世界の諸地域における仏教の哲学的社会学的研究
世界の諸地域における仏教の哲学的社会学的研究
本研究は東洋大学附置研究所の所長が研究代表者となって実施する「井上円了記念研究助成・大型研究特別支援助成」による研究プロジェクトである。
東洋大学の前身は「哲学館」であり、学祖、井上円了による「諸学の基礎は哲学にあり」という理念は、今日も大学のバックボーンとなっている。学祖以来、仏教研究は東洋大学の研究活動を代表するものの一つであったが、その特徴は宗門立の大学とは異なり、完全に客観的な立場でその思想を探求してきたところにある。東洋学研究所は、こうした東洋大学の建学の精神と伝統を現代に生かして、更にそれを発展させるために設立された研究所であり、今回、この存在意義を発揮すべく、本プロジェクトを発案した。
仏教は普遍宗教であるがために、それを生み出したインド文化圏を超えて世界に広まっていった。そして、世界の各地に受け入れられ、社会に大きな影響を与えるとともに、仏教自体もその社会の影響を受けて変化していった。その結果、現在、世界各地で「仏教」が存続し、場合によって非常に強い影響力を持ち続けているが、その思想や社会との関係等において非常に多くの相違を認めることができる。本研究の第一の目的は、各地域におけるその変化の過程を社会との関係のもとに明らかにし、また、現在、仏教が社会においていかなる機能を果たしているかを明らかにすることであり、それらを相互に比較検討することで、各地域の社会の特性を明らかにすることである。
本研究プロジェクトは、「仏教」をキーワードとして、それを受け入れた諸地域において、仏教と社会の間にいかなる相互関係が生じ、現在、それがいかなる状態にあるかを探求することで、各地域の社会や文化の特性と各地域間の社会的文化的相違を明らかにしようとする試みであるが、このような研究は、これまでに行われたことがなく、それ自体、極めて高い学術的意義を持つものと言える。
本プロジェクトの構成メンバーは以下のとおりである。
研究代表者 役割分担
谷地快一 研究所長 研究総括、俳諧と佛教
研究分担者 役割分担
伊吹 敦 研究員 中国思想史における禅宗成立の意義
渡辺章悟 研究員 大乗仏教の成立と仏典翻訳の意義
山口しのぶ 研究員 ネパール・インドネシアの仏教儀礼とその
意味
原田香織 研究員 日本文化と仏教
菊地章太 研究員 仏教と中国思想
岩井昌悟 研究員 初期仏教・上座部仏教と社会
高橋典史 研究員 日本仏教の海外布教
水谷香奈 研究員 浄土思想の東アジア的展開
橘川智昭 客員研究員 韓国仏教の特質
佐藤 厚 客員研究員 東アジアの近代化と仏教
研究計画・方法
本研究は、以下の三つの研究ユニットを置く。
第1ユニット:東アジア地域を対象に近世以前において仏教が社会
に与えた影響を中心に研究する。
構成員:
伊吹 敦 (分担テーマ:中国思想史における禅宗成立の意義)
原田香織 (分担テーマ:日本文化と仏教)
谷地快一 (分担テーマ:俳諧と仏教)
菊地章太 (分担テーマ:仏教と中国思想)
橘川智昭 (分担テーマ:韓国仏教の特質)
林 香奈 (分担テーマ:中国・日本の浄土思想)
第2ユニット:中央・南アジア地域を対象に近世以前において仏教が社会に与えた影響を中心に研究する。
構成員:
渡辺章悟 (分担テーマ:大乗仏教の成立と仏典翻訳の意義)
山口しのぶ (分担テーマ:ネパール・インドネシアの仏教儀礼と
その意味)
岩井昌悟 (分担テーマ:初期仏教・上座部仏教と社会)
第3ユニット:仏教が近代化の中で直面した問題や現代社会における仏教の役割を中心に研究する。
構成員:
高橋典史 (分担テーマ:欧米における仏教の受容)
佐藤 厚 (分担テーマ:東アジアの近代化と仏教)
三つの研究ユニットは、それぞれに独自の研究領域をもちつつ、相互に関連する部分を有しており、情報交換を行いつつ研究を行う必要がある。そこで、毎年、三つの研究ユニットを横断する形で、以下のような共通の研究重点項目を設けて研究を推進し、相互の交流を図る。
平成二十七年度:
世界の各地域において仏教は社会にいかなる影響を与えたか?
平成二十八年度:
世界の各地域において仏教はいかなる変化を蒙ったか?
各ユニットでは、それぞれに文献資料に基づいて研究を行うだけでなく、実際に研究対象とする地域を訪れて文献資料の収集や当地の研究者・僧侶等との交流を通じた情報の収集を行い、ユニットごとの研究会や公開シンポジウムにおける討論、情報の共有等を通じて研究の進展を図ってゆくとともに、各研究者は各ユニットの枠を超えて研究に参与する。
平成二十八年度の研究については、現地調査では、八月に渡辺章悟研究員が盛岡・八戸・青森で絵解き心経の資料調査及び恐山の信仰調査を行った。渡辺研究員は上記第2ユニットの構成員であるが、上述の平成二十八年度の研究重点項目において、般若経の受容のあり方を探求した。また、学会活動では、平成二十八年六月二十五日・二十六日に中国人民大学において「仏教と伝統文化思想」のテーマで「第五回中・日・韓国際仏教学術大会」が開催され、菊地章太研究員が発表し、伊吹敦研究員が日本代表として、佐藤厚客員研究員が通訳として参加した。国内では伊吹敦研究員が花園大学で開催された国際シンポジウム「『臨済録』国際学会」に、九月には、水谷香奈研究員が日本佛教学会での発表を行い、比叡山近辺での神仏習合に関する調査を行った。
次に、講演会・シンポジウムでは、五月二十八日に「南アジアにおける仏教と社会」をテーマとして公開講演会を開催し、山口しのぶ研究員が「ネパール仏教の過去・現在・未来」と題する講演を行い、インド・アーンドラ大学のコプラ・ヴィクター・パブー客員教員による「マハトマ・ガンディーの仏教教育と哲学の理念、およびその今日的評価」という講演が行われた。バブー氏は、平成二十八年十月より本研究所の客員研究員となっている。また、十一月十二日に開催された公開講演会では、中国人民大学仏教与宗教学理論研究所の張文良教授による「現代中国における仏教と仏教研究」と題する講演が行われた。そして、一月二十一日に、「初期禅宗史研究の現在 ―柳田聖山を超えて―」というテーマでシンポジウムが開催され、石井修道・駒澤大学名誉教授の「久嚮聖山」と題する講演、講演の後に齋藤智寛・東北大学准教授、石野幹昌氏、大竹晋氏、伊吹敦研究員の研究発表と討論が行われた。
