東アジアにおける仏教思想の成立と展開、並びにその意義の解明
東アジアにおける仏教思想の成立と展開、並びにその意義の解明
本研究プロジェクトは、学長主導のもとで日本の東洋大学と中国の人民大学、韓国の金剛大学校の間で結ばれた交流協定に基づいて、毎年、三箇国のいずれかにおいて開催されることになった国際シンポジウム、「日・韓・中 国際仏教学術大会」(開催国により名称が変わり、韓国で開催される場合は「韓・中・日国際仏教学術大会」、中国で開催される場合は「中・日・韓仏教学術大会」、日本で開催される場合は「日・韓・中国際仏教学術大会」と称することになっている)の日本側の受け皿として東洋学研究所を位置付け、これを研究所の研究と国際交流の起爆剤として活用し、研究活動の高度化に図らんとするものである。東洋学研究所では、このプロジェクトを中核として人民大学の仏教与宗教学理論研究所、金剛大学校の仏教文化研究所と共同で毎年シンポジウムのテーマを設定し、そのテーマに沿って研究活動を繰り広げ、また、シンポジウムで成果を発表し、併せて中国や韓国の研究者と意見交換を行い、更に研究を推し進めてゆく予定である。
この国際シンポジウムは、平成三十年度に七年目を迎え、多くの研究成果を挙げてきた。本プロジェクト参加者はこのシンポジウムにおいて研究発表を行い、コメンテーターを務めるなど、中心的な役割を果たし、また、その経験を自分の成果に生かしてきた。他の参加者も、今後の発表が予定されており、各自の研究をより高めてゆくことができるものと期待される。
また、毎年度のシンポジウムの内容を纏めた研究雑誌、『東アジア仏教学術論集』も第七号までの刊行を終えている。この雑誌は、国内外の研究機関に配布され、また、インターネット上でPDFが公開されて、大きな反響を得ている。特定のテーマに関する日韓中三箇国の研究者の最新の研究成果を一冊で概観でき、それに対するコメンテーターの見解、それに対する回答まで収録するという今までにないものとなっているからである。しかも、同じ内容が中国や韓国でもそれぞれ自国語で刊行され、仏教に関する東アジア三箇国の最新の研究成果を共有するというこれまでにない全く新しい取り組みも行っている。こうした取り組みが、今後の仏教研究に果たす役割の大きさは言うまでもないことであろう。
このように「日・韓・中 国際仏教学術大会」の開催、並びに研究成果の刊行は、極めて大きな意義を有するものである。
本研究のメンバーは以下のとおりである。
研究代表者 役割分担
伊吹 敦 研究員 中国思想史における禅宗成立の意義
研究分担者 役割分担
原田香織 研究員 禅思想の日本文化への影響
渡辺章悟 研究員 インドにおける大乗仏典の成立、並びに中国における翻訳と偽経の関係
山口しのぶ 研究員 チベット仏教文化における禅の影響
川崎ミチコ 研究員 敦煌仏教文学文献にみる仏教思想
高橋典史 研究員 禅を中心とする東アジア仏教の世界への拡大とその意義
水谷香奈 研究員 唯識観から中国禅へ
佐藤 厚 客員研究員 韓国仏教と偽経
舘隆 志 客員研究員 日本における禅宗教団の独立と展開
伊藤 真 客員研究員 中国における偽経の成立と意義
川崎ミチコ研究員は平成三十年度より本研究の研究分担者となった。
平成三十年度の研究活動については、韓・中・日仏教学術大会への参加と、禅仏教に関する国際シンポジウムの開催があげられる。
第七回韓・中・日国際仏教学術大会への参加
平成三十年六月三十日・七月一日に、「敦煌写本と仏教学」をテーマとして、第七回韓・中・日仏教学術大会が韓国・ソウル市の仏教歴史文化記念館の国際会議場で開催された。この学術大会において、本研究所関係者では、川崎ミチコ研究員が研究発表を行い、岡本一平客員研究員がコメンテーター、佐藤厚客員研究員が通訳を務め、そして研究代表者の伊吹敦研究員が開会・閉会の辞を述べ、研究発表のコメンテーターを務めた。また、仏典翻訳家の大竹晋氏に研究発表を依頼した。
国際シンポジウムの開催
