平成21年7月4日 東洋大学白山校舎6311教室
平成21年7月4日 東洋大学白山校舎6311教室
満州への詩魂l室生犀星『吟爾濱詩集』
額ホ敦巴特ホ(エルドンバートル) 奨励研究員
室生犀星は昭和12年(1937)4月18日から同年5月6日まで 、 日中戦争の直前満洲へ旅している。旅の収穫の1つ に『吟爾濱詩集』(昭和32年7月冬 、 至書房)がある。本発表では その旅の時代背景において『吟爾濱詩集』の世界を検討した。
伊藤信吉の説に拠れば、室生犀星は朝日新聞社の依嘱で満洲へ旅し、 新聞社は「大陸経営の国策を織り込んだ小説を期待した」ようである。 (伊藤信吉犀「星と虫」 、 犀星の会編犀『星とわたし―犀星の会編講演 集』 、 昭和63・4、白楽)室生犀星自身は、その「実行する文学」(昭 和12・2、改『造』)の中で私「はハルビンからチチハル及びそれらの 地方を氷雪の融ける季節を待ち受けて出掛けることにしてゐる。(略) 文学を利用すべき機構に必要あれば我々は力を籍」すと書いてあり、 また此『君』(昭和15・9、人文書院)には、「私は先年満洲に赴いた 時 、 何等かの意味に於いて日本を新しく考へ 、 そして国のためになる やうな小説を書きたい願ひを持つて行つた」とも述べている。 以上のことから次の推定がなされそうである。
①満洲への旅は自発的なものではなく、他者の意志、つまり、朝 日新聞社と関係があった。
②この旅は「実行する文学」を書く頃既に計画されていた。
③旅の動機は 、 最初は時局向きのものを書くことにあった。
満洲について言えば、中国東北地方の遼寧・吉林黒・竜江の三省を、 日本はかつて「満洲」と呼び、大陸への足がかりとしようとした。1921年 、 ついに満洲の全土を占領した日本の関東軍は 、 1932年 (昭和7年)3月 、 清朝最後の皇帝であった津儀を執政に擁立して満 洲国を建国し 、 その国政の実権を握った。同時に、偽満洲国政府と関東軍による言論統制が強化され、満洲では、「太平」「王道楽土」を賛 美する国策文学が現れた。一方、日本の文壇でも、満洲のそれと同調 するような国策文学が台頭していた。
室生犀星の満洲への旅には以上のような歴史的 、 政治的背景がある。 ところで 、 『吟爾濱詩集』には 、 当時の国策とは関係のない 、 また既 述した室生犀星の考えとは裏腹に 、 全く別の芸術世界が展開されてい る 。
本発表では 、 詩人の複雑な精神面が反映されているこの芸術世界を 無常観 、 漂泊意識 、 滅びゆく ものへの哀惜 、 孤独感などの 視点から分析かつ解釈してみ た 。『吟爾濱詩集』において 室生犀星は 、 当時の 、 国策追 随の文学を求める権力の要請 に従わず 、 象徴 、 暗示などの 手法によって、無常、漂泊、 哀惜など複雑な感情を表現 し 、 彼独自の芸術世界を創造 した 。 そこに 、 彼の 、 詩人と しての志が反映されている。
『小右記』にみられる「出家」について
榎本 榮一 客員研究員
藤原実資の日記である『小右記』には 、 貴族および官人たちの「出家」に関わる記事がかなりの数見られる。摂関期の人々 が、得度・受戒を含め出家をどのように捉えたかなどを考察する。ま た 、 藤原道長の命終について 、 『栄花物語』との対比により当 、 時の人々 が死についてどのように対したのかその一端をみる。 その出家の理由・動機について 、 次のような4つに分類した 。
【1】命終の期および病が重篤になったため27件。受戒・出家 に関わる記事の約半数がここに分類される。病気を契機とした円融天 皇の出家 、 冷泉天皇の后であった昌子内親王が病気が重くなり出家 、 また藤原道長の病が重篤になっての出家などがここに入る。【2】自 発的なもの17件。自らの意志により出家し仏道に励む、出家とし て最も正当なもの 。 官人が出家し僧として寺に入る 、 道長の息子顕信 が叡山の戒壇院で受戒したことなどの例がある。ただ理由・動機のはっ きりしない出家もここに合めた 。 【3】罪や債務などから逃れるため 五件 。 強盗を働いた者が追われて出家したが逮捕されたり、花山法 皇を射た事などの罪により大宰府に配流の途中突如出家した藤原伊周 や 、 交替する国司が国家に納めるべきものを済まさずに出家してし まったりといったものなどがある。これらは出家することにより俗世時の縁が精算され、罪や債務 などから逃れ得るとすること があったと考えられる。【4】 その他9件 。 道長の父兼家 は童子五十六人の頭を一度に 則剃り 、 東三条院詮子および実資の娘の病が重くなったとき 童子の頭を剃るなど本人の身 代わりに童子を得度させてい る 。 また童子に沙弥戒を授け 、 舎利使として五十七社に派遣 するなどの例がある。
