平成20年11月8日 東洋大学スカイホール
平成20年11月8日 東洋大学スカイホール
近代日本における『原人論』の再発見と論争
―高橋五郎の批判と織田得能の救釈―
佐藤 厚 客員研究員
中国唐代の仏教者・宗密の『原人論』は、「人間の根本は何か」という主題をめぐり、儒教。道教と仏教とを比較し、仏教の優越性を示した著作である。本書は日本にも古くに伝来したが、明治になると再び注目を集めた。それは廃仏毀釈からの再興を企図した仏教各宗派が、近代的な教育制度を整備し、その中で本書を教科書に採用したためである。こうした中、明治を代表するキリスト教者である高橋五郎は本書を批判する著作『人類学一斑評原人論』を著わし、それに対して、これも明治を代表する仏教学者。織田得能は高橋を批判する書物『原人論和解』を著わした。本発表では宗密『原人論』をめぐる高橋の批判、およびそれに対する織田の高橋批判の論点と問題点(根源的存在と悪との関係)とを明らかにする。
まず『原人論』の儒教・道教の教えをめぐる問題である。宗密は両者を儒道二教の根源的存在を虚無の大道とする。そして大道が生死・賢愚の根本となるから人間にとっては運命論となり、さらに条王や村王といった暴虐な王を生み出したことから、悪を含み、善なる存在となるため、人間の根本とは認定できないと批判する。これに対して高橋は、儒道二教での根源は、太極であり、それは至善なるものであること。条王らが悪だったのは後天的な問題であり、太極とは関連しないと説く。これに対して織田は、儒道の根源的存在が太極ではなく道であり、また悪が生ずる過程や根拠を説明できない限り条村の問題は解決しないと批判する。
続いて宗密が最も高い教えであるとする一乗顕性教をめぐる問題である。これは、すべての衆生に本覚真心、仏性、如来蔵があるが、無始の昔から妄想に覆われ、衆生は悟れず生死の苦を受けるという教えである。この中、高橋は、如来蔵と妄想との関係を問題とする。すなわち妄想の根本が如来蔵であるならば、先ほど宗密が批判した大道説と同様、如来蔵は善だけでなく悪も含むことになると批判する。これに対して織田は、如来蔵には絶待門と相待門の2つの立場があるとして高橋の論難を回避する。つまり高橋の批判は相対門でのことであり、絶待門の如来蔵は非善非悪である。ゆえに、一乗顕性教における根源的存在=絶待門においては高橋が問題とする悪の問題は存在しないと論ずる。
この論争の意義は、近代において『原人論』が仏教を代表するテキストになったために 一般の目にも触れるようになり、それにより高橋のような非仏教側からの批判が起こったこと。そして、そうした仏教以外からの批判に対して織田が自らの工夫により解釈を行ったことにあるといえる。しかし細かく見ると織田の解釈にも問題点がある。
古代デカン国家の地方統治
―前期チャールキヤ朝・ラーシュトラクータ朝の事例を中心に
石川 寛 客員研究員
インド(南アジア)の歴史研究、特に古代・中世の研究は 、 もっぱら碑文や銅板文書などのいわゆる刻文史料によってなされてきた。それらは主に、王や王族など行政の中心を占める権力者や地方を統治する有力者が 、 ヒンドゥー寺院や聖職者であるバラモン、 ジャイナ教僧院などに対してなした寄進を記録するものである。刻文はまた同時に、支配機構の中で上位の権力者が、そうした寄進行為を承認し裁可することで公文書としての性格をもった。そこには、権力機構における上下の支配関係や地方統治の実態の一端をうかがうことができる。発表者のフィールドであるデカンの歴史研究もそうした刻文を史料としてなされている。
