平成20年6月21日 東洋大学白山校舎3203教室
平成20年6月21日 東洋大学白山校舎3203教室
狂言における「死」の語り―舞狂言「蛸」の幽霊
原田 香織 研究員
能楽における「死」の語りは、非業の死の瞬間をつぶさに語り、そこに残存する思念(多くは遺恨o怨念の類)を再現するものである。死ぬ瞬間の意識は、死後の死者の魂の方向性を決定付けるものとして重要視されている。死者の魂は、自ら創り出した想念体系の中に閉じ込められる。その想念の殻は自己の信念体系に基づく。ここに非業の死という問題がある。突然、他者により生命を奪われること、この理不尽な事態に対して精神はどのように反応すれば良いのか。驚愕及び恐怖の意識、意愧の念は自己の内に芽生える。その訪れた死をどのように語れば良いのか。語りの方向によって、精神は暗浩たる絶望的な領域もしくは遺恨、怨念の領域に閉じ込められる可能性がある。それは危険でさえある。
舞狂言という様式は、能の夢幻能形式を模倣している。『蛸』も『長柄』の詞章の「中ノリ地のキリ」の一部を元にしている。生贄や犠牲の思想が揺曳する。しかし蛸という生物は人間に食べられる定めもある。蛸にとって死が突然日常の中に不如意なものとして悲劇的に訪れる。すなわり舞狂言蛸「」において、清水の浦で囚われた大蛸は、漁師に食される。この大蛸の死は何を示すのか。狂言の世界においては、自己の「生」の具体的な相において日常的におこる出来事は重要である。大蛸の日常とは大海を泳ぎ、生き延び成長することにあり 、 そこに根源的な 「生」の営みがある。「軟体動物門・頭足綱・八腕形上目・タコ目の存在そのものが生の喜びということになろうか。そうした蛸のささやかな生が剥奪されるところに、蛸の祟りが生じる。
仏教的な思想ということに なれば、源信の『往生要集』 の中の「地獄」と「極楽浄土」 の指標は大きく 、 蛸は祟りに囚われている間は憤怒の思いによって、 蛸の精神は「地獄」にいるのである。また禽獣虫魚の類でもある蛸の 所属する「畜生道」とは前世の悪業のために畜生界に生まれ出たものである 。 蛸の死の描写は、蛸でありながらも「生」あるものとして 「死」の残酷な様子=大蛸の料理される様子を語る。その語りが修羅 物の武将に事寄せられて語られる場合、蛸が深刻になればなるほど、 諧謹性は漂う。蛸独自の存在と不運な死、それは死を対象化する効果 をもち 、 「生あるものは必ず死す」という命題を思い出させるのである 。 蛸は道行く僧侶の弔いによっていともたやすく成仏の方向性へと向かう 。 成仏得脱は経文によって為されるが、それは蛸の意志と合致したときのみである 。 その語りの中に漂う笑いと死への諦念について、「死」 を軽みの域に提示しようとしたのが狂言『蛸』の作品世界といえよう。
死と再生の神話の変質――近代都市の放浪者ネルヴァル
朝比奈 美知子 研究員
本発表は、日仏近代の発展期に活躍した作家の死に関 する言説から時代の病理を読み取るという全体の構想に基づき、とくにフランスの詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-55)に 焦点を絞ったものである。ネルヴァルにおける死のテーマは、彼自身 の死と文学作品の中の死という二重の側面を持っている。日本の近代文学におけるネルヴァルヘの関心は、作品自体もさることながら、その実人生における死に向けられていたように思われる。彼の死に際してテオフィル・ゴーチエが寄せた追悼文、とくに「夢が人生を殺した」 という言葉は 、 アーサー・シモンズを通して日本にも紹介され、多くの作家の想像力を掻き立てた。坂口安吾もその影響を被った作家の一 人である 。 ネルヴァルの死は、従来個人的な問題、すなわち狂気と結びつけられることが多かった。しかしながら、この死には、個人的事情にもまして、近代という時代と対峙しその病理を自身に刻みつけた鋭敏な知性の持ち主にとっての、必然を見るべきであろう。つまり、ネルヴァルの死には、近代の病理に対する彼の批判の結晶を見ることができるのである。彼の同時代の詩人ボードレールはそのことを看破していた。
ネルヴァルの作品は、一般に自伝的色彩が濃いといわれる。だが、こうした視線で彼の作品を追っていくと、そこには、攻撃的な毒の様相は一見希薄であるものの、ボードレールに劣らず辛辣な時代批判が潜んでいることがわかる。ネルヴァルの近代批判のひとつの表れとなっているのが、「地獄下り」のテーマの変質である。ネルヴァルの自伝的物語『オーレリア』の語り手は、みずからのパリ街一程を「地獄下り」に警えている。ホメロス、オルフェウス神話、あるいは時代が下ってダンテの『神曲』が象徴しているように、古来「地獄下り」は、死者との対峙を経た再生の夢を学むテーマとして受け継がれてきた。しかしながら、近代都市パリを舞台にしたネルヴァルの作品に描かれる「地獄下り」は、その夢の瓦解を表徴しているように思われる。闇を放逐し、光の都となったパリは、もはや象徴的な死と再生を可能にする眠り=夢への参入を許さない空間に変貌している。首都の放浪を繰り返す主人公H語り手は、夢への参入すなわち冥界下りという、いわば深さの夢想を奪われ、永遠に夢と現実の境界に位置し、同一平面の放浪を繰り返すことになる。
ネルヴァルの作品に現れる「地獄下り」の変質は、近代という時代と芸術家の饂掘の問題を突きつける。坂口安吾ら日本の近代文学者のネルヴァルヘの関心の根底には、こうした時代との饂橋の意識への共感を見出すことができるのではないだろうか。