日本文化は、天照大神の存在に『金光明経』の影響が指摘されているように、記紀の内容への仏教の影響が指摘されるなど、古くから仏教を受け入れるかたちで培われてきた。上代から現代に至るまでの文学作品、能についても、仏教の影響は計り知れない。しかしながら、その仏教哲学の内実、精神性に踏み込もうとするとき、非常に困難な道を歩まなければならないという印象をぬぐい去ることができない。文学に表れた日本仏教文化の影響をみるとき、文学研究者と仏教研究者との共同作業が必要になる。芭蕉への仏頂禅師の影響について、『仏頂禅師語録』の内容に踏み込む場合、仏教研究者の助力を仰ぐ、といった具合である。
また、深く仏教の内実に踏み込んだ研究成果をあげた場合、それを広く一般に伝えていく場合にも困難が生じる。仏教の研究においては非常に高度な研究がなされているが、門外漢にとっては近寄りがたいものとなっている。その一方で広く一般に仏教学の成果が浸透しているとは言い難い。そこで、研究成果が広く受け入れられるための階梯となる教育のあり方を検討する必要がある。
以上の問題に対し、一方では、仏教研究者が、日本における仏教文化の特質を明らかにし、他方、文学研究者が文学や能に現れた日本仏教文化の特質を指摘し、哲学研究者が、明治以降の、西洋哲学の需要を踏まえた形での日本の哲学を展開するに当たっての仏教的素地を露わにし、そして、海外への仏教の布教において、日本仏教がどのように海外に受け止められているかを把握することが一つの課題となる。この課題において、ある分野の研究者がなしえない領域については、他の分野の研究者の助力を仰ぐ。
もう一つの課題として、広く一般に研究成果が理解されるためにどのように研究内容を伝えていくか、という教育のあり方をもう一つの検討課題とする。研究成果を伝えるための、土台となる基礎的な理解力の涵養、研究成果を伝えるための導入方法、そして、研究成果における問題の所在の把握と、研究成果内容の把握に至るまでの行程が検討される。また、国際的な見地から日本の仏教文化がどのように把握されているかを見ることによって、日本仏教文化に対する多面的な考察が可能になる。そのためには、国際シンポジウム等の開催により、諸外国の研究者との討論を通じて、研究交流を重ねていくことが有効であると考える。
東洋大学東洋学研究所は、東洋における哲学、宗教、歴史、民俗、文学、言語等の各領域の研究、調査及びそれらの総合研究を通じて、東洋文化の特質を解明し異文化理解の進展に貢献するという研究所の目的のもと、仏教、日本文学、哲学の研究者が研究活動を続けており、第一の課題については、その課題に取り組むに足る研究者を擁し、またそれに応えるだけの実績を積んできている。第二の教育の課題については、同研究所は、各研究者の成果発表を公開の研究発表会において広く一般に伝えるように尽力してきている。国際的な見地からの日本仏教文化の理解のされ方については、同研究所では、平成二十三年度より平成二十五年度にかけて行われた研究所プロジェクト「東アジアにおける仏教の受容と変容―智の解釈をめぐって―」、平成二十五年度より平成二十七年度にかけての三年間にわたる研究所プロジェクト「仏教思想に見る日本・中国・韓国の共通性と差異」、および平成二十七年度・平成二十八年度に行われた、研究所長を研究代表者とする、本学井上円了記念研究助成・大型研究特別支援助成による研究「世界の諸地域における仏教の哲学的社会学的研究」、さらには平成二十九年度より進められている研究所プロジェクト「東アジアにおける仏教思想の成立と展開、並びにその意義の解明」において、本学の支援を得て中国の人民大学仏教与宗教学理論研究所と韓国の金剛大学校の仏教文化研究所と共同で研究活動を行い、ならびにシンポジウムを開催し、その成果については研究所の刊行物として『東アジア仏教学術論集』を発行してきている。以上の点から、同研究所は、日本仏教文化の特質を明らかにし、その成果を広く一般に伝え、また国際的な見地から研究を行う基盤が整っている。そこで、本研究に着手するに至った。
本研究は、日本仏教文化の特質について、諸外国の仏教との差異を踏まえて、日本仏教の特色を明らかにし、芸能や文学作品にみられる日本的な心性、日本の哲学の独自性について、その背景となる仏教文化の影響を、文学研究者、哲学研究者と仏教研究者とのコラボレーションによって探求する。また、海外における日本仏教文化の評価を、海外への仏教の布教活動の研究、国際シンポジウムでの海外研究者の見解により考察する。そして、以上の成果について、講座の開催を通じて、研究成果が広く一般に受容される教育のあり方を検討する。
本研究の期待される成果から窺える特色は以下の通りである。
一.日本仏教の特質と諸外国の仏教との差異について、諸外国の研究者との共同討議による様々な観点からの把握により、従来の研究を踏まえた最先端の研究成果をあげることができる。二.芸能や文学作品にみられる日本的な心性について、その背景となる仏教文化の影響を、分野の異なる研究者が協同で探求することにより、より深い理解が可能となる。三.上述の研究成果の理解に至るための階梯として、講座を開催し、一般に仏教文化が理解されるようになる。
本プロジェクトの実施にあたり、以下のメンバーが研究に従事することになった。研究代表者、研究分担者は以下の通りである。
研究代表者 役割分担
谷地 快一 研究所長 研究総括、俳諧と佛教
研究分担者 役割分担
伊吹 敦 研究員 日本において禅が果たした役割
渡辺章悟 研究員 経巻崇拝と日本仏教
山口しのぶ 研究員 ネパール仏教と日本仏教
菊地章太 研究員 中国思想と日本仏教
水谷香奈 研究員 浄土思想と日本仏教
高橋典史 研究員 日本仏教の海外布教
大鹿勝之 客員研究員 明治以後の哲学と仏教
佐藤 厚 客員研究員 近代東アジアにおける日本仏教
コプラ・ヴィクター・バブー 客員研究員 仏教教育の比較研究
