本研究プロジェクトは、学長主導のもとで日本の東洋大学と中国の人民大学、韓国の金剛大学校の間で結ばれた交流協定に基づいて、毎年、三箇国のいずれかにおいて開催されることになった国際シンポジウム、「日・韓・中 国際仏教学術大会」(開催国により名称が変わり、韓国で開催される場合は「韓・中・日国際仏教学術大会」、中国で開催される場合は「中・日・韓仏教学術大会」、日本で開催される場合は「日・韓・中国際仏教学術大会」と称することになっている)の日本側の受け皿として東洋学研究所を位置付け、これを研究所の研究と国際交流の起爆剤として活用し、研究活動の高度化に図らんとするものである。東洋学研究所では、このプロジェクトを中核として人民大学の仏教与宗教学理論研究所、金剛大学校の仏教文化研究所と共同で毎年シンポジウムのテーマを設定し、そのテーマに沿って研究活動を繰り広げ、また、シンポジウムにおいて成果を発表し、併せて中国や韓国の研究者と意見交換を行い、更に研究を推し進めてきている。

 この国際シンポジウムは、二〇一九年度に八年目を迎え、多くの研究成果を挙げてきた。本プロジェクトの参加者はこのシンポジウムにおいて研究発表を行い、コメンテーターを務めるなど、中心的な役割を果たし、また、その経験を研究者自身の成果に生かしてきた。 また、毎年度のシンポジウムの内容を纏めた研究雑誌、『東アジア仏教学術論集』も第八号までの刊行を終えている。この雑誌は、国内外の研究機関に配布され、また、インターネット上でPDFが公開されて、大きな反響を得ている。特定のテーマに関する日韓中三箇国の研究者の最新の研究成果を一冊で概観でき、それに対するコメンテーターの見解、それに対する回答まで収録するという今までにないものとなっているからである。しかも、同じ内容が中国や韓国でもそれぞれ自国語で刊行され、仏教に関する東アジア三箇国の最新の研究成果を共有するというこれまでにない全く新しい取り組みも行っている。こうした取り組みが、今後の仏教研究に果たす役割の大きさは言うまでもないことであろう。

 このように「日・韓・中 国際仏教学術大会」の開催、並びに研究成果の刊行は、極めて大きな意義を有するものである。

 本研究のメンバーは以下のとおりである。

 研究代表者 役割分担

 伊吹  敦 研究員 中国思想史における禅宗成立の意義

 研究分担者 役割分担

 原田 香織 研究員  禅思想の日本文化への影響

 渡辺 章悟 研究員 インドにおける大乗仏典の成立、並び

に中国における翻訳と偽経の関係

 山口しのぶ 研究員 チベット仏教文化における禅の影響

 川崎ミチコ 研究員 敦煌仏教文学文献にみる仏教思想

 高橋 典史 研究員 禅を中心とする東アジア仏教の世界へ

の拡大とその意義

 佐藤  厚 客員研究員 韓国仏教と偽経

 舘隆  志 客員研究員 日本における禅宗教団の独立と展開

 伊藤  真 客員研究員 中国における偽経の成立と意義

 昨年度まで研究分担者であった水谷香奈研究員(役割分担「唯識観から中国禅へ」)は、都合により退くことになった。

 二〇一九年度の研究活動については、中・日・韓仏教学術大会への参加と、同大会の成果をまとめた『東アジア仏教学術論集』第八号の刊行、そして禅仏教に関する国際シンポジウムの開催があげられる。

第八回韓・中・日国際仏教学術大会への参加

 二〇一九年六月二十九日・六月三十日に、「疑偽経と東アジア仏教」をテーマとして、第八回中・日・韓仏教学術大会が中国人民大学で開催された。この学術大会において、本研究所関係者では、佐藤厚客員研究員、伊藤真客員研究員が研究発表を行い、佐藤厚客員研究員はまた通訳を務め、そして研究代表者の伊吹敦研究員が開会の辞を述べた。この大会での発表は論文として改稿され、質疑応答を含めて、『東アジア仏教学術論集』第八号に掲載された。

 国際シンポジウムの開催

 二〇一七年度より、本研究所プロジェクトの研究代表者である伊吹敦研究員が日本学術振興会の科学研究費助成事業・科学研究費補助金研究による共同研究「海外の研究者との連携による中国・日本における禅思想の形成と受容に関する研究」(JSPS 科研費JP17H00904)に着手し、東洋大学東洋学研究所内に「国際禅研究プロジェクト」を発足させ、研究活動を行ってきている。

 この国際禅研究プロジェクトの研究活動として、本研究と共催で、二〇一九年五月二十五日と五月二十六日に「初期禅宗史研究の最前線」と題する国際シンポジウムを開催し、二〇二〇年二月十六日には、「鈴木大拙の思想とその史的意義」と題するシンポジウムを開催した。

 以下に、本研究における、二〇一九年度の上記学術大会への参加、本研究所プロジェクトにおける学会参加・研究調査、上記シンポジウムの概要について報告する。

第八回中・日・韓 国際仏教学術大会への参加

伊藤 真 客員研究員

 期間  二〇一九年六月二十八日~七月一日

 出張先 中国人民大学

 中国(北京)の人民大学にて、人民大学(中国)・金剛大学(韓国)と共催する国際シンポジウム(第八回中日韓国際仏教学術大会)に参加し発表を行った。今回のシンポジウムのテーマは「偽経」であり、当研究プロジェクトにおける報告者の担当研究テーマ「偽経成立とその意義」の観点から、「地蔵大道心駆策法に於ける鬼」との題目で発表した。『地蔵大道心駆策法』は唐・武周王朝代ごろに中国で成立したと思われる「偽経」の仏典で、これまでまとまった先行研究がないものだが、今回は「鬼の駆使」という点から道教思想との融合性を論じ、さらに現代的な視点から同経典の菩薩思想の意義も考察した。これに対し、四川大学芸術学院の李翎教授から「評議人」としてコメントをいただき、さらに発表者がそれに対して応答した。


