平成22年12月15日 東洋大学白山校舎第2会議室
平成22年12月15日 東洋大学白山校舎第2会議室
シャンカラの仏教批判
佐竹 正行 客員研究員
不二一元論学派の開祖シャンカラは、ミーマーンサー学派のクマーリラと並び「インドから仏教を滅ぼした人物」と言われている。その一方で、彼や後代の不二一元論学派の人々は他のインドの哲学学派やヴェーダーンタ学派の人々から「仮面の仏教徒」( prac-channabauddha)と批判されている。
本発表では、シャンカラの主著である『ブラフマスートラバーシュヤ』により、シャンカラの仏教説とその批判を概観していくことで、不二一元論学派の他学派批判の理解の一助とした。
シャンカラは、仏教学派として説一切有部、唯識学派、中観派の三つの学派の名を挙げる。
最初に、シャンカラは説一切有部に関して、次のように批判する。
説一切有部が説くような集合は不可能である。なぜなら、集合を作り出すものが非精神的なものであり、集合を作り出すアートマンや神のような不変の精神的存在を認めていないからとし、このような精神的な存在なしに行為があるならば、涅槃の状態でも行為が存在することになる。拠り所をたてたとしても、この集合と同一なのか別なのか決定できず、刹那滅であることから行為は存在せず、集合することはないとする。
シャンカラは、説一切有部の見解を、外界の事物が存在し、集合により成り立つ見解とまとめ、刹那滅の考え方との矛盾、精神的なものが存在しないことで、最初の原因が存在しないため、集合が成立しないとして否定している。
次に、唯識説に関して、知覚されるという事実があるので、外界の事物は存在しないという唯識学派の見解は間違いであり、認められないとし、知覚されるものは存在すると言及している。更に、過去の潜在印象は、外部の事物の知覚により引き起こされ、外部の事物の知覚が存在しないという唯識学派の主張は矛盾であり、もし過去の潜在印象が無始のものであったとしても、それは盲人の列のように根拠のないもので、日常世界を否定するものになるので、彼ら自身の意図を成立させないとする。
このように、シャンカラは外部の事物の存在を否定する唯識学派の説は知覚に関する彼らの見解に矛盾が存在するため否定される。
最後に、中観派の見解に関しては詳しく言及していない。「一切が空であると説く人々の主張は、全ての認識手段に矛盾している、それ故に、それを否定するための努力はなされない」として、中観派の説に関して、反駁する必要もなく、最初から否定される見解だと考えていたからだろう。
以上のように、シャンカラは外部の事物が刹那において主張するという説一切有部の見解、外界の事物は存在せず、識のみが存在するという唯識学派の説を否定し、外界の事物の存在に関する仏教説を排斥する。
シャンカラは、この両説に対する批判で、彼らが不変の原因の存在を否定することに対し、彼らの見解に基づき、原因を想定しないことによる矛盾を導きだそうとしている。
不変の原因を認めること、外部の事物の知覚を否定しないことにより、シャンカラは、自身の教説と仏教説との違いに言及しているように思われる。
井上円了『仏教活論序論』における真理の論証
佐藤 厚 客員研究員
東洋大学学祖・井上円了(1858~1919)が明治20年に刊行した『仏教活論序論』(以下、本書)は、廃仏毀釈により沈滞していた仏教界に活力を与えた書として有名である。本書後半で円了は、彼が考える真理を説いている。それは三点にまとめられる。
a宇宙は、我々が住む相対世界と、それを超えた絶対世界とからなる。
b相対世界は物質と心とからなるが、絶対世界は相対世界を生み出したもとであるとともに、相対世界の中にも存在する。
c のみならず、相対世界の個物がそのままで絶対世界をあらわしている。
本発表で問題とするのは、この論証が、どのような形で行われ、それが現在から見て説得力があるか否かを考察することである。従来の研究では、円了の哲学を歴史の中に位置付ける、すなわち思想史的意義について論じたものは多いが、直接的に、この論理を分析し評価するものは、あまりなかったように思われる。そこで浅学にも拘らず、この問題を考えてみた次第である。