前述の大型研究「日本文化の背景となる仏教文化の研究」の第一回道元国際シンポジウム「世界の道元研究の現在」の報告で述べられているとおり、平成二十九年度より、伊吹敦研究員(東洋大学文学部教授)が日本学術振興会の科学研究費助成事業・科学研究費補助金研究による共同研究「海外の研究者との連携による中国・日本における禅思想の形成と受容に関する研究」(JSPS 科研費JP17H00904)に着手し、東洋大学東洋学研究所内に「国際禅研究プロジェクト」を発足させることになった。
この国際禅研究プロジェクトの研究活動として、本研究と共催で、平成三十年六月十六日と九月二十二日に国際シンポジウムを開催した。
以下に、本研究における、平成三十年度の上記学術大会への参加、国際シンポジウムの概要について報告する。
第七回 韓・中・日 国際仏教学術大会への参加
川崎 ミチコ 研究員
期間 平成三十年六月二十九日~七月二日
出張先 韓国(ソウル市)仏教歴史文化記念館(国際会議場)・曹渓宗総本山曹渓寺
三大学の交流協定に基づいて韓国金剛大学校仏教文化研究所・中国人民大学仏教与宗教学理論研究所と共催する国際シンポジウム、「第七回 韓・中・日 国際仏教学術大会」(統一テーマは「敦煌写本と仏教学」)に日本側発表者として出席し、「敦煌本『佛母経』と釈迦金棺出現図について―関係資料の紹介を中心として」と題する研究発表を行い、コメンテーターのソウル大学校宗教学科の金志玹氏のコメントに対して答弁を行った。また、会場の仏教歴史文化記念館に隣接する曹渓宗総本山曹渓寺を訪れた。
六月二十九日(金)はソウル到着後、ホテルでの歓迎会に臨み、六月三十日(土)は午前中に発表を行った後、午前、午後とも会場にて研究発表を聞き、夜は会場近くの韓国の伝統的な食堂で開かれた懇親会に参加した。また、七月一日(日)も午前・午後とも研究発表を聞き、閉会式の後、再び、会場近くの伝統的な食堂で開かれた懇親会に参加した。七月二日に帰国。
今回の参加において、日本から参加した伊吹敦(東洋大学)、菅野博史(創価大学)、程正(駒澤大学)、岡本一平(東洋大学東洋学研究所)らの各氏と敦煌文書の研究方法等について意見交換を行った。そして、コメンテーターを務めてくれたソウル大学校の金志玹副教授とは、通訳を介して交流の機会をもった。
第七回 韓・中・日 国際仏教学術大会における通訳
佐藤 厚 客員研究員
期間 平成三十年六月二十九日~七月二日
出張先 韓国(ソウル市)仏教歴史文化記念館(国際会議場)
学術大会は六月三十日(土)、七月一日(日)の二日間にわたり行われた。一日目はまず九時三十分から十時まで開会式が行われた。午前の発表は、(一)張文良(人民大学哲学院教授):「南朝成実宗における二諦説―杏雨書屋蔵・羽271『不知題仏経義記』の「二諦義」を中心に―」(討論:崔鈆植、東国大学教授)、(二)川崎ミチコ(東洋大学准教授):「敦煌本仏母経と金棺出現図について」(討論: 金志玹、ソウル大学副教授)の発表があった。私は(二)川崎先生の発表の時に通訳を務めた。
午後の発表は、(三)史経鵬(中央民族大学講師):「中国初期仏教における相続思想」(討論:李秀美、東国大学 仏教文化研究院HK研究教授)、(四)李相旼(高麗大学 博士):「地論文献における本業瓔珞經疏(S.2748)の位置」(討論:岡本一平、東洋大学東洋学研究所 客員研究員)である。二十分の休息の後、(五)程正(駒澤大学教授):「新出のスタイン本『菩提達摩禅師論』について」(討論:趙英美、成均館大学講師)の発表が行われた。私は(五)程正先生の発表の通訳を務めた。その後、十八時から二十時まで、宿泊先であるアベンツリーホテルの地下で晩餐が行われた。
