平成25年7月27日 東洋大学白山校舎 第2会議室
平成25年7月27日 東洋大学白山校舎 第2会議室
梶井基次郎「冬の蠅」についての考察
―その死生観の考察を中心に―
鎌形 英人 院生研究員
本発表は、冬の蠅と主人公「私」の共通点と相違点に着目することで「冬の蠅」(1928・5)の主意を明確に押え、その主意から「冬の蠅」の死生観を導き出し、それを主に湯ヶ島時代から晩年に至るまでの作品に現われている死生観と比較することによって、「冬の蠅」の死生観の特徴を浮上させることを試みるものであった。以下にその要点を記す。
先ず、「冬の蠅」の主意を以下のように押えた。冬の蠅と「私」は、枯死寸前の状況下に生きていることは共通しているが、その生き方において本質的な相違点が存在する。すなわち、冬の蠅が、自分を守る快適な部屋の中で無心に太陽の光を享受するのとは対照的に、「私」は、酷寒の闇という絶望的な逆境の中に自らの病身を投ずることによって、「疲労」と「倦怠」を「残酷な欲望」へと変えてゆこうとするのである。その生き方の相違点こそ、「私」を冬の蠅から分かつものであり、人間としての尊厳ある「私」を、より掛け替えのない「私」たらしめる存在証明でもあった。しかし、小説の結末部において「私」は、冬の蠅の太陽の光へと向かう意志であろうと、「私」の闇の真実へと向かう意志であろうと、結局は、冬の蠅も「私」も与り知らぬところで働くほんの気まぐれの意志一つで、どちらも等しく呑み込んでゆく酷薄な「其奴」(死)と対面することになる。「其奴」の掌の上では、両者の本質的な相違点はいやおうなしに無化されてしまうという衝撃的な結末をもって、一篇の幕が閉じられるのである。以上が「冬の蠅」の主意である。
次に、その主意から、死という運命に対してどんなに抗っても、結局はそれにかなう術なく呑み込まれてゆくことへの絶望感や諦念が色濃い死生観を読み取り、それを主に湯ヶ島時代から晩年に至るまでの作品に現われている死生観と比較した。例えば、「筧の話」(1928・2)と「蒼穹」(1928・3)では、死に立ち向かう情熱や希望が残される形で作品が閉じられており、「桜の樹の下には」(1928・12)と「闇の絵巻」(1930・9)では、死という憂鬱を生への力へ変えてゆくことが中心思想となっている。この四作品に現われている死生観と「冬の蠅」の死生観を比較することによって、死という運命にどんなに抗っても結局はどうにもならないという絶望感や諦念が作品の結論として提示されている点に、「冬の蠅」の死生観の特徴があることを確認した。また、梶井の最後の作品である「のんきな患者」(1932・1)では、「冬の蠅」に現われていたような死への抗いは姿を消し、最終的に死を受容してゆく様が描かれている。この「のんきな患者」の死生観と「冬の蠅」の死生観を比較することによって、「冬の蠅」では、いかに死に抗っても最終的に死に呑み込まれてゆく絶望や諦念が色濃いのに対して、「のんきな患者」では、死への抗いは消え、死の受容に至る点に両者の相違点を確認した。
日本思想の近代化と哲学科
松野 智章 客員研究員
日本の近代化を問題としたとき、大学という機関の役割は大きいものがあったにも関わらず不思議と大学自体が研究対象とされることはなかった。本発表は、日本思想の近代化を考える上で、西洋哲学/大学の哲学科はどのような役割・位置づけにあったのかを思想史の観点ではなく、哲学科の実証研究から明らかにするものである。
仮説としての理論は次の通りである。鍵は、異なる歴史・文化の枠組みで構築された西洋哲学を異なる思想的枠組みを持つ日本人がそもそも理解できたのかという点にある。これは翻訳可能性の問題と言い換えることもでき、本発表ではP・ウィンチの概念相対主義の立場から日本思想と西洋哲学の枠組みの断絶を想定しつつ、デイヴィドソンの概念相対主義批判を考慮し、西周以降日本の哲学は日本人が「想像/創造」した限りでの「哲学」であり、それが私たちの理解している西洋の哲学であると結論づけた。その結果、「哲学」は欧州特有の思想ではなく抽象化された普遍性を持つものとして位置づけられ、日本思想に影響を与えることになる。これは、日本におけるポストコロニアル批評の問題に繋がり、西洋に哲学があるのであれば東洋にも哲学があるはずだという発想のもとに東洋哲学が誕生する。つまり、東洋の思想の担保は哲学への翻訳が可能であることにある。これが、日本思想/東洋思想の近代化であり、哲学の役割である。
本発表では理論的考察を踏まえ、さらに実証研究として大学における哲学科の創設事情を個別に確認した。大学の誕生に関しては、制度上その多くが大正7年の大学令の発布以降である。大正7年時には、東京帝国大学・京都帝国大学・東北帝国大学・九州帝国大学・北海道帝国大学の帝国大学五校のみであったが、大学令発布以降、私立大学の開校が相次ぎ、昭和3年の段階では40校に増加している。その中でも、工学・医療系・商業系の大学を省き、おおよそ、確認すべき人文系大学は次の通りであった。大正九年:慶應義塾大学・早稲田大学・明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大学・同志社大学、大正一一年:龍谷大学・大谷大学・立教大学・立命館大学・関西大学、大正14年:駒沢大学、大正一五年:高野山大学・大正大学、昭和3年:上智大学・東洋大学である。このように一覧にすると宗教系の大学が多いことが一目瞭然である。
結論は、哲学科の設立は宗教系大学において積極的になされ、今日においても哲学が西洋「哲学」と東洋「哲学」の共通言語として機能し続けているというものである。最後に、本発表の論文は江島尚俊・三浦周・松野智章編『近代日本の大学と宗教』(法藏館)に所収され平成24年2月に刊行された。是非ご覧頂ければ幸いである。