日本文化の背景となる仏教文化の研究
日本文化の背景となる仏教文化の研究
日本文化は、天照大神の存在に『金光明経』の影響が指摘されているように、記紀の内容への仏教の影響が指摘されるなど、古くから仏教を受け入れるかたちで培われてきた。上代から現代に至るまでの文学作品、能についても、仏教の影響は計り知れない。しかしながら、その仏教哲学の内実、精神性に踏み込もうとするとき、非常に困難な道を歩まなければならないという印象をぬぐい去ることができない。例えば明治期の哲学をみるとき、西洋哲学を受容するにあたり、伝統思想としての仏教の背景を無視することができないが、その内実に踏み込むとき、仏教に通暁していない者にとってはそこで立ち往生してしまう。そこで、仏教研究者の協力を仰ぐことで、明治期の哲学を更に綿密に研究することが可能になる。
また、深く仏教の内実に踏み込んだ研究成果をあげた場合、それを広く一般に伝えていく場合にも困難が生じる。仏教の研究においては非常に高度な研究がなされているが、門外漢にとっては近寄りがたいものとなっている。その一方で広く一般に仏教学の成果が浸透しているとは言い難い。そこで、研究成果が広く受け入れられるための階梯となる教育のあり方を検討する必要がある。
以上の問題に対し、一方では、仏教研究者が、日本における仏教文化の特質を明らかにし、他方、文学研究者が文学や能に現れた日本仏教文化の特質を指摘し、哲学研究者が、明治以降の、西洋哲学の受容を踏まえた形で日本の哲学を展開するに当たっての仏教的素地を露わにし、そして、海外への仏教の布教において、日本仏教がどのように海外に受け止められているかを把握することが一つの課題となる。この課題において、ある分野の研究者がなしえない領域については、他の分野の研究者の協力を仰ぐ。
もう一つの課題として、広く一般に研究成果が理解されるためにどのように研究内容を伝えていくか、という教育のあり方をもう一つの検討課題とする。研究成果を伝えるための、土台となる基礎的な理解力の涵養、研究成果を伝えるための導入方法、そして、研究成果における問題の所在の把握と、研究成果内容の把握に至るまでの行程が検討される。また、国際的な見地から日本の仏教文化がどのように把握されているかを見ることによって、日本仏教文化に対する多面的な考察が可能になる。そのためには、国際シンポジウム等の開催により、諸外国の研究者との討論を通じて、研究交流を重ねていくことが有効であると考える。
東洋大学東洋学研究所は、本学の仏教研究者が研究所に所属し、数々の研究事業を行ってきた実績がある。また、研究成果発表の場としての研究発表例会を公開で行い、広く一般に、研究内容の開示に努め、開かれた教育の場としての素地が培われてきている。そして、国際的な研究交流については、平成二十七年度・平成二十八年度に行われた、研究所長を研究代表者とする、本学井上円了記念研究助成・大型研究特別支援助成による研究「世界の諸地域における仏教の哲学的社会学的研究」など、本研究所の共同研究やプロジェクトにおいて、国内外の研究者・研究機関との研究交流が行われている。このような研究所の実績を踏まえ、本研究に着手するに至った。
本研究は、日本仏教文化の特質について、諸外国の仏教との差異を踏まえて、日本仏教の特色を明らかにし、芸能や文学作品にみられる日本的な心性、日本の哲学の独自性について、その背景となる仏教文化の影響を、文学研究者、哲学研究者と仏教研究者とのコラボレーションによって探求する。また、海外における日本仏教文化の評価を、海外への仏教の布教活動の研究、国際シンポジウムでの海外研究者の見解により考察する。そして、以上の成果について、講座の開催を通じて、研究成果が広く一般に受容される教育のあり方を検討する。以上の目的のもと、研究が進められた。なお、国際研究交流については、後述の伊吹敦研究員を研究代表者とする、科学研究費助成事業による研究、および本研究所の研究所プロジェクトと提携するかたちで研究交流が進められた。
本研究の実施にあたり、以下のメンバーが研究に従事することになった。本研究は井上円了記念研究助成・大型研究特別支援助成を受け、本研究所の研究所長を研究代表者として二年計画で行われたが、研究所長の任期は二年で、谷地快一前所長の任期は平成二十八年四月一日~平成三十年三月三十一日であり、平成三十年三月三十一日をもって研究所長の任を終え、平成三十年四月一日より相楽勉研究員が所長の任務に就いた。従って、本研究の平成二十九年度の研究代表者は谷地快一前研究所長であり、平成三十年度の研究代表者は相楽勉研究所長となった。研究代表者、研究分担者は以下の通りである。
研究代表者 役割分担
谷地 快一 前研究所長 研究総括、俳諧と仏教
(平成二十九年度) (平成三十年度は研究員として、上記分担課題の研究分担者となる)
相楽 勉 研究所長 研究総括、日本における明治期以降の哲
(平成三十年度) 学
研究分担者 役割分担
伊吹 敦 研究員 日本において禅が果たした役割
渡辺 章悟 研究員 経巻崇拝と日本仏教
山口しのぶ 研究員 ネパール仏教と日本仏教(平成二十九年度)
菊地 章太 研究員 中国思想と日本仏教
水谷 香奈 研究員 浄土思想と日本仏教
高橋 典史 研究員 日本仏教の海外布教
大鹿 勝之 客員研究員 明治以後の哲学と仏教(平成三十年度 昭和初期以後の哲学と仏教)
佐藤 厚 客員研究員 近代東アジアにおける日本仏教
コプラ・ヴィクター・バブー 客員研究員 仏教教育の比較研究
山口しのぶ研究員は、諸般の事情により、平成三十年年度の本研究の研究分担者を辞退した。
また、研究体制として、平成二十九年度、本研究は以下の三つのユニットの構成のもと、研究が進められた。
第1ユニット:日本における仏教文化の特質を、諸外国における仏教文化との共通性と差異を浮き彫りにしつつ、探求する。
構成員:
伊吹 敦(分担テーマ:日本において禅が果たした役割)
渡辺章悟(分担テーマ:大乗仏教と日本仏教)
山口しのぶ研究員(分担テーマ:ネパール仏教と日本仏教)
水谷香奈(分担テーマ:浄土思想と日本仏教)
第2ユニット:日本の芸能・日本文学にみられる日本の心性について、日本仏教文化の影響を考察し、また、中国思想と仏教との関係を考察する。井上円了、西田幾多郎など、西洋思想に対峙しながら哲学を形成していった哲学者たちにみられる仏教的背景を研究する。
構成員:
谷地快一(分担テーマ:俳諧を中心とした日本文学と仏教)
菊地章太(分担テーマ:中国思想と日本仏教)
相楽 勉(分担テーマ:日本における明治期以降の哲学)
大鹿勝之(分担テーマ:昭和初期以後の哲学と仏教)
第3ユニット:ハワイへの布教活動や朝鮮への日本仏教の影響、鈴木大拙の海外への禅仏教の紹介など、日本仏教の海外への影響について考察する。インドや日本など、世界各国における仏教教育について
研究する。
構成員:
高橋典史(分担テーマ:日本仏教の海外布教)
佐藤 厚(分担テーマ:近代東アジアにおける日本仏教)
コプラ・ヴィクター・バブー(分担テーマ:仏教教育の比較研究)
以上の三つのユニットに接続領域を設け、それぞれのユニット間の関係と総合について検討がなされる。三つのユニットの接続領域においては、研究成果を踏まえた講座のプログラムを検討する。研究代表者は、各ユニットの研究者との討議の上、統括し、研究の運営に当たる。また、本研究所の園田沙弥佳奨励研究員が研究支援者として本研究の業務や、学外の研究者との連携を図るため渉外の業務を担当した。
平成三十年度の研究活動
本年度の各研究者の研究活動は以下のとおりである。
谷地快一研究員
和歌連歌俳諧における釈教の世界を中心にして、仏教的思考の影響を追跡した。
伊吹敦研究員
中国の禅思想が日本に及ぼした影響について検討した。また、第七回韓・中・日国際仏教学術大会に参加した。この学術大会については、研究所プロジェクト「東アジアにおける仏教思想の成立と展開、並びにその意義の解明」の項を参照されたい。
渡辺章悟研究員