以下に、平成二十九年二月までの研究調査・学会活動の報告、講演会・シンポジウムの模様の報告を行う。
研究調査
絵解き心経の資料調査及び恐山の信仰調査
渡辺 章悟 研究員
期間 平成二十八年八月五日~八月八日
調査地 大慈寺、岩手県立図書館、法運寺、常福院、恐山(青森県)、青森県立郷土館
八月五日(金)
高崎駅八時三十八分発の新幹線で、大宮を経由して盛岡駅に十一時二十一分に到着。盛岡駅でレンタカーを借用し、盛岡県立図書館に行き、絵心経の調査を行った。貴重文献書庫に所蔵されている田山系の絵心経の経本二冊を閲覧、一冊は「めくらもの」といわれる一群の文献群に初めて光を当てた郷土史家・新渡戸仙岳寄贈のものであることが判明した。この資料のデータ化を行う許可を得て、撮影を行うことが出来た。しかし、そのために午後のほとんどの時間を費やし、田山町役場までは足を伸ばすことが出来なかった。ただし、絵心経の資料を所蔵していると言われる八幡秀男氏の住所は調査することができた。この日は岩手県岩手郡雫石町泊。
八月六日(土)
盛岡てがみ館と大慈寺に立ち寄り、文献の複写依頼や絵心経の研究者で盛岡系絵心経を復刻した新渡戸仙岳の記念碑の写真を撮影した。十一時にレンタカーを返却し、盛岡から新幹線で八戸に向かった。八戸からは時間の都合上、タクシーに乗車して青森県上北郡おいらせ町の法運寺に向かう。なかなか辺鄙なところで、強烈な暑さの中の移動だった。この寺でかつては「いたこまつり」が行われていたという。
法運寺ではご家族の方に歓待していただき、法運寺版と呼ばれる絵心経の来歴を聞き、さらに写本の撮影を行うことができた。タクシーで下田駅に向かい、電車を乗り継ぎ「青い森鉄道」の下北駅に到着。下北駅でタクシーに乗車し、恐山に向かう。曹洞宗の寺ではあるが、独特の冥界信仰を実際に体感した。また「いたこ」の根拠地としても知られるため、地元の方に現況を尋ねるなどしてから宿舎に向かう。この日は青森県むつ市泊。
八月七日(日)
早朝宿舎の送迎車に乗ることが出来、下北駅から青森駅に向かう。交通が不便で、乗り継ぎのため野辺地駅で長時間待たなければならなかったが、十三時頃に青森着。その後、青森県立郷土館に行き、所蔵している絵心経の調査を行った。学芸員の方に協力していただき、資料のデータ撮影を依頼することが出来た。これはこの資料の初めての調査であり、郷土館の方と協力して研究を進めることになった。最後に真言宗智山派の常福院に立ち寄り、住職・副住職の方に横内弾正をはじめ、津軽藩の歴史にかかわる話を聞く機会を持てた。この日は青森県青森市泊。
八月八日(月)
少しゆっくり宿舎を出て、青森から大宮経由で夕刻に自宅に帰還。
説明 写真①②③は岩手県立図書館蔵の折本・田山系絵心経
① の経本の題は「般はん若にゃ〔の面〕芯しん経きょう(般若心経) 縄な ん麩ふ (南部)田た 山やま帆ほ ん(田山本)」
② は田山系絵心経(めくら心経)の全文
絵解きの詳細は、拙著『絵解き般若心経―般若心経の文化的研究』(ノンブル社、2012年)
参照② ①
説明 ③は田山本めくら心経の最後の普廻向「願げん以に此す功くんて徳 普ふ 及きゅう於お 一いしい切 我ごもに(吾)等與衆しゅんさ生
皆かい共きゅう成しん佛ふ 道どう 十じ方ほ三さん世しい 一い切し諸い仏ふ 諸し 尊そん菩ぼ薩さ摩も訶こ薩さ 摩も訶こ般ほ
若じゃ波ほ
羅ろ
蜜み
」とある。経文の最後
に、「王〔おう〕将しょう輪わ 重じゅう箱〔はこ〕二に
鼠ね
ん(昭和十二年) 蚊分銅杖? 帆ほ んも九く (本ほん牧もく)香こ
九く
(刻こく)」とある。
本牧とは盛岡市仙北町の第十九世住職牟田亮庵のこと。牟田は不慮の死を遂げた弟子の菩提を
弔うため、自らこの田山本めくら経を復刻、印行した。
写真④⑤⑥は青森県おいらせ町の法運寺版絵心経。④表装された法運寺版絵心経
④ ③
204
⑥ ⑤
説明 ⑤は題目の「釜まか般はん若にゃ腹はら箕みの田た 神しん鏡きょう」。以下、「鐶
かん
柱じ
(琴柱)采ざい砲ほう札さつ行ぎょう司じ ん」と続く。
⑥法運寺版の最後の部分。以下には本版独自の図案を記す。[呪じゅ]は舞田屋版(舞)では重箱(じゅうばこ)が、法運寺版(法)では数じゅ〔珠ず 〕。[ぎゃ]は(舞)ではサルが叫ぶ図であるが、(法)では蛙の図案。[ぼじ 菩提]は(舞)では坊主頭、(法)では帆に濁点(ぼ)と乳ち (ち)。[か]は(舞)では三匹の蚊、(法)では亀。なお、同類の図表を使うが、内容が異なる幾つかの例として、僧侶であらわす[そ]、輪であらわす[わ]等が指摘できる。
説明 写真⑦⑧⑨は青森県立郷土館蔵の巻子本絵心経。調査の結果、このめくら心経は、法運寺版であることが判明した。法運寺版(④⑤⑥)は盛岡・舞田屋版から作られたもの。⑥で述べたように、舞田屋版と法運寺版の両者はよく似てはいるが、細かい点で図案が異なる。法運寺には木版の原板が保存されており、青森郷土館のものはおそらく近年に法運寺版の版木から印刷されたものであろう。この青森郷土館の巻子本絵心経は紙質も新しい。
⑧ ⑦
⑨
説明 ⑨本経の最後の呪の部分(法運寺版と同じ)。
後ろから6 行以下。背せ
鶴つ
般はん若にゃ腹はら箕み
田た
珠じゅ(説般若波羅蜜多咒) 束そく背せ
鶴つ
珠じゅ輪わ
鶴つ
(即説咒曰)蛙ぎゃ手て 蛙ぎゃ手て 腹はら蛙ぎゃ
手て
(羯諦羯諦波羅羯諦)腹はら僧そう蛙ぎゃ手て (波羅僧羯諦)帆ほ
乳ち
粗そ
(朶)輪わ
亀か
(菩提薩婆訶) 般はん若にゃ神しん鏡きょう(般若心
経)
学会活動
国際シンポジウム「『臨済録』国際学会」への参加
伊吹 敦 研究員
期間 平成二十七年五月十二日~五月十五日
場所 花園大学
五月十二日(木)、五時間目の授業を終えた後、大学から直接、東京駅に向かい、新幹線で京都まで行き、午後九時三十分頃、京都市左京区南禅寺福地町の南禅会館に到着した。南禅会館にて宿泊。
続く十三日(金)は、朝食の後『臨済録』国際学会の会場となる花園大学に移動。九時から開会式に続き、葛兆光先生の基調講演を聞いた。昼食の後、
研究発表1「臨済禅師と『臨済録』」となったが、最初の京都大学名誉教授の荒牧先生に続いて私が発表を行った。花園大学の衣川先生から質問を頂いた。その後、