第八回中・日・韓 国際仏教学術大会への参加

佐藤 厚 客員研究員

 期間  二〇一九年六月二十八日~七月一日

 出張先 中国人民大学

 中国(北京)の人民大学にて、人民大学(中国)・金剛大学(韓国)と共催する国際シンポジウム(第八回中日韓国際仏教学術大会「東アジアにおける疑偽経」)に参加し、通訳と発表を行った。私が担当した通訳は次の通りである。一日目:開会式、蓑輪顕量先生(東京大学)「日本撰述偽経について」の質疑、伊藤真先生(東洋大学)「『地藏大道心驱策法』中の鬼」の質疑、二日目:李栄振先生(金剛大学)「東アジア仏教のインド仏説判断基準の理解」─『瑜伽師地論』と『瑜伽論記』を中心に」の質疑、閉幕式。なお、担当以外の発表でも、質疑で韓国語─日本語の通訳が必要な場合には適宜通訳を行った。また、自分の発表は二日目で題目は「『天地八陽神呪経』の朝鮮半島における流通と特徴」であった。


二〇一九年度・第二回(通第三十六回)東アジア仏教研究会・定例

研究会への参加および研究発表

舘 隆志 客員研究員

 期間  二〇一九年七月二十七日

 出張先 東洋大学白山キャンパス(居住地の沼津より出張)

 二〇一九年度・第二回(通第三十六回)東アジア仏教研究会・定例研究会に参加し、また研究発表を行った。駒澤大学大学院の陳怡安「『仏説文殊悔過経』は文殊菩薩自身の悔過ではない」の発表に際しては、経典に記された礼拝方法について、具体的な動きについて質問し、その回答を頂戴した。『仏説文殊悔過経』に記された礼拝方法は、現在の礼拝方法としては受け嗣がれていないものであった。

 また、「達磨宗新出史料『心根決疑章』と仏地房覚晏」と題して発表した。これは、二〇一八年十一月に発見した達磨宗新出史料『心根決疑章』に因み、その著者である仏地房覚晏について考察したものである。さらに、浄土宗典籍に散見される仏地房覚晏の記事を数点紹介した。これまでほとんど解らなかった仏地房覚晏の行実を明らかにするとともに、覚晏の門下が道元に参じてその教団の中心的な存在になったことを踏まえれば、本研究によって、鎌倉時代初期から中期にかけての禅の歴史や思想の展開、曹洞宗の歴史を明らかにすることができると考えるものである。

「修験道に見る仏教の展開」

東北の出羽三山における修験道の歴史と現在についての調査

渡辺 章悟 研究員

 調査日 二〇一九年七月二十九日~七月三十一日

 調査地 羽黒山・三神合祭殿、湯殿山神社、月山神社奥宮等

 短期間で出羽三山を訪問するため、レンタカーを使用した(七月二十九~七月三十一日)。

 七月二十九日(月)高崎駅を九時十九分発の新幹線で出発し、新潟経由で特急いなほ3号に乗り換え、鶴岡駅に十二時四十五分到着した。早々にニッポンレンタカー鶴岡駅前店で七月三十一日(水)十八時迄の予定でレンタカーを借りた。

 この日は、羽黒山に登拝し、羽黒山・月山・湯殿山の三神合祭殿、歴史博物館、斎館、いでは文化館を車で周り、出羽三山の修験と神仏習合についての調査を行った。特に「いでは文化館」は、羽黒修験の歴史と伝統を知るためにはこの上ない資料を所蔵していて、大変勉強になった。羽黒山の入り口にある休暇村庄内羽黒に宿泊した。

 七月三十日(火)、早朝に混淆の羽黒山修験本宗の本山である荒澤寺、正善院黄金堂を訪問した。ついで、羽黒山から月山八合目まで車で上り、周辺を歩いた。そこでは「月読命」を祭神とし、阿弥陀を本尊とする月山が、現在は神道の山となっている実際を具に見ることができた。次に湯殿山の登坂し、月山南西部の中腹にある湯殿山神社本宮を参拝し、その極めて独特な信仰を調査した。この日は月山麓にある志津の旅館に宿泊した。

 七月三十一日(水)姥沢駐車場からリフトに乗り、姥が岳、牛首を経由して月山山頂に登頂、月山神社本宮を参拝。頂上付近は強風ともやの為周囲が全く見えない危険な状況であり、さらに残雪もあって何度か転びながら這々の体で下山。この日は疲労困憊のため、他の宗教施設には行けなかった。鶴岡発十六時三十三分─新潟着十八時三十一分(特急いなほ14号にて出発)、新潟で新幹線に乗り換え、夜十時過ぎに高崎の自宅に帰着した。


国際シンポジウム「初期禅宗史研究の最前線」

二〇一九年五月二十五日・五月二十六日

東洋大学キャンパス 六三一七教室

五月二十五日

“Early Chan and ‘Nonduality’: The Cultural Impact of Chan Antinomianism”(初期禅と「不二」─禅における反戒律主義の文化的影響力)

Bernard Faure(ベルナール・フォール)氏

(コロンビア大学)

「惟心觀一巻」(S212)について

程 正 氏(駒澤大学)

《頓悟真宗論》的禅法特質─禅宗与攝論思想的交流 (『頓悟真宗論』における禅思想の特質─禅宗と攝論思想の融合)

黄 靑萍 氏(銘傳大学)

随自意三昧から一行三昧へ

中島 志郎 氏(花園大学)

初期禅宗思想史中的《維摩経》」(中国初期禅門における『維摩経』)

龔 雋 氏(中山大学)

五月二十六日

禅定における業障消去をめぐって

大竹 晋 氏(仏典翻訳家)