二日目は、(六)辛師任(金剛大学 博士課程)「北周道安の〈二教論〉と唐 法琳の〈辯正論〉との関係 ―敦煌写本〈二経論〉と〈辯正論〉を中心として」(討論:張文良、人民大学教授)」、(七)大竹晋(仏典翻訳家):「法成(Chos grub)が引用する『瑜伽師地論』最勝子疏をめぐって」(討論:金成哲 金剛大学校 仏教文化研究所HK教授)が行われた。私は(六)辛師任先生、(七)大竹先生の発表の通訳を務めた。昼食の後、(八)楊玉飛(宜春学院)「照法師撰『勝鬘経疏』(S.524)について」(討論:菅野博史、創価大学教授)、(九)車相燁(金剛大学 仏教文化研究所HK教授)「サムイエの論争、摩訶衍の禅法に対する論義」(討論:伊吹敦、東洋大学教授)発表が行われた。
以後、閉会式が行われた。私は閉会式の通訳を務めた。十八時からインサドンの韓国料理屋で送別会が行われた。七月二日に帰国。
第七回 韓・中・日 国際仏教学術大会への参加
大竹 晋 氏
(仏典翻訳家)
期間 平成三十年六月二十九日~七月二日
出張先 韓国(ソウル市)仏教歴史文化記念館(国際会議場)・曹渓宗総本山曹渓寺
七月一日に「法成(Chos grub)が引用する『瑜伽師地論』最勝子釈をめぐって」と題する発表を行なった。法成(九世紀)の講義録である敦煌文献『瑜伽論手記』が引用する『瑜伽師地論』最勝子釈が、チベット訳として現存する著者不明の『瑜伽師地論釈』(八二四年以前に訳出)であることを指摘した。
拙論が字数制限の関係上やや説明不足になっていたため、金剛大学校の金成哲教授から補足説明を求められたが、補足説明をした結果、すべて了解していただき、拙論の論旨に賛成していただいた。
なお、仏教歴史文化記念館が、曹渓宗の本山、曹渓寺に隣接しているため、休憩時間に同寺を見学した。
東洋大学・東洋学研究所での資料調査
舘 隆志 客員研究員
調査日 平成三十年十二月二十二日
調査地 東洋大学図書館、東洋大学東洋学研究所(居住地の沼津より出張)
研究所プロジェクト「東アジアにおける仏教思想の成立と展開、並びにその意義の解明」の分担者としての調査を、東洋学研究所にて行った。主に、日本禅宗の祖として知られる栄西の史料調査を行った。並びに、日本における禅と茶の関係を再評価するために、史料収集と、調査を行った。それぞれの課題について、東洋学研究所所蔵史料を網羅的に収集調査することができた。
また、国際禅研究プロジェクトの定例会議に参加。さらに、東洋大学第一会議室(白山キャンパス二号館)で行われた齋藤智寛「『続高僧伝』感通篇と禅仏教」(十四時三十分―十六時)を聴講し、「諸俗同評道人多訴(坊さんは嘘ばかりだと言い)」という記述について、このような評価が他にも見られるかについて質問し、今のところ道英伝にしか見ることができていないとの回答を得た。中国初期禅宗のうち、東山法門以前の修禅者について、新たな知見を得ることができた。
国際シンポジウム「フランスの研究者による禅研究」
平成三十年六月十六日 東洋大学キャンパス 六二〇一教室
平成三十年六月十六日、上述の国際禅研究プロジェクトと本研究との共催で、東洋大学白山キャンパスの六二〇一教室にて「フランスの研究者による禅研究」をテーマとした国際シンポジウムが開催され、ダヴァン・ディディエ氏、張超氏の研究発表と討論がなされた。なお、当日発表予定者のフレデリック・ジラール客員研究員は、都合により発表時間に間に合わず、国際禅研究プロジェクトの分担者である石井清純氏によりジラール客員研究員の発表原稿が代読された。
研究発表
大燈派の思想的特徴
ダヴァン・ディディエ 氏
(国文学研究資料館准教授)
〔発表要旨〕今日の日本の臨済宗の実践は看話禅を修行の中心におく、いわゆる白隠禅である。誤解されやすいが、白隠禅は白隠によって成立したものではなく、白隠や白隠の弟子たちの作品の中にみることはできない。むしろ、彼の築いた基盤の上に発展した禅を白隠禅といった方が適切かもしれない。特に、修行の骨組みである公案体系の成立について検討の余地があると思われるが、思想的にも実践的にも今の禅は、臨済宗中興の祖と称される白隠が切り開いた道に歩んでいるということは疑いない。
