2019年度 公開講演会 発表報告
開催日:2019年12月14日 場所:東洋大学白山キャンパス6317教室
2019年度 公開講演会 発表報告
開催日:2019年12月14日 場所:東洋大学白山キャンパス6317教室
初期仏教研究におけるパーリ語文献の重要性
講演者:榎本 文雄 氏(大阪大学名誉教授)
〔講演要旨〕
初期のインド仏教(初期仏教、原始仏教)研究におけるパーリ語文献の重要性として、まずは以下の二点が挙げられる。⑴パーリ語は初期仏教時代の仏典の言語であるインドアーリヤ語の一種であるので、この言語の文献は初期仏教研究にとって一次資料であり、漢訳仏典やチベット訳仏典のような二次資料ではない。⑵パーリ語文献のみが、ブッダの直説とされる経律の二蔵のみならず、論を含む三蔵も完全に保持し、注釈、復注、さらにそれ以後の文献も完備している。
もっとも、日本では、欧米やインドの研究者と比べ漢語文献が扱いやすい利点を生かし、漢訳仏典とパーリ語仏典との比較研究が明治の頃からなされてきた。また、チベット訳仏典にも初期仏教関連の資料があり、漢訳よりもチベット訳の方が元のインドアーリヤ語仏典をより正確に翻訳していることが多い点も相まって、チベット訳の初期仏教資料の研究も近年盛んになってきた。それでも、初期仏教研究の主要資料はなおもパーリ語聖典だった。
ところが、近年、サンスクリットをはじめパーリ語以外のインドアーリヤ諸語で書かれた研究資料が続々と発見され、写本の書写年代の古さの点でそれら新資料は概ねパーリ語文献に勝り、特にガンダーラ語資料はパーリ語文献を遥かに凌駕する。しかし、それら新資料をパーリ語文献と精密に比較検討すると、却ってパーリ語文献の重要性が再認識される。本講演では、思想面から初期仏教の中心教理の四聖諦を、諸言語による異本の多様さの点からは『ダンマパダ』を、好例として取り上げる。
まず、パーリ聖典の四聖諦では、「集諦」のdukkhasamudaya と「滅諦」のdukkhanirodha が、本来は男性名詞なのに、それぞれdukkhasamudayam, dukkhanirodham という語形で現れる事実から、両者ともariyasaccam にかかる形容詞であると考えられ、そう理解することにより、従来不明瞭であった「滅諦」の文意も明確になる。形容詞である点はパーリ注釈文献の『ヴィスッディマッガ』でも確認できる。「集諦」と「滅諦」のこの原意はBuddhist Hybrid Sanskrit の『マハーヴァストゥ』では全く失われ、Buddhist Sanskrit の『サンガベーダヴァストゥ』でも痕跡のみしか残っていない。
次いで、『ダンマパダ』等の諸語版を比較すると、-r- を含む重子音の同化により含蓄豊かな表現が可能になるという、中期インドアーリヤ語一般に共通する性格を備える点から、パーリ語は、サンスクリットはもとより、その性格を欠くガンダーラ語など他の中期インドアーリヤ語と比べても、初期仏典作者の意図により忠実な言語であり、ブッダの直説を最大限に再現できていることが判明する。もっとも、パーリ語がブッダの語ったマガダ語である、という上座部大寺派説に与するものではない。