平成19年6月30日 東洋大学白山校舎3203教室
平成19年6月30日 東洋大学白山校舎3203教室
ありのままからの出発
―性善説の展開―
吉田 公平 研究所長
人の本性は善であると説いたのは中国古代の先秦諸子 百家の一人である孟子である 。 この性善説が人間の本性論として盤石 の位置を獲得するのは 、 近世の宋代になってからである。程明道・程 伊川の後をうけた朱子が人間(心)とその本質(性)を考え抜いたが 、 禅宗の「生来の仏性は本来的に完全である」という視点を性善説の再 構築に活用した 。 その際 、 本来は完全であっても 、 現実態は背理に満 ちていることを深く配慮して 、 実存者を本来態と現実態の中間に位置 づける「中間者意識」を必須とした。
この「中間者」論では 、 いつまでたっても本来の性善が現実化しない 、 その意味では「中途」者 に終わることになり 、 似て非なる性善説であると厳しく批判したのが 、 陸象山・王陽明 である 。 「今・ここに」実在する存在者のありのまま (「現成)」に善なる本性が実 現しているという 。 このことを端的に述べたのが「街行く人はすべて聖人である」(満街之人 、 皆是聖人)(『伝習録』 下巻)である 。 誰もが皆 、 本来性のままに現に生きている 。 このことは「誰もがみな自らの主人公として自己決定する」(心即理) という言い方の主人公(心)を良知と言い換えた。それを良知現成論 という 。
この良知現成論をさらに展開させたのは王龍渓であるが 、 中江藤樹は王龍渓の良知現成論に最も大きな刺激を受けた 。 また 、 朱子学の 「明徳」理解に挫折した盤珪禅師の仏性不生説は 、 宗門こそ違うが 、 良知現成論を禅宗に回帰させた立論である。盤珪禅師の不生禅は藤樹門下にも浸透したが 、 川田雄琴や石門心学の中沢道二などにも波及した。しかし、その極点は山田方谷の「気は理を生ずる」という主張であろう。中国近世の新儒教徒は身心一如であったから、「気」とは「身体としてのわたし」というほどの意味である。身体的存在として眼前に実在する実存者は、あるがまま(現成)にそれで完全なのであるから(現在成就)、ありのままの姿のままに自己決定するという。自己立上げ論としての立論であるが、それを他者にそのまま適用して、誰もがありのままにその存在の有り様を事実として承認することを、「他者―自己」認識の出発点に置く。その上で、お互いに次の一歩を踏み出す道を模索する。この場合の「他者―自己」は健常者だけではない。障害者。弱者などの現実態をもその人の個性としてありのままに理解して、共に幸福に生きる道を模索して次の一歩を踏み出す。このような考え方を基礎にしたのが仙台の社会福祉法人「ありのまま舎」である。人間理解の原典として貴重な遺産である。