平成22年7月7日 東洋大学白山校舎スカイホール
平成22年7月7日 東洋大学白山校舎スカイホール
朱熹の気質観
辻井 義輝 院生研究員
朱熹にとって、我々は、屈んだり、伸びたり、往ったり、来たりする躍動性がある天地の「気」の生生の延長(①気化、②形化)としてあると捉えられていた。そのため、我々も同じくそのような気から成っており、我々の気と天地の気との間にあつては、何の断続もなく直接に連続しているとさえ考えられていた。
このような天地の気を受けた我々の気とは、具体的にはこの身体を満たしている血、呼吸の流れにあたると捉えられていた。朱熹は、他の生命に比しての、人格的な、あるいは知力的違いから、さらには形体の違いにいたるまで、全て気(血、呼吸)の流れの正・偏、通・塞のあり方を反映して、生じていると考えていた。
人間に即して言えば、身体を作り上げる基礎となる血、呼吸の流れ全体のシステムが天地の気のあり方にかなって(正)いるので、その流れは塞がることなく貫通している。従って、原理上、心を十分に舵取りすることができる。しかし、天地の気のあり方にかなっていて、従って、心を舵取りすることができるとしても、優れてかなっている場合もあれば、それほど適切でない場合もあり、それが人品の良し悪しに反映している。さらに、貫通しているにしても、すっきり濁りなく貫通している場合もあれば、濁って貫通している場合もあり、それが知力の良し悪しに反映していると考えていた。
朱熹は、血、呼吸の流れのシステム=気について、個体の内部にあって清いのが、呼吸の流れにあたり、濁っているのが、血の流れにあたると考えていた。個体の内部における清い気は、「気」といわれ、陽に属しており、濁った気は、「質」といわれ、陰に属していると考えていた。
そして、気を主宰するものとして、「魂」があり、質を主宰するものとして、「塊」があると考えていた。魂は、動作性があり、暖かく、知覚、運動を働かせ、思慮を凝らし、計略を練る作用をする一方、塊は、動作性に欠け静かで、冷たく、感覚作用として働き、過ぎ去ったことを記憶し、弁別し、さらには形体(骨、肉、皮、毛)を組成する作用をしていると考えていた。
このように、朱熹は、天地の気に直接つながる、①気とそれを主宰する魂、②質とそれを主宰する塊のそれぞれの働きと、それらの連続、連携によって身体が成立していると捉え、このようなわけで、「気」は、気だけで、動作性・精神性を有し、こころの働きも、視覚作用も、聴覚作用も、動作・行為もこのような気に拠る働きにはかならない捉えていたことが窺える。
以上のように朱喜は、「気」「質」「魂」「塊」といった漢民族伝統の概念を使い分けながら、現代の我々から見ると極めて特異な身体観をもち、また、このような身体観の延長のもとにこころをも捉えていたことが窺える。
東西思想の接着点 ―来華天主教思想の特徴から―
播本 崇史 院生研究員
明末の来華天主教の一特徴は、宣教師自身が華語を自 在に操り 、 古代儒学思想を天主教説と矛盾しない教えとして認め、その概念を導入することで 、 中国士人に天主教受容の端緒を 開かせたことである。その中心人物が、天主教書『天主実 義』を漢文で著した利璃寅 [Matteo Ricci, 1552-1610]であった。
ところが、天主教徒が活躍した明清期では 、 知識人が官学として理解していた教えは朱子学であり 、 無論その朱子学と天主教説とは 、 本来的に 全く異なる教えであった。先 行研究においても 、 その相違は強調され、伝統思想との接点と言う意 味では 、 むしろ古代儒学概念の延長上に、天主教説が位置づけられる とするものが多い。ただし利馬貨は、明末の少なからぬ士大夫から「西洋の儒者(西儒)」と称えられていた一面をも持つ。本発表では、利馬賽が 、 単に古代儒学概念だけではなく、朱子学的思惟をも顧慮した上で 、 土着思想と天主教説との調整を図っていたということについて発表した。
まず利薦費が、中国士人が理解していた太極論、『太極図説解』で 用いられている概念を、「天主」の説明に活用していた点を指摘し、 考察した。来華天主教では、万物の根源者として「天主(”Deus"の華語訳)」を説くが、そもそも Deusという神観念は、中国には無かっ たものである。利鶏賽は、宋学において物″の根源″として理解され ていた「太極」に着目し、太極が物を成り立たせる理であることを認めつつ 、 天主はそれ自体を創った最根源者であるとして、太極論そのものを完全否定することはなかった。
また 、 新儒教における本性論を確認した上で、性善説と原罪論における思想構造の類似性を指摘した。『大学』では、人の本性は本来的 に善とされるが、現実的には私欲に覆われ、そのままでは十分に発揮 できない事態が想定されている。これに対して利馬費は、「明徳」概 念を用いながら、天主が創った人の性は本来的に善ではあつたが、アダムとイブとが天主の命令に背いた事により、本来性に疵がついた、 と解釈して 、明徳が私欲に蔽われること自体が 、人類が原罪を負っている証だと意味づける 。耶蘇キリストは 、不完全なる人類の贖罪のた め 、その完善なる指針として世に降誕した天主の姿であると説かれる。
明末の来華天主教説の特徴の一つは 、 古代儒学概念を用いつつ 、 朱子学における思惟構造をも活かしながら、その上に天主教説を構成す るといったものであった。またこれに対する中国士人の反応には、儒教思想の枠内において 、 天主教説を理解しようとする特徴が見られる のである 。東西思想の担い手たちに共鳴をもたらした思想として、本問題はまことに興味深く思われる。