平成19年11月17日 東洋大学白山校舎3205教室
平成19年11月17日 東洋大学白山校舎3205教室
不二一元論学派の無明論
佐竹 正行 奨励研究員
ヴェーダーンタ学派は 、 ブラフマンとアートマンの同一性を主張し 、 それ以外の実在性を認めていない 。 アートマンと同一視される身体や自我意識等との差異を証明するために 、無明の観念が使用された 。 本発表では 、 不二一元論学派における無明観について 、 シャンカラとサルヴァジュニャートマンの二人の見解を通して、不二一元論学派の無明観とその展開を見ていった。
無明という概念は 、 この問題をめぐって、シャンカラ以 後の三つの系譜で盛んに論じられたように 、 非常に重要な問題である 。 しかし 、 この無明が何であるかについて 、 シャンカラは 、 はっきりと定義していない 。 彼自身の言説から探ると 、 「無明は付託である」 ということ 、 特に「アートマンと非―アートマンとの間の 相互付託である」ことが述べられている。
しかしながら 、 シャンカラのこの無明に関する考え方は、彼の直弟子たちにすら受け継がれていない。シャンカラ以後に幾つかの無明観 が存在したのではないかと考えられる根拠として 、 サルヴアジュニャートマンの『サンクシェーパシャーリーラカ』の中に複数の無明に関する考えが述べられている。
「無明は一つしか存在しないが 、身体等に共通の属性として存在する」や 、 「無明は個我と同様に多数存在し 、 輸廻の原因となる」等7つの見解が述べられている。マンダナミシュラの見解と考えられる見解以外 、 誰によって主張されたかは不明だが、複数の見解が存在して いたことを表している 。
サルヴァジュニャートマン自身は、無明を、一切の原因であるとし ている 。 そして彼は 、 シャンカラの見解を否定して、「無明」は「相互付託」ではなく 、 「相互付託」の原因であると 、 より実体的な原因 として言及している 。 そしてブラフマン=アートマンのみが、無明の 基体と対象として認められている。更に、無明には二種類の力、vikṣepaśakti とāvaraṇaśakti が存在し 、vikṣepaśaktiの働きの違いによって 、 個我と主宰神の違いが存在し 、 そして 、 無明とmāyā は同一であ り 、 それが主宰神に関係する場合、日毬帥と、個我に関係する場合、 無明と名づけられるとしている。
このように 、 初期の不二一元論学派において、サルヴアジュニャートマンの見解も含めて 、 かなり早い時期から 、 シャンカラの無明に関する見解は 、 捨て去られていた。これらの初期の不二一元論学派の見解では 、 シャンカラの「無明」は「相互不託」であるという見解、 「誤った認識」という認識論的なものとして考えているのに対して、 一切の原因 、 あるいは質料因的な方向へと進める方向で 、 無明を 、 より実体的なもの 、 あるいは存在論的なもの 、 形而上学的な誤穆へと変化させていっていると考えられる。これは、不二一元論学派が、創始者の段階よりも 、より形而上学的な 、 あるいはより精級に整理した形へと見解を進めていったことを表わしている。なおかつ、初期の不二一元論学派において 、 より多くの様々な見解が 、 かなり初期の段階から分派的に行われていたことを表わしている。
日蓮における最澄観
―密教の問題を中心に―
土倉 宏 客員研究員
日蓮が最澄を崇敬した大きな理由は 、 最澄がインド、 中国にもない大乗戒壇を建立したという点にある。日蓮の文脈に沿っていえば、これはインドの諸師、中国の智顎にもできなかったことで あり 、 これが事相にかかわる大事であったため、最澄は大きな法難にも遭過することになった、ということになる。それゆえ、日蓮においては 、 最澄は仏法史上最大レベルでの功労者 、 という位置づけになったのである 。
しかし一方 、 日蓮の晩年においては 、 日蓮自らは最澄を乗り越えた 、 との表明も見られるようになる。最澄の大乗戒壇が逃門の戒壇である のに対し 、 自らが打ち立てようとする戒壇はよりすぐれた本門。事の戒壇であるというように宣言していくのである。また自らの法門を、 事の一念三千と宣言して 、 智顎。最澄の述門の一念三千と異なる 、 と いうように自らを高みに位置づけていくのである。こうして自らの法難が厳しい原因を 、 自らの法門の事相上の意義に求めていくようになる。
ところで 、 このように日蓮が最澄の法門や日蓮自らの法門を論ずるとき 、 しばしば密教批判が同時展開されることにも注意する必要がある。日蓮の密教批判は 、 大雑把にいえば、善無長、空海、円仁・ 円珍 、 の順で行われ、台密には最も激しい批判が加えられるという点に特徴がある。ところが一方 、 日蓮の「最澄における密教」問題は 、 大乗戒壇の建立という大きな目的の陰に隠れ 、 いわばどうでもよい問題に転落してしまっている。例えば、 最澄は密教批判を行いたかったのだが 、 諸般の事情でそれを先送りし 、 その批判を後世の人師にまかせたのだ 、 等の類のものである 。
日蓮の「最澄における密教」問題の説明は十全ではないといわざるをえず 、 成功しているとはいえない。ただ、日蓮の論旨からは最澄観、 密教観は明快に伝わってくる。つまり、最澄を法華経の人師として顕揚し 、 片や密教を法華経に劣る教えとして下す 、 という論旨は明快なのである 。 日蓮がこのように考えた理由に妥当性があるのか 、 ないのか 、 その点を明らかにしていくことが今後の課題となる。この場合、 重要なのは最澄の問題云々よりも 、 日蓮自らの事相上の法門が大きな 意味を持っており 、 最澄の問題はその傍証として考えられているとい うことである 。 同様に 、 密教に関しても 、 日蓮においては自らの事相上の法門を顕揚するために 、 比較相待の傍証上 、 密教の事相を否定しておく必要がどうしてもあった、と考えることが重要と考えられるのである 。