平成25年10月19日 東洋大学白山校舎 5103教室
平成25年10月19日 東洋大学白山校舎 5103教室
ぽっくり願望と現代の死
岩崎 大 奨励研究員
日本人にとって「ぽっくり」という表現は、ひとつの理想の死に方として古くから語られてきたものであり、死に関わる言葉のうちでも肯定的な意味をもつ稀有な語である。そして、「ぽっくり死にたい」あるいは「ぽっくり逝きたい」という願望は、少子高齢化が進む現代日本において、「ポックリ信仰」と呼ばれる独自の流行を生み出し、現在に至る。本発表では「ぽっくり願望と現代の死」と題し、寺社への参拝祈願を行う信仰にとどまらず、ぽっくり死ぬことを理想と考える死生観を「ぽっくり願望」として、現代日本人の死に対する態度を問い返した。
発表はまず、ぽっくり願望とは何かということを、言語や社会調査等の文献研究を基に考察し、次にぽっくり願望が具体的に何を求めているのかということを整理した。ぽっくり死にたいと望むことは、死に方を選択しているというよりも、むしろ苦しんで死にたくない、人間としての尊厳を保ちたい、他者に迷惑を掛けたくないといった、避けるべき生き方に対する意志ととらえるべきものである。しかしこのような避けるべき生のイメージは、現代の目まぐるしく変化する医学的・社会的状況を正しく認識しなければ当を得ないものとなる。そのため、ぽっくり願望の流行がはじまった1970年代から現代にいたるまでの死に方の変化を再認識するため、生命倫理学的諸問題の歴史を追うことや、介護や寝たきり、延命治療の場面での技術的、社会的現状の分析を行った。そして、現代の死のもつ特殊な状況を危惧しつつも、それが必ずしも不幸や悲劇という形容に直結するものではなく、死を意識して生きることの肯定を導くものになりうることを確認した。
本発表の趣旨はぽっくり願望の否定にあるのではなかった。ぽっくり願望は彼岸に対する意識であっても、此岸に対する意識であっても、それ自体が自らの生と死を意識したうえでの願望であるならば、否定されるべきものではない、ごく自然な態度である。ぽっくり願望は日本的死生観の象徴として保持されることは誤りではない。問題は、このぽっくり願望が叶わないように形成されていく現代の状況であり、またこの現代の状況が自らの生と死について無関心な、死生観の空洞化をもたらすという点である。この現状に対して、改めて死を意識することの意義が問われる。そしてこの問いは、自らの生き方に関わるものであると同時に、現代の死のあり方とその態度を構築するための基礎になりうるものでもある。
平均葬儀費用調査のあり方に関する一考察
愛宕 邦康 客員研究員
近年までの日本は、極めて安上がりで盛大な葬儀を行う「葬儀先進国」であった。近隣、寺院、役所などへ二人で死亡を知らせる弔い飛脚に始まり、湯潅、納棺、通夜、庭葬礼、葬儀式、野辺送り、墓葬礼、そして墓地などで故人が使用した布団を焼却する床焼きに至るまで、全て葬式組や葬式講などの地域コミュニティーの主導によって行われており、この合理的なシステムが安上がりで盛大な葬儀を可能にしていた。
香典を出して経済的な援助を行うだけではない。米や酒を持ち寄って飲食接待を行うのも、葬儀道具を用意して様々な段取りを行うのも、全て地域コミュニティーの役割であり、別言するならば、地域コミュニティーの協力なしに葬儀を行うことは不可能だったのである。
ところが、近年の人口移動による地域コミュニティーの解体と、少子化と民法改正による家制度の崩壊は、従来の相互扶助による葬儀のあり方を根底から瓦解させるに至る。人々を取り巻く環境が大きく変化しても、葬儀形態は旧態依然としているため、その役割の多くを葬儀業社、火葬業社、霊柩運送事業社、生花業社、仕出料理業社などに依頼せざるを得なくなり、そこに対価が派生するようになったことから、今日の如き高額な葬儀費用の問題が顕現する結果となったのである。