修験道に見る仏教の展開を研究テーマとして、立山の山岳信仰の歴史と実際の信仰の調査のため平成三十年八月八日~八月十日、立山山頂、立山室堂、立山博物館、岩峅寺、雄山神社の調査を行った。
菊地章太研究員
中国道教の海域神信仰と日本仏教との融合の過程について、中国における媽祖崇拝の展開、および日本におけるその足跡を辿った。
水谷香奈研究員
平塚らいてうが仏教と関わってゆく経緯と、彼女の仏教理解について確認した。
高橋典史研究員
ハワイを中心とした近代における日本仏教の海外布教の研究を進め、また、欧州のドイツにおける日本宗教の関連組織による諸活動について調査した。
大鹿勝之客員研究員
紀平正美(一八七四―一九四九)の『行の哲学』の研究を進め、紀平の議論における仏教の背景を把握し、個性と価値、歴史、国家における紀平の議論を検討した。その成果については、本研究所紀要に論文を投稿した。
佐藤厚客員研究員
日本仏教が東アジアとの交渉の中で、韓国や中国など東アジア諸国にどのような影響を与えたのかについて、『三国仏教略史』の韓国語・中国語への翻訳を一例として研究した。また、鎌倉時代(十三世紀)の凝然が著わし、当時日本に存在した八つの主たる宗派と新興の禅宗と浄土宗の合計十の宗派について整理した文献『八宗綱要』の韓国における流通・影響、および『三国仏教略史』韓国語翻訳版に関して、平成三十年九月四日~九月八日に韓国の東国大学校図書館、国立中央図書館で調査を行った。
コプラ・ヴィクター・バブー客員研究員
昨年度は平成二十九年十月五日より十月十五日まで来日し、研究発表、公開講義を行い、本研究所の研究員・客員研究員・奨励研究員と研究交流を行ったが、平成三十年度は昨年度に引き続き来日して研究交流を予定していたものの、受け入れ体制が整わず、来日を見合わせることになった。
研究成果については、担当者が公開講座、シンポジウムにおいて、成果を発表したほか、各研究者の報告をまとめた冊子体の研究報告書を刊行した。また、本研究の趣旨となる講座の開催、国際研究交流について、平成三十年十月六日の講座を原田香織研究員に依頼し、伊吹敦研究員を研究代表者とする科学研究費助成事業による研究(後述)との共催で、平成三十年七月二十一日・七月二十二日に道元国際シンポジウムを開催した。
以下に、平成三十年度の学術大会参加・研究調査の報告、公開講座・シンポジウムの模様の報告を行う。
第七回韓・中・日国際仏教学術大会への参加
伊吹 敦 研究員
期間 平成三十年六月二十九日~七月二日
出張先 韓国・仏教歴史文化記念館(国際会議場)
三大学の交流協定に基づいて韓国金剛大学校仏教文化研究所・中国人民大学仏教与宗教理論研究所と共催する国際シンポジウム、「第七回韓・中・日国際仏教学術大会」に日本側責任者として出席し、開会式、閉会式において挨拶を行うとともに、金剛大学校のチャ・サンヨプ教授の研究発表、「宗教儀式マニュアルと摩訶衍の禅旨」のコメンテーターを務めた。また、金剛大学校のキム・ソンチョル所長、チェ・ウニョン教授、人民大学の張文良副所長等とシンポジウムの運営会議を開き、来年のテーマと開催日を決定した。
六月二十九日(金)はソウル到着後、歓迎会に臨み、六月三十日(土)は開会式で挨拶を行った後、午前、午後とも会場にて研究発表を聞き、夜は懇親会に参加、七月一日(日)も午前・午後とも研究発表を聞き、最後のチャ・サンヨプ教授のコメンテーターを務めた後、閉会式で挨拶し、その後、懇親会に参加した。七月二日(月)に帰国。
また、日本から参加した菅野博史(創価大学)、程正(駒澤大学)、川崎ミチコ(東洋大学)、岡本一平(東洋大学東洋学研究所)らの各氏と研究方法について意見交換を行い、東国大学校のチェ・ヨンシク教授、キム・チョナク教授とは、東洋大学で開催される道元研究国際シンポジウムや、印度学仏教学会について意見交換を行った。
研究調査
立山信仰の調査
渡辺 章悟 研究員
期間 平成三十年八月八日~八月十日
出張先 富山県・立山町((1)立山山頂、(2)立山室堂、(3)立山博物館、(4)岩峅寺、(5)雄山神社)
立山は古くから修験道の聖地として知られる山岳信仰の山である。立山本峰の雄山に峰本社があり、山麓の芦峅寺(あしくらじ)の中宮(祈願殿)と岩峅寺(いわくらじ)の麓大宮(前立社壇)とともに、三者一体の形を有する。本社の雄山神社は、伊弉諾尊を主神とし、その本地仏を阿弥陀如来とするように、阿弥陀信仰を中心に神仏混淆の形態をもつ。また立山信仰は、山頂付近を極楽、地獄谷を地獄、剱岳を針の山として見たてた地獄極楽思想と、それを図像化した立山曼荼羅で知られるように、立山登山によって死後と極楽の世界を疑似体験する信仰が流布した。その歴史と実際の信仰を調査した。
八月八日(水)
早朝に高崎の自宅を出発し、十一時頃に富山駅の到着。富山駅にてレンタカーを借りて岩峅寺、芦峅寺、雄山神社、立山博物館を訪問した。この宗教施設はほとんど一体になっており、ここではじめて、岩峅寺や芦峅寺というのが寺の名称ではなく、中世の立山信仰の中で成立した宗教組織であり、それが村落の名称になったものであることがわかった。また富山県立立山博物館では立山曼荼羅などを見ることができ、幾つかの貴重な資料を入手することができた。
八月九日(木)
宿から車で立山駅へ(駅のパーキングで駐車)、立山駅からケーブルで美女平へ行き、美女平から高原バスを乗り継ぎ天狗平経由で室堂到着。国指定文化財に指定されている立山室堂を見学し、立山の信仰と民俗の基地として果たした役割を調査した。またこの日は室堂から立山山頂へ登山した。今回の調査の山頂における阿弥陀の化身とされる雄山神社(写真)に参拝することができた。体力の限界であったが、なんとか宿の天狗平に帰着した。
八月十日(金)
天狗平から弥陀ヶ原を散策し、バスで美女平経由し、美女平からケーブルで立山駅。レンタカーで再び芦峅寺へゆき、閻魔堂、姥堂や布橋潅頂会の舞台となった場所を探り当て、現地の写真を撮って、富山駅に向かう。富山駅でレンタカーを返却し、新幹線にて富山駅から高崎駅着に夕方7時頃に帰着。体力がすり切れた今回の調査であったが、白山を開山した佐伯有賴(慈興上人)と立山信仰の由来となった「矢疵の阿弥陀」信仰の成立と展開、またそれらをモチーフとして立山の地獄極楽を図示した立山曼荼羅の内容などを理解することができた。しかし、神仏分離以前、すなわち古代から中世の修験仏教の実際はまだ不明な点が多く、今後の研究の課題が残った。
『八宗綱要』の影響の調査
佐藤 厚 客員研究員
期間 平成三十年九月四日~九月八日
調査地 韓国 東国大学校図書館・国立中央図書館
九月四日(火)
十二時二十五分、羽田空港発、十四時四十五分金浦空港着。十六時ころHotel Aventree Jongno 到着(最終日まで同ホテル宿泊)。十七時、東国大学校で同校教授の金天鶴先生と研究交流。その際、キムソンヨンさんから博士論文『日帝下仏教宗団の形成過程研究』を頂戴するとともに近代韓国仏教に関する意見交換を行う。
九月五日(水)
十時から十二時三十分、東国大学校図書館で、中国で刊行された『八宗綱要』を調査。十三時に東国大学校教授の崔ヨンシク先生と研究交流。十六時に仏教新聞社イソンス記者と対談。最近の韓国仏教の動向について意見交換を行う。
九月六日(木)
十時から十七時まで国立中央図書館にて『八宗綱要』を中心とした近代仏教関係資料を調査。
九月七日(金)
十時から十六時まで東国大学校図書館で近代仏教関係資料を調査。主要調査対象は島地黙雷、生田得能『三国仏教略史』の韓国語翻訳版。十七時、東国大学校国文科教授の金相一先生と研究交流。
九月八日(土)
午前中はホテルの部屋で研究。十三時、威徳大学校のイテスン先生と研究交流を行う。十八時四十五分、金浦空港発、二十一時五分、羽田空港着。
公開講座
平成三十年七月七日
東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室
媽祖崇拝の北限をたどる―東アジア海域世界における信仰圏の拡大
菊地 章太 研究員