白隠は「応灯関」とよばれている流派に属する。大応国師(南浦紹明)、大燈国師(宗峰妙超)、関山慧玄の三名からなる応灯関は妙心寺派だが、東の白隠と西の古月禅材の活躍によって、江戸時代にはこの応灯関が主流になった。ただし、すでに先行研究で指摘されているように、それ以前には大徳寺に伝えられていたのは「応灯徹」の流れであった。もちろんその違いは大徳寺と妙心寺の勢力競争を語っている面もあるが、なによりも中世後半からの大燈派の重要性を知らせるということも言える。応灯関あるいは応灯徹は、虚堂智愚を継いだ大応国師から始まるが、事実上勢力のある宗派を築き上げたのは、大徳寺の開山で、後醍醐天皇や花園天皇と関係の深い大燈国師である。
しかし、南北朝時代に活躍した大燈国師から、江戸時代中期の白隠まで応灯関が統一した教えであったかというとそうではない。しかも白隠が中興の祖といわれるだけであって、中興する必要があったことを意味する。つまり、伝統には何らかの問題があったといえる。実際、大燈派を含めた室町の臨済宗が後に厳しく批判されることになる。現代の例で言うと、鈴木大拙が『禅思想史研究』「変体禅」において、厳しく禅宗を批判している。また、『霧海南針』では、禅宗が記録を過剰に重視していたことなど、様々な問題点が提起されている。
また、禅宗の法門であり、公案の分類の先駆けといえる「理致・機関・向上」について、日蓮宗の『諸宗問答抄』、天台宗の『渓嵐拾葉集』と『大応国師仮名法語』の記述がまったく一致していること等を確認した。
従来、大燈国師の歴史的な研究に対して思想面の研究は比較的少なかった。今回の発表では大燈の教えが反映されている『祥雲夜話』を取り上げた。本文献の詳細は不明であるが、大燈の思想的特徴を理解する上で、形式化した語録を見るよりも比較的わかりやすいと思われる。『祥雲夜話』の概要を簡単に述べると、光和尚がまさにその人生が終わろうとする時、自身がまだ悟れていないことを嘆く。そこに大燈が訪れるが、光和尚は結果的に悟らないまま終わる、という内容である。ここに現れる光和尚は大燈と同門であること以外に詳細は明らかではないが、光和尚が語っている教えは夢窓疎石の教えそのものである。本文献を見ると、大燈派の思想的特徴のひとつとして、教門を一切排除し、禅のみを重要視したことが窺える。また、それは教門を説く夢窓派との相違を強調している。
研究発表
大慧派の禅僧仲温暁瑩と宋代の禅林筆記文
張 超 氏(日本学術振興会外国人特別研究員・駒澤大学研究員)
〔発表要旨〕一般に禅林筆記(「宗門随筆」「禅林軼事小説」とも呼ばれている)は中国の北宋代の臨済宗の詩僧で歴史家でもあった恵洪(徳洪、一〇七一―一一二八)の『林間録』に始まり、その後、この伝統は南宋時代に確立され、少なくとも明代まで続いたとされています。
一人の禅林筆記の作者、即ち、臨済宗大慧派の僧、暁瑩(字は仲温、雲臥菴主と号した)を例に、二つの作品を具体的に紹介しました。なぜこの僧を選んだのかと言いますと、先ず、先ほど挙げた筆記の一覧から分かりますように、暁瑩は唯一人、二部の筆記を残した人だからです。恵洪の『林間録』は筆記文献の嚆矢ですが、実際のところ、暁瑩の作品はそれよりも後代への影響が大きいのです。また、多くの撰者が序跋の中で暁瑩の筆記に啓発されて撰述したと述べており、彼が確立した撰述形式を意識的に継承していますし、後代の作品は内容と風格の点で確かに暁瑩の筆記に近いのです。このため、暁瑩は禅林筆記の事實上の確立者と言ってよいのです。
南宋の初期に生きたこの禅僧の生涯に関する伝世文献中の史料は明代の『続伝灯録』(一三七五―七六)からはじまり、『増集続伝灯録』(一四一七年、X. 一五七四、巻六、三五一頁)や『大明高僧伝』(一六一七年、T. 二〇六二、巻八、九三三頁)等、極くわずかです。これらの極めて限られた資料から、我々は二つの結論を導き出すことができます。第一に、大慧との師承は宗門內で認められていたけれども、暁瑩の宗教体験と業績は決して際立ったものではなかったようだということと、第二に、禅宗の系譜に入れられるエリート僧ではありましたが、禅宗教団にとっての暁瑩の存在意義は、文字、特にその筆記にあり、禅宗の中では、学問僧、詩僧、あるいは隠者として記憶されていたということです。