研究発表2「『臨済録』テキストと翻訳」を聞いた後、花園会館に移り、花園会館にて宿泊。 続く十四日(土)も、朝食の後花園大学に移り、午前は
研究発表3「臨済禅の思想と歴史」、午後は
研究発表4「日本における臨済禅」、
研究発表5「東アジアにおける臨済禅」を聞いた。東北大学の斎藤先生、新潟大学の土屋先生、国際日本文化研究センター名誉教授の末木先生の発表に対して質問を行った。閉会式の後、花園会館に戻り、レセプションとなって色々な先生と交流を持てた。十三日と同じく花園会館にて宿泊。
最後の十五日(日)は、朝食の後、発表者一同、妙心寺内の霊雲院に行き、妙心寺派館長にお目にかかった。普段は絶対に入れない場所を見ることができ幸運であった。その後、天龍寺を参観して、昼食後花園会館に荷物を取りに戻り、そのまま京都駅に向かった。そして予定通りの新幹線に乗って帰京した。
学会活動・調査活動
日本佛教学会での発表および比叡山近辺での神仏習合に関する調査
水谷 香奈 研究員
期間 平成二十八年九月六日~九月八日
場所 相愛大学、三井寺、日吉大社、西教寺
相愛大学(大阪)で開催される日本佛教学会二〇一六年度学術大会(第八十六回大会)に発表者として参加するため、九月六日から七日にかけて大阪に出張した。
発表準備に時間がかかったため、五日から大阪に入る予定だったが一日延期し、六日夜に相愛大学に近い大阪ジョイテルホテルに宿泊した。
七日は午前から学術大会に参加し、第8セクションにおいて「慈恩大師基の教学における人間観」との題目で発表を行い、五姓各別説を中心とした唯識教学の人間観とその解釈について述べた。
コメンテーターの早島理先生や、北海道大学の藤井教公先生からご質問等をいただき、学術大会終了後には数名の若手研究者とも意見交換をした。その後、滋賀県に移動し、七日夜は三井寺に近い東横イン京都琵琶湖大津に宿泊した。
八日は午前十時から三井寺を訪問し、国宝である金堂や各種仏像、文化財収蔵庫などを拝観して、三井寺の宝物や歴史を解説する資料を購入した。
その後、比叡山延暦寺と関わりが深く、山王神道の中心でもある日吉大社や、天台浄土教の拠点の一つである西教寺も訪問し、神仏習合に関する資料などを購入した。
調査終了後、予定通りに東京に戻った。
学会活動
第五回中・日・韓国際仏教学術大会への参加
伊吹 敦 研究員
期間 平成二十八年六月二十四日~六月二十七日
場所 中国・北京 人民大学
六月二十四日は、早朝に家を出、羽田空港に向かった。予定通り、離陸の二時間前に空港に着き、搭乗手続きをしている時にライフデザイン学部の菊地章太先生に偶然出くわし、その後、一緒に出国審査を行った。二人で搭乗口で待機している時に文学部非常勤講師の佐藤厚先生と一緒になって、三人で全日空の飛行機に乗り込んだ。
ほぼ予定通り北京の首都空港に着くと、人民大学の張文良先生が迎えに来てくれており、一足早くに日本航空で到着していた東京大学のチャールズ・ミュラー先生や立教大学の原克昭先生とともにマイクロバスで人民大学のそばのホテル、燕山大酒店に向かった。ホテルでは創価大学の菅野博史先生と合流し、一休みしてから、韓国から参加した先生方と一緒に歓迎会に臨んだ。大学内のレストランで二時間ほど歓待を受けた後、その日はホテルに戻り、明日に備えた。
六月二十五日は、急いでホテルで朝食を終えると、皆で徒歩で会場となった人民大学内の逸夫楼に向かい、時間通り、九時から開会式に臨み、日本からの参加者を代表して挨拶を行った。その後は、昼食と休憩とを挟んで、一日中、シンポジウムに加わった。
六月二十六日も、一日中、シンポジウムに参加したが、日本側代表としての職務としては、昼食の後、中国側、韓国側の代表者と、この学術大会の今後について突っ込んだ話し合いを行った。また、閉会式では、日本からの参加者を代表して挨拶を述べた。ミュラー先生はどうしても避けられない仕事があると言うことで、二十六日の朝、北京を発った。
六月二十七日は、朝、ゆっくりと起き、朝食を摂った後、正午過ぎに人民大学が用意したマイクロバスでホテルを発った。菊地先生と佐藤先生、菅野先生が同行したが、原先生は知り合いの先生との予定があるとのことで別行動であった。予定通りの時刻に飛行場に着いて搭乗手続きと出国審査を終え、飛行機に乗り込んだものの、積乱雲の影響ということで、三時間近くも離陸を待たされたため、羽田に着いたのは午後十時、家に着いたのは十一時半となってしまった。
学会活動
第五回中・日・韓国際仏教学術大会への参加
佐藤 厚 客員研究員
期間 平成二十八年六月二十四日~六月二十七日
場所 中国・北京 人民大学
◆日程および概要
六月二十四日(金)九時二十五分に東京(羽田空港)を出発。飛行機は全日空NH961便。北京に十二時二十分に到着。人民大学の方が空港まで迎えに来てくれて、マイクロバスでホテル「燕山大酒店」に移動。十八時より人民大学構内の食堂で夕食。
二十五日(土)八時三十分から九時の間に会議参加者の入場。九時から九時三十分まで開幕式。まず中国人民大学の仏教と宗教学理論研究所所長・張風雷教授の歓迎の言葉があり、続いて日本東洋大学の伊吹敦教授の挨拶、韓国金剛大学仏教文化研究所所長の金成哲教授の挨拶があった。私は伊吹教授の日本語を韓国語に、金成哲教授の韓国語を日本語に通訳した。九時三十分から十時まで記念撮影と休憩。
十時から第一発表。中国・中国計量学院の韓朝忠教授が「近代華厳教学の発展」という題目で発表を行い、寧波大学人文学院張凱副教授が討論人を務めた。
十一時から第二発表。日本・東洋大学の菊地章太教授が「民間信仰と仏教の融合―東アジアにおける媽祖信仰の展開をたどる」という題目で発表を行い、中国人民大学哲学院の曹南来副教授が討論人を務めた。
十二時から十四時まで昼食、昼休み。
十四時から第三発表。韓国・金剛大学の金知研教授が「巫俗信仰に現れた十王」という題目で発表を行い、中国社会科学院世界宗教研究所の周広栄教授が討論人を務めた。私は応答文と質疑応答の通訳を務めた。
十五時十分から第四発表。中国・中国社会科学院の紀華伝教授が「中国仏教制度とその変遷―僧制を中心として」という題目で発表を行い、中国人民大学哲学院の温金玉教授が討論人を務めた。
十六時二十分から第五発表。日本・東京大学のA. Charles MULLER教授が「インド仏教の中国化における体用論の出現―その概要を論ず」という題目で発表を行い、討論人を日本創価大学文学部の菅野博史教授が務めた。私は応答文と質疑応答の通訳を務めた。