《禪祕要法經》(T.613)與《治禪病祕要法 》(T.620)中的禪病

 ─論早期禪修傳統中犯戒法的觀想法門」

(『禅秘要法経』(T.613)と『治禅病秘要法』(T.620)に見られる禅病について─初期禅修の伝統における戒法違反に対する観想法門を論ず─)

林 佩瑩 氏(輔仁大学)

“Rhetorical Uses of Pramāṇa and Yogācāra Terminology in the Lidaifabao ji 歴代法寶記”(『歴代法宝記』に見るプラマーナや瑜伽行派の専門用語の修辞学的使用)

Wendi Adamek(ウェンディ・アダメック)氏

(カルガリー大学)

七世紀後半における中國北地の思想動向

 ─『金剛三昧經』に見る初期禪宗と三階敎の接合とその意味─

伊吹 敦 研究員

 二〇一九年五月二十五日から五月二十六日にかけて、上述の国際禅研究プロジェクトと本研究との共催で、東洋大学白山キャンパスの六三一七教室にて「初期禅宗史研究の最前線」をテーマとした国際シンポジウムが開催され、九名の研究者による研究発表と討論がなされた。

 五月二十五日、竹村牧男学長による開会の辞の後、ベルナール・フォール氏(コロンビア大学)による “Early Chan and‘Nonduality’: The Cultural Impact of Chan Antinomianism”(初期禅と「不二」─禅における反戒律主義の文化的影響力)という題目の発表がなされた。フォール氏は禅の魅力の源となる特徴として、釈迦牟尼仏から現今の祖師にいたるまでの、途切れることなき師資相承の命脈という禅の主張、伝統的なインド仏教における多種多様な方法に比べてより簡単で直接的かつ効果的な形態の瞑想を提供すると主張した点、反戒律主義をあげ、初期禅の禅師たちはしばしば神通力を具えていたといわれていることに触れつつ破竃堕の聖像破壊を取り上げて、破竃堕の聖像破壊の行為にある種の反戒律主義をみる。また、大衆文化の中で禅師たちの属性と考えられた「力」のまた一つの側面として挙げられるのが性的な潜在力であるといい、禅宗にみられる反戒律主義においても越えることのない一線として、性に関わる破戒行為を指摘する。そして、馮唐による小説『不二』を取り上げ、主人公不二が目撃する禅僧たちの情交の描写から、この種の物語にある時代の秘密や「上流階級」の生活に対して一般の人々が持つ強い興味を浮き彫りにしているのかもしれないという。この小説は検閲の対象となっているが、その理由として、禅が中国文化の優れた象徴になりつつある時代の中で、禅イメージを損なう否定的な姿を記した点を挙げ、禅研究が成熟の段階に到達するとしたら、禅宗史家─そして特に宗教史家─が避けねばならないのは、イデオロギーに基づくこの種の単純化なのだ、という意見を述べた。

 続いて、程正氏(駒澤大学)による、「「惟心觀一巻」(S212)について」という題目の発表が行われた。程氏は、本発表でスタイン敦煌文献写本No. 212(S212)「惟心觀一巻」について、写本S212 に最初に書写され、「惟心觀一卷」という尾題を有する部分に焦点を合わせ、S212 の主な内容構成(問答体形式を有する内容、「人身配天地五行」を中心とする内容、各種経典の引用文、「惟心觀 一巻」という尾題)について説明し、「惟心觀」問答体部分、「人身配天地五行」の部分、経証部分の検証を行い、「惟心觀」の位置づけを検討し、以下のとおり結んだ。

 一、 S212 に書写された首缺の「惟心觀」は、菩提達磨の著作として種々の経録に著録された「唯心觀」である可能性が極めて高く、いわゆる偽撰の「達摩論」の一種と考えられる。

 二、 「惟心觀」に含まれる「菩薩畢竟淨智」問答に限り、P3095 にその異本が存在し、両者の対校によってよりよいテキストが得られる。

 三、 「惟心觀」の冒頭にある問答体の内容には、『二入四行論』『達摩禪師論』『觀門』などの初期禅宗文獻との思想的、構造的類似が複数存在している。

 四、 「惟心觀」は冒頭の問答体部分を除き、道教などの中国伝統的思想による影響が多くみられ、内容も構成もかなり粗雑である。

 五、 従来、禪と道教の交渉を示す文獻として『雲笈七籤』巻59所収

の『妙用訣』が紹介されたが、『達磨胎息論』(擬)(BD11491)にその一部と類似する内容が新たに確認され、『妙用訣』の成立時期を探るに際して、重要な手がかりとなる。

 次に、黄靑萍氏(銘傳大学)による「《頓悟真宗論》的禅法特質│禅宗与攝論思想的交流」(『頓悟真宗論』における禅思想の特質─禅宗と攝論思想の融合)と題する発表が行われた。『頓悟真宗論』、正式名称『大乗開心顕性頓悟真宗論』は、敦煌の蔵経洞から出土した初期禅宗文献であるが、黄氏は、『頓悟真宗論』の文章構成を整理し、序文、本文、後記の構成に基づいて各部分の禅思想の内容を分析し、それによってこの書の示す多様性と矛盾の禅思想の特質を説明した。『頓悟真宗論』の文献が綴合された部分では、南北の二宗を主としているが、そこに現われた禅思想は、達磨禅・東山法門・牛頭宗の特色を兼ね備えたものであって、大乗安心と言ったかと思えば、道の修める可き無し、と説き、すべからく心を起こさざるべし、と言ったかと思えば、別のところでは直心を言い、道の求むる可き無し、と述べたかと思えば、観心・看心が必要だと言うように、多様で矛盾する禅思想にも思われるが、もし『攝大乗論』の十勝相および真諦の真心の立場を参照するなら、むしろ心性論・工夫論・境地論の構造において、一まとまりの完備された理論が打ち立てられていると述べた。

