平成22年10月16日 東洋大学白山校舎第2会議室
平成22年10月16日 東洋大学白山校舎第2会議室
シオラン思想における神秘について
行武 宏明 院生研究員
E・M・シオランに従えば、神秘的出来事による現実における無の支配の明視と 、 無の支配の明視の後も存続する実存の神秘は共に生存に否定的効果を及ぼす。この2つの「神秘」によって、 生存に関する 、従来の価値観は無化 、 解体され 、世界観あるいは人生観は否定的転換を余儀なくされる。「神秘」に直面し、本質的に耐え難い生存を痛感するシオランは 、 一貫してその耐え難い生存を耐える ための知恵を追求する 。
1947年以降、シオランは東洋思想、特に仏教の教説に接近する。 実存の内奥に見出される「無」 を自由の契機として受容し 、 その無の感覚を基に苦悩の原因である自我と欲望からの解 放を教える仏教にシオランは 共感し 、 仏教の教えこそが人 間を窮境から解放する知恵で あることを主張する。しかし、 シオランは仏教の教えに従う ことができない。行為への欲 望を本質としてもつ典型的西 洋的人間として 、 シオランは 生存にたいして深い無関心ヘと没入しなければならない仏教の教えに共感しつつもその実践を阻まれている。その上で、シオランはかつての如く素朴に生きること、言い換えれば意識的「軽薄」を生きようと試みるが挫折する。意識的に 皮相であろうとすることは不自然な営為であり成功しない 。 その結果 、 シオランは実存の窮境からの解放の可能性が完全に絶たれた 、 実存の袋小路に到達する。
ここからシオランは自身の陥った窮境を凝視する。無に支配され、 無化 、 解体された生存と世界の有様 、 解放の希望なくして存続する実存の悲惨 、そして束の間の 、即座に相対化される解放の経験 、 こうした実存の窮境を 、シオランは断章形式をもって叙述する。その、多分に悲観的な叙述はそれにもかかわらず 、 本発表者が推測するには 、 ひとつの解放の契機である 。 シオランに従えば、実存の窮境の凝視は人 を意気消沈させ 、 人を東洋的叡智から疎外させるところの欲望を磨耗させる 。 その磨耗は行為と構築を本質とする西洋的人間にとっては後退であるが 、 行為から離隔し一切にたいして無関心であろうとする東洋思想的解放への道においては前進である。つまり、実存の窮境を凝視する 、 多分に悲観的なシオランの叙述は 、それ自体が東洋思想的解放への契機として読み手を教化する 、生を耐えるための知恵であると考えられる。
西洋思想の終焉に直面し 、 そこから生を耐えるための知恵を追求するシオラン思想は 、 その追求の過程において不可避的に遭遇する挫折を媒介とした 、 西洋思想と東洋思想の交流を体現するひとつのユニークな形態として考慮に値するのではないだろうか。
後西院の和歌について
大内 瑞恵 客員研究員
近世前期の天皇の和歌に関する研究は後 水尾天皇(1596〜1680)とその子である霊元天皇(1654〜1732) に重点がおかれている。この2人の天皇は長命であったことと、精力的に和歌をはじめとする文学活動を行い 、 古今伝授を継承するととも に歌壇を形成していったことでも注目される人物である。 しかし 、 この2人の天皇の 間には明正天皇・後光明天皇・ 後西天皇と3人の天皇が存在する 。 みな後水尾天皇の皇 女・皇子である。徳川和子を母とする明正天皇は女帝であった。後光明天皇は22歳で急逝したが漢詩文を好んだことで知られている。では、後西天皇(1638〜1685)はどのような人物であったのであろうか。高松官家を 継承したが、兄後光明天皇の急逝により 、 唐突に皇位を継承することとなった天皇である。後西天 皇は八年の在位の後 、霊元天皇に譲位 、院となる。
この後西院の家集である『水日集』は 、 後西院自撰として書陵部を 中心に多くの写本が伝わっている。従来、院の自撰とのみ解説されて いたが、諸本を比較検討してみると、院の没後も編集が加えられ、増 補改訂が行われていることがわかる。その内容にはさまざまな異同が あり清 書のどの段階で書写したかによってその内容は大きく変わる。 奥書によると 、写本の多くは後西院の第二皇子である有栖川宮幸仁親 王所持本を原本としているが、合点・校合などの書き入れがあるもの も多い 。
