平成19年10月27日 東洋大学甫水会館302室
平成19年10月27日 東洋大学甫水会館302室
華厳思想と日本的全体性について
―学祖井上円了など、近代日本の思想家を手掛かりに―
渡邊 郁子 客員研究員
本研究の目的と本発表の焦点
筆者は 、 東洋大学東洋学研究所研究プロジェクト「明治期における近代化と〈東洋的なもの〉」(研究代表者末次弘 、 平成16(2004)〜 18(2006)年度終了) において 、 「明治期における近代化の東洋的な特徴」について 、 学祖井上円了を中心に 、 同時代の思想家にみる「全体」 「全体性」 、 「個と全体」など の理解にかかわる問題として考察を試みた 。詳細は、同研究プロジェクト「研究報告書」(東洋大学東洋学研究所 、 2007年) 参照 。現在は、以上の研究成果から、同趣旨のもと、さらに「日本的全体性」に焦点を絞って 、 個人的に研究を継続している 。本発表は、 その一部であり 、 以下の目次にしたがって行った。 I.本研究の目的 、 Ⅱ. 日本における華厳思想の影響 、 Ⅲ.華厳 思想の理論構造 、 Ⅳ . 近代日本仏教における華″厳″の影響― 1.井上円了の「相含説」、2.西田幾多郎の「絶対矛盾的自己 同一」 、 3.土田杏村の「真如」 、 V.華厳思想の可能性
「日本的全体性」を明らかにする上では 、 「華厳思想」は基礎理論 であって十分に理解しておく必要があることと 、 円了の「相含説」 (円了の思想には 、 「全体性一(totality)が多様性(multipulicity)あるい は多数性(plurality)を呑み込んで消失させる面が見られる)とこれを支える華厳の「事事無凝法界(現象(個)と現象(個)とは 、 互いに関係しあって、しかも決して妨げ合うことがないという真理の世界)」 との関係から 、 Ⅲ.、Ⅳ.1.を中心に解説し、「個(事)と普遍(理)」 →「個(事)と全体(理)」の関係を明示して 、 これが「個(個人) を基に内と外の理(真如)」の構造(二重構造)を持つこと 、 すなわち「如来蔵思想」の理論に等しいことを指摘した 。 こうした理論構造は 、 明治期に限らず 、 Ⅱ.で紹介した華厳経に立脚した東大寺を総国分寺とする 、 律令国家以来の特徴ともいえる 。 ここで注目すべき問題は 、明治期では 、そうした古来の特徴が西欧化されていく過程の 、 西欧の諸思想を受容する運動のなかでさえも選ばれていったということの意味である。
残された問題と今後の課題
Ⅳ.3.では 、 近代化における新たな思想の確立の運動として 、 土田杏村の華厳理解は 、 現代においても華厳理解の新たな可能性を示唆 しうる点を指摘した 。 詳細は 、 他の思想家と共に別の機会に行う予定 。 V.の「華厳思想の可能性」においては 、 土田杏村研究の成果も踏まえて 、 冒頭の研究プロジェクトで提起した「《多様な文化の共存モデル》の構築」への解答として明らかにしたい。
「清沢満之」批判を通して清沢の他力門哲学の可能性を考える
―『歎異抄』の造悪無硬説、歓待の倫理、平和への社会変革―
田崎 國彦 客員研究員
清沢満之(1863〜1903年)の他力真宗理解は、 「一度如来の慈光に接してみれば厭うべき物もなければ、嫌うべき事もなく」 、 「国に事ある時は銃を肩にして戦争に出かけるもよい」(順に岩波全集第6巻78 、 79頁)などの記述を取りあげ、何でも構わぬ無責任主義 、 戦争肯定思想を展開したなどと批判される。従来の清沢批判は 、 彼の言説が以下の三項から成る思想と実践のコンテキスト の下にあることを無視している 。 一 、彼の他力真宗理解では 、 人間存在は二つの関係の方面 、 ″煩悩具足の人間(有限)の阿弥陀仏(無限) との関係″と”現世(因縁果の有限界)における人間(個人、自己、 有限)と他なるもの(他人、自然界を含む外物)との関係″という二方向から成り立つ 。 二 、 彼は前者の無限への方向を 、 『歎異抄』主に 第1・3・13条―端的には絶対他力と絶対他力より賜った信心に根拠づけられた未来造悪無擬説に立って、極端化した悪人正機説を説 く――に依拠して確立した(「未来造悪無擬説=いくら悪を造っても 往生の優りとならず救済されるとする主張」の代表的研究には松本史朗『法然親鸞思想論』大蔵出版 、 特に175〜206頁がある)。『歎異抄』を通して 、 学生時以来の最大関心事「善悪の問題」を超える、 超倫理の安心(迷悶者の安慰)すなわち無凝の境涯への道を見出し、 ″一切は絶対他力による〃として過現未三世造悪無凝説に立つ無条件的絶対救済の安心を確立した。この『歎異抄』理解、道徳を超えた宗教の立場から 、 先の批判される彼の言説は発せられている。ただし、 これは単なる悪肯定論ではなく、実際的には下記三の避悪就善の生き方として実践化される。以上の明確な『歎異抄』に拠る指摘は本発表が最初である。彼は蓮如封印書『歎異抄』の邪義の危険を 自覚しつつも 、 親鸞聖人御安心の極地の書 、 安心第一の書 などとして、明治以降広く読 まれる端緒を築いた。三、後者の有限への方向は 、 無限との関係=宗教(一切衆生救済 の阿弥陀仏の弘誓の実現を目指す他力真宗)を基礎にした。
”端的には当時の国民道徳と は異なる 、 倫理道徳(避悪就 善)を新たに創造する生き方″である。彼は先の二方向を、「吾人は無限に対する宗教的の大義 に於いては不動の安心を得て 、 有限に対する道徳的要義に専従するに至る」(倫理学 、 全集第1巻404〜5頁)と述べ 、 自らはその狭間で生きた 。 『精神界』に発表された彼の倫理道徳実行の実際を 、 本発表は〈他なるものの歓待〉 、 〈歓待の倫理(他者受容の倫理)〉と 呼ぶ。歓待は、『無量寿経』の来迎引接の願(第十九願)や親鸞の語 「むかへとる」などをもとに導入した。歓待の倫理は、言わば阿弥陀仏のように 、 この私が他者と接触した時に罪ある者の批判や排除や否 ようこそといってげいせつ定に先立って 、 無条件的に非暴力的にウェルカムして迎接し 、 さらにはこの〈他なるものとの平和な関係〉を保持しつつ暴力を減少させ 、平和を実現すべく社会変革を目指す生き方である 。