 四番目の発表は中島志郎氏(花園大学)の「随自意三昧から一行三昧へ」であった。本発表では、初期禅宗の禅定論を考えるにあたり、坐禅ではない禅定が検討された。慧思『随自意三昧』は、六威儀禅定、四威儀禅定を基本構図として十八界の分析を空観で徹底させるが、坐禅ではない禅定の影響が見えるのが『大乗心行論』であるという。『随自意三昧の六威儀禅定に相当する論理』(坐禅ではない禅定)の枠組みが確認できるとして次の一段が挙げられた。

凡為修道、行住坐臥、飲食語黙、常自覚悟。覚悟何事、謂之心境。心境有麁細、謂心之苦楽。心有違順、謂之憂喜。行者覚之、識知虚妄、則無苦楽之計、不生麁細煩悩。

凡そ修道は、行住坐臥、飲食、語黙にあって常に自ら覚悟する。何事をば覚悟す、謂く心境なり。心境麁細有あれば、心の苦楽と謂う。心に違順有れば、憂喜と謂う。行者これを覚って、虚妄を認知すれば、即ち苦楽の計無く、麁細煩悩を生ぜず。

 ここに「行住坐臥、飲食語黙」ということが『随自意三昧』などにいう六威儀禅定に対応し、このように禅宗の文献を辿っていけば、坐禅ではない禅定の系譜を辿っていけるのではないか、というのが今回の発表の問題意識であった。

 『大乗無生方便門』においては、離念中にあって眼が色を見ても分別しない、それを眼の解脱といい、他も同様でそれを五処解脱といい、それはそのまま一切処において解脱するのであり、一切処浄、浄法界、つまり仏界であるという箇所に、中島氏は、坐禅ではない禅定が語られているのではないかと述べた。そして、『禅門経』では、禅定論として、真如妙体は虚空にして性不空、善悪業縁は無異、不異といえども同じではない。そのことが分かれば、行住坐臥、禅定でないものはない、という箇所を取り上げて、『禅門経』は坐禅ではない禅定を説くといい、『禅門経』の坐禅批判は普寂に代表される北宗の禅定観を批判しているという。

 そして敦煌本『壇経』においては、神会の坐禅批判や坐義の変更を経て「一切時中行住坐臥」に「直心」を行ずる(『維摩経』)、いわば「坐禅ではない禅定(随自意三昧)」の内実を一行三昧の語に摂取しているといい、一行三昧の内実は、随自意三昧である、というに等しいという。禅定の位置づけの流れを追ってみると、神秀は一行三昧において法界の議論をし、普寂や浄覚は坐禅に収斂し、神会は坐禅のない禅定をみていたが、そこに一行三昧の意味の変化がみられ、『壇経』の一行三昧の定義は一切処行住坐臥であり、これは坐禅ではない禅定といってよいという。また神会や『壇経』において坐禅ではない禅定が説かれながらも、坐禅という語は捨てられず、換骨奪胎して用いられており、その矛盾が放擲されたままであることが指摘された。

 五月二十五日最後の発表は、龔雋氏(中山大学)の「初期禅宗思想史中的《維摩経》」(中国初期禅門における『維摩経』)であった。『維摩経』は中古禅宗史の思想形成に対して重要な影響を与えた。『維摩経』は「不思議を以て宗と為す」。この点は、禅門における「秘密之説」の根拠だと見なされている。龔氏は、本発表において、一.達摩と『達摩論』における『維摩経』、二.東山法門と『維摩経』、三.北宗禅における『維摩経』、四.『維摩経』と保唐系、五.南宗禅の門流における『維摩経』の応用─慧能と荷澤系を例として─、というトピックを立て、思想史の視点から、『維摩経』と中国初期の禅学思想との関係について探究した。研究の手法に関しては、思想史と文献学の結合に基づき、達摩禅・東山法門から、保唐宗及び南北二宗といった様々な流派に至るまでの「初期禅」は、どのように『維摩経』を会通して、またどのように各自それぞれの禅学論述を展開したか、について分析を行った。

 五月二十六日は、最初に大竹晋氏(仏典翻訳家)による「禅定における業障消去をめぐって」と題する発表がなされた。本発表において大竹氏は、『阿毘達磨発智論』『大般涅槃経』にみられる、業障を五無間業(母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、仏身から故意に出血させること、僧伽を分裂させること)とする定義を示し、中国仏教においては、現世の折々に悪しく結実する、前世の業が業障と呼ばれることもあり、業障は必ずしも五無間業であるとは限らないことを指摘した。そして、鳩摩羅什訳『十住毘婆沙論』『諸法無行経』における、懺悔による業障消去と禅定による業障消去、南北朝における、懺悔による業障消去と禅定による業障消去、唐宋における、禅定による業障消去を取り上げ、インドの大乗仏教においては、懺悔による業障消去が主流であり、のちには、密教化とともに、陀羅尼による業障消去が主流となったが、しかし、中国の大乗仏教においては、懺悔による業障消去や、陀羅尼による業障消去よりも、禅定による業障消去が主流となった。これは南北朝から唐宋にかけての禅の流行と切り離しては考えられず、中国の大乗仏教の一特徴であったと見なされるといい、本発表において述べられてきた事柄が以下のとおりまとめられた。