また、研究体制として、平成二十九年度、本研究は以下の三つのユニットの構成のもと、研究が進められた。
第1ユニット:日本における仏教文化の特質を、諸外国における仏教文化との共通性と差異を浮き彫りにしつつ、探求する。
構成員:
伊吹 敦(分担テーマ:日本において禅が果たした役割)
渡辺章悟(分担テーマ:大乗仏教と日本仏教)
山口しのぶ研究員(ネパール仏教と日本仏教)
水谷香奈(分担テーマ:浄土思想と日本仏教)
第2ユニット:日本の芸能・日本文学にみられる日本の心性について、日本仏教文化の影響を考察し、また、中国思想と仏教との関係を考察する。井上円了、西田幾多郎など、西洋思想に対峙しながら哲学を形成していった哲学者たちにみられる仏教的背景を研究する。
構成員:
谷地快一(分担テーマ:俳諧を中心とした日本文学と仏教)
菊地章太(分担テーマ:中国思想と日本仏教)
大鹿勝之(分担テーマ:日本における昭和初期以後の哲学と仏教)
第3ユニット:ハワイへの布教活動や朝鮮への日本仏教の影響、鈴木大拙の海外への禅仏教の紹介など、日本仏教の海外への影響について考察する。インドや日本など、世界各国における仏教教育について研究する。
構成員:
高橋典史(分担テーマ:日本仏教の海外布教)
佐藤 厚(分担テーマ:近代東アジアにおける日本仏教)
コプラ・ヴィクター・バブー(分担テーマ:仏教教育の比較研究)
以上の3つのユニットに接続領域を設け、それぞれのユニット間の関係と総合について検討がなされる。三つのユニットの接続領域においては、研究成果を踏まえた講座のプログラムを検討する。研究代表者の谷地快一は、各ユニットの研究者との討議の上、統括し、研究の運営に当たる。また、本研究所の園田沙弥佳奨励研究員が研究支援者として本研究の業務や、学外の研究者との連携を図るため渉外の業務を担当した。
平成二十九年度の研究状況
本年度の各研究者の研究状況は以下のとおりである。
谷地研究所長
和歌連歌俳諧における釈教の世界を中心にして、仏教的思考の影響を追跡した。
伊吹研究員
中国の禅思想が日本に及ぼした影響について検討した。
渡辺研究員
日本仏教における経巻信仰と放生会の実際について考察を行った。
菊地研究員
中国道教の海域神信仰と日本仏教との融合の過程をたどるため、瀬戸内海沿岸地域で十二月に現地調査を行った。
水谷研究員
『法華玄賛』に関する研究の一環として、基が主張した五姓各別説や理行二仏性説の考察を行った。
大鹿客員研究員
紀平正美(1874-1949)の『行の哲学』の研究を進め、紀平の議論における仏教の背景と、自我のあり方について検討を行った。その成果については、本研究所紀要に論文を投稿したほか、十一月十八日に開催された研究発表例会において、「紀平正美『行の哲学』における自我」と題する研究発表を行った(研究発表例会のページを参照)。
高橋研究員
近代における日本仏教の海外布教について、ハワイを中心とした資料調査を行った。
佐藤客員研究員
『三国仏教略史』が近代東アジア仏教に与えた影響について、考察した。
本研究の研究発表として、研究分担者のコプラ・ヴィクター・バブー客員研究員が十月五日より十月十五日まで来日し、十月七日の研究発表会において、インドの村落における宗教の伝統について研究発表を行った。十月九日の公開講義ではインド社会への仏教の影響と仏教への回心について講義を行い、十月十二日の公開講義では、仏教の立場からインドの社会運動に多大な影響を及ぼし、インド社会の差別是正に貢献したB・R・アンベードカル(1891-1956) について講義を行った。この十二日の講義では仏教関係新聞社担当記者の取材を受けるなど、本研究で次年度に行う予定の講座についての検討材料となった。
また、平成三十年一月二十日には韓国の研究者を招き、日本文化の背景にある朝鮮半島の仏教思想をテーマとして、義相、元暁の二人の新羅の僧侶を取り上げ、伝記、思想内容、研究状況についてのシンポジウムを開催した。
以下に、平成三十年一月までの研究調査・学会活動の報告、講演会・シンポジウムの模様の報告を行う。
研究調査
日本印度学仏教学会第六十八回学術大会での発表および資料調査
園田 沙弥佳 奨励研究員
期間 平成二十九年九月一日~九月四日
出張先 花園大学、京都大学附属図書館、文学研究科図書館
九月一日(金)に京都へ出発し、九月二日(土)、三日(日)に京都・花園大学で開催された日本印度学仏教学会第六十八回学術大会に参加した。二日は午前九時からタイムキーパー、記録等、司会補助の業務を行った。また、同日午前十時二十分より第五部会において、「『成就法の花環』Sādhanamālāにおける大寒林明妃成就法」と題し、定刻通り研究発表を行った。質疑応答の時間では質問や新たな課題についての提案があり、非常に有意義であった。その後会員総会に参加し、次年度の開催校が東洋大学であること等の報告を受けた。夜に行われた大会後の研究交流会において、東洋学研究所で現在行われている共同プロジェクトについて研究者と交流した。三日(日)は儀礼等の発表を中心に聴講し、その後清水寺隋求堂等に立ち寄った。
四日(月)は京都大学附属図書館において、京都大学所蔵のネパール写本等の資料調査を行った。また、京都大学文学研究科図書館では、東洋学研究所所属の奨励研究員より依頼があった文献について調査した。その後予定通り京都から帰宅した。
瀬戸内沿岸の地域の社寺における海の守護神崇拝に関する研究調査
菊地 章太 研究員
期間 平成二十九年十二月十三日~十二月十五日
調査地 大願寺(廿日市市宮島町)、厳島神社(廿日市市宮島町)、千光寺(尾道市東土堂町)、福禅寺(福山市鞆町鞆)
十二月十三日(水)七時三十分に出発し、JR常磐線友部駅にて常磐線特急に乗車した。東京駅十時十分発のぞみ23号に乗車し、十四時八分広島駅到着。山陽本線岩国行に乗車し、十四時五十九分宮島口に到着。JR西日本宮島フェリーに乗船し、十五時二十五分宮島港に到着。十五時五十分大願寺(廿日市市宮島町三)を見学した。大願寺には厳島龍神が祀られ、媽祖信仰受容の基盤となる海神崇拝の痕跡を確認できた。十七時宮島錦水館(廿日市市宮島町一一三三)に到着し一泊した。
