「王陽明の「楽」の思想――「情」と「見在」の意義――」
志村 敦弘 奨励研究員
「王陽明の「楽」の思想――「情」と「見在」の意義――」
志村 敦弘 奨励研究員
古来より、儒教では心の「楽」(たのしみ)の境地を語ってきたが、中国・明を代表する思想家、王陽明は、「楽」について新しい見解を打ち出した。彼において「楽」は「情」、感情としての側面とそれ以外の面があった。陽明は「情」とは調節可能なもの、臨機応変に変化するものと考えていた。一方で、彼は倫理を感情と不可分一体な関係にあると考えていた。そこから、倫理もまた臨機応変の柔軟性を持つものとされた。それは杓子定規な善悪の適用を避け、千変万化する状況に柔軟に対応しつつ、一貫して正しさを保とうとするものであり、そこに情の意義はある。
「情」は千変万化する生々しい現実への対応のなかで力を発揮する。この現実のことを陽明は「見在」(今、ここ)とよぶ。それは目で見、手に触れ、耳で聞くことのできる、自己の眼前に展開する即物的現実であり、そこに心・良知の存在意義がある。「情」の重視にはこのような背景があった。
さて、王陽明は「楽は是れ心の本体なり」と語る。「楽」と「心」とは同じものなのである。「楽」とは感情であるというのが現代人の認識であるが、陽明においてはそうではない。心が、現実世界との倫理的な係わりをなす働きそのものを「楽」と名付けたのである。しかし、現実と係わった結果、それに引きずられて悪を為すこともありうる。それは心本来の在り方ではない。本来の倫理的正しさをもつ心の本体が外界の出来事に動揺させられず、本来のままの在り方にする必要がある。そうであってこそ、現実世界との係わりにおいても「和順」することができるのである。
それではなぜ、陽明は「楽」という言葉を用いたのであろうか。「楽」と「和」の関係ということで言えば、『礼記』楽記篇が想起される。その内容は、儒教理念に基づく音楽を通じて心の平安を保ち、そこから最終的に天下の秩序と平和を実現する、というものである。実は、陽明の「楽」思想に関連する発言の中には楽記篇に由来する言葉が多く見られる。ここから、彼が楽記篇の影響のもとに「楽」思想を構築したと考えることができる。陽明は「ガク(yoe)」を「ラク(le)」と読み替え、そこに自らの思想を込めたのであろう。また従来の儒教においては、『論語』『孟子』に見える「楽」を取り上げることが多かったのであるが、陽明はそうしていない。この点も一つの証左となる。
彼が楽記篇を選んだ理由は不明であるが、推測すれば、自らの科挙受験のために『礼記』を選択・修得したことが契機となった可能性がある。この楽記篇の読みを通じて自らの思想を形にしたと考えられる。「楽」思想の根源の一つはここにあるのではないか。