 一  南北朝においては、①懺悔による業障消去と、②禅定による業障消去とが併用されていた。

 二  南北朝においては、のちに、①懺悔による業障消去が廃止され、②禅定による業障消去のみが単用されるようになった。

 三  唐宋においては、②禅定による業障消去が禅宗において単用されていた。

 次に、林佩瑩氏(輔仁大学)による「《禪祕要法經》(T. 613)與《治禪病祕要法 》(T. 620)中的禪病─論早期禪修傳統中犯戒法的觀想法門」(『禅秘要法経』(T. 613)と『治禅病秘要法』(T. 620)に見られる禅病について─初期禅修の伝統における戒法違反に対する観想法門を論ず─)という発表がなされた。本発表で林氏は、『禅秘要法経』と『治禅病秘要法』中の、特に戒律に違反した禅病(修禅者が修行するときに起こりうる身・心の病)、そしてその対治における観想に焦点をしぼって論じ、先に両経典それぞれの戒律に背いた際の観想法門から説明し、最後に『治禅病秘要法』中に見える菩薩戒を取り上げ、そこには、大乗思想的色彩が「禅経」系統のなかに溶け合っていく軌跡の一端が見られるという。そして、以下のとおり結語が述べられた。

 『禅秘要法経』では、その最も主要な観法を不浄観・四大観・慈心観としていた。この経典の文章はやや長いもので上・中・下の三巻に分かれ、第三巻では特に慈心観について解釈が進められていた。経典の整理された部分でも禅病に対する分類は複雑で、計三十種以上の観法が有り、その多くは心病の対治である。戒律に背いた際の禅病に関して、経典中ではその観想の方法を「観像三昧」および「不浄観潅頂法門」と称している。観想される仏の姿は、細大にわたって遺漏無く、観想・懺悔によって悟り得られる果位は、四沙門果をその最高とする。『治禅病秘要法』上・下二巻では、心病・身病のいずれにも論が及び、また不浄観・四大観・仏観・慈心観を主要な方法とするものであった。ここで分類される禅病の種類は、乱倒心・四大内風・火大・地大・水大・風大・噎・貪淫・利養瘡・犯戒・楽音楽・好歌唄偈讃・鬼魅所著などであった。経典中ではこれらに対応する治療法が述べられている。

 『禅秘要法経』と『治禅病秘要法』両者を比較すれば、どちらも不浄観・四大観をかなり重視して、声聞乗における禅観の基礎となっている。そしてまた仏を観じる点はどちらも同じである。基本的には、『禅秘要法経』・『治禅病秘要法』中の禅病の種類は、貪欲をその根本とするものが多く、貪欲を対治する法門の主なものがまさに不浄観である。そして戒律に背いた場合の対治の方法は、不浄観を基礎としてさらに慈觀および懺悔を加えるものであった。ただ一点異なるのは、『禅秘要法経』に含まれるのは声聞乗の思想だけのようで、菩薩乗の修行方法が明確に解き明かされていないことである。これに対して、『治禅病秘要法』は、阿羅漢修行の次第の次に、菩薩戒と十波羅密を用意するという優位性をもっていた。こちらの経典には、声聞乗の基礎だけでなく、同時に菩薩乗の思想をも有していたことが分かるのである。こうした違いは、あるいは両経典成立の順序を考えるにあたって一つの端緒をもたらすやもしれない。鳩摩羅什を『禅秘要法経』の訳者とする考証に対しても、間接的ながら反駁する証拠を提供するであろうと考える。

 その次の発表は、Wendi Adamek(ウェンディ・アダメック)氏(カルガリー大学)による、“Rhetorical Uses of Pramāṇa and YogācāraTerminology in the Lidai fabao ji 歴代法寶記”(『歴代法宝記』に見るプラマーナや瑜伽行派の専門用語の修辞学的使用)と題する発表であった。アダメック氏は、『歴代法宝記』から引用して、仏教のプラマーナ(有効な認知を確立するための分析方法、量)や瑜伽行派の実践方法に由来する専門用語が、初期禅宗においてどのように使用されたかについて考察した。『歴代法宝記』の後半部分は、無住禅師(七一四─七七四)による一連の法話となっている。他師との対論の記録において、無住は、禅の方法が優れていることを示すために、時として専門的な用語を用いているが、そうした多様な認識論的表現に潜んでいる問題を探究した。

 アダメック氏は、「無念の時には、無念もない」という無住の代表的な教え、真の無念の実践において戒は完全に実現されているという無住の戒律についての教えについて、心が生じると種々の法も生じ、心が滅すると種々の法も滅するという『大乗起信論』の一節をとりあげて、これこそが無住が「心滅」を語った背景であり、様々な理論化が行われた六世紀から禅宗の「頓悟」が正統となった八世紀までの間、『大乗起信論』は、修辞学的な「浄化」と「不二」の「しないこと」とをうまく調整することで、瑜伽行派=如来蔵思想の継承者としての役割を果たしたという。そして、結語において、漸修の基礎としての頓悟の倫理学は、多かれ少なかれ制度化されていったが、禅宗の問答もまた絶えず洗練を加えていったのであり、その間も、ブッダの直接知覚は、その土台を蹴散らすことが禅に特徴的な実践となったものの、依然として究極的基準であり続け、これは禅宗的な証言と教義のプラマーナ、つまり、「「信言量」や「教量」は「不生」である」という修辞学的な主張なのである、と述べた。

 本シンポジウムの最後に、伊吹敦研究員による「七世紀後半における中國北地の思想動向─『金剛三昧經』に見る初期禪宗と三階敎の接合とその意味─」という題目の発表がなされた。本発表で伊吹研究員は、『金剛三昧経』の全体を概観するとともに、特にその中の「入実際品」について、その概要とそこに窺える初期禅宗、三階敎の影響を探り、以下の諸点を明らかにした。

 一. 「入実際品」の思想には、国家の庇護を得て安易に過ごす僧侶一般に対して厳しい批判の目を向け、如来蔵を信じつつ、空観を中心とする菩薩行の実践によって悟りを目指す真摯な修行者の価値観が反映されている。

 二. 「入実際品」は、代表的な大乗経典である『法華経』『維摩経』のほか、中国撰述の偽経である『瓔珞経』、『九識章』等の攝論宗文献、菩提達摩の所説とされる『二入四行論』、『対根起行法』等の三階教文献に基づいて書かれている。

