研究の背景
ペドロ・ゴメス(Pedoro Gomez, 1535-1600)はイエズス会のコレジオで用いられる教科書『講義要綱』を起草し、一五九三年に完成、天草のコレジオで読まれ、一五九五年に日本語訳が完成している。『講義要綱』は三部構成で、第一部が天体論、第二部が魂論、第三部がキリスト教の教理となっているが、魂論は、トマス・アクィナスの『アリストテレス『魂について』註解』が基礎になっている。
アリストテレス『魂について』(Peri Psyches)第三巻第五章において、素材に相当する知性、受動知性と、作用し生み出す原因に相当する能動知性が論じられるが、能動知性と受動知性についての解釈において、アヴェロエス主義者は、能動知性とは別に、可能知性(intellectus possiblilis)を措定し、可能知性は非質料的な知性としてすべての人間の上に存在しているとするのに対し、トマスは、『知性の単一性について―アヴェロエス主義者たちに対する論駁』において、すべての人間に単一の知性があるとしたら、知性認識するものは単一であることになり、意志するものが単一であること、人々を互いに異なるものにする、すべてのものを自らの意志決定によって使用するものが単一であることが帰結すると、知性の単一性を否定する。上記の『アリストテレス『魂について』註解』においても、可能知性という分離実体を否定し、こうした考えは、上記『講義要項』の日本語訳に「又一切人間ニ押並テ阿爾摩ノ一体ナリト云事ハナシ。只一人ツゝニ一体ツゝ備ルト云道理ハ、一切人間ニ只一体ノアニマアルニ於ハ、人ハ互ニ其差別有ヘカラズ」(尾原悟編『イエズス会日本コレジヨの講義要項』I、教文館、一九九七年、一七〇頁)と述べられているように、人間の個としてのあり方が説かれている。
キリシタン時代において、西洋哲学はキリスト教の教理教育の一部として教育されたものであり、禁教令と相まって本格的な哲学研究にまでは至らなかったとはいえ、鈴木正三の『破吉利支丹』や雪窓宗崔の『対治邪執論』といった排耶書には、キリスト教理解を踏まえた仏教の対論がなされ、林羅山がマテオ・リッチの『天主実義』を読んでいたことから察するに、キリシタン時代およびそれ以降においての西洋思想の受容のあり方が見られる。
明治期の哲学受容において注目されることは、西周が荻生徂徠の影響を受けつつ、それを乗り越えて人間の「性理」(本性)に基づく行動規範(=道徳)の考察に際し、「天地間ノ一物」(=自然物)として観察される「物理」的な存在の考察(「観門」)をも参照して「天道人道」を解明し「人ノ人タル道」の本質を解明するに至ったこと、また、井上哲次郎が『日本陽明学派之哲学』『日本朱子学派之哲学』『日本古学派之哲学』三部作に見られるように伝統思想を西洋哲学の概念を適用してまさに「哲学」として評価し直すことを試みていることである。そこに窺えるのは、幕末から明治期にかけての哲学受容が、伝統的思想と対峙するかたちではなく、西洋哲学の受容には、伝統的思想が土壌となっていることであり、この従来の思想を踏まえた西洋哲学受容のあり方は、キリシタン時代の哲学受容にも見られるのではないか。そこで、キリシタン時代の哲学受容のあり方を探ることで、キリシタン時代から現代に至るまでの西洋哲学受容の連綿性を見ることが期待できる。
また、十六世紀から十七世紀にかけて、三十万ないし四十万の信徒を抱えるにいたったキリシタン宗団について、それが興隆であったと認めるのは無理ではない(河村信三『戦国宗教社会=思想史』、知泉書館、二〇一一年、四頁)といわれるが、キリシタン時代のキリスト教受容の特色として、コンフラリア(信心講、組)という信徒の自主独立共同体が形成されたことがあげられる。このキリシタン信徒の共同体は、皮膚病患者や生活困窮者の救済にあたり、民間に祭壇を持つ家を管理する民間指導者が村を信仰共同体として維持するまでになり、その組織は、豊臣秀吉による宣教師追放令、江戸幕府のキリシタン禁教政策によっても、宣教師が不在のまま活動を続け、一八七三年の禁教令撤廃後も信仰形態が継続されていった。キリシタン信仰においても、キリスト教思想の受容が見られる。