〔講座の概要〕媽祖は海を生活の場として暮らす人々が崇めた女神である。その信仰は宋代に中国南部の福建の島でめばえ、つづく元代に観音と習合して信仰圏を拡大させた。明代になると道教の神々の系列に加えられ、福建人の海外移住にともなって東アジアの海域世界に伝播するにいたる。その北限は日本列島において求めることができよう。本講演では多くの映像をもとに、媽祖の崇拝が諸宗教や民間信仰と融合していく足跡をたどる。
北日本の民俗誌を大量に記したことで知られる菅江真澄は、寛政四年(一七九二)から二年あまりを下北半島で暮らした。半島突端の大間崎から北海道汐首岬までは十数キロをへだてるのみで、海峡がもっとも狭隘になる。潮の流れはすこぶる速く、海難事故の多発するところとして知られた。その地に天妃が祀られている。天妃は媽祖の封号である。真澄は大間にある天妃の祠をたびたび訪れ、そのおりに請われて「天妃縁起」を撰述した。そこには元禄年間に水戸から媽祖を勧請した次第が記してある。明朝の滅亡後に日本に亡命した中国僧が水戸藩に招聘された。そのひとりが媽祖の像を東国にたずさえてきた。やがて地域ごとの民間の信仰と習合をかさね、海の女神の崇拝は変容をとげる。それが本州の最北の地にもたらされたのである。
大間にあった天妃の祠は明治初年に村社の稲荷神社に合祀された。町のなかほど、海を見おろす小高い場所に社殿があり、脇の御堂に天妃の像が安置されている。生誕の季節である三月下旬には今も祭礼が絶えることなく続いている。媽祖を祀る聖域として中国で最北にあるのは遼寧省錦州市の廟とされる。わずかな差だが、広大な媽祖信仰圏のうち大間の御堂がその北限ということになる。
船乗りを守る神を崇める習俗は海に面したところであればそこかしこにあったろう。そうした崇拝を媽祖の伝承が徐々にとりこみ、仏教や道教とも混淆しつつ神統譜をふくらませた。中国では国家祭祀に組みこまれたが、それでも民間の崇拝は衰えることなく、海をこえて周辺の国々に伝わっていく。伝わった先々で在地の習俗に溶けこんだ。民間の崇拝からはじまった媽祖の信仰は、東アジアの北限の地でふたたび民俗世界に根づいていった。
公開講座
平成三十年十月六日
東洋大学白山キャンパス 五〇一四教室
小倉百人一首における仏教思想
原田 香織 研究員
〔講義の概要〕小倉百人一首は、藤原定家が選んだ百首の秀歌からなり、小倉山荘色紙和歌とも呼ばれる。日本文化においては歌道の入門編として尊重され、色紙、歌留多、扁額、百人一首歌仙図など歌道の正統として尊重された。百人一首は定家同時代までが選出されているが特に平安末期から鎌倉初期までは激動の時代といえ、自身「世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず。紅旗征戎吾事に非ず」(『明月記』)と記しながらも、百人一首後半の世界には末世思想が少なからず反映している。
定家が生きた時代は、源平の争乱(治承・寿永の乱一一八〇~)則ち平家一族の滅亡から承久の変までと画期の時代であり、鎌倉方(武家政権)と京都方(天皇家貴族社会)との緊張関係が続いていた不安な世相が背景にある。一方平家の武将、平忠度が藤原俊成『千載和歌集』撰進の折に自らの和歌を持参して俊成邸を訪問する(『平家物語』)など、後鳥羽院歌壇などの存在からも和歌隆盛の時代といえる。元久二年(一二〇五)定家四十四歳『新古今集』撰進の折に、後鳥羽院との関係が悪化し、『鳥羽院御口伝』には定家批判があり承久二年 後鳥羽院に閉門を命じられる。しかしながら、後鳥羽院は承久の変の後、三上皇配流となりその生涯を終えていく。小倉百人一首の九九番 後鳥羽院 「人もをし 人も恨めし 味気なく 世を思ふ故に 物おもふ身は」や百番 順徳院「百敷や 古き軒端の しのぶにも 猶あまりある 昔なりけり」には定家の万感の思いが反映されている。
定家自身はそうした転変の世の中において、指導者としての地位を保ちつつ苦汁を舐めつつも和歌や文学への情熱は消えることはない。定家自身も三代将軍源実朝へ『万葉集』(一二一三年)、歌論書『近代秀歌』(初撰本)を送るなど和歌の指南をしている(『明月記』)。本講座においては、そうした時代背景を踏まえて百人一首に現れた仏教思想について論じた。いわゆる末世思想や無常観である。百人一首から「不遇なる天皇への眼差し」として、十三番 陽成天皇六八番三条院・七七番崇徳院の歌や、無常観の認識として「憂愁の秋」として、四七番恵慶法師の歌や七〇番良暹法師「さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮」八七番寂連法師の歌、また「世の中への慨嘆」として八三番俊成「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞなくなる」八四番 清輔や九三番 鎌倉右大臣(実朝)「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海士の小舟の 綱でかなしも」を扱った。また「老いへの慨嘆」として三四番 藤原興風「誰をかも 知る人にせむ 高砂の松も昔の 友ならなくに」や九六番 入道前太政大臣藤原公経「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」と四苦の感情についても言及した。
公開講座
平成三十年十一月十日
東洋大学白山キャンパス六三一二教室
平塚らいてうの思想―仏教との関わりを中心に―
水谷 香奈 研究員
〔講座の概要〕平塚らいてう(一八八六―一九七一年)は、婦人参政権をはじめとする女性の権利獲得・擁護のために、大正から昭和にかけて活動した女性の一人として名高い。らいてうは作家でもあり、女性の真の解放を訴えるべく一九一一年に雑誌『青鞜』を発刊し、その際に「元始、女性は太陽であった」との題で比較的長い文章を掲載した。これは女性解放のシンボル的宣言文として、現在でも世に知られている。
このような若き日のらいてうの華々しい活動の背景には、禅をはじめとするいくつかの宗教・思想への関心や探求があり、その影響は彼女の生涯を通して随所に見出される。本発表では先行研究の成果も参考にしつつ、従来あまり着目されてこなかった記述や事跡にも焦点を当て、らいてうの生涯をたどりながら、その思想と仏教の関連を論じた。
はじめに、十代半ばのらいてうの記憶に残った出来事として、村上専精の講演会への参加について検討した。らいてうが女学校に在籍していた頃、村上専精は近代仏教学の成果を反映させつつ、釈尊が説いた真理のもとに諸宗派の統合を試みる『仏教統一論』の執筆を進めていた。らいてうは後にいくつかの神道系新宗教の主張に賛同し、仏教、キリスト教、神道などの諸宗教を統合的に捉える姿勢を鮮明にするが、そのらいてうに仏教と接する最初の機会を与えた専精の当時の関心事が、仏教統一に関するものだったというのは興味深い。
次に、らいてうが釈宗活のもとに参禅して見性に至った経緯や、その折に聞いたという宗活の臨済録提唱に関して、後に宗活の提唱を記録した『臨済録講話』を参照しつつ、検証を行った。これに関しては末木文美士氏をはじめとして、先行研究も複数あるが、らいてうはこの時に男女・貴賤などの社会的区分を超えてすべての人間が有する「無位の真人」(すなわち仏性)の平等性に目ざめたと考えられる。らいてうの後年の著作でも、この時の体験は非常に重要なものとして語られ続けている。
ただし、仏性は男女問わずすべての存在が平等に有するが、社会的には男性と女性には様々な違いもある。らいてうはその現実のなかで、エレン・ケイが唱えた母性主義に共鳴していく。ここで言う母性とは、単に母親が我が子を愛するというだけではなく、すべての弱き者をいとおしむような社会性を有する愛情を指す。それは仏教の慈悲の精神を女性的に表現したものとも解釈でき、らいてうは夫との関係や子育てを通して、自身の奥底にある母性愛への自覚を深めていった。