結論から言って、この真理の論証には、いくつかの疑問点がある。
第 1 に、円了は絶対世界が相対世界の内にあること(前述bの論証)を次のように論ずる。もし絶対が相対の外にあれば、相対世界の我々は絶対を認識できないはずである。我々が絶対を考えていることは、相対の中に絶対があることの証拠であると言う。しかし私はこの論理を疑間に思う。相対の中で絶対を考えているからといって、その絶対が、相対を絶した本当の絶対である保証はないと思うからである。
第 2 に、円了は絶対と相対という矛盾する概念は、両者が相対的な存在であるから同一であると論ずる(前述bの論証、詳細は省略)。しかし私はこの論理を疑間に思う。これは、論理上は言えるかもしれないが、それが実際の、真理と現象との関係を証明することができるか疑間と思うからである。
第 3 に、円了は相対世界と絶対世界とが、同体でありつつ差別があること(前述bの論証)を論証する時に紙の比喩を用いる。すなわち、相対世界の物心は紙の表裏に相当し、絶対世界は紙それ自体である。ゆえに相対世界と絶対世界は、本質(体)から言えば同じでありつつ差別があると述べる。私はこれを疑間に思う。なぜなら、これはあくまでも紙の上での仮定であって、実際の相対と絶対との関係を説明しているかどうかの保障はないと思うからである。
第 4 に、円了は物心の一部分が真如全体を含むこと(前述 c の論証)について、前述した紙の比喩を用いて論じているが、これも比喩として適切であるか疑間と思う。
以上、相対と絶対の関係を論ずる円了の真理の論証は、現在の観点からは疑問点があることを論じた。
一世界一仏の原則と大乗の多仏思想
岩井 昌悟 研究員
一般的に、小乗仏教は「一世界一仏」の原則を説き、大乗仏教は「十方諸仏」を説くと言われる。「十方諸仏」はあたかも大乗仏教の標語のように扱われる。しかしながらこの二つの説は互いに異なることを説いているのであろうか。すでにニカーヤ・阿合に説かれていた「一世界一仏」は、字義どおりに考えれば、同時に「多世界多仏」を合意しているようにも解される。また大乗仏教が説く「十方諸仏」も、原則的に「多世界多仏」であって、「一世界多仏」ではない。南方上座部と説一切有部の見解が、実は「多世界一仏」になっているために、大乗の説く十方諸仏が強調されてきたのである。同じ部派仏教ではあっても大衆部は多世界多仏を明確に打ち出している。
上記のことについては、すでに先学の指摘が数多くなされてきたし、特に新資料が出現したわけでもない。それにもかかわらず、あえてこの問題に取り組もうと思った理由は、南方上座部と説一切有部が多世界一仏を主張するその意図と論法が、筆者にはいまひとつ理解できず、疑間があったからである。今回の発表では、一仏か多仏かの議論の展開を追うために、ニカーヤ・阿含の記述から始めて、資料を整理して提示する程度しか果たせなかったが、将来的には両部派の意図と論法を明らかにしたい。これは先学の研究の検証作業にもなるであろう。今回の発表は以下の次第で進めた。①まず聖典(ニカーヤ、阿含)において「一世界一仏」がいかなる文脈で説かれるのか確認した後、②『ミリンダ王の問い』によって南方上座部が示す一世界一仏の根拠を見た。次に③多世界多仏を説く大衆部と大乗の両者の立場を『マハーヴァストウ』(大事)と『智度論』とによって確認した。④南方上座部については『論事』や『増支部註』によって、説一切有部については『倶舎論』によって、両部派が他の世界には仏が生じないとして「多世界一仏」を主張する文脈を示した。
今後の課題として残されているのは、「一世界」の範囲(一ジャンブ洲、一須弥山世界=一輪囲山世界、一万輪囲山世界、一三千大千世界…)の問題、特に南方上座部のいう「一万輪囲山世界」と「三千大千世界」の関係や、大衆部の説く「三千の六十一倍の世界」と「その四倍のウパクシェートラ」を明らかにすることなどである。また「一世界に同時に二仏は出ない」という場合の、「同時」の意味内容の理解が、南方上座部と説一切有部とで異なっている可能性を吟味する必要もある。これは『根本有部律』に記載される過去仏(迦葉仏)の仏舎利と現在仏(釈尊)が共存するトーイカー村の記事や法『華経』の多宝如来と関わる問題である。