平成二十六年十一月二十二日 東洋大学白山キャンパス 五一〇二教室
植民地期の韓国仏教に与えた井上円了の影響
佐藤 厚 客員研究員
〔発表要旨〕東洋大学の前身である哲学館の創設者・井上円了(一八五八―一九一九)は、明治中期に日本の仏教界を活性化させるために尽力したことはよく知られている。同時に井上円了の思想は、日本植民地下の韓国仏教においても仏教近代化の指針としても用いられていた。本発表では植民地時代の代表的な僧侶であった金九河(一八七二―一九六五)の論文を紹介しながら、そこに表れた井上円了の思想と、それが持つ意味とを考察する。
一九一〇年に日韓併合がなされると、日本は朝鮮に総督府を設置した。総督府は「寺刹令」で朝鮮仏教を統治した。具体的には朝鮮の寺院の中、代表的な三十の本山を指定し、それがその他の末寺を従えるという体制を構築した。この三十本山の委員長に就任したのが通度寺僧侶の金九河である。金九河は一九二〇年に雑誌『鷲山宝林』を刊行し、その第一号の巻頭論文に「二十世紀仏教」を掲載した。その目的は、第一次大戦後の思想の混乱期の中で、仏教が時代要求に適応するための方法を説くことである。そこで提唱されるのが、一、厭世主義から楽天主義へ、二、出世間から世間へという二つの視点である。
この中、厭世主義から楽天主義へと転換を説く部分で、日本の文学作品『平家物語』を挙げ、「「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という「古書」は悲観的である。私は某学者の解釈を模倣して「祇園精舎の鐘の声、青年立志の響きあり」としたい。」と述べる。調べてみると、この某学者とは井上円了であり、円了も『活仏教』の中で同じことを説いている。ここから金九河が円了の著作を参照していたことは確かであるが、私は金九河の引用はこれにとどまらないと考える。すなわち、仏教改革の方法として挙げた二つの方向は、円了も説いており、また円了以外にも日本仏教界で仏教改革の方法として説かれたものだからである。これらのことから、金九河の論文は、その全体が円了か、円了でないにせよ日本の仏教者の論文が反映されたものではないかと推測した。
これは現代から見れば論文の剽窃という問題になろうが、私はこれを問題とはしない。それよりも、それがその時代にどのような意味をもったのかということのほうが重要な問題だと思うからである。すなわち、この事実は当時の朝鮮仏教界が日本仏教の問題意識を継承しながら、社会への参与を果たそうとしていたことを物語る。今回は金九河と円了との関係にとどまったが、将来的には「近代」というものに仏教がどのように対応していったか。日本は日本なりに、そして日本の影響を受けた韓国は韓国なりに、どのような対応を見せたかを明らかにしていきたい。