十二月十四日(木)九時厳島神社(廿日市市宮島町一)を見学。厳島神社では平家による龍神信仰の痕跡を実感できただけでなく、厳島明神の本地が龍女であることを確認でき、海難救済の神格として近世の中国で崇拝されていた観音菩薩との習合を理解することができた。十一時五十五分宮島港からJR西日本宮島フェリーに乗船し、十二時十分宮島口に到着。山陽本線糸崎行から岡山行に乗り換え、十四時二十七分尾道駅に到着。十四時五十分千光寺(尾道市東土堂町十五)を見学した。千光寺は千手千眼観音像を祀っており海上交通の要所ならではの信仰を確認できた。十六時三十二分尾道駅から山陽本線岡山行に乗車し、十六時五十五分福山駅に到着。鞆の浦行路線バスに乗車し、十七時五十分鞆の浦鷗風亭(福山市鞆町鞆一三六)に到着し一泊した。
十二月十五日(金)九時福禅寺(福山市鞆町鞆二)を見学した。鞆の浦は中世において瀬戸内海交通の要所であり、中国の民間信仰が流入する足跡を求めて対潮楼に登った。十一時十二分鞆の浦から福山駅行路線バスに乗車。十一時五十九分福山駅発のぞみ22号に乗車し、十五時三十三分東京駅に到着した。JR常磐線特急に乗車し友部駅に到着し、十八時十分に帰着した。
東洋大学での研究発表と公開講義
コプラ・ヴィクター・バブー 客員研究員
期間 平成二十九年十月四日~十月十五日
場所 東洋大学
本研究の研究分担者として、インドより来日し、東洋大学で研究発表会、および二回の公開講義において発表し、また、日本の研究者や大学生と交流を行った。
十月五日(木)に東京着、東洋大学国際会館にチェックインした。
十月七日(土)十五時より、八号館中二階第二会議室で開催された公開研究発表会において、「地方の村落における宗教の体系と伝統の比較研究―インドと日本―」(英題:"The Comparative Study of Local Village Religious Systems and Traditions: India and Japan")と題して研究発表を行い、質疑応答の時間において議論を交わした。終了後、八号館一階食堂にて開催された研究交流会において、参会者や研究者との交流を行った。
十月九日(月)は、十三時より六号館一階第三会議室にて開催された公開講義において、「インドにおける今日の社会への仏教の影響と仏教への宗教的回心」(英題:"Buddhist Influences on Present Society in India and Religious Conversions Into Buddhism")と題する講義を行った。出席者は約十五名であった。その後、谷地快一所長と面談し、今後のプロジェクトの研究方針について話し合った。
十月十日(火)は、大学にて東洋思想の教員と意見を交わした。
十月十一日(水)は、宮本久義・東洋大学大学院文学研究科客員教授(東洋学研究所客員研究員)の六限の学部授業「現代のインド/インド現代思想B」において、インドにおける自由解放運動について話し、大学生と交流した。
十月十二日(木)十四時四十五分より、六号館一階第三会議室にて開催された公開講義において「新仏教とインドの人々への利益に関するB・R・ アンベードカルの見解」(英題:"Dr. B. R. Ambedkar's Views on Neo Buddhism and Benefits to Indian People")と題する講義を行い、参会者よりレビューを受けた。
十月十三日(金)には東洋大学大学院文学研究科博士後期課程の院生と意見を交わし、十月十四日(土)には研究資料の調査を行った。
そして、十月十五日(日)に帰国の途についた。滞在期間中には、藤井明院生研究員や園田沙弥佳奨励研究員などの研究者と議論を行った。
研究発表会
平成二十九年十月七日
東洋大学白山キャンパス 第二会議室
地方の村落における宗教の体系と伝統の比較研究―インドと日本―
コプラ・ヴィクター・バブー 客員研究員
(インド・アーンドラ大学客員教員)
〔発表要旨〕人々への宗教的影響は、今日において非常に重要な問題である。本発表では、インドの地方レベルでの宗教的な儀礼と体系について取り上げる。なお、インターネット上の関連するホームページを活用して発表を行った。
我が国インドではたくさんの伝統が存在しており、それらには多くの疑問点が存在している。しかしながら、すべての疑問に答えがあるわけではない。
例えばバニ・フェスティバルは、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州の二つの州で祝われる。これはお互いに頭を打ちあう儀礼であり、血が滴るものである。この行為は、神を感心させたい、神を尊敬している証であり、儀式として今日まで続いている。そして神のみならず、先祖を称えるものでもある。彼らは真夜中にお互いの頭を打ちあう。そばにいる者たちも、警察官も、誰も反対しない。なぜなら、それは宗教的な行事だからである。
次に、ナーグ・パンチャミは蛇の祭典として知られている。これは蛇に対してお供え物をするものであり、ヒンドゥー教の祭式であるプージャーが蛇に対して行われる。毒性の高い蛇であるコブラに毎朝祈りをささげる。また、この祭りの期間中は、どんな蛇に近づいても噛まれることはないという。
また、砂漠の地域で知られているラージャスターンでは、パッシュカーが行われる。この期間、ラージャスターンには人々とラクダが集まる。なぜならこの地域では、人が移動するときにラクダを使用する。そのため、この日はラクダを称える日である。そしてまた、ラクダのみならず動物に対しても敬意を表する日でもある。
