平成20年7月12日 東洋大学白山校舎3203教室
平成20年7月12日 東洋大学白山校舎3203教室
日本近代文学における敗戦体験―石川淳と戦後風俗
水谷 真紀 奨励研究員
1945年8月15日に第2次世界大戦が終結した。戦時下に流布した「聖戦」イデオロギーは破綻し、替わって占領軍による支配が開始された。「近代文學」同人の本多秋五は、「芸術歴史人間」(「近代文學」1946年1月)で、「軍国主義の時代に育てられた青少年は、8月15日を境として、一挙に明るいところから暗いところへ突込まれたごとく、手探り足探りで進むより仕方のない状態におかれてゐる」と述べている。このような混迷にあって、石川淳は戦 後の風俗をテクストに織り込みながら作品を次々に発表し、高い支持 を得た 。
1946年頃の石川淳のテクストについて、前田愛は「焦土の聖性」 (『都市空間のなかの文学』筑摩書房、1982年)で、「焼跡の風景 を包む闇のなかから立ちのぼる聖性のかがやきを、見立ての手法をかりてからめとってみせた」と指摘している。たしかに石川淳のテクストでは 、 戦後風俗に「聖」イメージが重ねられ、その差異が叙述されていく 。 叙述の方法という観点からテクストを分析すると、「聖」イ メージの現出と展開には女性像が深く関わっている。今回の発表では、 石川淳の短篇小説「燃える棘」「雪のイヴ」の分析を行って、敗戦後 の都市風俗と言説空間を解明しながら、石川淳の試みを考察した。
「雪のイヴ」は、戦後風俗に生きる女性像と主人公の関わりを通して 、 焼跡の都市に「聖母観念としての大地」を見出したテクストであ る 。 この物語に登場する女は、有楽町ガード下で靴磨きをしながら、 パンパンとも呼ばれる街娼として造形されている。このような女性像 は 、 有楽町ガード下から数寄屋橋、銀座界隈というトポスを表象する といえる 。 主人公は 、物語の冒頭では世界に対する傍観者という位置にいるが、戦後風俗のなかでも性を象徴する女性像と関わることによって 、 敗戦後の世界像と向き合っていく。
一方「燃える棘」は、戦後風俗で生きる女性像と主人公の関わりだけではなく、戦後責任を果たした人間像と主人公との関係性もモチーフとしたテクスト である 。 戦後風俗を表象する花子と 、 戦後責任を果たした中臣康夫 、 彼らの間で観念的 な宙づりとなる主人公という 構造を見ることができる。物語のラストシーンでは、『出エジプト記』の一節を引用することで「聖」イメージを現出させているが 、 主人公の 「聖」なるものに対する観念 的な否定によって叙述は展開していく。
エリアーデの『聖と俗』で言及されている聖体示現国Hierophanieを用いれば、「燃える棘」や「雪のイヴ」では、戦後風俗の表象でありながら聖体示現が生じる場所として見出されているといえよう。さ らに叙述の展開における主要なモチーフが裸形の女人像であった。物語は同時代の風俗のなかで生成しているが、聖体示現とその否定とい う叙述を展開させることによって、それまでとは異なる方法で世界像 を捉えていく 。このような石川淳の眼差しと 、文学上の試みは 、敗戦後の文学を考えるうえで注目すべき観点と思われる 。
木を見て森を見ず//読みの現在―「蜘蛛の糸」〈ぶらぶら〉考
山崎 甲一 研究所長
「研究の進展を念願する以上 、単なる解釈の相違か 、 それとも誤読に由来する理解かを 、どこまでもはっきりさせようとする心構えは 、 われわれにとってやはり絶対に必要なのではないかと私は考える 。」とは大塚久雄氏の言葉(正確に読むことは確かにむずかしいが 昭52・岩波・図書)であった。以来30余年、この経済史学の先賢の語に照らして 、 昨今の文学研究 、文化研究の現状を省みるとき 、どのような社会文化上の問題点が浮上してくるかを、「蜘蛛の糸」 の読まれ方を中心に 、 「杜子春」、「蜜柑」、「夢十夜」・第一夜、「永日 小品」・モナリサ 、 「蝿」等の作品から 、 その具体相を押えた 。
「蜘蛛の糸」には、釈迦の「ぶらぶら」歩く姿が再三強調されているが 、 この点に注目した近年の論の傾向では 、 その緊迫感や切実性に 乏しい偶発的な態度ゆえに 、 そもそも健陀多を救済しようとする意思 の存否に批判が集注している。単なる気紛れの行為で、無理難題の試間と罰の与え方からも 、 初手から救済の意図すら皆無であった、と。
その種の近年の論の傾向の盲点として 、「或日のこと」「独りで」 「又ぶらぶら」「健陀多と云ふ男が一人」「小さな蜘蛛が一匹」「極楽の蓮池の蓮」等のキイワードが、「ぶらぶら」の後の前後、ないし文脈に置かれていることを指摘して 、 誤読の疑いが濃い恣意的な理解に陥っていることを述べた 。
「杜子春」でも 、 同様の傾向が近年の論に強いことを述べた 。 鉄冠子の杜子春へのやはり無理難題な仙人になるための試間の仕方から 、 最初から仙人への可能性など閉ざされていた 、 とするような視点である 。 こうした類論に不間に付されたままの 、 「人間らしい 、正直な暮し」のその内実 、―泰山の一軒の家を「畑ごと」、しかも「桃の花が一面に咲いてゐる」家が鉄冠子から杜子春に与えられたその意味を具体的に説いた 。
「蜜柑」には 、 語り手の私が陥っている「云ひやうのない疲労と倦怠」を窺う具体的な情報が無いゆえに 、 唯一の鍵となるのがヨコスカなるトポスだという読解の仕方が最近の傾向である 。 やはりその視点の死角として作品上に強調されている「赤」の種々相から 、 その合意について述べた。
「第一夜」での 、百合は女の化身ではない、それを裏づける決定的 根拠は皆無で状況証拠のみとする近年の論調への疑間として、百合の花の奇妙な描かれ方を指摘した。「モナリサ」での、作品の実際の描かれ方以上に関心の向きがちな、素材にすぎぬダ・ビンチの画を前提 にした近年の論 。「蝿」の悲劇に、取者の性癖を据えること以上に乗客個々の描かれ方の重要さを述べた。
これらを踏まえて、作品への理解の仕方が、現象的、機械的、条件反射的に傾いて 、事態の本質的な部分に眼が届いていき難い、作品との真の対話が稀薄な現代の問題点に言及した。