 三. 「入實際品」に與えた初期禅宗や三階敎の影響は、従来考えられていた以上に大きく、ほとんどその全体が両者の接合であると見做すことができる。

 四. 特に初期禅宗の影響は大きいが、その中で「守一」の思想を東山法門と結びつけてきた従来の見方は誤りであり、その全てが、北地に展開した達摩=慧可の兒孫の思想の反映と見做すべきである。

 五. 従って、『金剛三昧経』「入実際品」に見られる東山法門との類似は、北方に展開した慧可の児孫と東山法門が起源を同じくすることを示すものであり、従って、慧可と道信を師弟関係で繋ぐ僧璨の実在性への疑問にも拘わらず、東山法門は達摩=慧可の流れを汲む教団と見てよいと考えられる。

 六. 「入実際品」で初期禅宗の思想と三階教の思想が接合された理由は、当時、初期禅宗と三階教の思想や立場に共通するものがあると認識されており、作者もそれに強い共感を抱いていたためと考えられる。

 七. 『金剛三昧経』の成立場所として最も相応しいのは終南山であり、至相寺を中心とする人的な交流のなかで制作された可能性が考えられる。

 そして、ここで注目されるのは、『金剛三昧経』の作者において、当時の二つの代表的な新興教団である初期禅宗と三階教の共通性が認識されており、それに対して強い共感を懐いていたということであり、そして、これは、同じく新興宗敎の一つであった華厳宗の祖、智儼の著作からも窺えるものであると述べられた。

シンポジウム

「鈴木大拙の思想とその史的意義」

二〇二〇年二月十六日 東洋大学白山キャンパス

125記念ホール

講演

鈴木大拙における華厳思想と戦後の日本社会

竹村 牧男 客員研究員

研究発表

大拙における禅思想史観と「日本」の位置

 ─戦中から戦後の看方を軸に考える 飯島 孝良 氏

(親鸞仏教センター嘱託研究員・明治大学文学部講師)

鈴木大拙はどうして初期禅宗史研究を始めたか

伊吹 敦 研究員

鈴木大拙の思想へ/思想から─般若即非の真如観─

井上 克人 氏(関西大学名誉教授)

 二〇二〇年二月十六日、東洋大学白山キャンパス八号館125記念ホールにて、公開シンポジウム「鈴木大拙の思想とその史的意義」が開催された。このシンポジウムにおいて、本学学長の竹村牧男客員研究員による講演、三名の研究者による研究発表が行われた。講演・研究発表には質疑応答の時間が設けられ、活発な討論がなされた。

 研究発表に先立つ竹村客員研究員の講演「鈴木大拙における華厳思想と戦後の日本社会」では、鈴木大拙が『華厳経』に深い共感を寄せ、華厳宗の教理を高く評価し、しかもそれを理想社会形成の理論に据えようとしたことが語られた。そこには、戦後の新たな民主的日本建設への悲願があったという。大拙の『霊性的日本の建設』には「自の否定によりて自はそのより大なるものに生きる。そして兼ねてそこにおいて、他と対して立つのである。自に他を見、他に自を見るとき、両者の間に起る関係が個個の人格の尊重である。仏者はこれを平等即差別、差別即平等の理と言っている」と述べられているが、竹村客員研究員は、この言葉を解説して、自他を超えるものの中に包まれていて初めて自他であるということが認識されたとき、自己は自己のみで成立していたという考えは否定され、すなわち自己が否定されることになり、この否定を経て自己を超えるものに生きるとき、同じくそこにおいて成立している他をも自己と見ることになるという。こうして、自己に他者を見、他者に自己を見ることにもなるが、これは大拙が同書で「これをまた他の言葉で現わすと、事事無礙法界である。……差別即平等・平等即差別というよりも、事事無礙法界という方がよい」というように、事事無礙法界の論理であり、その無礙なる事事を人人に見た場合のことに他ならず、相互に人格を尊重しあう世界は、こうして仏教の華厳的世界観から説明される。また、大拙は「特に華厳思想を政治・経済・社会の各方面に具現させる」ことによって、霊性的日本の建設を構想したが、その根本に、仏の大悲がはたらいていることが、大拙の阿弥陀の四十八願への言及を通じて指摘された。

 つぎに、飯島孝良氏(親鸞仏教センター嘱託研究員・明治大学文学部講師)による「大拙における禅思想史観と「日本」の位置─戦中から戦後の看方を軸に考える」と題する発表では、一.大拙の禅思想史観にみえる特質、二.大拙思想における「日本」の位置をめぐって:戦中から戦後を貫くキイワード、三.「霊覚」(日本的霊性的自覚))と「衆生無辺誓願度」というテーマで発表が進められた。

 一.大拙の禅思想史観にみえる特質

 まず、大拙の『禅思想史研究』において敦煌文献にみえる「東土六祖の所説」たる初期禅と後代の公案禅を対比しながら、禅の「経験」と「表現」という二項をともに重視していくという姿勢が表明されたことが指摘された。大拙が探求した日本禅思想史においては、盤珪は公案禅の形骸化を批判して「そのまま」(ふと物音(落雷の音など)を耳にしたとき、それに驚いたとしても意識を挿し挟まずに「そのまま」に捉えている心こそ仏心のあらわれだとするもの)を根本に置く不生禅を宣揚した点に着目される。一方、白隠は公案禅を体系化する方へ向かった存在と位置付けられる。大拙の「禅思想史」に見える特徴は、敦煌文献←→公案禅、唐代禅←→宋代禅、盤珪禅←→白隠禅、平話による禅←→漢語による禅、近代的な禅←→伝統的な禅といった、二項が相補的な構造をとっているものとして「禅思想史」を論じる視座がみられる。