そして、火の上を歩く行事が主にタミル地方でみられる。これは信じがたく、奇異に思われるかもしれない。しかしこれは、ヒンドゥー教の大切な書物である『マハーバーラタ』にかかれているドラウパティというパンダヴァスの妻が火の上を歩いたことに由来する。夫、家族、社会に対して、自分が今まで行ってきた過ちをふりかえり、悲しみを感じる日であるとともに、敬意を表する日でもある。また、火の上を歩くことで、自分が決意をしたことはどのようなことでも成し遂げられることを証明する日でもある。実際に私はこの行事を目の当たりにしたが、老若男女、実に様々な人が火の上を歩いていた。
そのほか、屋根から幼児を投げる行事や、残飯の上を転がる慣習、動物の結婚式などを例に、インドの宗教的行事を紹介した。
今後の研究方法としては、日本との比較研究に当たって主にアンケート調査を行い、両国における特定の村人との交流を図る。日本において仏教、神道、キリスト教など、地方レベルでの宗教的な伝統を把握し、同時にインドの宗教的な伝統と比較を行う。日本とインドにおいて、宗教的な伝統およびその体系が存在することで、社会がどのような恩恵をこうむっているのか明らかにしたい。
(発表は英語で行われた。本要約は日本語翻訳原稿および当日の発表内容をまとめたものである。)
公開講義
平成二十九年十月九日
東洋大学白山キャンパス 第三会議室
インドにおける今日の社会への仏教の影響と仏教への宗教的回心
コプラ・ヴィクター・バブー 客員研究員
〔講義の概要〕仏教はインドで誕生したが、今日のインドにおいて仏教が存在しているとは言えない。しかしながら、仏教はインドの文化に多大な貢献をもたらし、海外にも影響を及ぼした。本講義では、インドにおける今日の社会への仏教の影響と仏教への宗教的回心について取り上げた。なお、インターネット上の関連するホームページを活用して講義を行った。
インド社会において仏教は現在どういう状況であるのか。もちろん仏教寺院は存在するが、インドでは本格的に仏教が存在しているとは言えない。その一方で、仏教の影響は今もなお根強く生き続けている。例えば、思いやり、非暴力など、仏教はさまざまな良い特質をインドに持ち込んだ。また、仏教はインドの言語の発展にも影響しており、インドの言葉はサンスクリット語から由来している。建築などの美術も同様である。アショーカ王の時代から多数のストゥーパ(仏塔)やチャイティヤ等が建設され、今もなお建造物に対して影響を及ぼしている。また、インドは仏教によって、日本、中国、ベトナム、インドネシアなど、他の国々と接触できた。この点について私は大変強調したい。仏教のおかげでインドと海外が接触し、理解を深めることができ、そして仏教が広まっていったのである。また、インドには多くの菜食主義者が存在し、動物の命を尊重しており、最も初期の仏教のテキストである『スッタニパータ』は大変重要視されている。
前述のように、言語と文学の発展にも仏教は大きく貢献してきた。仏教はパーリ語でそのほとんどが説かれていた。教えをまとめた書物はサンスクリット語であり、これは古くから仏教徒が大きく貢献した言語である。そういった意味では、今もなおインドで現在でも使われている各言語、例えばタミル語、マラヤラム語、テルグ語、グジャラティー語、ヒンディー語に影響しているということを、私たちはけっして軽視することはできない。
また、仏教は単純な宗教であり、宗教として教えに従うにあたってはそれほど難しいものではない。ヒンドゥー教などを考えてみると、体系、習慣、慣習があり、それらを厳しく守らなくてはならないが、仏教は厳格な決まり事というものがヒンドゥー教のようにはない。そういう意味では、インドにおいて今も仏教の教えに従っている人がいると言える。
次に仏教の反カースト制度について述べる。カースト制度はインドで遠い昔からの醜悪な習慣であるが、その状況は悲惨であり、反人道的なものである。なぜなら、地位が高い者もいれば、大変低い者もおり、差別につながる制度だからである。カースト制度が存在しなければ、金銭的、社会的にも、富める者と貧しい者が今ほど顕著に目立たないのではないかと思われる。
インド社会においては、特にダリット(以前は「不可触民者」とみなされていた)の人々が仏教の影響を受けた。仏教は大変教えもわかりやすい、完全な教えであることを信じ、そして、自分たちがダリットであったとしても仏教徒になれることを知り、仏教に回心する人々がいる。前述のように、インドにはほとんど仏教徒が存在しないが、例外として、僧院で生活する僧や尼僧、そして前述の回心したダリットがあげられる。そのほか、インドの現代社会に仏教が与えた影響は、大学の発展、女性の解放、国家の統一など、多大なものである。
あらゆる意味において、仏教はインド社会と文化に多大な影響を及ぼした。それはカースト制度に反して声を上げ、社会内での平和な共存という考えを提唱した。芸術、建築、絵画、彫刻、文学などの分野において、仏教はその特色を残したのである。
(講義は英語で行われた。本要約は日本語翻訳原稿および講義内容の要約である。)
公開講義
平成二十九年十月九日
東洋大学白山キャンパス 第三会議室
新仏教とインドの人々への利益に関するB・R・アンベードカルの見解
コプラ・ヴィクター・バブー 客員研究員
〔講義の概要〕バーバーサーヘーブ・アンベードカル博士(1891-1956)は、マハトマ・ガンディーと同様に、インド国内、また、海外においても知られている。私は特に、博士のスローガンである「教育せよ、立ち上がれ、そして組織しなさい」(EDUCATE, AGITATE, ORGANISE)という言葉に感銘を受け続けている。
アンベードカルはインドで非常に愛され、崇拝されている存在である。町や村で、大衆であっても教育を受けた者であっても、みな彼を神のような存在としている。人間であるアンベードカルを神といえるのかはともかく、彼は自由のために闘い、憲法の父でもあり、理想的な人物として、インド全国的に名前が知れ渡っている。例えば、アンベードカルの銅像が何千、何万と存在し、様々な儀式を行うインドの仏教徒もいる。彼がいなければ仏教徒が存在するのか?とさえ言える。