十八時より人民大学構内の食堂で晩餐が行われた。
二十六日(日)
八時五十分から第一発表。韓国・金剛大学の崔琮錫教授が「弥勒信仰の新羅的変容―竜神、花郎と弥勒信仰」という題目で発表を行った。討論人は中国人民大学哲学院の張雪松副教授が務めた。私は応答文と質疑応答の通訳を務めた。
十時ら第二発表。中国・中国人民大学の惟善副教授が「贛南羅祖教の神々の図から見た民間での展開における仏陀の中国化」という題目で発表を行い、中国国家博物館の李翎教授が討論人を務めた。
十一時十分から第三発表。日本・立教大学の原克昭助教が「異神の系譜―越境する神々と日本仏教の位相」という題目で発表を行った。中国社会科学院世界宗教研究所の張総教授が討論人を務めた。私は応答文と質疑応答の通訳を務めた。
十二時十分から昼食、昼休み
十四時から第四発表。韓国・金剛大学の金星順教授が「韓国の念仏結社に現れる修行法の変容」という題目で発表を行った。中央民族大学哲学宗教学院の謝路軍教授が討論人を務めた。私は応答文と質疑応答の通訳を務めた。
十五時十分から第五発表。中国・中国人民大学の侯広信博士が「《提謂波利経》における儒家思想」という題目で発表を行った。中国政法大学人文学院副院長の俞学明教授が討論人を務めた。
十六時二十分から十七時まで閉幕式が行われた。私は日本語と韓国語の間の通訳を務めた。十七時三十分より人民大学構内の食堂で晩餐が行われた。
二十七日(月)
十八時三十分に北京空港を出発。航空機は全日空NH962便。東京(羽田空港)に二十二時に到着した。
◆成果
この三力国仏教学術会議は今回で五回目を迎え、人的交流も深まり、それにつれて議論自体も活発に行われるようになってきた。これは日本だけでなく国際的な仏教学研究にとって非常に大きな成果であると考えられる。とくに今回は仏教と民間信仰がテーマであり、これは個人あるいは一つの国だけで議論を行うには幅が広すぎるテーマである。これを三力国の研究者が発表し、討論を行うことができたことは、このテーマについて今後研究する場合の重要な先行研究になると考えられる。
学会活動
第五回中・日・韓国際仏教学術大会への参加と研究発表
菊地 章太 研究員
期間 平成二十八年六月二十三日~六月二十七日
場所 中国・北京 人民大学
六月二十五日(土)中国人民大学仏教与宗教学理論研究所にて第五届日中韓仏教学術大会開会式に出席。研究発表(中国語・韓国語通訳付)を行なった。
研究発表の題目は「民間信仰と仏教の融合―東アジアにおける媽祖信仰の拡大をたどる」である。今回の学術会議のテーマは「仏教と伝統思想」であり、本発表は中国近世の媽祖信仰に焦点をあて、中国の民間信仰の空間的広がりと諸宗教との融合の軌跡をたどった。宋代の南中国の一地方における民間の信仰から始まった媽祖崇拝が、国家祭祀の対象に格上げされ、次の元代にはまず観音信仰と融合し、海に生きる人々の守護神として定着した。明代には道教の神統譜に組み込まれ、独立した経典が作られるまでになる。国家祭祀はさらに進んだが、民間信仰は衰えることなく、むしろますます盛んになっていく経過を明らかにした。さらに本発表において課題として提示したのは、朝鮮半島への媽祖崇拝の伝播の可能性である。その痕跡はほとんど知られていないが、民間信仰と諸宗教との融合という文脈で捉えることで解明の手がかりを模索した。ついで中国人民大学副教授曹南来氏のコメントに対し応答し、同大学教授張雪松氏からの質疑に応答した。
公開講演会
平成二十八年五月二十八日
東洋大学白山キャンパス 六二一八教室
平成二十八年五月二十八日に、「南アジアにおける仏教と社会」というテーマで公開講演会を開催した。山口しのぶ研究員が「ネパール仏教の過去・現在・未来」と題する講演を行い、インド・アーンドラ大学のコプラ・ヴィクター・バブー客員教員(現在本研究所客員研究員)による「マハトマ・ガンディーの仏教教育と哲学の理念、およびその今日的評価」という講演が行われた。
ネパール仏教の過去・現在・未来
山口 しのぶ 研究員
〔講演要旨〕ネパール、カトマンドゥ盆地には六世紀にはインドから仏教が伝わっていたとされる。古くからカトマンドゥ盆地に住み、当地の都市文明の担い手であったネワール人たちの間には、インド密教の伝統を受け継ぐネワール仏教が残っている。古代から中世にかけて歴代の王たちは皆ヒンドゥー教徒であったが、仏教も保護した。中世期には交易に携わった仏教徒たちの経済力を背景に仏教は大きな勢力を持っていた。しかしながら十四世紀のジャヤ・スティティ・マッラ王がヒンドゥーのカーストシステムをネワール仏教徒社会に導入し、ネワール仏教もある程度のヒンドゥー化を余儀なくされた。さらにグルカ王朝の誕生、近代化とマオイストの台頭、その後の王制廃止とネパール共和国誕生などのさまざまな変化の時期を経て、ネワール仏教は生き残ってきた。
ネワール仏教のパンテオンには金剛界曼荼羅の五仏、観音や文殊などの菩薩などのほか、チャクラサンヴァラやダーキニー、ヨーギニーなどの後期密教の仏や女尊たちが含まれる。ネワール仏教においては菩薩の一種である金剛薩埵はしばしば五仏の師、もしくはヴァジュラーチャールヤ(密教僧)たちの師であると考えられ特に重要視される。いっぽう後期密教のチャクラサンヴァラ尊も密教僧の入門儀礼の際重要な役割を担う。
ネワール仏教では日常儀礼、年中儀礼、通過儀礼など儀礼が重視されるが、家族、僧侶のほか「グティ」と呼ばれる共同扶助体がその遂行を担っている。基本的な儀礼行為には供養(ネワール語で「プジャ」)、護摩(ホーマ)があり、上記のパンテオンの仏たちやマンダラなどに儀礼が行われる。
いっぽうカトマンドゥ盆地のヒンドゥー教は、タントリズムの要素を多く含み、動物犠牲などの行為も行われる。ネワール仏教とヒンドゥー教は歴史的にも深い関連を持ち、そのような両者の関わりは観音信仰、生き神クマリ信仰、祖先崇拝などに見られる。このように相互に関連を持つ仏教とヒンドゥー教においては、時にインドに見られるような異宗教間の激しい対立は見られない。