以上、西洋哲学・キリスト教思想の受容において、日本独特の受容の形態か見られる。
②研究目的
上述の研究背景を踏まえ、本研究は西洋思想を包摂し、展開させていく動きはキリシタン時代の西洋思想受容にもみられるのではないかという観点から、明治期の西洋思想受容と日本思想の展開を、キリシタン時代の受容と展開と比較考察することにより、他文化を包摂していく日本思想のあり方を考究する。
③当該分野におけるこの研究計画の学術的な特色・独創的な点および予想される結果と意義
キリシタン時代の西洋思想受容は、禁教政策や鎖国政策で途絶えたかのように見えたが、その受容のあり方を詳細に検討することで、日本における西洋思想受容の特質を露わにするところに本研究の特色がある。
研究組織
研究代表者 役割分担
相楽 勉 研究員 研究総括、明治期以降の西洋哲学受容と日本哲学
研究分担者 役割分担
中里 巧 研究員 キリシタン思想の日本精神史における展開
大野岳史 客員研究員
ペドロ・ゴメス『講義要綱』などの哲学教育
菊池章太 研究員 室町時代のキリスト教受容とその後の変容
播本崇史 客員研究員 西周と西洋哲学
大鹿勝之 客員研究員 西洋哲学と日本精神
三重野清顕 研究員 日本精神史と西洋哲学
本研究において、研究代表者、研究分担者の役割および研究計画、研究状況は以下のとおりである。
相楽勉 研究代表者として研究の統括を行い、研究会や講演会の開催、研究者間の打ち合わせにより、各研究者の成果について相互の検討をはかる。また、研究計画の遂行や研究経費の執行を掌握する。研究分担においては、西周、井上円了、井上哲次郎、西田幾多郎などの西洋哲学受容について、十九世紀哲学の哲学思潮をどのように受け止め、西洋哲学を仏教や儒教などと対比させて「いかに生きるべきか」という根本問題にどのように答えようとしたのかを検討する。西田幾多郎については、初期の著作『善の研究』から、場所の論理、論文「場所的論理と宗教的世界観」にみられる矛盾的自己同一に至るまで、西洋哲学を踏まえながら西田哲学がどのように展開されていったのかを把握する。二〇二二年度は、西田幾多郎の「場所」概念が登場する一九二〇年代後半から一九三〇年代前半までの哲学展開の意味を、同時代の西欧、特にドイツにおける新カント派、現象学派などとの対決という脈絡から読み解く。また左右田喜一郎、田邊元、和辻哲郎などとの論争もこの脈絡との関係において評価を試みた。
中里巧 キリスト教受容期は、日本精神史において、バテレン時代以前(景教の受容)・バテレン時代・禁教時代・明治期解放令後・第二次世界大戦期・大戦後・現代(既存既成宗教の没落の時代)といったように、いくつかに小分されるが、キリスト教と呪術との関係、また、キリスト教と戦争の関係、すなわち、罪責意識等において、キリスト教受容期の人々は、キリスト教をどのように理解していたのか、既存既成宗教の全面的没落の時代の原因や特徴、展望などをキリシタン思想との関連で考察する。二〇二二年度は、本誌『東洋学研究』第六十号に論文を投稿し、キリスト教を、キルケゴール・エンデ・日本の霊性との関連で、比較研究した。
大野岳史 一年目は、ペドロ・ゴメス『講義要綱』第三部「真実ノ教」の第三論考第十三章から第十九章までをもとに、十六世紀の西洋で主流であったアリストテレス・トマス主義の影響が、当時のキリシタンの教育にどのように見出されるのかを明らかにすることを目的とし、研究を進めた。そのために、上記の箇所を精読するとともに、トマス・アクィナスやスアレスといったアリストテレス・トマス主義にかかわる文献やその研究を参照することで、両者の比較を行った。本年度はペドロ・ゴメス『講義要綱』第三巻第四部の徳論について精査した。当時のヨーロッパは徳倫理学にとって暗黒時代と呼ばれることがあり、ヨーロッパにおけるオーソドックスな道徳哲学から、徳目の分類が重要な位置を占めなくなっている。しかし、キリスト教神学では中世の徳倫理学が引き継がれ、多くの教理書(『どちりなきりしたん』)でもトマス・アクィナス『神学大全』が理論モデルになっていると思われる。とりわけ徳を対神徳と枢要徳とに分類する手法は、そのまま採用されている。ペドロ・ゴメスもトマスの徳倫理学を紹介している。そこで日本語本(当時の和訳)での翻訳を参考に、中世における徳概念(の分析)がどのように理解されているのかを考察した。