今回の発表において、インドにおける「新仏教」についてのアンベードカルの見解や、回心した仏教徒がどういう利益を受けることができるのか、また、政府や、国、インド社会が影響を受けた要素について取り上げる。なお、本講義はインターネット上の関連するホームページを活用して講義を行った。
インドにおいて、裕福な者、中流階級、貧しい人々、それぞれがそれぞれの信仰を持っており、そして彼らのほとんどはヒンドゥー教徒である。ダリットはより低いカーストであり、町や村の外で生活している。彼らは町や村の中に入ることは困難であり、寺院で神々に祈ることもほぼ不可能である。アンベートカル自身もダリットであり、仏教に改宗した。その結果、多くのダリットが仏教徒となった。
アンベードカルは、不可触民が平等になるための唯一の方法は仏教であると主張し、ナーグプルで一九五六年十月十四日に公的に改宗した。彼は三つの庇護(仏法僧という三宝への帰依)と五戒を仏教の僧から受け取り、その後、今度は彼が当時三十八万人の信者にそれらを施した。多くの改宗者は自身を"Nava-Bauddha"、すなわち新仏教徒と呼んだ。仏陀なくして仏教は存在しないといえるが、アンベートカルなくして新仏教は存在しなかったであろう。
アンベードカルは伝統的な仏教に多くの革新を導入した。例えば、合理主義の強調である。アンベードカルは、法は神や魂と関係がないと明確に述べている。これは、神と魂がカーストの体系を正当化する概念であると主張する、アンベードカルの信念に根ざしていた。また、彼はサンガをあまり推進しなかった。僧院に集まって学び合うことより、むしろ社会の中で学ぶことを推奨していた。それは、人、家族、社会福祉、そして国のためという考えによるものである。そのほかにも彼は、苦悩は社会的、経済的不平等によってもたらされるといった苦の社会的解釈を行った。
そして、アンベートカルは社会的な改革運動を行った。村の水を飲んではならない、寺に足を踏み入れてはならない、路上を歩いてはいけないというダリットの決まりと闘い、ダリットの権利を考慮にいれた憲法を作らなければならないと考えていた。アンベートカル博士によって、カーストの低いダリットは新しい憲法のなかで仕事へのアクセスが保証された。憲法の条項のもと、新仏教徒のダリットは職の機会を得ることが可能となった。
スローガンの「教育せよ、立ち上がれ、そして組織しなさい」の中で、特に始めの「教育せよ」は大切な考えである。社会における抵抗勢力に対して立ち向かおうといった意味の道徳的原理がアンベートカル博士によってもたらされた。そしてそこには、人々のために社会に貢献せよという考えも含まれている。
(講義は英語で行われた。本要約は日本語翻訳原稿及び講義内容の要約である。)
公開講演会
平成二十九年十二月十六日
『近代艶隠者』の思想的背景
フレデリック・ジラール 客員研究員
(フランス国立極東学院 名誉教授)
〔講演要旨〕貞享三年(一六八六)書肆河内屋善兵衛刊の『近代艶隠者』という著作は、十七世紀に生きた人物の伝記、随想、人生観の記録であり、粗同時代のヨーロッパと比較していえば、ジャンルとしては自由思想 (libre pensée) の哲学小説 (roman philosophique) と呼ぶべきものである。作者については、本文・挿絵ともに、井原西鶴の自筆自画であるとされるが、西鶴の名と花押が示されている序文に「西鷺軒橋泉是を書残しぬ」とあり、西鶴の友人である西鷺仮託の西鶴作品か、あるいは西鶴仮託の西鷺の作品かという議論が広げられているが、結論は西鷺の著作で書写と各巻表紙の目次は西鶴作であり、挿絵は菱川師宣と友信のアトリエの梅林軒風黒であろう。
その内容は、西鷺が五年ぶりに西鶴に再会し、西鷺が大阪を出発して諸国をめぐり、隠逸の人々を訪ねその境涯を書き残したかたちになっている。小説の系統としては、地方の生活を描いているという点で『西鶴諸国話』(一六八五年)等の「紀行物語」の系列や、「懺悔物語」の系列に属している。『近代艶隠者』は純粋な文学の作品というよりも、西鶴の作風を用いた西鶴の弟子西鷺が、師に憧れ、師の姿を追求するつもりで、大抵の場合に、同時代に幕府の権力から外されて社会的に見落とされている奇特な人物達の描写を通じて師のイメージを作り上げようとしている。
江戸時代の有名な評論家、柳亭種彦(一七八三―一八四二)でさえも、『近代艶隠者』が西鶴の真作と断定していた。彼の判断が間違えられた理由は、西鶴自身が艶隠者であったからである。西鶴は出家者の姿をしているが、浄土宗の信仰があったのか、時宗の信徒であったのか、あるいは禅宗であったのかなど、様々な説がある。しかし、彼の周りの俳友、そして『近代艶隠者』の思想的背景を見てみると、老荘思想と難波の歌翁の芸能的解釈の本覚思想と禅宗的な他に例のない⟨自己變生⟩の独創的な考えと懺悔物語の系統からなっている。宗教的な精神よりも幕府から離れた自由主義の思想の持ち主であったといえよう。あまりにも序文が優れていることから、偽作を思わせるこの作品は、名古屋の酒屋問屋と俳人の下里寂照の日記や西鶴と西鷺の書簡とも照り合わして西鶴の本当の面目をあらわにしている。
出家者の袈裟を着ていたため、地方の国々を自由に行脚できた西鷺が、自分の机の前から離れられなかった西鶴に世界の広さを具体的に知らせていたことにより、西鶴は著作三昧に入って多数の出版物を出すことができた。人間の本質を追求し、その姿の多様性をあらわにしたのが西鶴の著作集である。
西鶴の処女作『好色一代男』(一六八二年)は『源氏物語』を意識して町人の世界に当てはめた人間感情を描写したが、その思想背景は師を崇拝していた弟子が書いた『近代艶隠者』によって明確になった。それと同時に、当時の社会を思想的にも歴史的にも照らしている。本書は当時の社会生活、経済的生活を知る上で貴重な歴史的な書物であり、思想的には、道教、仏教、儒教の哲学を多く取り入れ、思想的、歴史的な価値が高く、西鶴の小説、俳諧的世界、思想的世界を理解するためには非常に重要な著作といえる。