ところで、先行研究では、らいてうが禅を通して得た「真の自己(仏性)」と、エレン・ケイの影響で主張するようになる母性とは、直接には結びつかないと解釈される傾向がある。しかし発表者は、らいてうにとってこれらは別物ではなく、女性が真の自己を追求したとき、そこに見出されるのは根源的な母性、あるいは女性的な特質(女性性)であるという認識に至ったのではないかとの仮説を立てた。これに関する直接的な表現はないが、この仮説の正しさを推測させる文章は彼女の著作中に複数見出されるため、最後にそれらに対しての考察を試みた。
公開講座
平成三十年十二月二十二日
東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室
「哲学」受容の背景をなす仏教文化
相楽 勉 研究所長
〔講義の概要〕本発表では、明治期日本における「哲学」受容と展開に携わった人々に課せられた課題とは何だったか、またそれに答える際に自文化であった伝統的思想、特に仏教とのかかわりがどのような意義を持ったかを考えた。
まず彼らが最初に学んだ「哲学」は、同時代の欧米で主流であった実証主義や進化論の影響を受けたものであったことに注目した。幕末期のオランダ留学後に日本に「哲学」を紹介した西周にとって、それはまさに科学的実証の手続きを導入することによって、儒学に為し得なかった倫理に関する普遍的な理論構築を成しうるものだった。それを「百教一致の方法」と称したのである。同じ事情は井上円了にも見受けられる。彼はまさに仏教の真理性を「哲学」を通して発見した。他方、井上哲次郎の場合は、仏教の再評価と共に「現象即実在論」という哲学理論の創出に際して『大乗起信論』がなどの仏教思想が参照されているとも思われる。
この哲次郎の「現象即実在論」が直面した難問、すなわち科学的探究と仏教が教えてきた世界観想の一致を「純粋経験」という新たな立場において試み、西周が「百教一致」と呼ぶような普遍的倫理説を打ち立てようとしたのが西田幾多郎の『善の研究』だった。このことを本発表は、特にこの著の第三編「善」の理論構築の分析を通して明らかにした。
まず人間にとっての「善」を「行為」の問題と見定め、その心理学的分析から始める点が注目される。それによって本能的動作と区別される行為は「意志」に基づくことが明らかとなるが、この「意志」の源を「機械力」とみるか「自然の合目的力」とみるかという前提の選択において「哲学」の立場が確立される。この手続きを通して「意志」は「自己の最深なる内面的性質」と解され、それに基づいて「快不快の感情」より「意識の先天的満足」に向かう活動こそ善であるという倫理説が導かれる。その際アリストテレスの「中庸の徳」説を経てカントの「人格」概念が参照されるが、西田の「人格」概念理解はカントを超え、単なる主観性を超えた「個人性の実現」、さらには「自己」と「世界」が「同一物」となる境位にまで拡張される。この考察の背後には西田も言うごとく「仏教の根本思想」があるのだろう。つまり、西田の倫理説は社会理論の範囲を超えて容易に宗教的要求と結びついてしまうのだが、それは彼の思索の背景にある仏教文化によると思われる。それは必ずしも否定されるべきことではないかもしれないが、哲学的な論証という点では十分ではない。このような仏教的思索の哲学的吟味は西田のみならず、その後の日本哲学にとって不可避の課題となった。
シンポジウム
第一回 道元国際シンポジウム「世界の道元研究の現在」
平成三十年七月二十一日・七月二十二日
東洋大学白山キャンパス 125記念ホール
平成三十年年七月二十一日(土)・二十二日(日)の二日間にわたり、東洋大学白山キャンパス125記念ホールにおいて第一回 道元国際シンポジウム「世界の道元研究の現在」が開催された。このシンポジウムは、本研究所の伊吹敦研究員(東洋大学文学部教授)を研究代表者とする、日本学術振興会の科学研究費助成事業・科学研究費補助金研究(基盤研究(A))による共同研究「海外の研究者との連携による中国・日本における禅思想の形成と受容に関する研究」(JSPS 科研費JP17H00904)と本研究との共催で行われた。
七月二十一日、伊吹研究員より開会の言葉が述べられ、竹村牧男客員研究員の基調講演の後、七月二十二日にかけて、五つのセッションにおいて国内外の研究者が研究発表を行い、活発な討論がなされた。以下、基調講演・研究発表の要旨を掲載する。伊吹 敦 研究員による開会の挨拶163 (東洋大学 東洋学研究所活動報告)
平成三十年七月二十一日
基調講演
脱落即現成の哲学―道元思想の核心にあるもの
竹村 牧男 客員研究員(東洋大学長)
〔講演要旨〕道元(一二〇〇―一二五三)にあっても、当然のことながら、その生涯において思想の変化があったと言われている。途中から次第に臨済義玄に対する評価が厳しくなっていき、特に永平寺に移った頃からは、出家至上主義になり、普勧坐禅よりも一箇半箇の育成に傾いた等と言われている。道元の思想の帰結は、晩年の十二巻本『正法眼蔵』によるべきだとの意見がある一方、道元の思想は、『正法眼蔵』より『永平広録』に記載されている晩年の上堂等に見るべきだとの意見もある。しかし『永平広録』の解読は容易ではない。また、十二巻本『正法眼蔵』以外の『正法眼蔵』も、きわめて深く魅力的な思想を表明している。今回、私が道元を論じるに際しては、七十五巻本『正法眼蔵』を中心として他も参照した。
道元は、中国に渡り、最終的に天童山の如浄禅師にまみえてその指導の下に参禅し、ついにある日、「身心脱落、脱落身心」の悟りを得たという。『三祖行業記』『建撕記』の伝記は、道元の遷化後、一五〇年ほども経った頃の成立であり、只管打坐を標榜する道元にこのような悟道体験はあるはずはないと、その真実性を否定されたりすることもあった。しかしこのようにリアルな描写の背景に何らの伝承もなかったとは言い切れないのではないかとも思われる。実際、『正法眼蔵』「面授」の巻にあるように、道元自身が、その事実があったことを示唆しているのである。
さらに道元は、特に修行の末に開悟に至った例を伝える香厳撃竹・霊雲桃花の話にしばしば言及している。それは、『正法眼蔵随聞記』巻五、『正法眼蔵』「渓声山色」「仏経」「自証三昧」などにおいて言及されている。「仏経」の巻では、道元は、山水その他、見るもの聞くものすべてを、真理を表現している経典と見ている。また、「渓声山色」では、その因縁がていねいに詳しく説明され、香厳については「豁然として大悟す」、霊雲については「忽然として悟道す」とまで記されているのである。明らかに道元は、禅道の世界にそうした体験がありえることを認めている。
さらに晩年の説法にほかならない永平寺での上堂においても、このことを説いてい研究員る。こうして、道元は生涯を通じて、忽然大悟、豁然大悟がありえることを説いていたのであった。
道元は、そうした悟り体験の世界を、どのように描いているのであろうか。『正法眼蔵』「渓声山色」「道得」の巻に、只管打坐の中での脱落体験がかなり詳しく描かれている。そこにある、皮肉骨髄と国土山河とを脱落するということは、主客二元論の構図をすっかり透脱することと見るべきである。主客の分裂を脱落すれば、主客未分の一真実、西田幾多郎の言う純粋経験が現成するにちがいない。果たして道元はここに、「正当脱落の時、またざるに現成する道得あり」と述べている。道得とは、言語を用いて言うことが原意であるが、ここでは広く表現の意として用いられていよう。山水がそこにあることも、道得になるのである。私は、この「道得」の巻の「正当脱落の時、またざるに現成する道得あり」の文から、道元の思想の核心に、「脱落即現成」という理路があることを強調したいと思う。
はたして我々は、「自己行いて自己の如し」と言い放つことが出来ようか。それは、日常生活において、自己が真に自己自身になりきって行動しえているとき、言えることであろう。平常心是道と言われる所以である。日日是好日と言われる所以である。
平成三十年七月二十一日
研究発表 第1セッション
『正法眼蔵』における間主観性―道元を比較哲学者として読む―
ゲレオン・コプフ 氏(米国・ルター大学、アイスランド大学)