現在のネパール社会において仏教徒はマイノリティーであり、その勢いを失いつつある。一方チベット仏教は経済力、仏教徒社会の団結力においてもネワール仏教をしのいでいる。また近代化による仏教徒社会の世俗化も、ネワール仏教の勢いを失わせる要因であろう。今後のネワール仏教においては、近代化の中でいかに世俗(=経済)と仏教を両立させるか、またいかに仏教徒の団結を図るかについての組織的な取り組みが必要であると考えられる。
マハトマ・ガンディーの仏教教育と哲学の理念、およびその今日的評価
コプラ・ヴィクター・バブー 氏
(インド・アーンドラ大学客員教員)
〔講演要旨〕
「人類に対する仏陀の貢献は、神を永遠の場所に回帰させたものとすることにおいて偉大であったが、私見によれば、どんなに卑しいものであろうと、すべての生命に対する尊敬を彼が求めることの方が、さらに偉大であった。」
M・K・ガンディー『ヤング・インディア』一九二七年一月二十日
私はM・K・ガンディーの教育理念について、とりわけ仏教の教育理念に関連して検討してみたい。私の見解では、仏教の教育理念は、子供と社会の全面的な成長である。さりながら、ガンディーの理念も同じである。教育は哲学の応用にほかならず、そして教育の哲学は応用哲学である。それは、教育の哲学としてよく知られている、教育問題研究の哲学への応用である。
さらに、確固たる教育の哲学は、十分な人生哲学に基づいている。実際、哲学は教育の目標が生じる土台や基礎である。
確かなガイドラインを提供することによって、哲学は教育を方向づける。哲学は思想の全領域のなかで一貫した意味を確立しようとする。学校、職員、教員や、両親さえも、人生のために子どもを教育する目的を達成することに向けた彼らの努力を整えるのは、ひとえに教育哲学によるのである。
現代の教育における仏陀の評価は、教育において、まったく新しい、独特のアプローチ、また、新しい、独特の洞察を提供する。仏陀は最も甘美な果実だろう。つまり、仏陀は教育が私たちに与えることができる、まさにこの天地に与えることができる有意義な達成だろう。私たちが一人ひとり個々の仏陀を作りあげることができる教育という、教育成果としての仏陀の調査/研究の唯一の目的は、教育の分野にそのような実践的なアプローチを提供することである。そのためには、独特で、自由で、信頼できて、配慮ある、自己実現した、忍耐力と冒険心を持っているような「新しい人間という種」「個人という種」ができていなければならない。
もし私たちが、私たちの国の現代の必要性に照らしてガンディーの仏教教育の哲学を見るならば、彼の教育の基本的な計画の基盤である教育哲学が、ある重要な欠点と限界を持っていることが明らかになる。一つのきわめて重要な欠点は、彼の計画が貧しい者と弱い者を搾取する機械時代の文明に対して対立するということである。そのような姿勢は、インドがなしてきていて、これからもなしうる急速な機械技術の進展を無視し、産業の発展を妨げることが危惧される。
その一方で、ほかの限界もある。そうした限界は英語の軽視、発達の必要に応じた子供たちの体育教育と遊びの活動の軽視、子供たちの教育の評価における現代の技術の欠如などである。
いくつかの欠点にもかかわらず、ガンディーの仏教的教育哲学はなおも評価すべきものである。なぜならば、彼の教育哲学は、教育が仕事に必然的に役立つべきであり、その教育の基礎は道徳性に基づいているべきであるという事実のうちにあるからである。時間を要するが、私たちはガンディーの仏教的教育哲学を応用できるかもしれない。価値教育と結果志向の教育についての彼の見解は独特なものである。そうした見解は重要なだけではなく、インドのみならず世界の他の諸国においても応用する価値がある。私は教育の概念とガンディーの哲学を詳細に検討してみたい。仏陀はきわめて重要であり、社会の十全な改善となる。私の意図の内には、個人の発展と能力強化のための教育があり、これらの二つの優れた個性によって、教育の観念は社会の改善であるということだと思われるのである。
(次頁原文)
公開講演会
平成二十八年十一月十二日
東洋大学白山キャンパス 六二一九教室
現代中国における仏教と仏教研究
張 文良 氏
(中国人民大学仏教与宗教学理論研究所教授)
〔講演要旨〕現在、中国政府は五つの宗教(仏教、道教、キリスト教、カトリック教、イスラム教)を正式に認めているが、その中でも、仏教はとくに重要視されている。その理由は、仏教がすでに完全に中国文化に溶け込み、中国文化の一部となっていること、仏教の発展によって外来のキリスト教の拡張を抑制することができること、などが挙げられる。
中国総合社会調査(CGSS)(Chinese General Social Survey)は、中国では、民間の研究機関によって行われた最初の大規模社会調査プログラムである。中国人民大学社会学部は他の七大学の社会学部と協力して、二〇〇三年より二〇一三年まで毎年、全国規模(チベット、台湾を除く)で総合的な調査を行った。中国では、定評のある調査データである。
この調査の二〇一五年のデータに基づき、仏教信仰に関して、以下の実態を明らかにすることができる。
まず、中国では、宗教の信仰を持っている者は総人口の12・92%を占める。中国の総人口は十四億人に達しているので、単純に計算すれば、二億人弱の信仰者がいることになる。その中で、仏教の信者は最も多く、全人口の5・67%、宗教信仰者の43・89%を占める。つまり、仏教の信者は八千万人弱、いることになる。
次は、仏教信者の中の、65%弱が女性信者である。この数値は、中国大陸の事情を反映したものであり、台湾の仏教信者の男女比例に近いものである。
さらに、近年来、大学生などのような若者の中で仏教信者が増加しているが、仏教信者は世代的に考えれば四十代以上の人が圧倒的に多くいることが明らかである。
最後に、仏教信者が、仏教を信じるという場合、仏教の教理や教義より、仏教の神秘性に惹かれる。この意味では、一般的な仏教信者がどれほど仏教のことを理解しているかについて、大変疑問に感じる。
この十年間、中国の仏教研究にはいろいろ進展がみられる。通史的研究は、南京大学の頼永海先生が監修した『中国仏教史』(十五巻、二〇〇九年)や季羨林先生(故人)、湯一介先生が監修した『中華仏教史』(十一巻、二〇一四年)などがある。宗派史の研究には、魏道儒の『中国華厳宗通史』、陳楊炯の『中国浄土宗通史』などがある。地域仏教研究には、王栄国の『福建仏教史』や陳栄福の『浙江仏教史』などがある。新しい研究動向として注目に値するのは、以下の数点が挙げられる。