シンポジウム
「日本文化の背景となる朝鮮半島の仏教思想 ― 義相と元暁 ―」
平成三十年一月二十日
東洋大学白山キャンパス 六二〇二教室
平成三十年一月二十日東洋大学白山キャンパス六号館二階六二〇二教室にて、公開シンポジウム「日本文化の背景となる朝鮮半島の仏教思想 ―義相と元暁―」を開催した。コンセプトとして、日本の明恵が描いた『華厳絵巻』に登場する義相、元暁の二人の新羅の僧侶について、その伝記、思想内容、研究状況を取り上げた。このシンポジウムでは、第一部パネリストによる発表において、愛宕邦康客員研究員が「清姫に言い寄られた安珍は如何に対応すればよかったのか―新羅義相(湘)善妙伝説の日本的受容とその背景―」、佐藤厚客員研究員が「新羅義相(湘)撰『一乗法界図』の研究状況と新知見」、金天鶴東国大学校HK教授が「元暁の『金剛三昧経論』が日本に与えた影響」、岡本一平客員研究員が「元暁撰『判比量論』の諸問題」と題して発表を行った。第二部パネリストによる討論および参加者からの質疑応答では、発表者がシンポジストとなって討論を行った。発表および討論では、橘川智昭客員研究員が司会を務めた。
まず愛宕邦康客員研究員の「清姫に言い寄られた安珍は如何に対応すればよかったのか―新羅義相(湘)善妙伝説の日本的受容とその背景―」では、日本で普及している安珍と清姫の道成寺説話が、新羅の義湘善妙伝説を根底に日本で展開されたストーリーであることが提示され、道成寺説話と義湘善妙伝説との比較について取り上げられた。これらの二つの物語は、恋慕の対象となった相手が善知識か悪知識かの相違によって派生する、表裏一体のストーリーであるとの見解が示された。また、『道成寺縁起』は熊野詣の啓蒙活動に使用され、足利義昭が披見したと伝えられる道成寺所蔵のものが最も古いとされる。そのほか、全国各地に多数の模本が現存し、独特のアレンジが加えられているという。中には悲劇的な結末を迎えるものや、清姫視点の物語もあり、日本での受容や背景について言及された。
つぎに佐藤厚客員研究員の「新羅義相(湘)撰『一乗法界図』の研究状況と新知見」では、七世紀に活動した華厳宗の祖である新羅の僧侶・義相の生涯と系統、そして義相の重要な著作である『一乗法界図』の概要とその中心思想、および研究状況とその研究の方向性が示された。義相の主著である『一乗法界図』は華厳教学形成史上重要な著作であり、日本の鎌倉時代の華厳宗の明恵にも影響を与えたという。『一乗法界図』とは七言三十句の漢文から成る図印で、『華厳経』の展開から修行者の成仏への流れを表現したものであると述べた。さらに新知見として、『一乗法界図』に因縁と縁起がそれぞれ別に定義づけられており、両者が区別されていることが提示された。
そして金天鶴東国大学校HK教授の「元暁の『金剛三昧経論』が日本に与えた影響」では、『三昧経論』の日本への伝播と受容について提示された。一九五五年に水野弘元氏によって『金剛三昧経』の成立問題が取り上げられ、東アジア撰述経典として論じられてから、『金剛三昧経』研究が活発になったという。日本仏教文献において『三昧経論』の引用が認められているのは真如種子、識説などがあげられ、その中でも真如種子は天台宗と三論宗、識説は天台宗、華厳宗、真言宗によってそれぞれ重要視されたという。目録類を通じてみた『金剛三昧経論』の流伝や引用文献を通じて、日本仏教文献における『金剛三昧経論』の受容傾向について見解が示された。
岡本一平客員研究員の「元暁撰『判比量論』の諸問題」では、元暁の『判比量論』の新出断簡の可能性が高い東京国立博物館所蔵の写本が提示された。今回紹介された断簡が『判比量論』であるか、どのように論証できるかについて言及された。今回取り上げられた東京国立博物館所蔵の断簡と、これまで確認された五種類の『判比量論』写本断簡を比較して書誌検証および内容検証がなされた結果、本写本は第六番目の元暁『判比量論』の写本断簡である可能性が提示された。
以上各氏の発表の後、パネリストによる討論および参加者からの質疑応答が行われた。フロアから華厳宗の役割についての質問があり、新羅は『華厳経』を、中国は『華厳経』と『大乗起信論』を、そして日本では『華厳経』『法華経』『大乗起信論』を重要視することが特徴的であることなど、韓国、中国、日本の比較を通じて、華厳宗の国内外における役割や特色がパネリスト全員によって示された。また、佐藤客員研究員の発表の中で、「身体においての表現」とはどういうものかとの質問がなされた。佐藤客員研究員は回答で、法性は『一乗法界図』の最初にあたるものであり、義相系統の注釈によると、法性には大小が存在し、抽象的で現象から離れたところに存在するのではない、即ち、私たちの身体が法性であることを表現しようとしていた、と示した。そのほかにも元暁の『判比量論』の位置づけや、『釈摩訶衍論』と元暁の関係性等、フロアからの意見も交えて活発な討論が行われた。
以下に各氏の発表要旨を掲載する。
清姫に言い寄られた安珍は如何に対応すればよかったのか
― 新羅義相(湘)善妙伝説の日本的受容とその背景 ―
愛宕 邦康 客員研究員
〔発表要旨〕柳田國男著『日本の伝説』(一九二九)では、昔話が動物のようなもの、伝説が植物のようなものと定義付けられている。昔話は動物の様に移動し、各地で同様の姿を見ることができるが、伝説は植物の様に土着し、各地で異質の成長を遂げるため、全く性質が異なっていることを譬えたものであるらしい。はたして空想の産物である説話が、実在の人物や事物と結合して土着し、信憑性を以って語り伝えられたものを伝説と呼ぶのであれば、まさしく安珍清姫伝説こそ、その典型と言えるのではないだろうか。
