、神話的根拠は少なくとも一時期存在していたことが指摘されている。報告では、ガジョンに伝わる幾つかの伝承を分析した上で、神話的根拠が後景化された背景を考察した。
まず、カルカッタのチェトラ市場で行われる五日間のガジョンを紹介し、各日の儀礼をめぐって、担い手である信徒たちの間で継承される四つの由来譚を説明した。その上で、由来譚を額面通りに受け取る前に検証するため、由来譚に登場するガジョンに関わる鰐と鳶をめぐる類似の伝承を、①十九~二十世紀初頭のカルカッタ及びに近郊村落の史資料と②現地調査の両面から蒐集することで比較し、市場のガジョンの由来譚が、いかなる歴史的背景から、いかなるヒンドゥー・テクストや口頭伝承を文化資源として、いかなる企図のもとに構築されたかを具体的に推考した。
冒頭に示唆した通り、一九九一年のHiltebeitel の著書により、『マハーバーラタ』にも収録されたシヴァ神の信徒である悪魔の物語が、シヴァを主神とするガジョンの自傷儀礼の神話的裏付けとして浮上する。彼が注目したのは、一八三三年にアジア協会の現地人書記官Ramkamal Sen が記したカルカッタのガジョンの記録である。そこで、両者の記述と論点を検討したうえで、同じくシヴァを主神とするチェトラ市場のガジョンの由来譚には、この悪魔の名前ばかりか物語に類似の要素も見られないことを確認し、神話的根拠が後景化された背景を以下三点から論じた。
1、十九世紀以降のガジョンに対する入植者の批判の高揚と、現地エリート層の同調化
2、十九世紀末~二十世紀中葉迄の「ガジョン≒ベンガルの仏教タントラ残滓説」の流行
3、植民地期に蔑視された民衆文化をめぐる独立以降の南アジア研究者の反動的嗜好
十九世紀当時、「ヒンドゥー」はキリスト教的な宗教観の影響のもと、①正統なテクストがあるか否か、②アーリヤ人にゆかりのある高カーストの文化か否か等の指標から定義される傾向にあった。そこにおいて、低カーストを担い手とし、入植者と現地エリート双方から非難されたガジョンは、「神話的根拠を持たない低カーストによる捏造」として、近代的「ヒンドゥー」概念から落第しかけたのである。
平成二十七年十月十七日東洋大学白山キャンパス五一〇二教室
大学における日本主義―日本近代化における歴史哲学試論
松野智章客員研究員
〔発表要旨〕歴史学は客観性を求める厳密な学問であることに間違いはないが、同時に政治性の高い学問でもある。歴史をポストモダン的観点から捉え直しつつ、戦前における大学を支配した「日本主義」を再考したい。狙いとしては、一部の国粋主義者が暴走した結果うまれた特殊な思想が日本主義であったというものではなく、後発型の近代化を推し進める上で、必然的な歴史観であったと提起したい。
一九三七年に文部省編纂により出版された『国体の本義』は、まさに日本主義が完成した形でまとめられている。そこでは、日本の存在意義が歴史を通して確認される。その内容は、西洋の行き詰まりと日本の可能性という一言に尽きる。『国体の本義』は決して排他的な主張ではない。国体明徴を主張しながらも西洋文化との関係の中で、世界史的な理解として日本と天皇を位置づけている。したがって、日本主義が単なる右翼的な主張で、また当時対極にあった思想・共産主義が単なる左翼的な主張というものではない。この対立は、M・ユルゲンスマイヤーの言葉を借りれば、コスミック戦争と言える。一九二九年の大恐慌以降、世俗的問題の解決方法として、自由主義・社会主義・全体主義が台頭した。日本主義は、そのうちの一つである。哲学者として日本主義を代弁した松永材は、日本主義の特徴として排他性ではなく、海外文化との交流・摂取を主張する。そして、天皇は、中国の天の思想と比較すれば、物質主義的で内在的であり、しかし、西洋的な科学主義からみれば精神的で超越的であり、つまり、超越性と内在性を併せ持ち、超越国や内在国の両文化を併せ飲むことができる存在として理解される。
