平成22年11月20日 東洋大学白山校舎第2会議室
平成22年11月20日 東洋大学白山校舎第2会議室
陽明学とは何か
伊香賀 隆 院生研究員
一般に、朱子の学は「性即理」であり 、 王陽明の学は「心即理」であると説明されることが多い。また「知行合一」「致良知」「事 上磨錬」等の言葉もよく知られている 。 しかし 、 その真意となると意 外にも知られておらず 、 「行動主義」「言行一致」「楽観主義」危「険思想」等という漠然としたイメージで捉えている人が圧倒的に多いのが実情である 。
本発表では 、 まず冒頭において 、 このようなイメージを多くの人々 に与える要因となっているであろう 、 高等学校の教科書や大衆小説な どに解説されている陽明学を確認した 。 これは以下の四点にまとめる ことができる。
①「知行合一」とは 、 「知識」と「行動」を合致させること説明されて いる 。
②「心即理」について 、 心中に生じる私欲・〔不善なる〕感情をも全て ひっくるめて「理」であるとし 、 あるがままの心を陽明が無条件に 肯定したかのような説明が見られる。
③陽明学とは 、 人をやみくもに行動に駆りたてる恐るべき思想である かのようなイメージ 。
④朱子学→「性即理」陽明学→「心即理」という説明がほとんど。
しかしこれらは全て明らかな間違いであり 、 それは王陽明の原典を 読めば容易に確認できることである。そこで、本発表では、実際に原 典(『伝習録』など)にあたって「心即理」「知行合一」「致良知」に ついて確認作業を行った。
その結果 、 「心即理」とは 、 朱子が「心」と「理」とを分けて考え たことに対して 、 両者の不可分性を主張するために陽明が使用したの であり 、決して「性即理」に対するアンチテーゼとして述べたのでは ないということを確認した。また私欲に蔽われていない心(心之惜)を理としているのであって、 ②にあるように私欲や不善な る感情を肯定しているわけで はないということ確認した 。 また「知行合一」は 、 朱子学 における「先知後行」に対し て述べられた言葉である 。 陽 雛明が生きた明代は 、 朱子学全 辮盛の時代であって、「心即理」 にしても「知行合一」にして も 、 それは朱子学に対抗して 説かれた標語である 。 そして これらは全て「致良知」に帰 一す る こ と が で き る 。 実 際 、 陽 明 の 教 化 活 動 に お い て そ の 前 半 は 「心 即 理 」 「 知 行 合 一」を 説 く こ と も 多 か っ た が 、 後 半 (五 十 歳 以 降 ) は 「致 良 知 」 に 一本 化 さ れ て い る 。 そしてこれらは全て「致良知」に帰一することができる。実際、陽明の教化活動においてその前半は「心即理」「知行合一」を説くことも多かったが、後半(五十歳以降)は「致良知」に一本化されている。そして、その「致良知」とは、心中に生じる一念上で〈為善去悪〉の工夫をしていくことである。このような工夫を、社会の真只中、つまり仕事や日常生活の中で行っていかなければならない(事上磨錬)と陽明は説く。このような工夫を地道に続けていく事により、やがては聖人の境地にまで至ることが出来るいう。しかしそれもただ、心中に生じる一念上で為〈善去悪〉の工夫を続けていったにすぎない。
陽明学とは、決して知識と行動を合致させることを求めるのでも、ただやみくもに行動に突っ走るものでもなく、常に自らの心(良心)に問いかけながら、自問自答を繰り返しながら、誠実に生きていこうとする学問であるといえよう。
日蓮における安然の問題について
土倉 宏 客員研究員
日蓮研究の難しさは、日蓮遺文それぞれの書誌学的信用性を踏まえなければならない、ということであるが、今回は「真蹟があるものとないものとの違いを大まかに踏まえた上で、日蓮の即身成仏思想の概要を探る」という範囲での発表内容とした。
そこから導き出される日蓮の即身成仏思想の大きな傾向を、先行思想との関連から述べるなら、空海や台密思想が展開した密教思想上の即身成仏思想からの影響を受けることはほとんどなく、天台思想上の「法華円教即身成仏思想」からの影響を受けた上で、日蓮独自の即身成仏思想が展開されている、ということである。
初期の遺文である『戒体即身成仏義』を除けば、日蓮の即身成仏思想には密教色がほとんどない。密教思想上の即身成仏思想の根本文献である『菩提心論』を随所で批判し、空海の(空海撰と一般に伝えられる)『即身成仏義』をも批判する。日蓮は密教思想を批判することで自らの思想基盤を打ち立てたが、このことは即身成仏思想でも同様である。
一方で日蓮は、即身成仏の根拠を法華経の龍女成仏に求めること大であり、また法華円教即身成仏思想を学んでいることが看取される。というのは、最澄の即身成仏思想を称讃しつつ、数箇所で生身得忍ということに触れることがあるからである。生身得忍は法華円教即身成仏思想で頻繁に扱われる概念である。
結論としては、日蓮は法華円教即身成仏思想の影響を受けつつも、そこから飛躍し、独自の即身成仏思想を形成したことが認められる。例えば法華円教即身成仏思想の展開過程で、円仁は「生身不捨」の思想を強固に主張したが、日蓮は円仁を批判しつつ、この問題にあまり拘泥せず、あたかも素通りするかの如く自らの即身成仏論を展開している。また円仁・安然にとって、初住成仏(無生法忍を得る位)より下位に位置する名字即成仏を論ずることは注意を要する大問題であったはずであるが、日蓮は『四信五品砂』で確信を持つてこれを論じていると考えられる。