元来、安珍清姫伝説は『本朝法華験記』(一〇四〇―一〇四四)、『探要法華験記』(一一五五)、『今昔物語集』(十二世紀半ば)などに採録される仏教説話であったが、熊野詣のテキストともいうべき絵巻『道成寺縁起』が先達による啓蒙活動に利用されたことにより、また、怪異譚としての側面や、そこに描写される女の情念が古典芸能の分野に取り上げられたことにより、各地に様々な安珍清姫伝説を派生させることになる。
安珍の生地とされる福島県白河市萱根根田のケースは、その最たるものと言ってよいだろう。命日とされる旧暦二月二十七日の月遅れに開催される安珍僧供養祭には、県の重要無形民俗文化財に指定される安珍歌念仏踊りが奉納されており、「帰命頂礼安珍の、由来を詳しく尋ぬれば」で始まるその歌詞によれば、安珍は藤原元勝の息子として萱根村に誕生し、十五歳の時より修験僧として全国を巡り、熊野を訪れたのは二十二歳の時であったらしい。これは地域固有のパーソナリティーが誕生し、独自の成長を遂げて行った実例と言ってよい。
ところで筆者は、安珍清姫伝説には原話となるストーリーが存在したと捉えており、『宋高僧伝』巻四に挙げられる入唐新羅僧義湘(六二五―七〇二)と少女善妙の伝説こそがそれであると見ている。たしかに義湘と善妙の伝説が、恋慕の情を拒絶された女性が大龍となって相手を守護する内容であるのに対し、一方の安珍清姫伝説は大蛇となって相手を焼き殺してしまうストーリーである。しかし、元来の安珍清姫伝説にはさらに続きがある。道成寺老僧の『法華経』供養によって安珍と清姫が善処へ転生する顛末がそれである。すなわち、この義湘善妙伝説と安珍清姫伝説は、恋慕の対象となった相手が善知識か悪知識の相違によって派生する表裏一体のストーリーであり、善知識との正因和合の重要性をストレートに表現したものか、悪知識との出会いをアンチテーゼとして配し、弁証法的に表現したものかの差異に過ぎないというのが筆者の見解である。
本発表では十一枚のパネルを使用し、新羅の義湘善妙伝説が我が国において如何に受容され、展開して行ったのかについてを、特に安珍の位置付けに着目することによって検証した。
新羅義相(湘)撰『一乗法界図』の研究状況と新知見
佐藤 厚 客員研究員
〔発表要旨〕七世紀に活動した新羅の僧侶・義相(湘)は、朝鮮半島の華厳宗の祖である。義相は唐で華厳宗第二祖の智儼に師事し、総章元年(六六八)に『一乗法界図』(以下『法界図』)を著わした。『法界図』は義相系華厳の重要なテキストとなり研究が重ねられた。同時に華厳宗を大成した法蔵にも影響を与えた。さらには日本の鎌倉時代の華厳宗の明恵の思想にも影響を与えている。
『法界図』は、七言三十句の文を独特の形に配置した図印と、それに対する注釈の二つの部分からなる。この中、注釈は三つに分かれる。第一には図印に依る意味として、釈迦仏の教法が『華厳経』所依の三昧である海印三昧から現れることを表現すると説明する。第二には文字の配列の意味などが説明されるが、重要な点は、因果すなわち発心と悟りとの関係において、三乗の教えではそれを別に見るが、一乗の教えではそれが同一であることを表現しているとする。すなわち因果が別でありながら実は同じであることを示すことが図印で表現した意味である。さらに因果を始め、二つに分別する考えを否定し、一であり無分別の世界を提示する。そしてこれを「中道」とも表現する。
『法界図』の中心思想について、韓国では華厳教学の重要な思想である性起思想であるとする見方が主流である。しかし筆者は『法界図』自体に性起という言葉は表れていないことから、それには疑問を持つ。それよりも前述した、あることを「分けること(分別)」と「分けないこと(無分別)」の構図が中心であると考える。特に分けないことを中道という言葉で繰返し説明する。よってこれが『法界図』の中心概念であると過去に述べたことがある。この見解自体は現在も変わらないが、問題は、思想史的にこの中道という言葉を選択した意味が謎である。三論宗の思想との関連を予想するが、まだよくわかっていない。
今回提示したい「知見」は、『法界図』に出る因縁と縁起という概念についてである。両者は仏教の基本的な概念であり、一般に区別して用いることはない。しかし『法界図』では、因縁とは世俗諦であり因と縁を別に見て無自性を悟ること、縁起とは順性無分別であり相即相融することと定義して両者を区別する。そして因縁から縁起への移行を説く。従来、この部分は注目されてこなかったが、今後はこの点を検討し、義相の世界観をより具体的に把握するとともに思想史的な特徴を解明していきたい。
元暁の『金剛三昧経論』が日本に与えた影響
金 天鶴 氏
〈東国大学校HK教授〉
〔発表要旨〕元暁の『金剛三昧経論』(以下『三昧経論』と略す)については主に韓国から研究が蓄積されている。翻訳書も数種類があり、研究論文も相当の量が存在する。しかし、元暁の『三昧経論』について学問的に関心を惹き起こした契機は、一九五五年の水野弘元の研究によって『金剛三昧経』の成立問題が取り上げられてからである。即ち、既存の見解では『金剛三昧経』を真経と認識していたが、この論文で東アジア撰述経典として論じられてから、『金剛三昧経』と関連した研究が活発になったのである。
それ以後、『金剛三昧経』は『宋高僧伝』の説話と禅宗の 「二入四行論」との前後問題が論じられながら、新羅撰述説まで提起された状況である。これまでの『三昧経論』に関する研究は、その論理構造、禅宗との関連、般若空観の解明に対する検討などが多数発表されている。
しかし、未だ『三昧経論』の初期の伝播状況と東アジアへの伝播についての研究は十分ではないと判断して、以前『三昧経論』の韓国と中国への伝播状況については口頭発表したことがある。よって本発表では『三昧経論』の日本への伝播と受容について検討した。