〔発表要旨〕本発表では、道元の『正法眼蔵』を彼の歴史的文脈において哲学的な作品として読み、脱文脈化、再文脈化することによって哲学ディスクールで展開されている幾つかの概念に適用する方法を提案し、道元の作品における「間主観性」を探求しようと思っている。もちろん、「間主観性」という用語は、仏教の伝統の外で作られたものであり、したがって、道元の世界とは異質的なものである。良く知られているように「間主観性」という用語を最初に使用した人物はドイツの哲学者エトムント・フッサール(Edmund Husserl, 1859―1938)である。
道元の『正法眼蔵』の観点から解明したい概念は「間主観性」という言葉である。フッサールはこの用語を彼の現象学の中で提起した。フッサールは、本質的な「間主観性」、言い換えれば個人と個人の間にある関係を示唆することによって、理想主義や唯我論を崩壊させようとした。彼はそういう個人と個人との関係を「間主観性」と呼んだ。
「間主観性」という考え方は、『無門関』、禅宗における師弟の関係、「十牛図」、仏教哲学における「事事無碍」等からも看取できるが、『正法眼蔵』の「現成公案」「山水経」「葛藤」「道得」の巻は特に注目すべきである。「道得」の巻では、自覚の体験と間主観性という概念を結び付けた文章が見られる。この巻の結論では、道元は菩提達磨と彼の弟子の間の遭遇を呼び起こして、「道得」の理解に達成する。道元が「現成公案」で述べたように、「一方を証すると一方はくらし」。道得と不道得とのダイナミックな弁証法によって、祖師は弟子との、弟子は祖師との、自己は他己との、他己は自己との、我は彼との、彼は我との、実存的な関係に立つ。言い換えれば、諸仏を証する実践は、全体性の道得として、本質的に「間主観性」的である。この「間主観性」は、本質的な形而上学的枠組みより、非本質主義的な形而上学によって理解されなければならない。このように、非本質主義的に理解される「間主観性」という概念は、多くの魅力的な意義を持つ。
表現の哲学の立場から見れば、「間主観性」という概念は、比較哲学者に、多くの哲学的立場と伝統に対する包括的な態度を抱かせる。もし、道元が「現成公案」で示唆したように「一方を証するときは一方はくらし」、「道得」で述べたように「この道得を道得するとき、不道得を不道するなり」ということになれば、哲学の手法を変更しなくてならない。そういう立場から見れば哲学の目的は、誰の発言が正しいか誰が間違っているかということではなく、むしろ、それぞれの発言がどのような立場で表現されているかということになる。『続伝灯録』に従って道元は「有時意到句不到、有時句到心不到、有時意句両到、有時意句不不到」と言う。このような「表現の哲学」は、道元の『正法眼蔵』から選択されたテキストに支配される。『正法眼蔵』における「間主観性」という概念を調査することによって、『正法眼蔵』の新たな解釈を可能にするとともに、「間主観性」という概念を再考することができるのである。
研究発表 第1セッション
道元とエリウゲナ―東洋と西洋における絶対性への探求―
アルド・トリーニ 氏(イタリア カ・フォスカリ大学)
〔発表要旨〕道元禅師の研究は、近年、非常に多い。禅師のあらゆる面にわたって、広く、細かく、深く分析されているが、その多くは日本の禅の師匠、あるいは日本の思想家として扱われているのがほとんどである。
しかし、最近、道元禅師を「世界思想家」として、言い換えれば「世界思想の中の道元禅師」という見方からのアプローチが増えており、特に西洋の宗教思想家や哲学者と比較して、類似点と相違点を探る研究も見られるようになってきた。
今回、私の選んだテーマはその一つの試みであって、道元禅師と西洋における「中世の最初の偉大な体系的な思想家」といわれているエリウゲナ(Johannes Scotus Eriugena, 810?―877?)という神学者、哲学者を取り上げ、いくつかの点を照らし合わせた。
道元禅師=禅の師匠とエリウゲナ=キリスト教の神学者の思想はずいぶんと違うが、「絶対性」については、面白い接点が窺える。特に両者とも「絶対性」の探求に、「否定言語ストラテジー」を使うことは注目に値する。本発表では、「絶対性」の探求と「否定言語ストラテジー」について考察した。
西洋でも、特に哲学では、「無条件の真理」(absolute reality,absolute truth)を示すのに、言葉の制限(limit)や、言葉の人間的な性格を認めて、言葉の無能性を経験した上で、言語的なネガティーブ・アプローチをよく使う。つまり、「無条件の真理」が言葉で言えないので、apophatic strategy に助けを求めるのである。Apophaticという意味はやはりネガティーブで、apophatic strategy はネガティーブな言語ストラテジーになる。否定によって(これではなくて、それではなくて)真理に近づく方法である。キリスト教では、神は存在しているが、その存在は人間には「不可知」で、ただ信じるしかほかないのである。
また、西洋では、apophatic strategy の歴史が長く、後プラトン哲学から始まって、プロティノス、プロクロス、フィロン、偽ディオニュシウス、エリウゲナなどがあげられる。
仏教においても、否定言語ストラテジーの長い歴史がある。たとえば、『摩訶般若波羅蜜多心経』にみえる「無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得」などがある。
エリウゲナは、神様の定義や叙述の不可能性を認めて、apophaticstrategy つまり否定神学(ネガティーブなアプローチ)を採用する。道元禅師も「悟り」を指すときに、同じく言語のネガティーブなアプローチを用いる。どちらの場合も「絶対性」が直接には示せないので、似たアプローチを取ることになるのである。
しかし、エリウゲナと違って、道元禅師は哲学者ではなくて、禅の師匠であるから、言葉で弟子を論理的に納得させるには興味がなく、悟りの立場から、直接その次元を見せようとしている。したがって、哲学で使われる「議論的な言語ストラテジー」をやめて、むしろ「表現expressive 言語ストラテジー」のほうを選ぶ。従って、道元禅師が使う言語ストラテジーには理論があまりみられない、説明はいらない、議論や論理的な説明は必要ないのである。しかし、西洋の哲学者や神学者は基本的に納得させる言語ストラテジーを用いる。禅師とエリウゲナは違うツールを使って、同じような目標へと向かおうとするのである。
道元禅師とエリウゲナの否定表現の比較から、両者の「反対の一致」の理論、エリウゲナの「神は無」と道元禅師の「無」、という項目を取り上げて、最後に「絶対性」と「神秘主義」に辿りつく。絶対性の探求には、二種類があるという結論が出せる。エリウゲナの神秘主義は、人間の相対性から飛躍して、自分の外にある絶対性を求める。それに反して、道元禅師の神秘主義は、人間の相対性から飛躍して、自分の中にある絶対性を求める。前者はtranscendental mysticism(超越的な神秘主義)、後者はimmanent mysticism(内在的な神秘主義)といえよう。
研究発表 第2セッション
道元の思想構造
―『正法眼蔵』「現成公案」巻と
「菩提薩埵四摂法」巻をてがかりとして―
頼住 光子 氏
(東京大学)
〔発表要旨〕道元(一二〇〇~一二五三)の主著『正法眼蔵』は、難解をもって知られている。確かに『正法眼蔵』の道元の言葉は分かりにくい。しかし、それは、道元の思考や表現に曖昧さがあるからというわけではなくて、それが表現しようとしているものが、われわれが経験する日常的な世界を超えたものであるからだ。道元は、日常的世界、つまり、自明なものとして出来上がってしまい、われわれの思考や表現の無意識の前提となっている世界に対する理解を根本的に覆し否定することを通じて「さとり」の世界を指し示そうとしているのである。
本発表においては、この「さとり」の世界について、また、「さとり」を成り立たせる自己や世界の構造について、まず、『正法眼蔵』全巻の導入となる「現成公案」の冒頭の一節を手がかりとして考え、さらに「菩提薩埵四摂法」に基づいて、「さとり」の世界を生きる修行者の具体的な在り方について考察した。