以上の分類中で最も多くみられたのが、死期が近いと悟った者や、病が重篤になった者が受戒・ 出家した例である 。 出家は本来僧として寺に入り仏道に励むものであ るが、これら出家する者の多くは寺に入り仏道に専心することもなく、 受戒。出家することにより何かを得ることを期待したからである 。 そ れは後世の善縁を結ぶことであり 、 また功徳を積んで良い報いを期待 したからである 、 自らが受戒・出家するだけではなく、童の頭を剃り 得度させることも 、 また授戒に関わったり、法会の導師を務めた僧に 度者を与えることも同じことを期待してのことといえる 。
道長命終の前後について 、 『小右記』と『栄花物語』の記述には違 いが見られる。『小右記』では、触械を避ける意識を道長の縁者にも 読み取れる。しかし『栄花物語』の描く場面は、死に行く人もそれに 立ち会う人も 、 仏を頼りとしまた極楽に往生しようと願う1つのス トーリーないしは価値観を共有しようとしたように表現しているとい える 。 これらは当時の死に対する両面を表している。
老婆と長屋―滑稽本の趣向―
中山 尚夫 研究員
本発表は享和2年(1802)に初編が刊行された『 東海道中膝栗毛』以降の、低俗な笑い・滑稽を旨として作られた後期滑 稽本を 、 滑稽本と称して 、 その趣向の丁二について述べたものである 。
滑稽本の話の展開様式は 、 作品全編に互って貫かれている大きな趣 向があり、その大きな趣向を完成させるために、小さな「場面」が構 成されて、この一々の「場面」を繋ぎ合わせてゆくと大きな全体の趣 向が完成される、という展開になっている。『膝栗毛』を例にとれば、 主人公の弥次・喜多が滑稽な旅を続けて伊勢参宮から京。大阪見物をする 、という全編を貫く趣向があり、彼らが道中で繰り広げる滑稽話 が小さな「場面」である。この「場面」を読者に提供しながら、その 連続によって全編が形作られてゆく、という二重構造的構成から成っているのである。
感和亭鬼武の『有喜世/物真似旧観帖』初(編文化2年 、 中編同 3年 、 3編同6年刊)の主人公は 、 奥州測黒村の老婆である 。 彼女と 甥の福助とが江戸見物に出て、そこで田舎物ゆえの滑稽・笑いを巻き 起こす 、 という筋立てである 。 つまり 、 都会と田舎との落差から生じ る笑いを「場面」として描いた作品である。2人の郷里は仙台近辺の 田舎と見られるが、その土地や2人連れで江戸見物に出かける趣向、 見物場所の順序など、後の十返舎一九の『方言/修行金草戦』に酷似している 。詳細は他日にゆずるが、双方の成立を考える 時重 、 要なことである。また、 老婆を主人公にした点が注目 されるが、これは『好色一代 男』跛文に見られる「藁かか」 の例と同じで 、 都会の文化や 文学と最もかけ離れた存在と して設定されたものである。 そして 、 彼女に名前を持たせ ない点については 、 同様の性 質性格を有した不特定多数の 人物が想定されたものと考え られる。
春川五七の『民間/図誌口八丁』(文化4年刊)も老婆を主人公 と舞台回し的役割とに用いた作品で 、 これは長屋が舞台となる。産婆 の子「だね」は 、 おせっかいなおしゃべり老婆で、長屋中を回っておしゃべりと滑稽とを振りまいてゆく。その一々が「場面」である。旧『 観帖』でも言えることだが、老婆を主人公とした点は、この類の作品 が低階層庶民を読者として想定したからである。したがって、その笑 いも「知的」なものではなくなっている。「長屋物」では、特定の1 軒に大勢が次々押しかけてきてその都度滑稽・笑いが巻き起こるとい う形もある。19の『串戯二日酔』がこれである。大晦日と元日とに 時間を絞った設定は 、 『世間胸算用』を彿彿とさせるが、これに限らず滑稽本においては 、 井原西鶴あるいは八文字屋本 、 気質物からの影響について 、 いま少し深く考える必要がありそうだ。文学史の課題として考えてみたい