平成20年1月26日 東洋大学白山校舎6307教室
平成20年1月26日 東洋大学白山校舎6307教室
『定解宝灯』「第六間答」について
現銀谷 史明 客員研究員
今回の発表では、チベット仏教ニンマ派の学匠ジュ・ミパム作『定解宝灯』(nges shes rin po che'i sgron me)の中の「第六問答」を扱い、ミパムの認識論の一端を解明しようと試みた。
『定解宝灯』は詩の形式で著されており、彼が七歳の時に作られたと伝えられるもので、七つの問題を設定してその問いに答える形式で論が進められる。七つの問題とは1.究極の見解は絶対否定と相対否定のいずれか、2.声聞・独覚阿羅漢は法無我を悟るか悟らないか、3.禅定中の把握形式の有無、4.瞑想修習に際して分析と集中のどちらが妥当か、5。二諦のうちで根底的なのはどちらか、6.単一の顕現が別様に見えている者達にとって共通の視覚対象は何が妥当か、7.無戯論大中観には承認説が有るのか無いのか、という七つである。
「第六問答」はその問題設定からも分かるように認識の問題を扱っており、人間によって認識される単一の水が他の衆生、例えば餓鬼には膿に、天人には甘露に見えるが、その単一の水とは如何なる対象として規定されるのか、という問題に解答を与えることから論述が始まり、真の認識とは何か、その対象とは何かを提示することをテーマとしている。
ミパムは存在の究極態を〈無限定の顕現〉と〈無限定の空〉の一体不離として規定する。これを正しく認識できる者が仏陀に他ならない。一方、人間を含めた輪廻の状態にある衆生は、業障または迷乱の習気のため、存在の究極態を認識することができない。しかし各衆生はその状況に応じた正しい認識を持つことができる。何故なら認識は主体と客体の相互依存によって成立するものであり、彼等は自らが属する世界内での整合的な認識活動を行っているからである。そして彼等にこのような認識活動が可能なのは〈無限定の顕現〉と〈無限定の空〉がその根底に存するからである。
(無限定の顕現〉とはそれが何であるかと限定できず、認識主体の介入によって、様々な相貌もって顕れる。しかしそれは自性によって成立してはいない。勝義を考察する知によって否定されるからである。そしてその勝義を考察する知の対象こそが〈無限定の空〉に他ならない。一方、〈無限定の空〉も単独では存在し得ない。空とは何かについての空、何らかの〈顕れ〉についての〈空〉なのであって、単独の〈無〉なのではない。
仏教では地獄から仏陀まで 、 認識主体は階梯的に存在する 。 仏陀の認識が唯一本当の意味で正しい認識であり 、 その認識対象は一体不離 の〈無限定の顕現〉と〈無限定の空〉 、 すなわち真如そのものである 。 煩悩に汚染されている衆生は仏陀の認識を目指して修行する必要がある 。 何故なら仏陀と他の衆生との唯一の分岐点が明知の有無にかかっているからである。