「現成公案」の冒頭では、まず、仏道の最重要事項である修行と「さとり」ということが、「諸法の仏法なる時節」と「万法ともにわれにあらざる時節」という二つの時節として提示される。この枠組みは、「現成公案」はもちろんのこと、『正法眼蔵』全巻の叙述の基本的枠組みとなるものである。修行と「さとり」は一体であり、修行以外に「さとり」はないのだとすれば、修行し続ける以外に、「さとり」を保持する方法はない。「さとり」とは、品物とは違って、一度手に入れればずっと保持できるというものではない。修行をする一瞬一瞬こそが、「さとり」が顕現される一瞬一瞬なのである。
そして、四摂法の一つであり、六波羅蜜の第一でもある「布施」に関して、道元は「この布施の因縁力、とほく天上人間までも通じ、証
果の賢聖までも通ずるなり。そのゆゑは、布施の能受となりて、すでに縁をむすぶがゆゑに」としている。「布施の因縁力」は、はるかに
天上世界、人間世界に広く及び、善き果報の発動した結果としての開悟成道は、三賢十聖という劣った仏教者にまで及ぶとされる。なぜ、
このようなことが起こるのかという根拠として道元は、「布施の能受となりて、すでに縁をむすぶ」と述べている。つまり、布施という事
態が成立するときには、布施の「能」と「受」、すなわち、布施を行う側と、布施を受ける側とが同時に成立するのであるが、それらが成
立するに先立って、「すでに縁を結ぶ」といわれていることが重要である。布施という行為を成立
させる二項は、すでに本来的に一つのものとして結びつき
あっていたと道元は主張するのである。
以上に述べてきたことを、昨今、喫緊の問題とされている「共生」との関連で考えてみると、道元は「菩提薩埵四摂法」において、他者に施しをなすこと、温かな言葉をかけ、柔和な態度で接すべきことを主張している。これは世俗における「共生」の作法と合致するが、世俗におけるそれが、自他を二元的に分立させた上でのものであるのに対して、道元の主張するそれは、深層における自他不二の次元を基盤にしている。そして、「共生」の担い手の主体性は、この次元へと限りなく自己超出し、ありとあらゆるものとともに修証一等の行をなし続けることによって確保される。「布施」も「愛語」も「利行」も「同事」も、つまり「共生」のためのすべての行為は、この次元を踏まえ、かつそれを成就するために行われるべきなのである。
研究発表 第2セッション
道元の『正法眼蔵』の思想的特色を問う
フレデリック・ジラール 客員研究員
(フランス極東学院名誉教授)
〔発表要旨〕道元という人物は特に真筆が少なく、当時の歴史、文学、宗教の資料にほとんど名前が出ていないため、資料の扱い方は尚更難しくなる。特に年代付けに関する問題が多いであろう。少なくとも一つ注意したいことは、資料に記されている年代によって、その資料がその時期のものとする錯覚が生じやすいということである。実際には説法の時期よりもしばらく、あるいはずっと前に考えていたことがその時期に述べられており、記録された年代と資料の中身の年代とが必ずしも符号しているとはいえない。それは著作者の一生のスケールだけに限らず、記録された著作や伝記に関する解釈についても何十年、何百年の長期的次元でも言えることである。
『正法眼蔵』にはいくつか特異性があるが、その一つは純粋な禅の著作というよりも、原始仏教の経典(釈尊曰く)と禅の語録の引用を並べて仏法の真実性を証明しようとする姿勢である。もう一つは、真理追求の態度に多様性があり、自由思索の展開の巻、系図的、正統的系譜を記した巻、教団生活に関する巻などがあるという点である。一方、説法している相手に適応するという、もともとの仏教的態度も著しいため、在家、出家、俗人、聖王などを意識していた可能性も配慮すべきであろう。時代の流れもあって、内乱の連続する日本でどういうふうに行動すべきか、どういう教えを前に出すべきかという課題、また、中国の仏教の現状を見た上で、どういう仏教を日本に取り入れるべきかという課題を道元は意識していた。
若い時に記録した『正法眼蔵三百則』の序に「祖祖開明之者、三百箇則、今之有也。代以得人、古之美也」というように、釈尊の時代から明らかになっている「正法眼蔵」は、今になって代々に伝えられて三百則の形で呈されているが、それは古すなわち永遠の美を映している。『正法眼蔵』を書き始める前にその多様性の形を意識していた。
ここで主張したいことの一つは、道元は一生の間、一貫した思想の持ち主であったということである。若い時の思想を映している『宝慶記』の記録には、多少年代が違う場合がありうるが、正確な記憶というのは存在しないという学術成果を鑑みると、その食い違いは自然な現象と見てもいい。要するに、一生の間の食い違いは一貫性でおさまるとも言える。ここでの道元の鎌倉体験の意味は、出家の問題に絞ると、今迄、はっきりしなかった世俗世界的、家風的な職業の意識を離れない出家一般の考えに対して、徹底的に隠遁すれば、世俗社会を離れた出家にならざるを得ないという考え方を推し進めたと考えられる。そうすると、北条家の内紛を見て居たたまれない道元にとっては、本格的に仏教者になりたければ、一番の不可欠な条件は、殺生という罪を犯してはならないということに収まって、そのことを説法せざるを得なかった。道元の周辺で今迄不殺生を守ったのは源実朝だけであったため、第三代将軍を理想的な在家、すなわち理想的な転法輪者と考えていたことは、中国へ渡る以前から、永平寺を建てて以降の時代まで一貫している。
この機会に、『正法眼蔵』の巻を翻訳し、道元の思想を研究しながら、いくつかの思想的、哲学的な問題を取り上げ、道元の思想に一貫性がある可能性を考慮し、鎌倉行化の意味について述べた。例えば道元によって、実朝に転輪聖王として理想的なイメージが与えられた可能性について問題にした。また、天台の「三是偈」と道元が作った「三諦」に関しても、草木成仏の説についても道元は伝統的な天台学から遠ざかっていた可能性を明らかにしてきたが、なかなか結論を見出しがたい。『正法眼蔵』の各巻はどういう思想と歴史的脈絡で誰宛に書かれたのかということを明らかにするためには、更に、『永平広録』の説法も調べるべきと考える。
平成三十年七月二十二日
研究発表 第3セッション
道元の著作にみる時間の表記と時間の思想
ラジ・シュタイネック 氏(チューリッヒ大学)
〔発表要旨〕本発表は、道元禅師の著作における時間表記の分析から、彼の時間論を読み直そうとするものである。道元の時間の思想は、二十世紀以来、大いに注目され、様々な解釈がなされてきた。特に、彼の大著とみられる『仮名正法眼蔵』の「有時」の巻が有名である。
二十世紀において、研究者たちの間では、いわゆる「有」は「存在」、「有時」は「存在の時間」または「時間の存在論的な見方の産物」と解釈するのが妥当とされた。「有時」巻の「而今」という道元独特の概念が取り上げられ、時間の真実を、いわゆる十二時(時計の時間)とは別次元にある、永遠にも通ずる「今この瞬間」に見出す見解が主流をなしていたと言える。実践の場面でも、道元の時間論の真髄を「今を生きる」ことに見る場合が多々ある。
しかし、道元の著作の、特に実践の場面を描く文脈の中に、持続や繰り返しを強調する語句も数多くあることを見逃してはならない。また、彼の第二の大著である『永平広録』に集成されている上堂の文章の多くは、発言がなされた季節などに注意が払われており、いわゆる十二時の時間を意識して書かれたもののように見える。
この問題を解決するためには、まず道元の著作の中の時間表記を探り、各種の表記の機能を分析することで、彼の時間の思想のより包括的な理解を目指す必要がある。まず先行研究を踏まえて、道元の時間の思想とその修行論に関わる基本要素を確認することにより、本発表の背後にある問題意識を浮き彫りにした。次に、道元の著作にみる時間表記の多様性を確認した上で、そこに見られる暦日と期間の表記に着目して、これら表記のあり方や機能を分析し、道元の時間の思想との関連を考察した。
