平成二十七年十月三十一日東洋大学白山キャンパス第一会議室

死生観形成における日常性の問題

岩崎大客員研究員

〔発表要旨〕本発表では、死生観を有するということが日常生活においてどれだけの意義をもちうるのかという問いを端緒として考察をすすめた。発表者が行った学生に対するアンケートから、学生たちの半数近くが、死後の転生や彼岸思想といった、魂の不滅を信じているというデータを得たが、同時に彼らのもつ死後のイメージは、日常生活における態度と矛盾することも明らかになった。すなわち彼らの語る死生観は、宗教が担っていたような、生の意味づけや倫理の根幹となって日常生活の態度を導く、大きな物語として語られるものではなく、様々な教義や知識を部分的に受容した一貫性に欠けるものにすぎなかった。

そこで問われるのは、こうしたいわゆる「死生観の空洞化」と表現される状況が、宗教性の希薄化に伴う必然の帰結であり、もはや死生観は不要のものとなったのかということである。これについて、社会学者のアリエスとエリアスの死の文化史研究を基に考察した。アリエスは死の医療化によって、日常から死が物理的に遠ざかると同時に、死の悲劇性を隠し、日常の幸福を守ろうとする社会が「死のタブー視」という現象をもたらしたと主張し、エリアスは文明化の過程で、暴力が無力化し、身の危険が減少していくことで、自らの野蛮さの象徴たる死を内に隠して健全な社会生活をおくる必要が生じ、その結果、死にゆく者は死を語らず、自己抑圧的に孤独に陥っていくと主張している。死の医療化や文明化によって、現実性をもった死に触れ、意識する機会が失われる一方で、たとえば終末期医療といった非日常の死の現場では、様々な苦悩が存在している。日常において語り伝えられる非現実的な死が、内実のない死生観の基礎となっており、現実性のある死が、社会集団の平安を守るために日常から隠蔽され、自己抑圧を招いているのであれば、死生観は、宗教性が希薄化した現代においても、不要で無関心なものと断じることはできない。死を意識し、苦悩することによって、自らにとって本当に大切なもの、なすべきことを自覚するという哲学的、宗教的な死生観形成が、非日常において生じている。そこで獲得される内実のある死生観は、自己の人生全体にとって意義のあるものである以上、現代の日常においてその機会をいかに獲得するかが課題となる。それには、死を忌避する原因となる、恐怖や醜さ、恥じらいといった具体的状況をいかに克服するかが問題となり、その理想の死としてぽっくり死と老衰死を例にあげた。ぽっくり死が死の意識を避け続けようとするものである一方、老衰死は死を意識し準備しながら、なお穏やかで幸福な死を実現させる可能性をもつものであり、この死を、死にゆく本人のみならず、様々な世代が交流しながら経験していくことは、社会全体の死生観形成を可能にすると考えられる。