平成二十九年一月七日 東洋大学白山キャンパス 六二〇三教室
『徹通義介禅師喪記』に見る「提衣」とその変容
金子 奈央 客員研究員
〔発表要旨〕本発表では、『徹通義介禅師喪記』に記される葬送儀礼である「提衣」に着目し、中国禅宗清規の日本への移入と変容の一端を考察した。この「提衣」とは、禅僧の葬送の際に実施される「唱衣」(遺品を競売にかける儀礼)冒頭に実施される儀礼として、いくつかの禅宗清規に記載のある儀礼である。
中国撰述の諸清規の内、『叢林校定清規総要』(一二七四)には仏事一覧に「提衣」が、『禅林備用清規』(一三一一)と『勅修百丈清規』(一三三六―一三四三)においては仏事一覧に「提衣」、住持死亡の際の仏事として「提衣仏事」の記述が確認できる。中国撰述の諸清規での「提衣」とは、①仏事一覧における「唱衣」の別名、②唱衣開始の際に行われる「提衣仏事」、③競売の際に遺品を提示する動作、という複数の語義を持つと考えられる。日本成立の清規の内、十三世紀の『慧日山東福寺行令規法』・十五世紀の『叢林拾遺』には「唱衣」の別名として「提衣」の記載がある。
上記「提衣」の意味②「提衣仏事」については、諸清規の記述からは具体的に何を行うのかは判然としない。日本の清規解釈書によれば、中世から近世にかけて、「提衣仏事」とは唱衣の開始に当たって競売される遺品を取り上げて、法語や焼香を行う仏事であると解釈されてきたことが確認できた。
『徹通喪記』には、延慶二年(一三〇九)に没した徹通義介の葬送時の唱衣の冒頭で「提衣」が実施され、そこでは瑩山紹瑾を含む徹通の法嗣三名への遺品の伝授と受領が行われたと記される。特に、ここで瑩山に伝授された「法衣」・「伝衣」は、『徹通喪記』や「法衣相伝書」の記述から、伝法の印として徹通から瑩山が附与を受けていた「法衣」・「伝衣」を、瑩山が再び拝領したものと考えられる。『徹通喪記』における「提衣」では、徹通の法嗣への遺品の伝授と受領が記されていることとなり、これは中国撰述の諸清規に記載される「提衣仏事」とは異なった独特の内容である。
永平寺を辞して大乗寺に入院した徹通の法を継承した瑩山は、明峰素哲・峨山紹碩という二人の弟子を育て、その後の日本曹洞宗の教線拡大と展開の源と考えられる。自身に関わり深い大乗寺・永光寺・總持寺に関する瑩山の置文からは、瑩山紹瑾が自らの「天童如浄―道元希玄―孤雲懐讓―徹通義介―瑩山紹瑾」という自らの法系を強調するとともに、この法系に基づいた自らの門派を基本とする寺院の継承を想定していたことが伺える。
『徹通喪記』における「提衣」の用例からは、住持・尊宿死亡の際には、嗣法の弟子への遺品の遺嘱に重きが置かれたこと、つまり中国の諸清規に記された「提衣仏事」が、嗣法の可視化の儀礼として新たな意味を与えられた可能性が高いと考えられる。こうした「提衣」の変容の背景には、大乗寺を継承した瑩山自らの「天童如浄―道元希玄―孤雲懐讓―徹通義介―瑩山紹瑾」という法の継承をめぐる立場が反映されていると考えられる。
平成二十九年一月七日 東洋大学白山キャンパス 六二〇三教室
近代の高麗神社研究の現状と展望
佐藤 厚 客員研究員
〔発表要旨〕埼玉県日高市に高麗神社(こまじんじゃ)がある。ここは朝鮮半島の古代国家の一つ高句麗の遺民のリーダー・若光を祀った神社であり由来は次の通りである。六六八年、唐と新羅の挟撃に遭い滅亡した高句麗の人々の中には日本に亡命した人も多かった。七一六年、当時の朝廷は関東近辺に居住する高句麗出身者を現在の埼玉県日高市を中心とした場所に移住させ、そこに高麗郡を建てた。そのリーダーが若光であり、彼が亡くなるとその徳を慕い神社が造られたのであった。以後、若光の子孫は「高麗」(こま)姓を名乗り、神社の宮司を務め、現在六十代目の高麗文康氏に至る。二〇一六年は高麗郡の建郡から一三〇〇年目にあたる記念の年であり、古代の日本と韓国の関係をしのぶ様々な行事が行われた。一方、高麗神社は二十世紀前半、日本が朝鮮半島を統治した時代にも重要な役割を担わされた。すなわち高麗神社は当時の国の政策である「内鮮一体」の生きた象徴として利用されたのである。ここから近代の高麗神社の研究は、近代の日韓関係史の中で重要な位置を持つ。しかし先行研究は少なく、発表者が今年、次の論文により基礎的な作業を行ったばかりである。
一、「近代の高麗神社」(獨協大学国際教 養学部言語文化学科『マテシス・ウニウェルサリス』十八―一、二〇一六年十一月)
二、「高麗神社奉賛会の概要と構成員」(『専修人文論集』九九号、二〇一六年十二月)
本発表ではこれらを土台としながら研究の現状と展望とを述べた。
以下、結論と展望をまとめると次のようになる。