菊池章太 長崎県下のキリシタンにおいて、禁教後に告解を聴く司祭がいなくなった状況のもとで彼らを支えた、痛悔の祈りの効用を説く『こんちりさんのりやく』について、大浦天主堂と長崎市外海と五島列島とパリ外国宣教会に伝わる写本を精査し、校訂作業・解読を行う。また、伝来期のキリスト教受容のありようを現地調査(長崎県五島市福江島堂崎教会堂ほか)と文献読解をもとにたどり、室町時代末期に伝来したキリスト教の教義や典礼のあり方が時代の変化の中で(とりわけ為政者による弾圧という極限的な状況のもとで)改変を余儀なくされ、そこから新たな信仰のありようを模索しつつ、変質を遂げてきた経過を明らかにする。二〇二二年度は、慶長年間成立のキリシタン文献『こんちりさんのりやく』の解読をおこなうにあたり、Dictionarium Latino Lusitanicum, ac Iaponicum, Collegio Iaponico, Societas Iesu, 1595(『羅葡日対訳辞書』)フランス学士院所蔵本、ならびに、Vocabulario da lingua de Iapam com adeclaração em Portugues, Collegio de Iapam de Comopanhia de Iesus, 1603(『日葡辞書』)エヴォラ図書館所蔵本およびボードレイアン図書館所蔵本をもとに語釈を試み、これをもとに潜伏キリシタンによる信仰実践の変容のありようを明らかにすることをめざした。さらに大浦天主堂所蔵写本をもとにしたプティジャン版『胡無知理佐无の略』の翻刻をおこない、これによって近世におけるキリスト教受容の可能性と限界を考究するための文献的基礎を構築しつつある。その成果の一部を「こんちりさんの救い(上)―近世日本における信仰実践の変容―」と題して学術論文にまとめ、本誌『東洋学研究』六十号に発表した。
播本崇史 二〇二一年度は、最初期の西周研究を調査対象とし、その成果を渉猟することで、従来の西周思想理解の足跡を追った。それによれば、早い段階から、西周による稿本に基づく研究はなされていたものの、その調査範囲はかなり限定されており、西周の著作に関しては、見落とされていた領域があったであろうことが窺われた。二〇二二年度は、従来の西周思想理解についての整理を試み、西周における熊沢蕃山思想の影響について論考を試みた。また、西周の「霊魂一元論」に着目して、これと明末天主教説における霊魂論との比較検討を試みた。
大鹿勝之 紀平正美などの日本精神に関する議論を、和辻哲郎『続日本精神史の研究』における日本精神の批判的考察、西田幾多郎『日本文化の問題』における、東西思想の根底の探求の重要性に照らして検討する。二〇二一年度は村岡典嗣の日本精神論と国体の義論に関する考察を行い、二〇二二年度は、村岡の日本思想史研究の方法論と、日本国民の太古の意識に、皇国主義をもって呼びうる国体の理念が求められうるとする村岡の議論に焦点を当てて研究を進めた。
三重野清顕 西洋哲学の近代日本への移入プロセスに関するケーススタディとして、和辻哲郎によって第二次世界大戦の戦前から戦後にかけて執筆された体系的倫理学書である『倫理学』(一九三七~一九四九)をとりあげ、そこでの西洋哲学の受容について調査を進める。二〇二一年度は『倫理学』の執筆にいたるまでの過程をなす文献を調査し、主に一九三四年に出版された『人間の学としての倫理学』と、その原型をなす論文「倫理学――人間の学としての倫理学の意義及び方法」(一九三一年、和辻哲郎『初稿倫理学』苅部直編、筑摩書房、二〇一七年所収)における西洋哲学の影響とその扱い方について比較研究を行った。二〇二二年度は、日本におけるヘーゲル哲学受容の一般的傾向を抑えたうえで、それと対比する形で、引き続き和辻の主著『倫理学』におけるヘーゲル受容の特徴を考察している。
