平成19年7月14日 東洋大学甫水会館302室
平成19年7月14日 東洋大学甫水会館302室
『修験道修要秘決集』に収められている
「三身山伏之事」「宝冠 間答之事」「不動十界之事」について
中山 清田 客員研究員
今回の発表では 、 修験道文献『修験道修要秘決集』深秘分七通のうち 、 第四「三身山伏之事」第五「宝冠問答之事」第六 「不動十界之事」について論じた 。
「三身山伏之事」では 、 山伏を法・報・応の三身に分ける。法身の山伏は 、 在俗修験者で髪形は 、 自然のままで髪髪をそらずに後頭部で 束ねる下山伏である 。 この姿が凡聖不二 、 色身不二の大日如来であることを示す 。
報身の山伏は 、 髪の長さを一寸人分とする摘山伏である。一寸人分の故は 、 胎蔵界の中台九尊 、 金剛界の九会を合わせた十人より由来する 。 胎蔵界の峰は従因至果すなわち修因を表している。金剛界は従果 向因すなわち感果を表している 。修験道では胎金不二である。
応身の山伏は 、 髪鬚を剃る剃山伏である 。 内には菩薩の心を 、 修行は声聞で断悪修善の働きを示すとされている。
修験道は三身即一であるので三身それぞれ同じである。
「宝冠問答之事」では 、 以下の五智五仏の宝冠について論じられている。
大日如来の法界体性智 、 ありとあらゆる存在の本質を知る智慧 。
阿閑如来の大円鏡智 、 すべての物を鏡のように如実に映しだす智慧 。
宝生如来の平等性智 、 差別をはなれて 、すべての物が平等である ことを悟る智慧 。
無量寿如来の妙観察智 、 あらゆる現象をさまたげ無く観察し、特徴を見誤る事の無い智慧。
不空成就如来の成所作智 、 衆生の為になすべきことをして 、 種々の変化身を 成就する智慧 。
宝冠は大日如来の頭上に冠するものであるが 、 修験道では頭襟が五智宝冠を表している。頭襟については 、先達度衆は修行を終えているので頭襟を着けても良いが 、 未修行者が頭襟を着けるのは何か道理があるのか問われ、修験の 立義は凡身即仏の極位 、 迷悟 一体の内證であり 、 父母所生の肉身に法身毘慮の体性を存すが故に問題無しとする。また、頭襟の黒色は無明を示し、頭襟上部にある十二板 、 十二のヒダは十二因縁であるとしている。 「不動十界之事」では 、 不は阿字不生の真理 、 動はく(カーン)字 風息の徳力 、 明は智慧明了 、 王は化用自在を示し 、 胎蔵界大日の智慧を示すとされ 、 行者と不動明王とは別でなく 、 不動明王そのものが行者であり 、 一体であるとしている。不動明王は衆生教化の為に十界を自由に願生出来るという「十界具足」を表しているという。
以上 、 「三身山伏之事」「宝冠問答之事」「不動十界之事」の内容に ついて 、 「三身山伏之事」では 、 三身を髪形で分けてはいるけれども、 結論からいえば一つであるという点、「宝冠問答之事」では、未修行の者が宝冠を着けることはおかしいのではないかという問いに対し、 生まれた体に法身の体性を存すため先達度衆との相違はないという点、 「不動十界之事」では 、 不動明王が行者と一体である 、 すなわち行者は仏性を有するという点において 、 上記三通に無差別性に関する連綿性が見て取れるといえよう。
『荘子抄』と仏教語
柿市 里子 客員研究員
林希逸『荘子鷹齋口義』(1260〜1264年頃成立 。 以下『口義』と略称)と清原宣賢(1475―1550)『荘子抄』(1530年成立)は同じく儒者の立場をとり 、 三教一致を前提 に平易な国語に主眼を置き『荘子』を解釈したものである。『荘子抄』 は主として『口義』を解釈したものとされるが、必ずしもそうではな い 。 今回の発表では 、 『荘子抄』(所引『続抄物資料集成』第7巻 、 大塚光信編 、 清文堂出版 、 1981年)の『荘子』達生篇第一節の解釈 にみられる「平等」の語について、依拠するところの成玄英『荘子疏』 (650〜656年頃成立。以下『疏』と略称所引『新編諸子集成荘子集繹』、郭慶藩撰、王孝魚甜校、中華書局、1982年)と『口義』(所引『正統道蔵』第26冊所収『南華真経口義』、芸文印所館)を検討しつつ、その仏教語としての意味合いを探求した。
『荘子』達生篇第一節の本文「無累則正平」の「正平」は「心が自然と冥合する状態」「心の状態が偏ることなく静か」と理解されるが、唐の道士、成玄英の『疏』では「正平」を「合於正真平等之道」(偏りのない真実で平等な自然の道に適合する)」とし、道家の道の体得者の境地である斉一思想を仏教語の「平等」を借用し説明する。南宋末林希逸の『口義』は「正平者心無高下決択也。猶仏氏日是法平等也(正平とは心に高下なく決め選ばないこと。いわば、仏氏の真実の理法は無差別平等である)」 とし、さらに、この達生篇第一節全体を仏教的解釈に終始している。なお、林希逸は仏教語を用いる際には「仏氏日」「禅家日」とし、また、『論語』『孟子』などを引用し儒教的解釈を施している。すなわち、三教融合の立場からの『荘子』解釈である。
『荘子抄』は「正平トハ心二高下ナク、物ヲエラフコトナキヲ云。…彼ハ造物也心力平等ナレハ造物卜倶二化生シテ窮ナシ」とし、『口義』と『疏』を折哀して採用しているため『口義』と同様な仏教的解釈とはいいがたい。そこで以上の解釈のあり方を踏まえると、次のことがいえよう。すなわち、漢訳仏典作成時に「平等」の語が成立し、「平等覚」などのように明らかに仏教語として定着しているもの以外は、前後の思想背景や場面の異なりによって「平等」の語が一般語化するようになったのではないか、ということである。ちなみに、『時代別国語大辞典室町時代編4』(室町時代語辞典編修委員会編、三省堂、2003年)の「平等」の項には、「もと仏教語。対象によって差別することなく、すべてに同様の取り扱いがなされるさまであること」とある。『荘子抄』が成立した室町時代には、仏教語が一般語化する条件はすでに整っていたのである 。