 また、二項が矛盾しながら相補的に展開する構造としての「即非」について、心理的動的体験たる「悟る」が理念的静的「悟り」を否定してこそ、本質たる「悟り」が実現するという指摘が取り上げられ、こうしたものに見いだされるのは、「AはAでないからAである」と大拙が把握した「即非」そのものであるという。こうした「即非」的な理解を、盤珪の不生禅にも展開させ、「そのまま」は「そのままならぬもの」を経過するから「そのまま」であるという、絶対否定をくぐった上での絶対肯定の論理としての「即非」と、その自覚としての「そのまま」は、大拙における禅思想史観のなかでも重要になる。

 二. 大拙思想における「日本」の位置をめぐって:戦中から戦後を貫くキイワード

 大拙は『東洋的一』において日本人と日本文化の特徴に「摂取性」があり、その特徴を如何に批判的に継承し活用していくか、ということを繰り返すが、それは古来からも、更には近代化のさなかにあっても、日本文化にみられるものとする。このとき改めて強調されるのは、「一」であり「二」、「二」であり「一」であるという有様が「そのまま」「おのずから」はたらきを発揮する、ということである。『東洋的一』の主眼は、東西の文化を相補的なものとして構想するところにあり、近代化において主客分離の(=「二」の)西欧合理主義を受容した日本は、科学技術を導入することで発展したのち、改めて「一」の包摂性を世界へ訴えねばならないとする 。すなわち、東西文化の往還を、「一」が「二」を取り入れるだけでなく「一」が「二」を活かす思想により実現する、ということであり、そうして、「一即二、二即一」という論理を最もよく表すのが「禅」でしばしば提示される考え方(「無分別即分別、分別即無分別」といった「即非」につながる考え方)である。

 三.「霊覚」(日本的霊性的自覚))と「衆生無辺誓願度」

 大拙がいう「霊覚」とは、近代科学に到る西欧の重んずる二元的認識を乗り越える自覚の在り方をいう。絶対否定を通して「無分別」を自覚し、「分別」をも含めて自己であることをそのままに絶対肯定する(が常にまた絶対否定の契機を含む)感覚が「霊覚」(「日本的霊性的自覚」)である。大拙の「霊覚」の把握は、二項が矛盾しながら相補的に展開する構造に着目して本質を探究する大拙思想の大きな特質があらわれたものである。 この姿勢は、『禅思想史研究』『浄土系思想論』『日本的霊性』などを相次いで著した戦時中(四〇年代前半)に顕著な特徴であり、戦後にも継続されるものであった。また、禅・浄土・華厳の精華としての日本仏教を、大拙は戦前から戦後にかけて集中的かつ体系的に論じようと念じていた。殊に強調されるのは、一切が「衆生無辺誓願度」という大悲のはたらきに接すること(米国滞在中から意識していたこと)であった。

 そして、締めくくりとして、ここで強調したいのは、困難な時代にあって「日本」の独自性を明らかにし、その功罪を出来る限り批判的に捉えようとしていたその主体的視座である、といい、大拙思想の全体を問い直すうえで(或いは西田哲学と通底する問題意識を考究するうえで)、この点は等閑に付すべきではなかろう、と述べられた。

 次の発表は、伊吹敦研究員による「鈴木大拙はどうして初期禅宗史研究を始めたか」という発表であった。伊吹研究員は、禅学者、あるいは仏教学者として既に内外に知られていた鈴木大拙が、どうして初期禅宗史研究に手を染めるようになったのかという問題、彼はいかなる状況の中で、どのような動機のもとに、その研究を始めたのか。これを明らかにしようとするのが、本発表の課題であると述べ、境野黄洋『支那仏教史綱』、松本文三郎『金剛経と六祖壇経の研究』との関連、達磨伝に関する鈴木大拙の主張、慧能伝に関する鈴木の主張、僧璨伝を巡る鈴木大拙と境野黄洋の応酬、敦煌文書への注目と『楞伽経』研究、鈴木大拙の初期禅宗史研究の性格といった問題について、鈴木大拙の著作を精査しつつ論じた。その結論は、次のようにまとめられた。

 要するに、アカデミックな禅宗史研究が隆盛する中で、禅の伝統説を死守しようとしたのが彼の立場であったのである。その場合、なぜ初期禅宗史がその主な対象になったかといえば、初期禅宗史は禅宗が宗派として権威を確立する中で自らの正統化のために作り上げたものであり、それゆえ史実を超えた主張が多々含まれていたからに外ならない。近代における大学の設立とアカデミックな歴史学の発展は、その虚構を次々に暴いていった。それは境野黃洋や松本文三郎の言うように、宗教の本質とは無関係な不純物を除くことで禅宗の宗教としての価値をいよいよ明らかにしようとするものであったが、禅体験を絶対視し、伝統的価値観を捨て得なかった鈴木大拙には、その両者を分離することができなかったのである。

 そこで鈴木は、歴史学的な素養がないにも拘わらず、果敢に仏教史家の説を批判したが、その主張は、歴史家から見れば、しっかりとした根拠や方法論に基づかない、ほとんど思いつきに過ぎないようなものばかりであった。資料はどうとでも解釈できると言い、当初、『二入四行論』によって達摩の禅を説明したものの、禅思想の一貫性の説明で困難を感じると、達摩禅の根拠を『楞伽経』に鞍替えし、再びそれに困難が生じると敦煌文書等の新出文献に活路を見出そうとした鈴木の行動は、見ようによっては滑稽ですらある。もともと、そのようないい加減な主張で歴史家に対抗できるはずがないのであって、三祖の実在性を巡る境野との応酬に見るように、歴史家と直接に主張をぶつけ合えば、鈴木が完敗するほかなかったのである。それでも鈴木は「立場の違い」に過ぎないとして反省のそぶりも見せないが、それは、禅宗史は「禅の精神」の必然的な発現であり、禅体験を持つ自分だけがそれを正しく理解できるという自負を持っていたために外ならない。しかし、客観的に見れば、それは単なる鈴木の思い込みに過ぎなかったと言うべきである。