研究成果については、二〇二二年十一月二十六日、二〇二三年二月二十五日に研究発表会を開催して研究者の研究発表と参加者の質疑応答による研究成果の検討を行ったが、本号では二〇二二年十一月二十六日に開催された研究発表会、二〇二三年二月十一日に開催された公開講演会について、発表および講演の要約を以下に掲載する。十一月二十六日の研究発表会は感染症対策のため、オンラインで開催され、大野岳史客員研究員、菊地章太研究員研究員の発表が行われた。二月十一日の公開講演会もオンラインで開催されたが、ベルナット・マルティ・オロバル氏(早稲田大学経済学部准教授)の講演が行われた。
研究発表会 二〇二二年十一月二十六日
「真実ノ教」における注入的な徳と獲得的な徳
大野 岳史 客員研究員
〔発表要旨〕
ペドロ・ゴメスは『講義要綱』第三部で徳を注入的な徳と獲得的な徳に分類しているが、当時の日本語訳である「真実ノ教」ではラテン語原本には見られない仕方で分類されている。すなわち、「真実ノ教」において注入的な徳は対神徳であり、獲得的な徳は枢要徳であるように思われるが、ラテン語原本にそのような記述は見られない。むしろ注入的ではない獲得的な徳が認められ、「真実ノ教」でもその箇所を訳している。それではなぜ注入的な徳と獲得的な徳を、それぞれ対神徳と枢要徳であると考えられたのか。本発表では徳の原因に着目してその理由を考察した。実際、『講義要綱』で徳(ヒルツウテ)は神から与えられたものであり、このことが注入的な徳と獲得的な徳の区別をより困難なものにしているように思われる。
徳は神から与えられたとはいえ、すべての徳が注入的なものだというわけではない。注入的な徳が神的規則にもとづき獲得的な徳が人間的理性の規則にもとづくという点で、両者は明確に異なる徳である。つまり獲得的な徳は究極目的である至福とは結び付けられず、注入とは別の仕方で神から与えられている。注入的な徳は至福に結び付けられるため、「真実ノ教」では対神徳と見なされたのかもしれない。この誤解を正すためには、神から与えられるのとは異なる注入という仕方を理解しなければならない。それは対神徳の一つである愛徳(caritas)による。すなわち、聖霊から愛徳が注入されたときに他のすべての徳も注入されるのである。このとき神に対する同意が不可欠である。そのため、神に対する同意が不可欠である注入的な徳と、その同意が要求されない獲得的な徳は区別されるべきである。ところが「真実ノ教」では、獲得的な徳に神への同意が伴っているような記述が見出される。
『講義要綱』で神や聖霊からの愛徳(カリタアテ)の注入が記述されているが、それは愛徳を主題としている箇所では見られない。トマス・アクィナス『神学大全』における愛徳に関する論述に比べて、『講義要綱』では愛徳が手短に説明され、思慮(フルテンシア)についての記述ではじめて注入的な倫理的徳が示される。ゴメスは明らかに『神学大全』の全体を把握したうえで論述しているが、「真実ノ教」の訳者にはそうした理解が不足しており、そのため注入的な徳が愛徳に伴って得られる点を踏まえていない追加・修正を行ったと考えられる。
こんちりさんの救い ―― 近世日本における信仰実践の変容
菊池 章太 研究員
〔発表要旨〕
キリシタン文献『こんちりさんのりやく』は一六〇三年に長崎イエズス会から刊行され、のちに散逸した。伝存するのは刊本からの書写本のみである。キリスト教の布教が公認されていた時代に日本人を信仰に導いたのは『どちりなきりしたん』であり、禁教令のもとで潜伏した信者を支え続けたのは『こんちりさんのりやく』であった。
「こんちりさん」をおこなう。それは深く懺悔することである。懺悔することで犯した罪はゆるされる。自分が犯した罪ばかりではない。先に逝ってしまった親兄弟の罪もゆるされる。今は亡き御先祖様も救いにあずかれる。もちろんそんなことはどこにも書いてない。書いてなくとも案ずるには及ばない。日本人にはあまりに自明な心情がその背後にあったのだから。もはやヨーロッパのキリスト教からすれば完全な逸脱である。伝来から半世紀が経過すると、いかなる舶来思想も日本人の血肉に染み込むように受けとめられていく。