暁瑩の二つの代表作である『羅湖野録』と『感山雲臥紀談』の中で、法系の問題以外にも、女性習禅者の地位が宋代に高まったという記述も注目すべき点です。禅宗は、教義のうえでは衆生が皆な成仏できるということを強調しますが、実際には、宗門に認められた女性は極めて少数です。その中で、空室道人智通、浄智大師尼慧光、そして暁瑩の三人の同門(大慧の法嗣の無際道人尼慧照、超宗道人尼普覚、真如)という五人の尼僧の生涯について、暁瑩の二つの筆記は、これら両宋の交代期の尼僧たちを高く評価しています。単に円悟や大慧などの一代の宗師が「女性の中の真の大丈夫である」(女流中真大丈夫)と力説したことを強調しただけでなく、女性の禅師たちが男性の禅師と同じように国家から厚遇されたことを記しています。
しかし、それと同時に、筆記中の女性の嗣法者たちの姿が、往々にして優しさとか淑やかさとかいった中国古代の典型的な女性の美徳を欠き、それが強硬な態度や強靱な意志によって置き換えられていることに気づきます。このような「中性化」、あるいは「男性化」は、実は、宋代の禅門における男女間の不平等を示すもので、女性修行者は伝統的女性像を取り去って男性化しないかぎり、究極の境地には至れないということを暗に示しています。更に、これらの女性嗣法者の社会的背景を考えてみると、彼女らが全て宋代社会の頂点に属する人々であったことが分かります。政治権力にますます取り込まれつつあった当時の禅宗教団では、禅僧たちは十方住持の官寺への出世の機会を得ようと高級官僚や中堅の官僚との関係を強めようとする一方、限られた数の宮廷や官僚の家の女性の尊崇を得ることで彼女らの家族や社会権力のネットワークの支持を得ようとしていたのです。そういうわけで、これらの女性たちが宋代の父権社会や父権的宗教団体の中で勝ち取った成功について考えるにあたっては、分析的な視点が必要となるのです。
研究発表
玄奘と日本の禅宗―新しい寺院モデルを求めて
フレデリック・ジラール 客員研究員
(フランス極東学院名誉教授)
〔講演要旨〕鎌倉時代(一一八五―一三三三)の初期は、内乱の連続の中、源氏、北条氏といった幕府側の政権が鎌倉を中心に台頭し、
前時代から続く京都の中央政権と同時に平行して行われるという、特色のある時代である。
中央政権は自分の権力を維持するのに相応しい宗教制度が必要としたが、それに大きな影響を与えたのが則天武后の大雲寺の制度であ
る。また、法蔵部の『四分律』に基づく南山律宗の道宣律師(五九六―六六七)は、大乗と小乗を綜合しようとして祇園精舎を理想化して
長安の西明寺を建てたが、飛鳥奈良時代の大寺院は、東大寺、大安寺を始め、全て西明寺の伽藍配置に基づいているとされている。奈良時
代の七三七年から七四一年にかけて各国に建立された国分寺、国分尼寺の制度もそれを模範とし、全国の国府のそばに建てられた。
この寺院制度の中に、禅宗の寺院が入り込む余地はなかった。玄奘三蔵に師事した道昭は、元興寺の塔頭として禅院を作るのが精一杯で
あった。その後、禅の修行は山中の寺院では禁止された。大寺の中に唐院や禅院が設けられていたにしても、禅師たちは「禅衆」といって
「念仏衆」と並行して、黒衣としてのお寺の下働き、特に穢れと関係する仕事をしていた。宮廷と貴族たちを看病する禅師がいたし、嵯峨
天皇の皇后の橘嘉智子の時に禅宗の僧侶、義空が来日していたが、基本的には、鎌倉時代を待たないと禅宗は台頭しなかった。
日本の禅宗は藤原家とも関係を持ち、また、十三世紀には中国の仏教制度を取り入れることになった。その中で、中国へわたった僧侶と
して鎌倉初期の栄西、道元等の役割は大きいと言える。宗教的表象として、真理追究のためにインド巡礼を行った人たちの中でも玄奘三蔵
のイメージは顕著で、『玄奘三蔵絵巻』が編纂されたほどである。道元は、そのような思想的な枠組みの中で生きていたと言える。彼の思
想の中で『般若心経』が占める役割や、道宣律師への批判的態度とは対照的な玄奘三蔵への賛美、偽作の和歌や寺院縁起の中に見える実朝