 鈴木は、この後、本論で示した彼の生涯の第三期(一九三二─一九四五)(Ⅲ.敦煌文書への注目と『楞伽経』研究(一九二七─三二))において本格的に敦煌文書等の新出文献に取り組むことになるが、その際も独自の思弁に基づいて妥当性を欠く主張を繰り返し、初期禅宗史研究の新たな展開の中で、遂には初期禅宗史研究への関心も失ってしまうのであるが、この鈴木の挫折は、実際には既にこの時期に確定していたと言えるであろう。

 本シンポジウムの最後の発表として、井上克人氏(関西大学名誉教授)による「鈴木大拙の思想へ/思想から─般若即非の真如観─」という題目の発表がなされた。井上氏は、敗戦後、日本人が世界文化に向けて、どう取り組んでいったらよいのか、その果たすべき使命は何なのか、日本人は文化の上で世界に向けて発信してゆくべきものがあるはずであって、それを遂行してゆくことが東アジアの日本人に課せられた今後の使命なのだという自覚が、大拙にとって切実なものとなっていったといい、それは「西洋」に対する「東洋的なもの」の発露にほかならなかったという。そして、留意すべき点として、大拙にとって「東洋的見方」は来るべき「世界文化」の構築に貢献するものであり、顕彰する意義のあるものなのだが、それは「西洋」対「東洋」ではなく、「西洋」の根底に、それを包む「東洋」があるとする点を挙げる。そしてその「東洋」とは、大拙にあっては、大乗仏教、とくに根本仏教における般若智による「無分別智」にほかならなかった。

 井上氏は、根本仏教の立場の究明とは、すでにインド以来の般若思想の展開の中に潜んでいた〈最も原初なるもの〉すなわち「般若智」とそこに開示される「真如実相」の哲学的・論理学的自覚を意味するとし、般若智に基づく真如を、鈴木大拙が仏教哲学者としての立場から、「般若即非の論理」として明示した思想は、今改めてその世界思想史上における業績として見做されるであろう、という。「即非の論理」については、西洋的思考の根幹にある「同一律」とはまったく異質な、否定の契機を介してそれと認められる「自己同一の論理」、更に簡単に言えば、「AはAでない。ゆえにAである」、青原惟信の言葉を踏まえていえば「山は山にあらず。故に山である。水は水でないが故に水である」という言説で説かれる同一性論理であったと説明された。また、般若智の直覚内容について、『碧巌録』巻第一・第八則にある「雲門の関」の公案が取り上げられ、机の上に錠前を置いたその瞬間、ガチャンと鳴った、そのガチャンが、分別以前、判断以前のところであるがままの真実をまさにあるがままに顕現させたという大燈国師の悟りについて、「未分化の場が未分化の場そのものと一枚になりきつたことを自知する、そこに悟りがある」(『禅による生活』)と鈴木大拙が述べている箇所を引用して、禅は思想ではなく「ガチャン」それだけであるが、大拙にとって、禅が世界禅となるためには、そこに思想がなければならない、という自覚があり、そういう体験と思想とのギャップを越える深みのある、広い世界を大拙は初めて打ち出したという。

 次に、鈴木大拙が『般若経の哲学と宗教』の最後で、「般若波羅蜜の内的経験を彷彿たらしめる」ものとして挙げて締めくくっている、「過水の偈」が取り上げられた。「過水悟道」の話は、曹洞宗の開祖、洞山良价が師の雲巖曇晟のもとを辞し去る途次、川を渡る際に水面に自分の影を見て豁然大悟し、偈を賦した故事であるが、この偈の「渠今正是我 我今不是渠」について、現在の即非的自己同一化の運動、それは現在を絶えず〈痕跡〉というかたちで現在化させながら、それ自身は〈痕跡〉を与える当体として一度も現前することなく、自らの現在化を留保し、つねに〈先─ 現在〉として、いわば〈未現前〉に留まり、自らのもとに引きこもるアノニムな根源現象であって、こうした絶対的覆蔵態こそが、自性の絶対現在を「それ自体に於いて先なるもの」たらしめていると論じられた。

 そして、唯識説が説くところの唯識無境の立場について、識は境を対象化することなく、境そのものと成って境を識ると、また「空」という言葉については、対象のないところのものが智であるということ意味し、この智はいかなる対象化も免れた物の本性に達した智にほかならず、それは実相・真如を意味することになるといい、もはやいかなる対象も持たない「唯識(唯心)」という場に於いて繰り広げられる自己同一的真如とは何なのかという問いに対して、 〈存在〉と〈思惟〉との関係、〈真如〉と〈正覚〉との関係を考えなければならないといい、「般若智とはあるがまま(yathābhūtam)のものの本質を徹見することである」という鈴木大拙の言葉を引用して、大拙にあっては、思惟すなわち「正覚」こそが自己同一的真如のはたらく場にほかならず、「正覚」がなければ真如もありえないということになるという。

 最後に、「日本的霊性」における「大地性」に触れ、「大地性」とは、「大悲」と結びつき、一切をそのままに包容する慈母的な側面を持っているという。しかしながら、衆生は地上に生きる限り罪悪深重、煩悩熾盛を免れず、罪業の繋縛を離れえない。したがって大地には生命の慈母としての大悲の抱擁と共に罪業とが一つに結びついている。この深い矛盾が一つになっている結合のあり方は、鈴木大拙の般若即非の論理を用いていえば、「罪悪深重・煩悩熾盛の自己は、罪悪深重・煩悩熾盛の自己ではない。ゆえに自己は罪悪深重・煩悩熾盛の自己である」という論理であり、これがすなわち「不断煩悩得涅槃」(煩悩を持ったまま涅槃に入る)という救済にほかならない、と述べられた。