日本の神と仏は人と異なるものではないという記述が『こんちりさんのりやく』に見える。前世の善悪を見定め来世の賞罰をあたえることができるのは「天主でうす」だけであり、神仏にその力量はない。「神仏といふはいづれも我等にひとしき人間なれば」とあって、神も仏も人と変わりないという。神仏に対するこうした理解はこの時代に通有であり、社寺の縁起はもとより、古浄瑠璃や説経節、謡曲など中世の文芸に顕著にうかがえる。
罪をゆるすのも天主でうすのみ。司祭はその取り次ぎにすぎない。これは対抗宗教改革以降、カトリック教会がくりかえし強調してきたことだが、懺悔の功徳というものをずっとわきまえてきた民族にとってはどうだったか。日本は外来の文化を受けいれながらも、それをつくりかえていく土壌である。儒教も仏教も、そしてキリスト教もそうならざるを得なかった。たしかにキリシタン時代に信者の数はめざましいほどに増大した。しかし彼らが信じていたのはキリスト教の神ではなかったのかもしれない。人間を超えた存在を許容しない風土のなかで私たちはずっと暮らしてきたのである。
『こんちりさんのりやく』は信者のあいだに写し伝えられていった。写本が残されたのは長崎県の西のはずれの外海と、そこから海をへだてた五島列島である。祈りの言葉である「おらしよ」のなかにも『こんちりさんのりやく』がまぎれこんでいる。そうした断片をも含め、現存するテクストを校勘して文献的基礎を構築していく作業をいずれ試みたいと思う。
公開講演会 二〇二三年二月十一日
一六二六-
一六二七年の東北地方における
イエズス会とフランシスコ会の論争
ベルナット・マルティ・オロバル 氏
(早稲田大学経済学部准教授)
菊地 章太 研究員
〔講演要旨〕
一五四九年に、イエズス会士のフランシスコ・ザビエルが来日して以来、日本におけるキリスト教の歴史がはじまった。その後、ポルトガル王国の支援を受け、ポルトガルが開拓した航路を利用して多くのイエズス会士が来日し、福音伝道を続け、特に長崎周辺で成功を収めた。ポルトガル王国の支援を受けていたイエズス会は、日本における宣教の独占を維持しようとし、フィリピン諸島から来日しようとしていたスペイン系の托鉢修道会の入国を防ごうとしていた。一五九三年に外交的、商業的、宗教的目的でフィリピン総督の使節として四人のフランシスコ会士が日本に派遣されると、日本、マドリード、ローマにおけるイエズス会と托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティヌス会)との対立は悪化した。従来、イエズス会と托鉢修道会との関係に焦点を当てた学者は僅かであったが、近年、この主題に注目する研究者が増加し、さまざまな視点から研究している。しかし、一六一四年以降、すなわちキリシタン迫害期が始まる頃からのイエズス会と托鉢修道会との関係がほとんど研究されてきていない。そして、その関係、論争の全体像を理解するためには先ず、未研究・未出版の史料を調査して公開する必要がある。換言すれば、マクロな研究を行う前に、その準備として、ミクロな研究を重ねることが不可欠である。
本講演では、一六二六-一六二七年頃、東北地方においてイエズス会とフランシスコ会の間に起きた堅信の秘跡に関する論争を紹介した。これは日本での宣教権を巡るイエズス会と托鉢修道会との対立史の中でほとんど知られていないエピソードの一つである。つまり、この東北における論争は、日本、ローマ(バチカン)、スペインの宮廷で行われた日本での布教の権利をめぐるイエズス会と托鉢修道会との大規模な論争の一章に過ぎないが、全体像を明らかにするためには重要である。この論争の内容を明かすための最も重要な史料はマドリード市に保管されている、フランシスコ会イベロ・オリエンタル史料コレクションに「AFIO 23-8」として登録されている史料である。史料の大部分は、イタリア人のイエズス会士、フランシスコ・ボルドリーノによる二つの短い論駁書で構成されている。ボルドリーノはそれらの論駁書において、東北地方で福音伝道を行っていたフランシスコ会士の活動及び堅信の授けに対して批判を加えた。もう少し具体的に内容を説明すると、フランシスコ会士は、堅信を授けるためのローマ教皇の許可なく、適切な聖香油(クリスマ)を使用せずにその秘跡を授けていると、ボルドリーノは批判している。