紀平正美の人格と歴史および国家に関する議論
―『自我論』と『行の哲学』を中心に―
大鹿 勝之 客員研究員
紀平正美の人格と歴史および国家に関する議論
―『自我論』と『行の哲学』を中心に―
大鹿 勝之 客員研究員
今回の発表では、紀平正美の『自我論』(第三版、大同館書店、一九一七年)と『行の哲学』(岩波書店、一九二三年)との対応する箇所を指摘し、これら両著作の内に、紀平の日本精神についての議論との関連性を考察した。
『自我論』後編第四章「人格の価値」と、『行の哲学』第十一章「歴史の認識」および第十二章「国家」における紀平の論述を比較してみると、対応する論述として、国家としての人格があげられる。
『自我論』では国家の国家としての意義が、国家存在の特別使命とされるが、『行の哲学』においては、国家の建設者が個性を有し価値を有する、その価値継承こそが国家の使命であることが述べられる。そして、『自我論』と『行の哲学』にみられる共通点として、国家への絶対服従があげられる。『自我論』では、「国家の国家としての意義は、国家存在の特別使命によるとせなければならぬ。この使命即ち統一原理の下には、個人はその一切のものを喜んで没入し得る所のものではなくてはならぬ」と述べられているが、「国家の前には、只絶対的服従あるのみである」と説かれる。その絶対服従の理由として、「何となれば国家は人格の由て存在する根本義を明かにする所のものであるからである」ことがあげられる。 『行の哲学』では、国家は作ったものであると同時に、絶対的にそれに服従せざるを得ないところのもの、すなわち「当為の現実的有」であることが述べられるが、そこには、国家が作ったものであるならば、最大の芸術品であり、芸術品に対すると同様に、祖先の努力を媒介とすることによって、国家に対して直接に自己を没却するとき、国家は大なる自然物となり、自己が国家となること、「国家は即ち人格なり」という、自己が自己である為の必然的媒介者として国家が捉えられている。
この国家への絶対服従という観点は、「随順帰依奉仕」として、『行の哲学』以降の著作、『日本精神と自然科学』(日本文化協会出版部、一九三七年)、『自證過程としての歴史』、国民精神文化研究所、一九三七年)また戦後に刊行された『人と文化』(鳳文書林、一九四八年)といった紀平の著作にも見られるものである。
しかしながら、国家が人格の由って存在する根本義を明らかにするということ、国家が、自己が自己であるための必然的媒介者であるということから、国家への絶対服従が無条件に導出されるとはいいがたい。『行の哲学』では、現代人が自然界といわず、社会といわず、これを改造(Re-construction)する 「大行」者であるというが、国家を改造することも「大行」であり、そこにおいて不服従も国家を改造する契機となるのではないか。国家への絶対服従を強いることは、国家による人格の抑圧に通じることになる。