時間表記の分析により、道元の時間の思想における「而今」(時間の量り知れない側面)と「十二時」(量れた時間)の関係はより判明になったと思われる。やはり、「有時」の思想を中心とする論者が強調しているように、道元は時間の真髄をその計量には見ない。このことは時間表記における定量の分率にも裏打ちされている。時間表記のレベルでも、時間の定量より、その形容や評価の表現が豊富で、言論の趣旨に密接に関わっている。
とはいえ、多くの箇所では形容の特定はある定量の表記にも伴っていて、場合によっては定量の表記も重大な役割を果たしている。ある発言や出来事の事実性を証明するのはその役割の一つである。また、修行の場面では仏祖の実践を忠実に再現しようとする寺院生活の運営の中で、時間の定量は、修行者の時間を仏祖の時間と結びつける要因になり、いわゆる「十二時」を「而今」として実感させる手段になっているケースが少なくない。こうした点からすると、時間の量的な側面は、時間の存在論から見てもただの二次的な、ましては仮相的なアスペクトではないように見える。いわゆる「現成公案」の世界での「公案現成」の要件にもなると思われる。
そもそも、道元の著作に見る時間表記の分析からすれば、道元の思想においては時間の量的アスペクトとその形容のアスペクトは矛盾の関係にあるのではなく、補足関係にあると言ってもよかろう。しかし、これは現段階での一つの主題に限っての考察であって、道元の寺院における時間の行政と彼の時間の思想への言及に関する網羅的な研究によって補う必要がある。
〔本発表は、欧州研究会議(ERC)研究企画『中世日本の時間意識』(TIMEJ: Time in Medieval Japan ; ERC Advanced Grant no.741166)の研究成果の一部である。〕
ラジ・シュタイネック 氏
研究発表 第3セッション
大悟・仏性・古仏心
―『正法眼蔵』における本質存在と現象との位置関係について―
石井 清純 氏(駒澤大学)
〔発表要旨〕本発表は、『正法眼蔵』「大悟」「仏性」「古仏心」各巻に、それぞれ示される、「大悟」・「仏性」、「古仏心」の概念規定の特徴について考察することを目的とする。結論を先取りすれば、道元禅師は、自己に内在する絶対性や可能性(「本来人」あるいは「主人公」と表現されるもの)として捉えられる概念を、すべて自己の外側に置き、さらにそれを、世界全体の具体的な事象を包括的に表現し規定するものとして捉えてゆくのである。
発表では、まずその前提として、「現成公案」巻における、人と悟りの関係について紹介した。「現成公案」巻(春秋社七巻本『道元禅師全集』〈以下『道全』〉巻一・四頁)において道元禅師は、「人」と「悟り」との関係を、月の水に映る様をもって例えている。この巻に示される「月が水に影をやどす」がごとき「人の悟り」とは、自己の知覚の範囲内において、知覚しうるすべを認識すること、そしてその認識を越えた事象が、さらに存在していることを認識することになる。その「見えていない部分」の認識こそが、道元禅師の実践論へと直結する思考ということができよう。
道元禅師の「悟り」を、部分的認識と、認識対象外の事象の存在の把握という二要素の複合体と見たとき、それは、「大悟」巻においてどのように定義されているのであろうか。これについては、真福寺本「大悟」(草稿本)で「暫時の伎倆(かりそめのはたらき)」と明確に規定されている(『道全』巻二・六一三~四頁)。しかし、この真福寺本の一節は、乾坤院本では、「さとり」を第二頭(現実)と置きつつ、それがそのまま本質と隔たりなく、時間をも越えた普遍的存在であると捉える方向へと書き換えられている。この書き換えは、両巻の冒頭の一節と大きく関係していると思われる。そこでは、「さとり」とは、基本的に、そこから「仏祖」としてのすべての事象が顕現する当体として定義されるのである。しかしそれは、いまここに存在する事象そのものとしてしか認識できない。このように、「悟り」という概念は、道元禅師によれば、二重構造を持つものとされているのである。乾坤院本へ向けての再治修訂は、この悟りの二つの側面の「揺れ」を是正するためのものであったとは考えられないであろうか(そのほか、「古仏心」「仏性」という言葉の特徴的解釈についても同様に、内在的表現が逆に普遍的統括的存在を示すものであることについて考察した)。
つまるところ、道元禅師は、認識作用を越えた全体的属性(仏法の当体とでも呼ぶべきもの)を、仮字『正法眼蔵』の多くの巻において説き示してはいるものの、それは統一された単語をもって語られることなく、むしろ、各巻の主題に即して、「大悟」・「仏性」・「古仏心」などの個々の用語を用いて表現しているものと考えられる。
以上のような方向性を指摘したところで、最後にこの方向性に則って、道元禅師が、『正法眼蔵』のいくつかの巻で痛烈に批判する「見性」の語について、その批判の理由を推察した。この語に関しては、あえて「遍満する属性」へと読みかえることなく、むしろ、かかる遍満性の理解を阻害し、「内在的絶対性」の主張へと繋がりやすいものと捉えられたところにその理由を見出すことができるのではないかと推測した。
この語の批判理由が明確に示されるのは「仏教」巻である(『道全』巻一・三八一頁)。そこでは、「仏教」と「一心」という要素について、「一心」のみを重視し、「見性成仏」を謳う輩を批判するが、この理由として、この「仏教」と「一心」が、今までに見た、普遍的存在と、その具体的かつ限定的な表詮という関係にあるして捉えるべきものであるにも関わらず、「見性成仏」を主張する者は、あくまでも「一心」を内在する絶対性として主張するという意味において、両者の関連性に対する誤った理解の上に構築された思考ということになる。これを、「見性」を真っ向から否定した理由のひとつする可能性を指摘した。
従来、この「見性」の否定は、道元禅師会下に帰投した達磨宗徒を意識したものとされてきた。その要素を否定することはできないが、思想的動機としての「内在性」の拒否という見方も、作業仮説的に設定することも可能なのではないであろうか。
研究発表 第4セッション
現代中国語圏における道元の発見――聞き取り調査から――
何 燕生 氏
(郡山女子大学)
〔発表要旨〕道元はかつて中国に留学し、中国の仏教と深いかかわりを持っているが、中国ではその存在が殆ど知られていない。しかし、近年、そのような状況に一つの変化が見られるようになってきた。台湾を中心とする中国語圏で道元の書物を読んだり、道元の強調するところの「只管打坐」を標榜し、実践の中に取り入れたりするような試みが一部のグループによって行われており、また、台湾および大陸の学界で中国語で書かれた道元研究関連の書物や論文も次第に見られるようになってきたのである。これまで調べたところによると、前者は実践レベルから道元の坐禅観(只管打坐という実践思想)を取り入れようとしているのに対して、後者の場合は思想レベルから道元の禅思想を発見しようという特徴を持っているように思われる。
欧米においては、道元の思想に共鳴して、坐禅を行っている団体や個人が多いが、管見によると、中国語圏ではそのような例がこれまでには未だ確認されていない。この報告では、実践レベルからの道元の発見について紹介すると共に、その特徴や意義について検討する。
まず、実践レベルからの道元の発見について紹介する。これは台湾出身の洪文亮医師を導師とする一連の活動を指すものである。とくに今年実施した聞き取り調査について、整理できた部分を中心に紹介したい。あくまでも中間報告に過ぎないことをあらかじめ断っておきたい。
Web の記載によると、洪氏は一九三三年生まれ、台湾雲林県出身。現在確認できているところによると、講座(講演活動)、共修会もしくは禅修活動(いわゆる坐禅会)、インターネットなどのメディアを使った講話という、おおよそ三つの形でその活動が展開されていることがわかる。これまでは主として洪氏本人によって中国語に翻訳された道元の『正法眼蔵』の一部を読んできたようだが、二〇〇三年に拙訳が正式に出版されてからは、拙訳を利用することが殆どのようである。