1.文献学研究の機運が高まっている。北京大学の湛如先生、上海師範大学の方広錩先生を中心とするグループは、主に敦煌仏教文献を研究し、中国仏教思想史、とくにその初期の仏教史を再構築しようとしている。
2.研究の基礎となる資料整理の作業が進められている。方広錩先生が監修した『蔵外文献』以外に、黄夏年先生が監修した『民国仏教雑誌文献集成』、何建明先生が監修した『中国地方志仏道文献総纂』などは、その代表的な成果である。
3.宗教社会学の方法を用いて、寺院経済、仏教社会事業、社会参加仏教などを研究する学者が増加している。
シンポジウム「初期禅宗史研究の現在 ―柳田聖山を超えて―」
平成二十九年一月二十一日
東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室
平成二十九年一月二十一日東洋大学白山キャンパス五号館一階五一〇四教室にて、公開シンポジウム「初期禅宗史研究の現在―柳田聖山を超えて」を開催した。このシンポジウムでは、第一部の基調講演で駒澤大学名誉教授の石井修道氏が「久嚮聖山」という題目で講演を行った。次に第二部では、東北大学准教授の齋藤智寛氏が「初期禅宗史書研究の現在」、名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学・博士(文学)の石野幹昌氏が「牛頭法融伝の再検討―思想的側面を中心に」、仏典翻訳家の大竹晋氏が「地論宗から初期禅宗へ―北朝末期仏教における継承と断絶」、東洋大学教授の伊吹敦研究員が「文献研究から社会的意義づけへ」という発表を行い、その後講演者、発表者がシンポジストとなり討論を行った。講演及び討論では、伊吹敦研究員が司会を務めた。
まず石井修道氏の「久嚮聖山」では、最初に二十世紀の禅宗史研究は、敦煌禅宗文献と『祖堂集』という二つの禅籍の発見、発掘から始まった点を挙げ、今回のテーマの「初期禅宗史」とは、敦煌禅籍を主な資料とするもので柳田聖山の『初期禅宗史書の研究―中国初期禅宗資料の成立に関する一考察―』に見える。一方最近の研究において「初期禅宗史」という熟語、研究方法の再検討の必要性を説く論文も記されていることを述べ、今後の初期禅宗史研究の進め方として、文献研究と思想研究の二者択一でなく、「第三の途」である主として宋代禅研究を念頭に置いた「語法の探求」を提示した。
つぎに齋藤智寛氏の「初期禅宗史書研究の現在」では、柳田聖山の研究立場は、「資料そのものの価値批判」、「資料の性質を正しく把握すること」にまとめられると述べ、柳田聖山の研究方法、目的は、宗教的文献における虚構を、虚構ゆえに斥けるのではなく、その資料を作成した人々の思想や願望の所産として把握することであったとしている。しかしその後の初期禅宗史研究は、残念ながら柳田聖山の期待した方向での成果は実りが少なかったと述べている。このため齋藤氏が燈史研究において心掛けているのは、正統化、権威化の説明を避け、「どのように」それが行われたのか、あるいは正統化を試みる中で、燈史作者がどんな問題に逢着し、それにいかなる解決を与えたかであると述べている。
そして石野幹昌氏の「牛頭法融伝の再検討―思想的側面を中心に―」では四祖道信の印可を受けたという“牛頭法融〟とは何か問い直した。三論宗における法融が瞑想の中で教理を観ずる観行型の修行者であったのに対して、禅宗における法融禅師は諸々の対立的諸相を離れ、心の本体・働きともに無碍自在なる境地を得た典型的な禅者であり、両者は全く異なった人物像であることを述べた。また、『祖堂集』以降の法融伝に四祖の法要が付加された背景には、三論の修行者を法融禅師へと転化させようとする強い教学的意図が含まれ、後の“法融禅師〟なる者が確立されていったと結論を提示している。
次に大竹晋氏の「地論宗から初期禅宗へ―北朝末期仏教における継承と断絶」では、六世紀の北朝末期には、当時の禅師たちは、勒那摩提や仏陀跋陀に師事した地論宗系禅師と菩提達摩を祖と讃仰する菩提達摩系禅師の二系統があり、先に地論宗系禅師がいた北朝に、後に菩提達摩系禅師が現れ、当初は少数派であった菩提達摩系禅師が徐々に地論系禅師を統合し、唐の時代までに菩提達摩系禅師へと一本化したと述べた。この点について柳田聖山は、地論宗と初期禅宗との接点を認めることに消極的であり、地論宗系禅師の僧稠の名を冠する敦煌出土『僧稠師意』などについても北宗禅の系統の仮託と判定したが、これについて近年見直しの気運があり、むしろ僧稠の禅法が北宗禅の源流の一つであるという可能性があるとしている。
そして伊吹敦研究員の「文献研究から社会的意義づけへ」では、柳田聖山の初期禅宗研究の総括を行った上で、柳田聖山の初期禅宗史研究の継承と展開について述べた。柳田聖山は禅宗史研究において禅体験が重要だと力説する方法論を排除し、文献学的方法に徹することで大きな業績を残し、多くの禅宗史研究者たちが禅宗理解に関して抱く“「宗教」と「学問」の対立〟という図式の原点となったという。そして、今後は初期禅宗文献のみでなく、教団外の資料も含めて初期禅宗を当時の社会の中で理解することによって、この図式は解消されるであろうという考え方を示した。
以上各氏の講演の後、参加者全員による本シンポジウムテーマに基づいた討論が行われた。本講演・発表で取り上げられた中国哲学的な見方や三論宗、地論宗から見た禅宗の位置付け等、視野を広げた禅宗研究の必要性について議論された。柳田聖山の時代には禅宗文献が発見され、そこに集中しなければならなかったという歴史的な情況にあったが、今はそれが一段落した状態であり、今こそ柳田聖山の功績をどのように超克していくのかが問われねばならないという点で意見の一致を見た。また柳田聖山の生き方や受けた影響、研究者の仏教信仰や研究者の宗門との関係、禅における師資相承の重要性などについて活発な討論が行われた。
以下に各氏の講演要旨・発表要旨を掲載する。
久嚮聖山
石井 修道 氏(駒澤大学名誉教授)
〔講演要旨〕柳田聖山先生が二〇〇六年十一月八日に亡くなられて、私は「紙屋院騰々聖山居士を悼む」(『東方学』第百十三輯)と「久嚮聖山」(『禅文化』二〇〇七年春号)の追悼文を書いた。共に禅文化研究所の追悼集に転載していただいた。十年を経て、東洋大学の伊吹敦教授より、講演の依頼を受け、ありがたく思い引き受けた。
