平成25年11月16日 東洋大学白山校舎 6312教室
平成25年11月16日 東洋大学白山校舎 6312教室
玄奘門下の般若心経注釈書について
林 香奈 奨励研究員
東アジアの仏教に極めて多大な影響を与えた経典のひとつとして、玄奘が649年に訳出した『般若心経』を挙げることに異存がある人は、そう多くはないであろう。『般若心経』に対しては成立後から多くの注釈が著された。その中には、当時の大学匠であった慧浄や、玄奘の翻訳事業に参加していた靖邁、基、円測らの撰疏も含まれている。これらの中、慧浄の『般若波羅蜜多心経疏』については福井文雅氏をはじめとする複数の先行研究があるが、靖邁らの疏については、思想面においても相互の関係性においても十分な研究がなされてきたとは言いがたい。
そこで、本発表では『靖邁疏』の成立や思想を中心としつつ、玄奘の門弟たちが著した三疏の関係について考察を行った。『靖邁疏』は三性説で空を解釈するなど、唯識思想を用いた部分もある反面、羅什訳『大品般若』や『大智度論』、僧肇などからの引用も多く、全体としては中観思想と唯識思想を折衷させるようにして『般若心経』を解釈している。また、『成唯識論』や玄奘訳『大般若経』を参照した形跡が確認しづらいのも大きな特徴である。これらの事実から、筆者は玄奘門下の中で『靖邁疏』が最も早くに成立し、その時期は『成唯識論』の訳出よりも前である可能性が高いと考えている。
一方、基の『幽賛』と円測の『円測疏』は『大般若経』を引用しており、明らかに六四四年以降の成立である。両者の前後関係については、韓国において高翊晋氏が、円測の中観と唯識を併用する和諍的思想を批判して成立したのが『幽賛』であろうと推測しておられるが、『靖邁疏』が両疏に先行するならば、必ずしも基が『円測疏』のみを念頭に置きながら『幽賛』を書いたとは言えなくなる。また、同じく韓国の張圭彦氏は、『円測疏』で用いられている『般若心経』と基のそれとが異なっており、円測がその経文の違いに言及していることを発見された。円測は「舎利弗」の解釈や経文の引用の正確性などから、自身が直接確認した情報を重んじる側面があると見られ、『般若心経』の経文についても、『幽賛』を通して両者の違いに言及したという可能性が考えられる。さらに、『円測疏』には『幽賛』の解釈を前提にしなければ理解しづらい内容も散見されることから、『円測疏』は『幽賛』のあとに成立したと見てよいのではないかと思われる。
以上のことから考えると、玄奘門下にあっては最初に靖邁が『靖邁疏』を執筆し、『成唯識論』訳出後に了義教たる唯識思想を強調するために基が『幽賛』を製作し、和諍的立場から円測が再び中観思想にも目を向けて『円測疏』を作成したのであろう。
まぼろしの東洋大学朝鮮分校
佐藤 厚 客員研究員
1920年(大正9)代初に朝鮮の京城(現在のソウル)に東洋大学分校を作る構想があった。このことは東洋大学の通史にも掲載されておらず、現在の東洋大学関係者でも知らない方がほとんどであろう。
植民地朝鮮における大学設立について、通説によれば、1910年(明治43)年、日本は大韓帝国を併合して朝鮮と呼び、総督府を設置して直接統治を始めた。日本政府は、最初の10年間は「武断政治」の統治方法をとったが、1919年(大正8)に独立運動がおこると、ある程度の自由を認める「文化政治」に変更した。この時、朝鮮民衆から自分たちの大学を作る民立大学設立運動がおこった。それに対して総督府は東洋大学の分校を京城に設置することで朝鮮民衆を納得させた(1920年8月)。しかし、それは実施されず、同年9月には当時、京城内にあった専門学校を大学に昇格させることにした。しかし、これも実施されず、最終的に帝国大学を設置することで決着した。これによれば、東洋大学分校計画は一か月くらいで消滅したことがわかる。
しかし、この通説を覆す記録が1921年(大正10)8月の朝鮮発行の新聞にある。そこでは当時、東洋大学の幹事であった三輪政一が、朝鮮分校について具体的な構想を語っている。第一には、儒教、仏教の二大思想を中心とした教育を行うこと。第2には、東洋大学には朝鮮人留学生およびその卒業生も多いことから、朝鮮分校ではそれらの人材を活用する可能性もあること、などである。
それではこの構想は、どのように起こり、なぜ消滅したのであろうか。1918年(大正7)、境野黄洋が東洋大学第4代学長に就任すると、文部省の大学令に基づいた大学への昇格が課題となった。ただ莫大な資金が必要であり、そのため境野は北海道と朝鮮に政府の土地払下げの運動を行った。また前出の東洋大学幹事の三輪政一は、20代半ばから30代半ばにかけて朝鮮で日本語学校を経営していた朝鮮通であった。私は朝鮮分校の構想は、この二人の考えの中で出てきたものと推測している。
しかし、これは実現しなかった。その理由の1つとして考えられるのが、1923年(大正12)におこった境野事件の影響である。これは境野学長が、東洋大学のある職員を解任したことに対して、学長派と反学長派とに分かれ、対立した事件である。この中で境野は学長を解任され、学長派であった三輪は学生から殴打され重傷を負った。反学長派の意見の中には、朝鮮での事業への反対も記されていた。このように学内の不統一が、分校が潰えた原因と考えられる。今後も周辺資料の捜索に励み、その内実を明らかにしていきたい。本研究は、知られざる東洋大学史の1コマを明らかにすると同時に、植民地時期の朝鮮の教育問題を明らかにする一環ともなることが期待される。