このような大きな傾向を踏まえつつ、さらに日蓮の即身成仏思想に見られるいくつかの特徴を挙げれば次のようになる。①妙法経力の強調、②生身の捨・不捨ともに可、③生身得忍と即身成仏の違い、④煩悩即菩提・生死即涅槃の強調、⑤二乗作仏・久遠実成・一念三千こそ根拠、⑥種・熟・脱は根本、⑦即身成仏の「人」が説かれるか説かれないかを問う、③名字即成仏の重要性、⑨境智一如の状態、⑩本門の即身成仏と透門の即身成仏の違い。
チベットはなぜ国家承認されなかったのか
―チベット問題の淵源¨英国のチベット緩衝地帯観と中国の チベツト主権論―
田崎 國彦 客員研究員
本誌前号掲載の拙稿「チベットの地位をめぐる三つの言説の実態と形式」は、端的には、チベット(蔵とも略)は国家の3要件(人民・領土・政府の存在)を満たし、すでに国際法上の人格と見なし得る独立国家であり、これをダライラマ13世は1913年2月の『布告』中に明示したと結論づけた(チベット人は当時すでに国際法を知る)。ただし、チベット人は、この独立を、伝統的な共同関係を壊した中国への一連の抵抗運動や蔵中間の歴史的関係(チューュン)などを根拠に「平和にもとづく本来の自由な(=独立した)仏教国に戻った」と自己規定し中国(中とも略…ここは清国・中華民国)から独立した」とは考えない。
本発表の目的は、拙稿で論じた三言説中の英国の主張①「中国はチベットに対して宗主権( suzerainty )を有する」(1873年の英蔵関係再スタート時の蔵中関係理解)を取りあげ、この言説が自らの国益から「②英国が英領インド保全などのためにチベットを緩衝地帯・緩衝国( a buffer area/ state )と位置づける」(1903 年頃には明確化)もの―前者は国際法、後者は地政学からチベットを他者規定する―であり、またこの両者蔵(中宗主権観とチベット緩衝地帯観)が、表裏一体となって機能して、チベットと緊密な関係にあって国家承認すべき資格と責任のある絶好の位置にいた英国に独立国家チベットの国家承認をさせなかったという事実を、歴史的に理由と共に確認することにある。チベットが国際法上の人格として国家承認されずに、いわゆる③「事実上の独立国( de factoであって de jure ではない、国際法の法理からは承認された独立主権国家ではないの意)」という曖味な国際的地位(これを承ける現チベット亡命政府の地位も同様)にとどまり、遂には 1950〜 51年の中華人民共和国―中国は清末以来チベットに対する主権を主張してきた―による軍事侵略と支配を招来するに至る「根本原因」、つまりは「チベット問題発生の歴史的な根本原因」は、ここにある(①②③はイコールの関係にある)。
イギリス帝国(英、英国とも略)は、西洋列強がアジアの伝統的国際体制を暴力的に瓦解させつつ持ち込んだ帝国主義国際体制と国際法をルールとする条約体制という大局の中で、英領インド(英印とも略…英国には輸出黒字・インド財政からの本国費という巨額の富とインド軍という兵力の供給地)の保全、露などの列強国との関係維持、中国での権益保持といった国益のために、英印独立までチベットを緩衝地帯とし続けた。この英国のチベット緩衝地帯観は、宗主権、即ち蔵中関係を付「庸国・付属国と宗主国という付庸関係(被保護国と保護国という保護関係ではない…原則的には付庸国に国際法人格はない)」として規定するものである。歴史的には、南進のロシア帝国(露とも略)の脅威から英印を守るための「英露間の第1次緩衝地帯観(1907年の英露協商中の条文として頂点に達する)」、 1910 〜 12年の清帝国による支配(チベットなどの藩部を自らの領域的主権下に置こうとする、中国の大国化。内なる帝国主義の実行)が「チベットの自治」を踏みにじり、かつ世界の屋根大チベットにおける中国の存在が「内側の緩衝地帯(英印から見て)」であるネパール・シッキムなどの安保の脅威ともなったために創出された「英中間の第 2 次緩衝地帯観(1914 年のシムラ条約の条文として頂点に達する…同条約とチベット独立の関係問題は省略)」と展開する。この第 2 次は、自らが影響力をもつチベットの自治を支持し維持するための「中国の宗主権とチベットの自治」(先に英国公使ジョーダンが中国への五項目抗議で明確に要求)という構制であり、端的には「弱体化した中国の名目上の宗主権下にある事実上の独立した緩衝国チベット」という、国益(英印の保全など)を至上とする帝国主義国家英国の戦略的・地政的な台本である(以後の英国及び英国人の第二次の諸具体例は省略)。チベットは、さらには露・中で台頭する共産主義に対抗するために、米国(中華民国を支持しCIAがチベット人の抵抗運動を支援)がチベットに担わせた「アジアにおける共産主義の障壁・防波堤」である「第3次チベット緩衝地帯観」としても位置づけられる。
このように、チベットには英にも米にも国家承認される可能性はなかったのである。緩衝地帯チベットという台本は、英が英印を離れ、国共内戦に中国共産党が勝利し中国が国力を回復して再び「内なる帝国主義(チベット主権回収論)」を実行する時、チベットを侵略する時、先の台本は消滅した。この意味で、英国は中国の主権論を存続させた"同盟者(あるいは共犯関係)"であったし、チベットは、国際法を後ろ立てとする帝国主義国際体制下における弱小国を犠牲にした大国の利益、国家を単位とする国際法の法理及び清朝版図と自認したチベットを自国領土とする「中国の内なる帝国主義」という諸暴力の犠牲者であった。この暴力はチベット問題として継続し終っていない。