「久嚮」とは、「ご高名は久しく鳴り響いておりました」ではなく、「かねてから一度お目にかかりたいものと景慕しておりました」の意味だと学んだ。私が駒澤大学の学部や大学院で中国禅宗史の研究を始めた頃は、「聖山」の名は眩しかった。そして今回も再び同じ演題をつけることしか思いつかなかった。実際に一九八一・一九八二年度に京都大学の先生の下で在外研究員となって指導を受けることができ、その出会いについては、「「これ人にあふなり」―わが禅研究の歩み―」(『駒澤大学禅研究所年報』第二十六号、二〇一四年)に触れておいた。
先生の代表作といえば、『初期禅宗史書の研究』である。その法蔵館の出版は一九六七年五月のことで、私の修士課程二年の時のことである。私はその当時、その著書中の燈史と呼ばれる一群の禅の史伝は、その発生の始めから、すべて要請としての伝承であり、所謂歴史的事実の記録とは、よほど性質の異なったものである。それらをすべて一様に歴史的事実とする誤り以上に、一義的に虚構と断じ去る誤りは大きい。禅の学問的研究の仕事は、先ずそれらの資料の性質を正しく把握することから始められるべきであり、直接史実如何を問うことであってはなるまい。
などとある文に酔いしれ、院生の仲間にその方法論をわが主張のごとく吹聴していた。そして先生の成果は、禅宗の伝世資料の性格の解明と二十世紀発見の敦煌禅宗文献の解明による「初期」禅宗史研究では、現在においてもその成果は高い評価を得ていると思われる。
ただ、敦煌文献の全体像が見えてきた現在において、今後いかに先生を乗り超えて行くかの課題に対して、私は次のような方向を考えている。
燈史を中心に解明された先生の成果は、あたかも達摩を頂点とするピラミッドか、末広がりのように禅宗が発展したかのようにとらえられがちである。しかし、初期禅宗史の解明には、「禅宗」の枠を超えてその同時代の無限の広がりの解明と、どこまでも深い問題の掘り下げが必要となるのではあるまいか。
初期禅宗史書研究の現在
齋藤 智寛 氏
(東北大学准教授)
〔発表要旨〕柳田聖山の主要な業績が『初期禅宗史書の研究』に代表される禅宗史書の研究であることは誰しもが認めるところであろう。本報告では、まず柳田が初期禅宗史書研究にもたらした方法論上の功績を振り返った後、その後継者たちの業績に反省を加える。そして後半では、現時点で報告者が関心を持っている初期禅宗史書研究上の具体的な課題を二点提供し各位のご批判を乞う。
柳田聖山の初期禅宗史書研究における最大の功績は、歴史叙述者による虚構の記載を虚構ゆえに捨て去るのではなく、虚構が要請されたことの意味を問う、いわば疑古から釈古への研究方法上の展開であった。この提言は本来であれば禅思想史研究を豊かなものにするはずであったが、日本の初期禅宗史書研究に限ってみた場合、残念ながら柳田の期待した方向での成果は実りが少なかったと言わざるを得ない。資料の文章を読むことなしに法系の形成について些末な事実の修正に終始したり、またいわゆる敦煌禅文献の研究では巻子全体・作品全体の性格を無視して禅宗祖統説に関わる部分だけを取り出した考察が行われたりしたのである。この状況に鑑みて報告者は、燈史やその記事を分析評価する際、正統化・権威化の事実を指摘するにとどまらず「どのように」それが行われたのかを考えること、また発展の基体としての「燈史の系譜」(柳田の語)を安易に前提するのではなく、できる限りそれぞれの燈史における個別の問題意識を抽出することの二点を心がけている。
次に、報告者が現時点で関心を持っている課題を紹介したい。まず一つ目に、『付法蔵伝』と禅宗祖統説について。禅宗の二十八祖説の源流に『付法蔵伝』の二十四祖説があることはよく知られているが、『付法蔵伝』を虚心に再読してみると該書は仏法の連続ではなくむしろ断絶を主張していることに気づく。石刻や敦煌文献に見える古逸仏教史書の考察も合わせて、中国仏教全体における『付法蔵伝』の受容史の中に禅宗祖統説を改めて位置づけることが必要だろう。
二つ目に、禅宗史書と中国伝統の学問について。禅宗燈史や法系説と儒家の学案や学統との類似点と相違点は、清の黄宗羲や民国期の陳垣がつとに指摘するところであるが、この問題は初期禅宗史書においても考察されてよいだろう。例えば京兆の杜朏なる人物によって編纂された『伝法宝紀』の序は、杜預の「春秋序」が『公羊伝』のある記述を斥ける一段を典故として歴史書は事実のみを書くべきことを主張しており、彼の禅宗史書編纂の背景に春秋学の素養があったことを思わせる。士大夫による禅宗史書編纂とその背景となる著者の学問は、今後検討するべき課題であろう。
牛頭法融伝の再検討――思想的側面を中心に――
石野 幹昌 氏
(名古屋大学大学院文学研究科
博士後期課程満期退学・博士〈文学〉)
〔発表要旨〕いわゆる“初期禅宗の時代〟とは、東山法門以降徐々に確立し始めた禅宗教団が、宗派の祖師の理想像を立てんとして、その完成した教義をもって“禅宗初祖菩提達磨〟、“三祖僧璨〟、“牛頭法融〟といった虚構の祖師像を形成し、さらにその創り上げられた彼らに『絶観論』、『信心銘』、『心銘』等の書を次々に仮託する作業を行っていった時代である。従って、彼らの伝記にはもとより史実の中に虚構が巧妙に織り込まれていたのであったが、虚構はやがてそのまま史実となり、時代が下るにつれ、宗教的信仰のもとにその両者――史実と虚構――の弁別はより難しいものとなっていった。
この分野に於いて柳田聖山先生は、歴史的考証に基づき、四祖道信との相見が史実でなかったことなど、歴史と虚構に関する数多くの業績をあげられた。しかしそれにもかかわらず、法融思想が論じられる際には、実在した三論教学の習禅者 法融と虚構として創られた“法融禅師〟、あるいは『法華名相』等の彼の真撰群と『心銘』や『絶観論』といった後代に仮託された書とが、全て“法融思想〟の名のもとに一括りにされてしまっているのが現状である。さらに、先生御自身も述べておられるように、これまでの初期禅宗研究では思想面の検討が後回しにされてしまっている感が否めない。