まず植民地時代の高麗神社をめぐっては大きく四つの面から考えなければならない。第一には朝鮮総督府の視点であり、これは神社を朝鮮統治への利用しようとする視点である。第二には高麗神社の高麗家の視点である。彼らには朝鮮半島に祖先を持つという家系が日韓併合の時代に貢献できるという考えがあった。第三には高麗神社に関心を持った日本人の視点である。これは一九三四年に設立された高麗神社奉賛会に携わった人たちである。彼等には「純粋な」内鮮一体への思いもあったであろうし、また古代朝鮮へのロマンを感じた人もいたと思われる。第四に高麗神社に関心を持った朝鮮の人の視点。これは自分たちの祖先が日本に定着し現在まで家系が存続してきた歴史の不思議に驚愕する視点である。これら四つの視点が交差する中に近代の高麗神社があったのである。
今後の研究はそれぞれの視点をより明確にしていくことであるが、発表者はさしあたり高麗神社を訪問した朝鮮の人たちに対する調査を行っていきたい。
平成二十九年一月七日 東洋大学白山キャンパス 六二〇三教室
インド考古調査局百五十年の歩みとカンナダ語刻文研究
石川 寛 客員研究員
〔発表要旨〕イギリスの植民地支配下の一八六一年に創設されたインド考古調査局 Archaeological Survey of India は二〇一一年に百五十周年を迎えた。その歩みの中で、モヘンジョ=ダロ、サールナート、マトゥラー、タキシラなどの発掘、重要な歴史資料である刻文の蒐集と解読に取り組んで多くの成果をあげている。発表では百五十年の事業を振り返るとともに、考古調査局とは別個に独自の史料編纂を行ったマイソール藩王国の例も取り上げ、両者の歴史・文化研究が植民地支配期に担っていた意味について検討した。
百五十年の歴史の中で考古調査局は二度存続の危機に直面している。まず初代の総局長 Director General のA・カニンガムの時代に一時廃止され、五年後の一八七一年に復活している。二度目は二代目総局長J・バージェスが退任後の一八八九年に中央組織としての考古調査局が廃止され、事業は各地方管区政府の手に委ねられた。いずれの場合も植民地支配下の地方統治という政治問題が複雑に絡んでのことであり、当時の歴史・文化研究の基盤が極めて脆弱であった事情が露呈している。
考古調査局が中央と地方を連繋した安定的組織となったのは、再び復活した一八九八年以降のことである。W・カーゾン総督(職一八九九~一九〇四、一九〇四~〇五)によって三代目の総局長に起用されたJ・マーシャルは、最新の層位学にもとづく科学的方法で発掘事業を推進し大きな成果をあげた。特に二十二年(シーズン)にわたって取り組んだタキシラの発掘によって、紀元前後の北インドの歴史はその年代学に大きな足掛かりを得ることになった。またマーシャルは、歴史的文化遺産は現地で公開すべきであるとの観点から、遺跡博物館Site Museum 設立に力を注いでいる。その方針は現在に継承され四十四の遺跡博物館が開設されている。
インド考古調査局の事業は、地方での歴史・文化研究にも大きな影響を及ぼした。マイソール藩王国では早くも十七世紀末には、自らのアイデンティティを明らかにすべくカンナダ語刻文史料の蒐集に着手していたが、一八八五年に藩王国政府内に考古学調査長官の職を設け、バンガロール生まれのイギリス人B・L・ライスが就任した。二年後には独立の部局として考古学局が立ち上げられ、引き続きライスが専従の局長を務めたことで、事業が本格化した。ライスは、一八八三年にインド考古調査局のインド刻文学専門官に就任したJ・F・フリートと激しい論争を繰り広げたことでも知られているが、精力的にカンナダ語刻文を校訂・出版し研究の成果を世に問うた。代表的なものとして『マイソール刻文集』(一八七九)、『カンナダ語刻文集』全十二巻(一八八六~一九〇五)などがある。
一方フリートの研究も後世に大きな影響を及ぼす質の高いものであった。代表的著作にボンベイ管区政府が刊行したBombayGazetteer の一部として発表された『ボンベイ管区・カンナダ語地域の諸王朝』(一八九六)があり、インド考古調査局が一八九〇年から刊行を開始した『南インド刻文集』のシリーズにも数多くのカンナダ語刻文を翻訳・校訂して発表している。両者は鎬を削って歴史研究を推進していた。
特にライスの研究は、植民地政庁とは一線を画したマイソール藩王国の歴史編纂事業の上に成り立っていたのであり、ほぼ時期を同じくするインド考古調査局の研究事業との対抗と相互影響の関係は、植民地支配下の文化行政の興味深い一面を示しているということができる。
なお、本発表での議論の詳細は、二〇一七年三月刊行予定の『インド考古研究』第三十七号(インド考古研究会刊)掲載の拙稿「インド考古調査局百五十年の歩みとカンナダ語刻文研究」を参照されたい。