平成18年6月24日 東洋大学白山校舎6301教室
平成18年6月24日 東洋大学白山校舎6301教室
釈尊雨安居地伝承の根拠を探る
―阿難以前の侍者に着日して
岩井 昌悟 客員研究員
パーリのアッタカターや『僧伽羅刹所集経』などに記述が見出される、釈尊の45回の雨安居の地点とその年次を伝える「雨安居地伝承」の資料的価値の確定は、釈尊伝の研究に必須である。雨安居地伝承と原始仏教聖典中の釈尊¨の雨安居に関する記事との間に見られる矛盾は、前者の資料的価値を疑うに十分な要素であるが、雨安居地伝承の成立根拠が明らかになれば、その資料的価値がより正確に判定できると考えられる。
原始仏教聖典に記述がなく後世の成立と見られる文献に見出されるゆえに、雨安居地伝承の成立は聖典に遅れると考えられる。それゆえ、雨安居地伝承は原始仏教聖典中のなんらかの情報を根拠に成立したと推測される。それはいったい如何なる情報であるか。
年次を伝える雨安居地伝承では、釈尊の成道後45年間の教導生活の後半20年間乃至25年間が、最後のベールバヴア(竹林)村における雨安居を除いて、すべて舎衛城とされている。一方、聖典には阿難が釈尊の侍者を務めた期間として20余年乃至25年間という数字が見出される。雨安居地伝承と阿難が侍者を務めた期間に関する情報を関連付ければ、阿難が釈尊の侍者になって以降、釈尊は舎衛城のみで雨安居を過ごしたことになり、それは同時に、成道後初期(第20年乃至25年まで)の釈尊の雨安居の時には、阿難が未だ侍者ではなかったことになる。ところで諸々のアッタカターや『大智度論』などには、阿難以前の釈尊の侍者が伝えられており、ナーガサマーラ(ナーガパーラ)、ナーギタ、ウパヴアーナ、スナッカッタ、チュンダ沙弥、サーガタ、メーギャ、ラーダなどの名が挙げられている。阿難が侍者を務めた期間とこれらの侍者たちが登場する聖典の情報が、雨安居地伝承の成立に深く関わっているのではないか。つまり阿難以前の侍者が登場する聖典資料における釈尊の所在が、そこで釈尊が雨安居しているか否かは関係なく、雨安居地伝承において成道後初期の雨安居地とされたのではないか。
これらの阿難以前の侍者たちは、皆ではないが実際に聖典中において侍者として登場する。それらの記事で釈尊の所在を調査した結果、雨安居地伝承において成道後初期に挙げられる地の中、ヴェーサーリー、マンクラ山、チャーリヤ山、チェーティ、コーサンピーなどが見出された。しかし雨安居地伝承の挙げる全ての地が、この阿難以前の侍者の登場する記事で説明がつくわけではない。また阿難以前の侍者が登場する地によって雨安居地伝承に挙がる地の全てを説明することも困難である。
パーリの雨安居地伝承と『僧伽羅刹所集経』の雨安居地伝承では挙がる地に違いがあり、また阿難以前の侍者のリストについても北伝と南伝とでは違いがある。これを考慮して検討することが今後の課題である。