そのなかで歴史民俗博物館高松宮家伝来禁裏本『水日集』は上中下 3冊からなる 。 この3冊本と同じ内容をもつものとして影考館蔵後『 西院御集』がある。水戸家における借覧・書写の段階で『水日集』は この三冊本の内容しか持たなかったものと考えられる。
しかし 、 高松宮家伝来禁裏本にはこの『水日集』の続きともいうべき写本『後西院御詠草』(1冊)が存在する。ここには承応2年2月 6日石清水社御法楽和歌「早春霞」から和文「玉の語」を含む二三首 が記述されている。
現存の『水日集』の多くはこの後『西院御詠草』の内容を含む構成となっている。
また 、 後西院の家集として別に『緑洞集』があり、その内容は『水日集』との重複が多いため 、 『国書総目録』などでは『水日集』の別 書名としている 。 しかし実際のところ『水日集』を再編集したものが 『緑洞集』である。
大阪市立大学森文庫蔵本水『日追加緑洞集抜書』の記述によると「『 緑洞集』には『水日集』にない歌がある」ためその追加部分を抜書した という 。 『水日集』を増補改訂し 、 『緑洞集』としたものと考えられる。 龍谷大学蔵本『水日集(亦号緑洞集』)の奥書には「未被遂清撰依御 遺詔他見御憚云々」の一文がある。『緑洞集』編纂の後も、さらに後西院のご遺詔により精撰が遂げられていないため他見は憚る。つまり 『緑洞集』もまだ未完成ということである。
ここには推敲に推敲を重ね 、和歌に執着した後西院の姿が見えてく る 。近世前期和歌研究の一環としてこの後西天皇に着目すると、あら ためて天皇にとって和歌がいかに重要なことであったか再確認することができるのではないだろうか。
カマラシーラの中観思想―その思想の核となるもの―
計良 龍成 客員研究員
インド後期中観派のカマラシーラ(kamalāsika c. 740-795)は、法称(Dharmakīrti c. 600-660)の認識手段(pramāṇa )の 理論を、一切法の無我(nairātmya )・無自性性(niḥsvabhāvatā ) という中観派の哲学的立場を証明・確立するための理論的基盤・中核とし 、 そしてその哲学的立場を証明・確立するために、法称の理論の 適応範囲を拡大した。本発表では、そのことを彼の中観思想にとって 最も本質的な事柄である勝義(paramārtha )・真実(tattva)の確定 と勝義・真実を見ること(真実知の獲得)について説明しながら考察 した。
一切法無自性という真実は推論により論証される事柄であるが、カマラシーラは 、 彼の論証において 、 「事物の力によって機能する推論」 (vastubalaprāmāṇa ) と「経典に基づいた推論」 (āgamaśritānumāna )という法称の二種の推論を受入れるだけでなく、経典の権威に 関する法称の立場も完全に受手段に依拠して説明するカマラシーラの理論は、彼の修道論の本質を 形成する重要な理論ともなっている。真実知が、仏地に至り、仏陀になるための最主要因であるからである。真実知の成立を理論上説明する際 、 彼は法称の無知覚(anupalabdh )の理論を応用し、独自の無 知覚解釈を提示する。それは法称の無知覚解釈とは多くの面で異なっているが 、 彼は法称の理論自体を批判しているわけではない。世俗としてはその理論は成立すると認めているからである。彼は法称の理論 の適応範囲を拡大しているのである。
さらに 、 真実知はカマラシーラの衆生救済論の核となる一乗思想で も本質的な役割を呆たしている。「一乗」(ekayāna)の「乗」(yāna ) とは 、 涅槃に至る手段としての真実知ヽ即ち中観派の説く唯一の真実 知を意味するからである。
以上により 、 真実を見ること 、 真実知の獲得が、修道論・衆生救済論をも含めたカマラシーラの中観思想の核心であることが理解され る 。 その真実知は 、彼の無知覚解釈によって理論上成立可能なものとして基礎付けられ 、そしてその彼の解釈は 、 法称の理論の適用範囲を拡大することにより成立している。従って、法称の理論とその理論の 拡大がカマラシーラの思想の核心を形成していると見なされるのである 。