平成20年12月13日 東洋大学白山校舎6201教室
平成20年12月13日 東洋大学白山校舎6201教室
古今著聞集における「管絃」と「音楽」
櫻井 利佳 奨励研究員
本発表では、『古今著聞集』(以下著聞集と略す)にお ける「管絃」「音楽」の語の意味を検討したうえで、著聞集において 「管絃歌舞」篇がどう意味づけられるかを考察した。著聞集は楽の歴史を知るうえで最重要文献の1つであり、一文献における分量や内容の多様さの点では群を抜いている。
「管絃」「管絃者」「非管絃者」「絃管」「糸竹」「音楽」の用例を検討した結果 、 著聞集は概ね説話の原拠の表現をそのまま用い、編者自身の言葉で記述する場合には 、 楽を表す語としては「管絃」を用いていた。
「音」と「楽」とが別のものとされる漢籍を調べると、「楽」が最も広く使用され 、 仏典には「音楽」が多く、「管絃」「糸竹」は韻文に多くみられる傾向にあった。
「管絃者」「非管絃者」は、著聞集が初出用例の可能性がある。「管絃者」は、地下の「伶人」と対立する語で、高位の、管絃を得意とする者をさすこと 、 また4例中二2例は編者の琵琶の師匠である藤原孝時 と 、その父孝道に用いられているところから、特別な賛意の籠もった語と考えられることを指摘した。
また著聞集の用例には 、 世俗は「管絃」 、 仏教は「音楽」という区別があるかに見えるが、『六国史』や古記録の用例を検討した結果、 古くは「音楽」であったものが、『御堂関白記』の頃から「管絃」ヘ と移行していた 。 つまり日本においては 、 仏教 、 世俗の別なく「音楽」 であったものが、貴族間では一条朝の頃から「管絃」に移り、仏教側では、漢訳仏典に「音楽」とあるためか、大きな変化が起こらなかったと考察した 。
発表後半では「管絃歌舞」という篇目について論じた。漢籍の類書 は一貫して礼楽一体の配列を成し、分類名は「楽」であるのに対し、日本の類書 、 辞典類の分類名は「音楽」であり 、 その配列は利用目的に応じた多様なものであった。
また著聞集は「管絃」を分類名として用いた早い例であった。「管絃」を採用した理由については 、 ①編纂当時 、 「音楽」は仏典に関係する語と捉えられており 、「音楽」を篇目とするのには違和感があっ たであろうこと 、 ②「詩歌管絃の道々」の「優れたる物語」を集めることを目的としたとする跛文冒頭の言に答えがあるとした。
すなわち 、著聞集の第5 、 6、 7篇は 、 「詩歌管絃」の語を体現する かのように 、 「文学 、 和歌 、 管絃歌舞」の順に構成されているためである 。
序に 、 自ら琵琶の伝承者と述べる編者の集において 、 管絃の歴史を著すことは 、 編纂動機の中核であったと考えられる。そこに示そうとしたのは、説話文学に多い往生諄の奇瑞のパターンとして現れる 天上の「音楽」ではなく 、 当時の男性貴族の能力そのものとしての「詩歌管絃」の歴史であったと結論づけた。
日蓮における「理同事勝」批判
土倉 宏 客員研究員
日蓮は台密を「理同事勝」思想を持つものと位置づけ 、 理同事勝を批判することにより 、 台密を批判した 。 今回取り上げた日蓮関連文献―『諸宗間答砂』 、 『法華真言勝劣事』 、 『真言天台勝劣事』 、 『真言見聞』 、 『真言宗私見聞』はいずれも真蹟が現存しないものである 。 その意味でこれらの文献を日蓮の文献と断定することはできず 、 「これらの(日蓮関連)文献」という限定的な枠組の中での考察となった 。 管見によれば、「これらの文献」と日蓮真蹟文献(『報恩抄』『撰時抄』など)における 、 双方の理同事勝批判は概ね同一のものと考えることができる 。 ただ「これらの文献」に見られる真言批判 、 台密批判 、 理同事勝批判はより詳細で体系的である 。 今回の発表では 、 「これらの文献」における理同事勝批判を 、 理同批判と事勝批判とに分けながら考察し 、 さらにそこに見られる独自の事相論にも触れてみた 。 発表要旨は次の3点である 。 ①台密では法華の理と大日等の理を同とするが 、法華経に説かれる至高の理は大日経にはなく 、 法華経のみに説かれる(理同批判) 。②台密では事相を重視し 、 その点で大日等は法華に勝れるとするが 、 理のない事相は意味がない(事勝批判) 。③「これらの文献」においては 、 「必ずしも法華に事相がない のでなはく、法華における事相もありうる」と示唆する(独自の事相論)。このうち、特にポイントとなるのは①であり、①に関して次のような視点で考察をした。
法華の理は詮ずるところ一念三千ということになるのだが 、 「これらの文献」におい ては 、 一念三千の成立に関し特に二乗作仏をその条件としている 。 十界互具 、 百界千如 、 一念三千 と展開する一念三千論であるわけだが 、 法華経に繰り返し説かれる二乗作仏がなければ、一念三千も成立しない、との視点である。台密では理同と説き 、 法華の理― 一念三千は大日等にもそなわる 、 とするのであるが 、 二乗作仏を説かない大日経に一念三千がそなわるはずがない 、 というのが理同批判の論点となっている。この二乗作仏のことを人開会といい 、人開会と法華経本門の久遠実成は連動するものとなる。 こうして 、人開会という具体的な側面を持つ久遠の三身相即の仏こそが根本となるのである。この仏に比せば、密教で説く法身の無始無終 は何ら意味を持つものではなく、台密で説く釈迦大日同体論も根拠を失う 、 としていくのである 。ここからさらに 、この法華経の至高の理 をそなえることなく 、 台密でどのように事相を説いたとしても、その教えは有名無実である、として事勝批判へとつなげていくのである。