平成20年1月12日 東洋大学白山校舎3203教室
平成20年1月12日 東洋大学白山校舎3203教室
チベット仏教ニンマ派の加行(準備的修行)について
―ロンチェンパ著大『究寛心性安息論』を中心に―
石川 美恵 客員研究員
仏教では本格的な修行に入る前に、準備的修行である「加行」が必要とされる。19世紀に著された『クンサン・ラマの教え』(以下『クンサン』)は、チベット仏教の最古の宗派であるエンマ派において、この準備的修行を扱ったテキストとして有名であり、現在も広く行じられている。本発表では、14世紀の思想家・ロンチェンパの著作で、仏教の基本的な修行階梯が示されている『大究寛心性安息論』(以下『心性』)の自註『大車』を参照し、内容細目を中心に全体像を概観することで『心性』の特徴を探り、後の『クンサン』に与えた影響を考察した。
『クンサン』には、1(共通の加行〉、2〈共通ではない内なる加行〉、3〈近道であるポワ(転移)の次第〉の3つが説かれる。このうち1の内容は、①有暇具足の得難さ ②寿命は無常 ③輪廻の過失 ④業と因果 ⑤解脱の功徳 ⑥善き友と親しむ の6項目、2では、①帰依 ②発菩提心 金剛薩壌の真言 ④曼茶羅供養 ⑤クサーリ(ku sa'a li, 孤沙利=善士 )の資糧を積集する ⑥グル・ヨーガの6項目を解説し、また3では5種のポワを示し、計13項目を説く。翻って、ロンチェンパの『心性』で描かれている準備的修行階梯も13章に分かれる。即ち、(1)有暇具足は得がたいことを説く章(2)寿命の無常の章(3)輪廻の苦しみの章(4)業の果の章同善友の章(5)帰依の章(6)四無量の章(8)諸王子の行の海の心髄となったものに入る大菩提としての発心の要点を説明する章(9)生起と究土見を結合させたものを一緒に得る章(10)土台を理解する智慧の見解の二辺に住することのない章(11)禅定が無垢である章(12)効力を発揮する行の章(13)現前する果である身体と智慧の章であり、これらの後、ゾクチェンに入るやり方が説かれる。『心性』と『クンサン』には、内容的には次のような対応関係が見られる(『クンサン』¨『心性』)。1-①:(1)、1-②:(2)、1-③:(3)、1-④:(4)、1-⑤⑥:(5)、2-①:(6)、2-②(7)(8)。ここまでは比較的によく一致するが、以後は必ずしも対応してはいない。2ー③④⑤⑥は(9)の内容を具体的な行法として提示したものであり、続く3は上述の密教的加行を終えた後に修される行を解説するが、『心性』⑩以後はゾクチェンの教理を説いている。
ロンチェンパは、『心性』において〈共通の加行)の段階から既にニンマ派が伝えるゾクチェンの教えを組み込んでおり、更に密教的行法を利用するゾクチェンの身体技法まで一連の流れとして捉えていることがわかる。これは『心性』の特徴であり、他派の修行階梯解説のように〈共通の加行〉こそ前掲二書とも共通する項目を持つが、後に修する各派独自の密教については触れない仕方とは異なる。『クンサン』は、〈共通の加行〉の解説の仕方も『心性』に倣っており、密教的行法をゾクチェンの教えの中で具体的に位置付けたことからも、最終日標を明確に見据えながら、そこに至るまでのステップを一連の流れの中で一つ一つ解説するという『心性』の方向付けを受け継いでおり、『心性』をより実践的に再編したテキストと考えられるのである。
大唐西域記に記される仏跡と原始仏教聖典の関係
――マトゥラーのケース――
岩井 昌悟 研究員
この研究は宮本久義教授を研究代表者とする研究所プロジェクト「東洋における聖地信仰の研究¨ヒンドー教と仏教における聖地巡礼成立の要件」の研究の一環として、法顕の『仏国記』および玄失の『大唐西域記』に記された釈尊の事績と原始仏教聖典の記事との間の対応関係を調査することを通して、ある地が何を根拠にして、どのように聖地になっていくか、そのプロセスを探ろうとするものである。
よく知られている仏教聖地としては、生誕地ルンビニー、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート(バーラーナシー・イシパタナ・鹿野園)、入減の地クシナーラーの四大仏跡がある。これらについては、すでにパーリの『マハーパリニッバーナスッタンタ』において、釈尊自らがアーナンダに対してこれらの地を、「信仰ある比丘・比丘尼。優婆塞・優婆夷」がそこを訪れて、長怖の心を生じるであろう場所として定めたことになっており(ただしこの記述は北伝阿含の涅槃経』には欠落している)、またそれぞれの地と釈尊の事績(生誕、成道、初転法輪、入滅)との関連付けも明白である。しかしながら、この四大仏跡にさらに合衛城、サンカッサ、王舎城、ヴェーサーリーを加えた八大仏跡になると、仏跡として数えられる由来となる釈尊のそれぞれの地における事績が、原始聖典の南北両伝共通部分に遡れない。
今回とりあげたクリシュナ生誕の聖地として知られるマトゥラーも、そこに釈尊が実際に訪れたか否かが明確でない地である。『大唐西域記』は諸仏弟子や諸菩薩のストウーパ、ウパグプタが建立した伽藍、猿が釈尊に蜜を献じたという伝説(獅猥奉蜜)に言及し、さらに「如来は在世時にたびたびこの国を遊行された」として記述を結んでいる。しかし『法顕伝』はこの地における釈尊の事績を伝えない。原始経典の記述としては有部系の伝承『(雑阿含紅』『根本有部律薬事』など)において、股涅槃を目前にひかえた釈尊がこの地を訪問して、仏滅100年後のウパグプタの出現を予言する伝承を有するが、パーリでは『アングッタラニカーヤ』に、釈尊の所在を示さずにただ釈尊が五劣事を説いてマトゥラーを非難したことのみを伝える記事(これは『アングッタラニカーヤ註』と『根本有部律薬事』においては釈尊が実際にマトゥラーの地にあって五劣事を説いたとされる)と、マトゥラーとヴェーランジャーとの間の大道を歩いていた時の記事が残されるだけで、釈尊がマトゥラーに登場する経はない。
猫猥奉蜜は、一部の例外を除いて、『ダンマパダ註』『中阿含経』『婆沙論』などがヴェーサーリーにおいてのこととするため、本来はこちらを是とすべきであろう。『大唐西域記』も、これをヴァーサーリーについても伝え、同じ伝説をマトゥラーとヴェーサーリーの2箇所に記している。なぜヴェーサーリーにまつわる伝説がマトゥラーにも語られているのかについては、『根本有部律薬事』にウパグプタの前生として、500人の独覚を敬っていた猿が、別の500人の苦行者を無意味な苦行をやめさせて独覚の覚りに導く物語が伝えられており、これが禰猥奉蜜の伝説と混同されたということが考えられよう。
なお釈尊の教化遊行が実際にマトゥラーに及んだか否かについては明確にし難いが、マトゥラーを拠点とした有部が、釈尊がこの地に到来したとする伝承を創作したことは十分に考えられる。