の禅宗的な振る舞いの描写はそのことをよく物語っている。
幕府と新政権にとっては中国禅宗が新しい寺院のモデルを提示していると思われたので、それを日本に根づかせようとするのは当然で
あった。一方で、旧制度の下層の禅師と新制度の上層の禅師との間でどのようなバランスをとるかは幕府の課題であった。そのために、ま
だ文化的に十分でなかった幕府は、実朝に関する種々の伝説を用いている。玄奘三蔵だけでなく、他のインド巡礼者、また、聖徳太子、行
基菩薩、天皇関連の逸話と伝説も用いているが、発表者の仮説が正しければ、玄奘三蔵関係の伝説は新仏教の禅宗の側に属し、道宣律師関
係の伝説は既成仏教の側に属している。
東大寺、国分寺の制度から、五山、安国禅寺の制度への移行の間に、道元は新寺院設立の要求に応えようとした。それまでにない純粋
な禅の寺院を建てたことは注目すべきであるが、それがいかに徹底したものであろうと、宮廷では人気がなく、むしろ幕府に受け入れられ
たアンバランスな伽藍配置であった。この点は複合的な宗教を有している日本が、中国で生まれた禅宗をどこまで受け入れるかという問題
と繋がっている。
国際シンポジウム「初期禅宗研究の最前線」
平成三十年九月二十二日 東洋大学キャンパス 第三会議室
研究発表
吐魯番地方における禪籍の流傳
―ドイツ藏吐魯番漢文文書中の禪籍殘片を手がかりにして
程 正 氏
(駒澤大学仏教学部教授)
〔発表要旨〕吐魯番は、中國の西北部の新疆ウイグル自治區に横たわる天山山脈の東部にあるボグド(博格達)連山の南麓に位置している。シルクロードの要衝である吐魯番は、その豊饒さであるが故に多民族による覇權爭いに卷き込まれ、周邊様々な勢力の消長に翻弄された歴史を有している。多民族による入り亂れた進出が、この地に多元性に富んだ文化的要素を蓄積させ、さらに極度に乾燥した現地の氣候も紙質の古文書の保管に最も適している。その結果、吐魯番には漢語、ソグド語、チベット語、ウイグル語、サンスクリット語、トカラ語など様々な言語で書寫、印刷された古文書の斷片が奇跡的に數多く殘されている。二十世紀初頭、列強から派遣された學術調査隊の成果によって、西域、中國研究における吐魯番古文書の重要性が認められ、敦煌遺書と共に脚光を浴びてきたのである。吐魯番の大地に足を踏み入れ、初めて本格的な學術調査を行ったのは、一九〇二年十二月から一九一四年二月にかけてドイツから派遣された調査隊であった。
現在、ベルリンに所藏されている多言語の吐魯番古文書のすべてがこれらの四回に渡るドイツ調査隊の發掘調査によって将來されたもので、ほとんど斷片ではあるものの、その數はなんと約四万點にものぼり、量的には世界各國の中で抜きんでている。このうち、「Ch」と編目された漢語文書が凡そ六千號ほどであり、いずれもプロイセン文化財團ベルリン國立圖書館(Staatsbibliothek zu Berlin-Preussischer程 正 氏Kulturbesitz)東洋部に保管されている。
發表者は勝縁に惠まれ、二〇一六年四月から一年間上海師範大學の教授である方廣錩氏のもとで在外研究を行うことができた。本發表では、発表者が在外研究(二〇一六年度)中、ドイツ藏吐魯番(トルファン)漢語文書より確認できた禪籍を紹介した。これらの禪籍を一覧にすれば、以下の通りである。なお、今回の調査で新たに十二號・十四種の禪籍を確認できた。
①楞伽師資記(Ch 三六五の一號)
②歴代法寶記(Ch 一九四六、Ch 三二八七、Ch 三九三四の三號)
③絶觀論(Ch 一四三三の一號)
④先德集於雙峰山塔各談玄理十二(Ch 一二三二の一號)
⑤天竹國菩提達摩禪師論(Ch 一九三五、Ch 二九九六の二號)
⑥南陽和尚問答雜徴義(Ch 七八九の一號)
⑦二入四行論(Ch 二五六九の一號)
⑧佛説法王經(Ch 三一九四の一號)
⑨佛説法句經(Ch 一五五四の一號)
⑩ 楞伽經禪門悉談章(Ch 二四六〇R・V、Ch 二八四四R・V、Ch 三八一一R・V の三號・六種)
