平成21年11月14日 東洋大学白山校舎6203教室
平成21年11月14日 東洋大学白山校舎6203教室
インド古典建築論に見られる土地と用地の観念
―ヒンドウー建築論において―
出野 尚紀 奨励研究員
インド建築,特にヒンドウー寺院建築は,ヒンドウーの宇宙論を基盤として構成した宇宙を、地上に濃密に映しだそうとしている。ヒンドウー建築論書は、その中でも、建築用地を選定するときに、プルシャ・スークタで歌われる四ヴァルナが、調和のとれた かたちで世界の中に住んでいる必要があると記している。そして、その調和を生むために、選定条件を列挙している。選定条件には、大きく分けて、土地そのものがあらかじめ持っている形質と、祭式を行う中で判断する土地の性質という二つがある。この二つの中で前者の土地の形質について発表を行った。
土地の形質については、建築論書のみならず、占術書やプラーナ文献の建築に関する記述の中にも見られる。本発表では、記述の検討を、占術書のBṛhat-saṃhitā、代表的なヒンドウー建築論書の中から、北インド建築論のMānasāra、Samarāṅgaṇasūtradhāra、南インド建築論のMayamata、Aparājitapṛcchāā、それから、プラーナ文献の中でも詳細な建築論を記すMatsya-purāṇa について行った。
建築用地の適性度を調べる項目とは、色、形、味、匂い、植生、形態についてである。
検討の結果、色は、違いが見られない。MānasāraとMayamata に記述がある土地の形と形態も条件が等しい。植生は、MānasāraとMayamata は同種のものが挙げられているが、もう一つ記述があるBṛhat-saṃhitāは草が記されており、異なっている。匂いは、全てのヴァルナに記述が及ぶ Bṛhat-saṃhitāとAparājitapṛcchā間で、ヴァイシュヤとシュードラが異なっている。味に関しては、どれもブラーフマナが、甘味で術語もほぼ共通している。しかし、他の三ヴァルナでは違いが見られる。クシャトリヤは Bṛhat-saṃhitā、Samarāṅgaṇasūtradhāraと、 Aparājitapṛcchāが渋味であり、Mayamataが苦味であり、Mānasāra も他の記述内容が等しいことから苦味と推測される。そして、Matsya-purāṇa では辛味である。ヴァイシュヤは、Bṛhat-saṃhitā、Mānasāra とMayamata が酸味、Samarāṅgaṇasūtradhāra、AparājitapṛcchāとMatsya-purāṇa が苦味となる。シュードラは、辛味で揃っているが、Matsya-purāṇaだけが渋味とする。
主に寺院の外見から分けられるインド建築論の種類と、建築用地の形態面からの適性度には、違いが見られるという結論を得た。
不 二 一元 論 学 派 の 知 覚 創 造 説
佐 竹 正 行 客 員 研 究 員
私たちが知覚している世界が、私たちとは別に、客観的なものとして存在していると私たちは考えがちである。これに対し、世界は幻であり、客観的に実在するものではないという考えが存在する。
不二一元論学派は、その独特の世界創造説であるvivartavāda の影響もあり、一般的には客観的な世界は存在しないと考えている。 本発表では、この考え方をより極端に進め、見えることが創造することであり、主観的な知覚が世界を創造するという、知覚創造説(dṛṣṭi-sṛṣṭi-vāda )について、その代表的な論者とされるプラカーシャーナンダの『ヴェーダーンタシッダーンタムクターヴァリー』により見ていく。
不二一元論学派では、本来ブラフマンのみが真の実在であり、それ以外のものは無明を原因とする非実在であると考えられてきた。プラカーシャーナンダは、伝統的な不二一元論者同様、世界は無明の産物であるとする。さらに、本来一つしか存在しないアートマンが無明により世界を創造するとしている。さらに、夢眠状態において、覚醒状態の世界を吸収(消滅)してから、同様な世界を妄想して創造するとし、世界は夢と同様に人の観念(妄想)により創造されるものと考える。そして、経験されていない、いわば知覚されていないものが存在しないと述べる。
