2018年度 公開講演会 発表報告
開催日:2018年年12月8日 場所:東洋大学白山キャンパス 6209教室
2018年度 公開講演会 発表報告
開催日:2018年年12月8日 場所:東洋大学白山キャンパス 6209教室
中国の文学・日本の文学
講演者:川合 康三 氏(京都大学名誉教授、國學院大學特別専任教授)
本年度の研究所主催の公開講演会は、本学文学部東洋思想文化学科准教授の坂井多穂子研究員が司会を務めた。川合康三氏の講演の後の質疑応答で、中国の漢詩において雪はどのように表現されているのか、時代が下るにつれて読み書きする女性が増え、民間が文学の担い手になっていくような状況において、中国文学の系譜はその影響を受けたのか、日本の文学は悲観や厭世の叙情性を中心とするのに対して、中国を代表する文学にはそれらを乗り越えるところに違いがあるということについて、悲観的な状況に対する楽観的な解釈は早くから士大夫の文学にみられるのか、知識人にはいないような庶民を描いた近代の中国文学においては一般庶民も文学に参与しているのではないか、白居易や陶淵明が平安朝の女流歌人や女流文学者に受け入れられた理由、漢詩の押韻や対句について、日本の文芸には押韻や対句があまりみられないのはなぜか、といった質問が活発になされた。また、講演会終了後、懇親の場として研究交流会が催され、講演者を交えての研究交流がなされた。
〔講演要旨〕
日本では社会・文化、あらゆる面において初めは中国から学んだ。文字も漢字をもとにこしらえられたものであったし、文学においても漢詩集の編纂は『万葉集』に先立つ。「文は(白氏)文集・『文選』」(枕草子)と言われたように、中国の文学は日本の文学の規範とされた。ところがそうして築きあげられた日本の文学は、結果として中国とはなはだかけ離れたものとなった。中国の文学と日本の文学はどのように異なるのか、このように大きな差異が生じたのはなぜなのか、いくつかの面を取り上げて探ってみる。
詩歌によく詠われる自然は、「花鳥風月」、「雪月花」などとまとめられるが、そのいずれにも入っている月と花、どちらもはかなく変化する面と反復することによって永遠である面、相反する両面を含むためでもあろうか、中国でも日本でも自然美の代表的なものとしてうたわれてきた。ところが月や花をどのように捉えるかには彼我の違いがある。中国では月といえばほぼ常に満月であるのに対して、日本では月齢が細かく分節され、多様な月の形が愛でられる。花も中国では生命力の顕現した満開の花が好まれるのに対して、日本ではほどなく散りゆくものとして愛惜される。
恋は季節とならんで日本の文学では欠かせぬものであるが、中国で男女の情愛をうたった詩は乏しい。その代わりに男どうしの友情は、大きなテーマであった。「送別詩」「贈答詩」といったジャンルの内実は友情にほかならない。中国に恋愛の詩歌が不毛であることを指摘したのは江戸時代の日本人、また近代のイギリスの東洋学者であり、中国では当然すぎて気づきにくいことが、異域の目から見ることによって鮮明になったものだ。
隠逸も日本では夏目漱石『草枕』が代表するように、厭世的な心情が濃厚であるが、中国の隠逸は政治に対する反発、批判が中心であって、政治性を強く帯びている。
概して日本の詩歌は、無常観を帯びた抒情性を洗練させたものといえる。一方、中国にもたとえば「古詩十九首」が生のはかなさの悲しみ、成就されない恋の悲しみ、その二つの哀感を基調とするように、感傷的な悲哀を主とする詩の流れはあるが、しかしそうした抒情はポピュラーな層における愛好であった。士大夫の文学、とりわけ中国の文学にそそり立つ大きな存在――建安文学、陶淵明、杜甫、白居易、蘇軾などは、人生の悲しみのなかに浸るのではなく、それを乗り越えようとする意志をこそ歌おうとする。
このような差異が生じたのは、日本では女性から始まった和文学が中心であるのに対して、中国の文学を担う主体である士大夫は、政治・社会に対して責務を負う階層であり、そのために文学にも政治性が濃厚となったものであろう。
日本の文学とはかくも異質である中国の文学、それは異質であるからこそわたしたちにとって意義を有するのではないだろうか。