また、その出土場所については、不明なもの(四號・七種)を除くすべての禪籍はいずれも木頭溝(五號・五種)、吐峪溝(四號・四種)、高昌故城(三號・三種)の三箇所より發見されたことも判明した。
研究発表
『金沙論』研究―北宗禅文献の新たな出現―
定 源 氏
(上海師範大学敦煌学研究所准教授)
〔発表要旨〕禅宗は最も中国仏教的な特色を備えた宗派の一つであり、五祖弘忍以降、南北二宗に分かれた。南宗は慧能が中心で、北宗は神秀が代表であるが、南宗が慧能以降、弟子の神会らの努力によって大いに繁栄したのに対して、北宗は、神秀の入寂以降、まもなく衰え始め、唐末の会昌の破仏の影響もあって、北宗文献はほとんど跡を絶ってしまった。現在、我々の北宗禅に対する理解は、主として莫高窟の蔵経洞で発見された敦煌遺書によるのである。伝世文献中にも北宗文献はあるにはあるが、極めて稀である。このため、もし本発表で取り上げる『金沙論』が唐代の北宗禅籍であれば、間違いなく唐代の北宗禅を研究する上で貴重な新資料を提供するものとなるはずである。そこで、その研究が何としても必要となるのである。
本発表では、先ず筆者が現在把握している六種の『金沙論』を紹介し、次に歴代の目録や引用を通して、東アジアにおける『金沙論』の流布状況とその作者について考察を行い、次いで現存する二系統の『金沙論』のテキストの異同とその前後関係について分析を行い、最後に『金沙論』と敦煌禅文献の関係を論じ、それによってその性格と資料価値を明らかにした。本発表の内容は、おおよそ以下の点に纏めることができる。
まず、『金沙論』は歴代の大蔵経に収められておらず、敦煌遺書にも含まれていないために、学界では注目も研究もされてこなかったが、現在までに知られるところでは、六本の『金沙論』が中国、日本、韓国の公共機関に収められている。そのうちの一本は中国写本で、他の五本は韓国の刊本であるから、『金沙論』が中国以上に韓国で流布し、その影響も強かったことが窺われる。
次に、『金沙論』の書名が最初に現われるのは、日本の円珍の求法目録であるから、本論の成立は、円珍が入唐した九世紀中葉以前である。本論は円珍によって日本に齎された後、真言宗の道範が円珍請来の『金沙論』を引用しているので、十三世紀前後まで日本で流布していたことが確認できるが、道範以降の日本における流布状況は不明である。しかし、円珍が齎した『金沙論』と現存する『金沙論』の内容が必ずしも一致しないことは注意が必要である。
また、現存する『金沙論』は、その内容から、二つの系統、即ち、写本系統(中国写本)と刊本系統(韓国刊本)に分けることができる。写本系統は分量が多く、経典の「三分」の形態を備えているが、刊本系統は短く、「序分」に当たる部分がない。両者を比較すると、いずれも『金剛経』の影響を受けており、いくつかの問答の内容と言葉の使用法に一致が見られ、両者が密接な関係があることが知られる。ただし、写本系統の方が先に成立し、刊本系統は後の成立である。
写本系統の『金沙論』は、『観心論』等の北宗文献の影響を明瞭に受けており、思想の面でも北宗禅的な色彩が強く窺われ、また、その言葉の使用法も、北宗文献で多用され、その特徴ともなっている「観心釈」と完全に一致している。この点から見て、『金沙論』を北宗文献である、あるいは、少なくとも北宗文献の影響を受け、北宗禅の思想的特徴を備えた禅宗文献であると見てよいはずである。
最後に、このことだけは述べておこう。現存する北宗文献は、主に前世紀の初めに発見された敦煌遺書の中に保存されていたもので、それ以外のものは極めて少ない。従って、『金沙論』がもし新出の北宗文献であると認められるなら、その価値は極めて高いと言えるだろう。なぜなら、北宗禅は、唐末五代以降、歴史の表舞台からほとんど姿を消したが、『金沙論』が地上で伝承されたのであれば、北宗文献の後代における流布と変化、更には東アジアにおける伝播などについて、新たな資料を提供するものとなるからである。(伊吹敦研究員 訳)