大学における日本主義は、美濃部達吉のパージ以降、誰も追放するものなどいなくなった状態になり概念枠として完成した。その中、二つの勢力が形成される。革新右翼と観念右翼である。この対立は、陸軍における統制派と皇道派に対応している。重要なのは、この対立が、日本主義の下で大学において展開した事である。
日本主義のいう天皇の両面性は、日本の近代化に大きな役割を果たした。日本における社会改革を表現するときに天皇は有用な道具として機能した。天皇とは束帯を着た伝統を継承する存在であり、軍服を着た近代国家の象徴としての存在であった。つまり、天皇は弁証法を引き受け、矛盾を内包する存在である。ここに、西欧近代化における〈神〉という言語ゲームとの類似を日本の天皇は垣間見せる。当時の時代背景を踏まえれば、日本において近代化を可能ならしめた存在が「天皇」にあったという結論は、大学における日本主義とはなにかという問題から見出すことが可能な結論といえるだろう。
平成二十七年十月十七日東洋大学白山キャンパス五一〇二教室
『瑜伽師地論略纂』と『瑜伽論記』の成立について
水谷香奈研究員
〔発表要旨〕本発表は、『瑜伽師地論』に対して中国で書かれた二本の注釈書である、慈恩大師基(六三二―六八二年)の『瑜伽師地論略纂』と、新羅の僧である道倫(遁倫)(生没年未詳)の『瑜伽論記』について、その成立や思想的背景を考察しようとするものである。両疏の比較については江田敏雄氏や勝又俊教氏らの先行研究があり、『瑜伽論記』が『略纂』の大半を引用していることが指摘されている。しかし、両疏の相違点については十分論じられていないため、本発表で両疏の一部を詳細に比較し、先行研究の再検証を行った。まず、比較の前に両疏の成立について考察した。特に『略纂』は十六巻が現存するが未完であり、後半が散逸したのか、元から未完であったのか、明確な結論が出されていなかった。そのため本発表では、『瑜伽論記』に言及されている基の章疏について調査し、『略纂』では対応箇所が存在しない『瑜伽論』後半部についても、道倫が基のほかの章疏から『瑜伽論』に関する記述を引用していることを確認した。ただし『略纂』現存部分からの引用に比べると、その数は非常に少なく、『略纂』は保坂玉泉氏が推測したとおり、基の晩年に書かれたものであり、完成を見ずして基が没したため現存のかたちとなった可能性が高いと考えられる。
次に、『略纂』と『瑜伽論記』について、『瑜伽論』巻第一に対応する部分の比較を行い、主に両者の相違点に注目した結果、次のような結果が得られた。第一に、道倫は『略纂』から多くの部分を引用しているが、『瑜伽論』冒頭の偈頌(ウダーナ)に関する注釈部分で、基とはわずかに章立ての構成を変えるなど、独自の編集方針を持って『瑜伽論記』を執筆したことが伺える。第二に、『瑜伽論記』には摂論学派の説への配慮が見られる。例えば、『瑜伽論』に説かれる十七地の中の第二意地についての注釈箇所で、『略纂』と『瑜伽論記』は共に第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識に言及するが、『略纂』では触れられていない第九識について、道倫は真諦、恵景、文備の説を挙げてその解釈の変遷を説明し、最後に基の『義林章』を引いて第八識と第九識は染浄別であると述べる。道倫は旧訳の『摂論』を用いるなど、摂論学派の思想や真諦訳に親しんでいた側面があるとみられる。
第三に、道倫は夢の体について、基が『略纂』で挙げている『成唯識論』の説ではなく、『大毘婆沙論』の説を引用する。これは基と並んで『瑜伽論記』に多数引用される恵景が新羅僧であり、『大毘婆沙論』に詳しかったことと関係があるかもしれない。
以上のことから、道倫は、摂論学派の立場で『瑜伽論』を解釈した恵景と、新たな法相唯識を打ち立てた基の見解を併記し、どちらが正しいという判断を明確には示さない和諍思想の立場から、『瑜伽論』注釈の集大成をしようと試みたのではないかと思われる。