すなわち今日の葬儀問題の数々は、かつての相互扶助による極めて合理的なシステムが、環境変化の中で矛盾を来たし、負の遺産となってしまったために生じ得たものと言うことができるだろう。
ならば、時代の変化に伴って葬儀のあり方も徐々に変化すべきであり、そのためにも正確な情報と的確な分析の提供は必要不可欠なコンテンツとなるのだが、各機関から発表される平均葬儀費用のデータは、マーケットの混乱を誘発する要因にしかなっておらず、研究者の分析によって描き出される葬儀の未来像も、その混乱を増幅させる結果しかもたらしていない。
人生の最期を迎えるに当たっての様々な活動を総括した「終活」という語が、2010年の「新語・流行語大賞」にノミネートされたことからも明らかなように、今日、自身の葬儀を自由にデザインすることは珍しいことではなくなって来ている。葬儀費用の問題は、その全ての判断の根幹となるものであり、後悔のない判断を促すためにも、また、研究者による幾多の妄説を誘発させないためにも、改めて平均葬儀費用調査のあり方が問われるべきではないだろうか。
宗教指導者たちの老年期
―現役高齢牧師のライフヒストリーより
川又 俊則 客員研究員
超高齢社会とは全人口のうち21%以上いる高齢者たちに対し、現役世代がその後の長い老年期を想定しながら生きる社会である。その意味で、彼ら・彼女らのライフヒストリーを読み解く作業も必要だろう。報告者は、椙山女学園大学教授塚田守たちとの共同研究で「ライフストーリー文庫―きのうの私」を立ち上げた。同サイトには老年期の生き様も示されている。長きに亘る老年期の過ごし方を考えるとき、「超高齢社会」の先駆けとなる伝統的プロテスタント・キリスト教会を参照するのは適切だろう。報告者はこれまで、「現役半現役(半引退) 引退」という老年期の宗教指導者モデルを提出した。本報告では、宮司や住職の事例も背景に、高齢現役牧師三名の事例を見ていく。
A氏は1926年生まれで、終戦後の賀川豊彦の遊説でキリスト教に出会った。その内容に納得し、教会に通い、大学卒業後、神学校を経て、1962年から牧師として三重県に赴任。寺社に囲まれる困難な環境下、幼稚園を設立し、約40年間の牧会のなかで三百人礼拝ともなる教会にする。だが、「創造主」の翻訳をめぐり教派幹部と対立し、単立教会を始めた。その教会では、現在、信者も相当数いる。「進化論否定」等の講演活動も活発に行い、2013年には『創造主訳聖書』を刊行した。
B氏は1925年生まれ、小学校卒業後、家具職人を経て出征、終戦で帰国後、コック修行を経て、神学校に入り、宣教師の援助もあって卒業、1960年から三重県で牧師を務める。だが、教会の信徒たちとの対立もあり、20年ほどたって教派を離れ単立教会を始めた。信徒は増えなかったが、教会は維持し、現在は息子が主任牧師となって礼拝の司式を執り行う。2010年からは妻の経験を活かし、通所介護施設デイサービスを始めた。徐々に、利用者も増えつつある。
C氏は1934年に生まれ、終戦まで満洲で過ごすも、父は徴兵先で戦死。母弟たちと帰国後、三重県で生活。中学2年で洗礼を受け、神学校へ進学、卒業後、三重県の教会で8年間奉仕。結婚し、夫と青森県の教会で牧会後、首都圏で開拓伝道したいという夫の希望で関東に転居。約20年開拓伝道。共に仕事を持ちつつ続けたが、夫は隠退。自らは、10年ほど担当牧師、2年の単立教会牧師を経て、三重県で五年間主任牧師を務めた。その後、過疎地の教会に「礼拝だけ」ということで赴任した。
