『華厳五教章』テキスト論における澄観の問題
佐藤 厚 客員研究員
佐藤 厚 客員研究員
華厳学の基本テキストである法蔵『華厳五教章』には古来テキスト論に関する問題がある。大まかに言えば、日本所伝の和本と中国所伝の宋本とがあり、それらは題号、構成、語句の三点が異なる。こうした中、どちらが原本であるかが伝統的に問題となっていた。
現代になり1971年に韓国の金知見が高麗の伝承(錬本)をもとに宋本原本説を唱えると、1976年に日本の結城令聞、1977年に吉津宜英が、さらに1983年に再び結城令聞が和本原本説の立場から批判した。その後、この議論は40年進展を見なかったが2023年に筆者が金知見の宋本原本説の前提を否定したことにより、和本が原本、宋本が訂正本ということはほぼ確定したと思われる。続く問題はどの段階で宋本型テキストが出現したかである。ここで澄観が問題となる。歴史的に宋本注釈者はテキストの正統性を澄観『演義鈔』の言葉「然賢首義分齊内、第二巻広明」に求めてきた。もしこれが事実ならば澄観の段階から宋本型があったことになる。これに対して日本の近代以前の注釈者や現代の学者が澄観説を批判するために様々な説を出し、非常に複雑な様相となっている。
本発表では『五教章』テキスト論を進めるため、論点を整理し、結城令聞、吉津宜英の見解を批評し、今後の研究の展望を提示した。まず結城説については、澄観の言葉を消すために、強引に論理を組み立てており、その論拠は弱い。では澄観の言葉はあったのか?現段階では、あったと考えてよいと思う。続く吉津説は主に高麗におけるテキストの変化を扱ったが、澄観の言葉を受けてテキストを変えた、とする部分に不自然さを覚える。ではどのように考えるべきか?
これはまだまだ仮説の段階だが、筆者は次のように考えている。和本型、宋本型は法蔵の段階であった。つまり和本型が草稿、宋本型が修正本である。理由は書物としての体裁が、和本では整っていないのに対して宋本は整っているということがある。また均如が述べる朝鮮伝承もヒントとなる。
中国には和本型も宋本型もあったが澄観は宋本型を見ていた。『演義鈔』の澄観の表現が曖昧(題目など)なのは、当時『五教章』自体あまり重視されなかったからと考えられる。ただ問題は、なぜ宋代の浄源の段階で和本型が多くなっていたのかということは謎である。
続いて朝鮮には和本型、宋本型両方が伝わった。最初は和本型が研究されたが、後に宋本型が主流となった。ここに澄観の『演義鈔』の影響があったとみてもよい。
日本には和本型が伝わり、それが伝統的に研究された。ただ問題はなぜ宋本型が入らなかったのかということである。
このように、テキスト論には様々な要素があり、すべて説明できる理論を構築するのは容易ではない。今後ともあまり先入見を持たず、合理的に説明できる解釈を検討していきたい。