続いて、知覚創造説に対する論難に対し、最高の実在としての実在と日常的な実在との差異を打ち立て、夢の中での存在と同じように、覚醒状態における世界、すなわち世間的な認識手段によって否定される実在が存在するとする。そして、知覚されていない存在は否定されるべきで、知覚されているものとして、最高の実在ではないものの、仮定される存在として存在していると考える。
プラカーシャーナンダは夢を例として、知覚と知覚されるべきものは区別がなく、それは共に知覚、意識の中の出来事と考える。そして、覚醒状態においても、それは同様であり、知覚されるものと知覚が別々に存在する、知覚以外の客観的存在としての世界が存在することを否定する。そして覚醒やあらゆる迷妄の消滅を本質とする熟睡状態を得るとし、夢も見ず、覚醒もしていない状況では、知覚が働かないので世界が存在しないとする。このことからも、プラカーシャーナンダが世界の存在或いは創造を知覚と結びつけていることが理解できる。
以上のように、プラカーシャーナンダによれば、無明により、生物等を含む世界のすべてが創造される。それは観念として、映像的な存在として現れる。
『古今夷曲集』の成立と彗星
大内 瑞恵 客員研究員
現代において、日食や彗星、超新星の発見などは宇宙ヘロを向け、わくわくするような天体事象として観察されるが、古代や中世においては天皇および政治に関わる事象、それも災害や飢饉の予兆つまり凶兆として重視されていた。鎌倉初期の歌人、藤原定家の日記明『月記』に「客星」として、彗星や超新星のことが記されていたことはことに有名であろう。
中でも彗星は別名等星とも呼ばれるところから古代中国以来、旧を新に改める、つまり改革(革命)を想起させるものであったのである。
たとえば、後世の貴族社会において最も晴れやかな時代として認識されていた「延喜の御世」である。この「延喜」という年号への改元の理由のひとつに「彗星の出現」が記されている。『革命勘文』によると、昌泰3年(900)秋、彗星と老人星カ(ノープス)が見えた。そこで、文章博士である三善清行は暦を計算し先例を調べて、同4年2月に今年は辛酉革命の年であり、彗星は旧を改める象徴、老人星は「聖主長寿、万民安和」の象徴であるから、古きを改めると福寿が訪れる予兆であるという勘文を奏上した。それにより昌泰四年は延喜元年へと改号されることとなった。
室町時代の『行類抄』には「天変改元例」として永詐・嘉承・天永・久安の改元が彗星出現のためであると記されている。
時を経て江戸時代、寛文4年(1664)の10月ころより空に彗星が現れた。このときも、巷では凶兆との噂が流れた。そこで狂歌師である生白堂行風は11月1日に後水尾上皇の弟である八宮のもとへ狂歌狂文を記し「(この星は)猶安国なるべき印にこそ」と献上し、「時にとりては戯言も捨がたき事にこそ」というお褒めの言葉を頂いた。これをきっかけに翌五年古『今夷曲集』を編纂して八官に献上したところ御所に納められたという。
このいきさつを寛文12年(1672)『後撰夷曲集』に記して行風は出版している。この狂歌集は貴人にも認められた書物であるという宣伝である。これ以降、狂歌撰集の客出版が増えていくこととなる。糖 ちなみに江戸時代の僧鳳林知承章の日記『隔真記』によると寛文4年11月14日彗星はおおかた消えてしまった。そこで16日後水尾上皇から呼び出されて院参すると座興 200に彗星の誹諧発句和(漢連句)を作れといわれ、皆で行っている。時期的なこの符合は興味深いが、凶兆と恐れおののく時代から、余興の一つとして天文事象を眺めるゆとりが上皇に現れていたということである。
彗星を、天文事象を狂歌や俳諧として楽しむという文学的営為はこのころより始まった。人々の意識の変化のひとつとしてこの記録は注目すべきところであろう。