本発表では 、 前期チャールキヤ朝・ラーシュトラクータ朝といったデカンの代表的な国家をとりあげ、その地方統治の問題に焦点をあてて検討した 。 はじめにデカン地方に特徴的な「行政区画の数字付き名称」についてその意味をめぐる論争を紹介し、10万までの数字については 、 当該区画に属する村落の数を表わしたものであるこ とを明らかにした 。ついでその代表的な事例であるバナヴァーシ1万3000とベルヴォラ300について 、 区画が設定された時期とその経緯 、 統治者の変遷、区画の中心地と推定範囲などについて考察した。 両者はいずれも前期チャールキャ朝(543頃〜757頃) 時代に行政区画として設定さ れたが、その範囲は、前者がチャールキヤ朝によって併合されたかつてのカダンバ朝の領域、後者は首都バーダーミにも比較的近い穀倉地帯である。当初、刻文はサンスクリットで記されていたが、前期チャールキヤ朝の時代の後半から この地域の言語であるカンナダ語の文書が増加しはじめ、さらに続く ラーシュトラクータ朝(752頃〜973頃)時代にはもっぱらカンナダ語で記されるようになった。この変化の重要性についても指摘した。
最後に今後の研究の展望として、ベルヴォラ300の中心地アンニゲレが、13世紀に至るまで都市として繁栄を続けていたことを示す史料をとりあげた。なかでも後期チャールキヤ朝(973頃〜1198頃)の時代に南のタミル地方を支配したチョーラ朝との戦いで功績のあったベルヴォラ300の統治者マーララサによってアンニゲレに 建立されたシヴァ寺院が、広く地域の信仰を集めている例(地域的な聖地の成立)に注目し 、 行政区分という支配権力による地域の設定と 、 信仰の広がりという民衆サイドの動きとがどう関わり、有機的なつながりとしての地域という枠組にどう影響を及ぼすのか 、 今後の課題として検討を予定している。
ヒンドゥー教の聖地形成におけるイスラームの関与
―北インドの聖地バナーラスを事例として
宮本 久義 研究員
現在インドでは人口の約80%を占めるヒンドゥー教 徒と約12%のイスラーム教徒のそれぞれ一部が各地で対立している 。 特に両者がともに聖地としているバナーラス、アヨーディヤー、マトゥ ラーでは 、 警察が常駐する状態が何年も続いている 。 そこで今回はそのうちバナーラスを取り上げ、両宗教対立の歴史的経緯と現在の状況について検討してみたい 。
現在のようなヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が始まった直接の要因は 、 1947年のインド・パキスタン分離独立時からのカシュミール地方帰属問題(政治的事項なので 、ここでは論じない)と 、 1992年に起こったアヨーディヤー問題である。アヨーディヤーはヒ ンドゥー教のヴィシュヌ神の化身ラーマの生誕地とされる聖地で 、 ヒ ンドゥー至上主義者がムガル帝国初代皇帝バーブルの名を冠するバーブリー・マスジッドを破壊し、両者のあいだに大暴動が起こったことから 、 その緊張が他の聖地にも波及した 。
しかし 、 バナーラスでは 、 何世紀も前から両派の対立は存続していた。 特に12世紀から17世紀にかけてはイスラーム王朝によって何度もの攻撃と破壊をこうむった。1738年に、 ムガル帝国の皇帝から徴税権 を得て 、 ヒンドゥー教徒を王 とする藩王国が成立したあと 、 ヒンドゥー教寺院や沐浴場の 再建・整備がなされ 、 ようやく聖地としてのバナーラスが復興したといえる 。
一方 、 ヒンドゥー側でも、 イスラーム教徒に対する牽制を行っていたことは、ヒンドゥー教徒の重要な祭礼であるラーム・リー ラーを詳細に検討することによって浮かび上がってくる。毎年秋に一ヶ月間にわたって行われるラーム・リーラーは、ヴィシュヌ神の化身ラーマの生涯をたたえる 、 庶民にもっとも愛されている祭礼であるが、 旧藩王が参与することで古代の理想的統治形態の王国(ラーマ・ラー ジヤ=ラーマ神の王国)が擬似的に再現される宗教装置ともなっている 。 またこのラーマ・ラージヤという概念は、インド独立運動を率いたガーンディーの政治理念でもあった。しかし多宗教国家インドにお いて 、 ヒンドゥー教徒がラーマ・ラージヤを理念として掲げることは、 閉鎖系の共生ともいえるものであり、ラーム・リーラー自体も問題を 含んだナショナリズム運動に堕してしまう恐れがある。真の開放系の共生を実現するためには 、 両宗教徒間の持続的な対話の道を切り開く必要があろう。