教派や教会規模など異なる三者だったが、戦後すぐに洗礼を受け、配偶者が健在で、教会外の仕事もしてきたことなどが共通点である。C氏が「人生の黄昏に、信仰を取り戻すという方もいらっしゃる」とも語るように、同世代信者の支えにもなっている高齢現役牧師の存在意義は大きい。
ヒンドゥー教のラクシャー・バンダン祭研究のための課題と資料について
澤田 彰宏 客員研究員
ヒンドゥー教のラクシャー・バンダン祭(RB)は北インドを中心とした広い地域で年に一度行われている祭りである。しかし先行研究が少なく、現在観察される兄弟姉妹間での護符とその返礼という儀礼的行為の他はあまり知られていない。本発表ではRB研究のための課題と資料を示し、現段階でのそれらの資料の読解で明らかになったことを報告した。
先行研究のなかではFreed&Freed とP.V.Kane、永ノ尾信悟の研究が重要であるとみて、その概観を行った。Freed&Freed は、1950年代以降の調査からRBを三つの側面からなる祭りであると分析した。それらは「ラクシャー・バンダン」「サローノー」「大麦の祭り」であり、農村の男女間で行われる祭りである。Kane は三つのサンスクリット語(Skt.)文献(『バヴィシュヤ・プラーナ』(BP、八世紀)『チャトルバルガ・チンターマニ』(13世紀)『ニルナヤ・スィンドゥ』(16世紀)にある記述をもとに解説をしていて、RBはバラモンが王の一年間の息災を祈願して護符を王の手に結ぶ儀礼としている。これは現在の姿とは異なるものである。永ノ尾によると『アタルヴァヴェーダ・パリシュシタ』(AVPS、Skt.)と『アーイーネ・250アクバリー』(AA、ペルシャ語、16世紀末)にRBの記述があるという。以上から、RBは多様な要素を含む祭りであり、そして元来は王権儀礼であったものが、どのように現在のような民衆の兄弟姉妹間の祭りに変化していったのか、その成立過程が研究課題であることが確認された。この問のために調査すべき資料は、Skt. 文献(古代から中世)、ペルシャ語文献(中世から近世)、近代に英植民地行政官などが残した英語の文献、現代の祭りの当事者たるヒンドゥー教徒によるヒンディー語(Hin.)文献と、大きく四種類の文献とした。
そこでまず、本発表では上記の先行研究に加えて、AAの記述(英訳)、イギリス人の英語の記録、Hin. の流布本を用い、限定的だがRBの変遷を辿った。結果、RBは16世紀末までは王権儀礼として記述されており、19世紀以降では現在同様に兄弟姉妹間で行われる祭りとしての記述があることがわかった。現在のHin. 文献では、RBが兄弟姉妹間の祭りとしてのみ紹介されその関係性を強化することが謳われている一方で、Skt. 文献にあった王権儀礼の由来譚やマントラも引用されているなど、2種類の儀礼が混合した記述もあった。
現在では兄弟姉妹間の祭りとして定着しているRBであるが、Skt.文献によればその起源は宮廷での王の1年の安寧祈願のためのバラモンによる護符結びの儀礼であり、中世までその伝統は存続していたようである。それが19世紀には兄弟姉妹間儀礼となっていることが英語文献で確認される。しかし、この2種の儀礼間の移行の時代と理由は定かではない。現段階では、女性から男性へと護符が送られる儀礼行為は、Freed&Freed が述べるように、同日(あるいは同時期)に行われる大麦の祭りとの接触・混交した結果であると推定するにとどめたい。最後に今後のRB研究の課題として、①最も古い資料とされるAVPS、②AVPSとRBをつなぐSkt. 文献、③王権儀礼から兄弟姉妹間儀礼への変化の時代を探るための中世以降の民衆の儀礼・祭礼についてのペルシャ語文献、などの文献の読解と、④RBとサローノーや大麦の祭りとの関係は、三者の混合と分離の結果であるのかを探ること、以上の4点を示した。