そこで本発表では、柳田先生その他の先生方の歴史的考証に立脚し、まず彼の真撰と後世に仮託された書物・対話録とを、作者も成立年代も異なるそれぞれ独立した作品として扱い、それらの思想的側面を一つ一つ例を挙げて検討し、従来“牛頭法融作〟と称されてきた作品群の個々の思想的特徴と相違とを浮き彫りにした。即ち、『続高僧伝』等に述べられるオリジナルの法融は、瞑想の中で“仏〟とか“空〟とか“寂滅涅槃〟とかいった仏教教理を観ずるタイプであったのに対して、後代に創作された“法融禅師〟は、そうした“観る者〟と“観られるもの〟という二元対立を超えた心そのものの悟得を謳う“禅者〟であった。両者は一見似ているが、実は全く異質の存在である。
この“教学の習禅者〟と“禅宗の祖師〟という、文献上の峻別は困難であるが、教理の上では天と地ほどもかけ離れる違いを明らかにすることによって、『祖堂集』以降の禅宗側の資料に収められる法融伝に四祖道信との相見のくだりが敢て加えられている宗教的意図について考察した。
初期禅宗史書研究の現在――北朝末期仏教における継承と断絶――
大竹 晋 氏
〈仏典翻訳家〉
〔発表要旨〕中国の南北朝時代の北朝においては、インドの禅法が伝来を始め、専門的な修禅者を意味する「禅師」という漢語が誕生した。とりわけ、北朝末期(六世紀)においては、多くのインド僧が来中、禅法を伝授し、「修禅の世紀」が到来した。
北朝末期の禅師たちには二系統あった。
地論宗系禅師
東魏→北斉: 僧稠(四八〇―五六〇)が中心。
→天台宗:慧文、慧思(五一五―五七七)
西魏→北周: 僧実(四七六―五七三)が中心。
菩提達摩系禅師
東魏→北斉: 慧可(四八七―五九三)が中心。
地論宗系禅師は勒那摩提や仏陀跋陀に師事し、菩提達摩系禅師は菩提達摩を祖と鑽仰した。一般に、菩提達摩系禅師が初期禅宗の起源となったと考えられているが、事実はもう少し複雑であって、地論宗系禅師の一部も初期禅宗の起源となったらしい。
柳田聖山は地論宗と初期禅宗との関係についてほとんど注意を向けなかった。たとえば、柳田は僧稠の名を冠する敦煌出土『稠禅師意』『大乗心行論』について、北宗禅の系統の仮託と判定している。しかし、これについては近年見直しが行なわれ、むしろ、僧稠の禅法が北宗禅の源流のひとつであるという可能性が指摘されている(沖本克己『禅思想形成史の研究』花園大学国際禅学研究所研究報告第五冊、一九八八年。田熊信之「僧稠の心法と僧安道一」『学苑』八七五、二〇一二年)。
大まかには、先に地論宗系禅師がいた北朝に、のちに菩提達摩系禅師が現われ、北朝崩壊から隋唐の誕生にかけての混乱期において徐々に両者が融合、当初は少数派であった菩提達摩系禅師を中心に初期禅宗として再編されたと考えられる。
したがって、将来的には、地論宗と初期禅宗との関係を、継承と断絶という見地から捉えていくことが必要になる。今回の発表においては、継承と断絶との例を一つずつ挙げてみた。
1 継承の例: 印可
師匠が弟子の禅体験を印可するという禅宗のスタイルは、唐の浄覚『楞伽師資記』(八世紀初頭)を信ずるならば、少なくとも三祖僧璨と四祖道信との間には存在していた。「璨は道信が了了として仏性を見る処を印す」。ただし、『続高僧伝』によるならば、印可はすでに地論宗系禅師の間で行なわれていた。初期禅宗はそれを継承したらしい。
2 断絶の例: 通明観
地論宗系禅師は、地論宗において高く評価されていた『大集経』にもとづき、「通明観」という禅法を使用していた。『続高僧伝』僧可伝においては、道恒禅師が慧可を迫害しようと「通明師」を送り込み、それが逆に慧可に帰服したという記述があるが、「通明師」は通明観を用いる地論宗系禅師である。「通明観」のような地論宗系の禅法は初期禅宗には継承されなかった。
文献研究から社会的意義づけへ
伊吹 敦 研究員
〔発表要旨〕柳田聖山(一九二二―二〇〇六)は、発表者が初期禅宗史研究を始めた時以来の目標であり、長い間、『初期禅宗史書の研究』は越えられない高峰として筆者の前に立ちはだかってきた。しかし、最近になって、ようやく、柳田の初期禅宗史研究には、禅宗文献への集中と、それに伴う社会的視野の欠如という大きな限界があったと思えるようになったので、今回、この機会に発表者の私見を公表しようと思う。
胡適以来の初期禅宗史研究の方法は、一言で言えば、初期禅宗文献の発掘と整理、その位置づけであって、胡適、鈴木大拙、宇井伯寿らによる研究を承け継ぐとともに、『伝法宝紀』や『楞伽師資記』等のいわゆる「北宗灯史」を中心に既存の文献や新出文献を有機的に結び付けて初期禅宗史を再構成しようとしたのが柳田の仕事であったと言える。そして、禅宗史研究においても禅体験が重要だと力説する鈴木大拙のような方法論を排除し、文献学的方法に徹することで大きな業績を残し、多くの禅宗史研究者たちが禅宗理解に関して抱く“「宗教」と「学問」の対立〟という図式の原点ともなった。
発表者の初期の研究は、胡適以来の方法論に従って、初期禅宗文献の発掘と整理、その位置づけを主とするものであった。その結果、いくつかの初期禅宗文献を紹介し、また、文献の変化から思想の変化を探るといった新たな方法論を提示するなど、それなりの成果を挙げたと自負しているが、結局は胡適から柳田に至る初期禅宗史研究の延長線上にあったといえる。しかし、その後、『心王經』という偽経の研究を契機に、禅文献ばかりを扱ってきた自分の視野の狭さを痛感し、その後は、初期の禅宗が外部の人からいかに見られていたのかという視点の重要性に鑑み、禅宗以外の文献を含めて検討を行い、また、社会的背景を明らかにするべく、初期禅宗の人々の生涯を詳細にたどる研究を行うようになった。その結果、初期の禅宗が私度僧の集団であり、それが両京で受け入れられた理由がその特異な在り方と関係しており、いわゆる北宗禅とは国家権力に絡め取られた禅の形態であるといった、新たな認識を得るに至った。この「社会の中の初期禅宗」という視点から初期禅宗を研究するようになった結果、基本的に禅文献のみに基づく柳田の方法の限界を感じ、また、柳田に由来する“「宗教」と「学問」の対立〟という図式も、この視野の狭さと関係するものであると考えるようになった。つまり、社会の中で禅宗がどのように機能したかを明らかにすることによって、禅体験と歴史研究という両極を埋めることができるのではないだろうか。そして、こうした視野に立つことによって、初期禅宗史を現在の我々も共感できる、生き生きとしたものとして叙述しうるのではないかと思う。