『三昧経論』は、新羅元暁の著述であるが、韓半島における『三昧経論』の流伝は、高麗時代の義天の目録と一二四四年に高麗大蔵経の補遺版として版木が作られたことがあるが、実際に活用されるのは、1923年まで待たなければならない。なお、日本では七四三年から七六八年まで二十六回ほど『三昧経論』が筆写のため記録されている。そして、元暁の『三昧経論』は奈良時代の淡海三船と鎌倉の明恵に重視され、註釈書まで著わされたが、その引用は、元暁の『起信論疏』・『起信論別記』に比べものにならないほど引用頻度は少ない。
現在、引用が確認できるのは、天台宗六回、三論宗一回、華厳宗五回、そして真言宗四回で総計一六回程である。天台宗では最澄から『三昧経論』の真如種子に注目し、安然から元暁の識説が注目される。三論宗円宗の引用は真如種子をめぐって天台宗と重なる。華厳宗においては明恵から『三昧経論』に興味を示しているが、文献からの引用は凝然にはじめて確認される。真言宗では鎌倉時代の頼瑜の時代から引用がみえる。
日本仏教文献に『三昧経論』が引用されているテーマは、真如種子、識説、一闡提説、階位説、金剛の意味と三昧説にまとめられる。その中、真如種子については天台宗と三論宗で興味を示し、八識と九識とが絡む識説については、『金剛三昧経』という経典の権威を得て、その註釈である元暁の説が天台宗、華厳宗、真言宗から重んじられたことがいえる。また、一闡提を別と通をもって説明するのは元暁だけの独特な解説であったが、その区分が華厳宗と真言宗に受容されていたことがわかる。
『三昧経論』が一味観行を中心テーマとしていることは、先行研究ですでに指摘されている。その中、中国では宗密から『三昧経論』を引用し、延寿がもっとも多く引用するが、彼らは『三昧経論』の一味、一心という概念に関心を示した。それに比べて日本では識、一闡提などに観と行の面に関心がある。要するに一味より、一味に迫っていくための観と行という実践に興味を示していると言えるのではないかと考えられる。その違いは、中国では禅僧が『三昧経論』に興味を示した反面、日本では教学僧、学僧が『三昧経論』に興味を示したから生じていると言えるのではないかと思う次第である。
元暁撰『判比量論』の諸問題
岡本 一平 客員研究員
〔発表要旨〕元暁(六一七―六八六)は膨大な著作を執筆したことで有名ありながら、その多くは散逸している。従って、元暁の著作の復元作業は、彼の思想の全貌を知る上で必須の作業と言える。『判比量論』も散逸した著作の一つであり、現在、後世に引用された逸文、そして唯一種類の写本の断簡群の蒐集と調査により復元が続けられている。
二〇一七年六月、神奈川県立金沢文庫と東国大学仏教文化研究院HK研究団の共同主催によって、「アンニョンハセヨ!元暁法師」という展覧会が開催され、その際に、日本に残された『判比量論』の写本断簡の多くが展示された(展示=写本①④⑤、道津綾乃編集・展示図録収録=①―⑤)。その際に、新出の写本断簡(写本⑤梅渓旧蔵本)が初めて公開された。私の把握している範囲は以下の写本六種である。
写本①大谷本…所蔵者:大谷大学博物館所蔵
写本②三井本…所蔵者:三井記念館所蔵
写本③五島本…所蔵者:五島美術館所蔵
写本④個人蔵本…所蔵者:某個人所蔵
写本⑤梅渓旧蔵本…所蔵者:梅渓旧蔵本、現所有者は別人
写本⑥東博本…所蔵者:東京国立博物館所蔵
この内、すでに私は梅渓旧蔵本(写本⑤)を新しい『判比量論』の写本断簡と論証した(「新出資料 梅渓旧蔵本・元暁撰『判比量論』断簡について」、資料集『元暁と新羅仏教写本』所収、二〇一七年)。この小論で扱うのは、その時に存在は知っていたものの、扱うことができなかった『判比量論』と推定される東京国立博物館所蔵本(写本⑥)に関する現時点でも報告である(法量は未調査、公開されている画像データに基づく)。
《東京国立博物館本の書誌》
略号「東博本」:『古筆手鑑』「毫戰」裏04(B-3327)
別紙①「弘法大師 量故 墨印」、別紙②「東寺切□□□□」
文字数:一行二十字(二行目は挿入含め二十一字)、五行、合計百一字
書体:草書体
界線:有
⑴別紙①②からわかること。「弘法大師」筆、そして「東寺切」という伝承は、他の『判比量論』断簡と同一の形式であり、東博本を『判比量論』と見做すことを妨げない(書誌検証①)。⑵文字数からわかること。一行二〇字の文字数は、他の『判比量論』(およそ一九字か二〇字)と同一である(書誌検証②)。⑶書体も独特の草書体であり、他の写本と同じように見える(書誌検証③)。⑷界線の様式は、天地、幅ともに他の写本と同じように見える(書誌検証④)。以上、書誌的な検証をしたが、東博本は①―⑤の他の写本と同じものから、裁断された一部と推定される。
東博本は、現在知られている『判比量論』の逸文に該当しないので、逸文と比較して『判比量論』と特定することはできない。また全五行中、一行目「如理門論」から三行目「五轉成故」と、四行目「一事有多」から五行目「表示非餘」までは、玄奘訳・大域龍(ディクナーガ)造『因明正理門論本』(大正三二、一中、三下)の引用であり、この部分も作者を特定する根拠にはならない。そこで「自悟比量」の語に注目してみた。東博本において、「自悟比量」は「悟他」と一組に使用される(一般に「自比量」「他比量」に相当)。「悟他」は『因明正理門論本』の「悟他比量」に依拠する語である(大正三二、三下)。「自悟比量」は訳語としては確認できず、おそらく『因明正理門論本』の「自開悟…」から作られた造語と思われる(大正三二、三中)。「自悟比量」の用例は、中国の一例=慧沼『因明入正理論疏』(新纂続蔵五三、七九三下)、そして新羅の一例=元暁『判比量論』の(大谷本・第十三番、新纂続蔵五三、九五三上)である。この少ない珍しい用例から考えて、東博本が元暁の『判比量論』の第六番目の断簡である可能性は高い(内容検証①)。
しかし、東博本は逸文上の確認が出来ない写本断簡なので、東京国立博文館に正式な調査の依頼をして、法量の上からも論証したい(発表に際し、翻刻は終えている。しかし、正式な許可を申請した上で公表したい)。