洪文亮氏が中心となって取り組んでいる活動では、道元の『正法眼蔵』が前面に出されており、坐禅が強調され、実践の面から道元を敬慕していることがわかる。また、洪氏本人も在家でありながら、自分は日本曹洞宗の法脈を受け継いだとの認識を持つ一方、弟子たちより、「老師」や「禅師」などと呼ばれ、宗教家というイメージも多分に持っていることが窺われる。その意味で、彼らの試みは準宗教に近い性格を持っていると言えるが、活動の開始時期については、未だ正確に確認できていない。ただ、これまでの活動記録からすれば、二〇〇〇年前後のことではないかと思われる。特に私の『正法眼蔵』中国語訳が刊行された二〇〇三年以後、大陸に活動の場を広げるとともに、急速に活動が活発になってきたようである。いずれにせよ、思想レベルではなく、実践レベルから道元を発見しようという点に興味が引かれるところであり、今後の進展を見守って行きたい。
最後に、思想レベルからの道元の発見について紹介しておく。冒頭で述べたように、上述した実践レベルの道元の発見ととともに、思想レベルからの道元の発見もなされていきている。その動向を代表する者として傅偉勲氏の『道元』(台湾東大図書公司、一九九六年)を挙げることができる。中国語圏において、中国語で刊行された道元研究の最初の本格的な研究書である。学問的な関心からの道元の発見は中国大陸ではまだ端緒についたばかりではあるが、日本をはじめとする学術交流が盛んに進められている中、道元の発見が益々深まっていくであろうと考える。
研究発表 第4セッション
知訥と道元の比較研究―「信」を中心に
柳 濟東 氏
(成均館大学校)
〔発表要旨〕韓国の知訥(一一五八―一二一〇)と日本の道元(一二〇〇―一二五三)の間には、種々の相違点があるものの、いくつかの共通点も認められる。彼らが生きた時代、仏教の究極的な悟りへ至るための正しい道をめぐり、どちらの国でも多様な宗派が対立していたが、二人はそうした状況を乗り越え、ほぼ同時代に、それぞれの国で独自の禅定修行の伝統を打ち立てた。また、凡夫にも仏性があることを両者ともに認めており、二人のそうした「信」のあり方も注目に値する。近年、袴谷憲昭・松本史朗両氏による鋭い批判的問題提起がなされたこともあり、仏性の意義をめぐっては熱い論争が繰り返される。このため、仏性という概念の重要性は今なお失われてはいないものの、より注意深く検討することが必要となっている。
悟りの頓・漸については、現代の韓国の禅者である性徹(一九一二―一九九三)が論争を巻き起こしたことは記憶に新しい。しかし従来、知訥は韓国禅の事実上の確立者として尊崇されてきたのであり、その韓国禅は中国の慧能(六三八―七一三)の頓悟の流れと、同じく中国の禅者である大慧宗杲(一〇八九― 一一六三) の「看話」すなわち公案を参究する修行とを忠実に受け継いできたことが、最大の特徴となってきたのである。大慧は曹洞宗の禅を異端の「黙照禅」と呼んで厳しく批判したが、凡夫に仏性があることを「信」によって認める点では共通していると言えるだろう。
「信」に対する考えについて言えば、知訥は中国の華厳思想家である李通玄(六三五―七三〇)の思想を積極的に受け入れ、李通玄の主著である『新華厳経論』をみずから要約して批評を加えた。そして『新華厳経論』に見られる、「信」は、衆生済度という慈悲の誓願と結びつけて理解すべきだという李通玄の主張に、知訥はとりわけ胸を打たれたのである。
さて、道元も仏性を重視したが、やはりそれも彼が生きた危機的な時代への憂慮と関連づけて理解することができるのではないだろうか。時代に対する道元の危機感を単に彼の誇張と捉えてはならないだろう。道元の危機感は、親鸞(一一七三―一二六二)が抱いた危機感とは異なるが、道元もみずからが生きる時代の深刻な衰亡ぶりをよく認識していたと考えるべきである。ただ、その深刻な事態の解決策がいくぶん異なっていたに過ぎない。親鸞とは違って、道元は僧団(Sangha)を浄化したかったのである。まさにほぼ同時代の韓国において知訥が目指したように。道元は堕落した衆生の現状の深刻さを認識していたが、同時にまた、そうした衆生の心にまさに仏性があるという事実をまさに知訥と同じように積極的に認めたのである。大慧宗杲の方法論に従った知訥とは異なり、道元は天童如浄(一一六三―一二二八)に従ったわけだが、知訥と同様に、衆生の内にある仏性の救済力を認識していたと言えるだろう。道元の仏性に対する「信」は、時代への危機感は共通していたとはいえ、浄土往生に対する親鸞の「信」とはいささか異なっている。親鸞がみずからが悟ることに対する究極的な絶望から始めるのに対して、道元はあくまでも衆生における仏性に対する信頼を抱き続けた。おそらく道元は、まさしく知訥がそうであったように、衆生が危機に陥っているという認識自体も、衆生に仏性があればこそなのであると、はっきりと認識していたのではないだろうか。
研究発表 第5セッション
Rewriting Dōgen (道元を書き直す)
ウィリアム M.ボディフォード 氏(UCLA)
〔発表要旨〕道元(一二〇〇―一二五三)は、ことのほか多作な書き手でした。その著作には、様々なジャンルにおよぶ、漢文と日本語による散文・韻文の著作が含まれます。道元がしばしばその著述を改訂し、書き直したということなのです。多くの場合、道元は数回書き直しを行い、初稿、改訂稿、拡張稿、または短縮稿を書き残しました。言葉を替えれば、道元が自分自身を書き直したのです。
道元を書き直すという過程を、道元が開始したことに注意するのが重要です。そして、他の人々もまた道元を書き直しました。この傾向が絶えなかった要因として、第一に、道元の著述は比較的孤立した伝承系譜の中で残存したために、人々は、異系と本系の相互関係がどれほどのものか理解できなかったという点があげられます。書写者がテキストに不規則な点を見つけた時、それらを校正すべきなのか、またどのように校正するのかについて、彼らは評価する根拠を持たなかったのです。第二に、異なる伝承系譜を経た道元の著述をついに比較することができるようになった時、そのあまりの多様ぶりに人々は当惑したという点です。第三に、相違点を校訂して校合する試みが、道元を書き直して校正するという取り組みを推し進めたという点です。こうした過程によって、私たちが今日読んでいる道元の出版物が創られたのです。
道元を書き直した人物として道元について語ることによって、私は道元を人間らくしする手助けをしたいのです。理想化された宗教的指導者としての道元、あるいは比類なき哲学者としての道元といった固定されて凍りついた姿に替えて、苦闘する書き手としての道元について私たちが思い描くことができるように望んでのことです。どこにでもいる書き手と同様に、道元は書いては直し、そしてまた書き直したのです。そして懐奘の綿密な記録のおかげで、書き直された道元の著述だけではなく、道元の草稿の保存についても役立っています。道元の著作を様々な形―草案、中間案そして最終的な清書―で私たちが所有しているという事実は、研究者が今まで十分に研究してこなかった貴重な資源なのです。
今日、一九九一年河村版として道元の七十五巻本・十二巻本正法眼蔵というすばらしい版を手にしていますが、これはほんの始まりに過ぎません。「唯一の正法眼蔵」のかわりに、現代的な印刷版として各種類の『正法眼蔵』がある方が良いでしょう。少なくとも、二十八巻本および六十巻本の校訂版・修訂版が必要です。これらの諸版がなくては、研究者が簡単にテキストを比較または対照することができず、加えて道元が道元を書き直したその方法を十分に認識することはできません。さらには、正確な電子版―訂正のあるものとないもの双方、句読点を附したものと附さないもの双方―も必要です。『正法眼蔵』の諸本全てを包括する正確な電子データの集成があれば、道元の言語上の特性について、コンピューターで意義ある分析を行うのも容易になるでしょう。著者としての道元を私たちが思い描くにあたって、これは大きな助けとなるでしょう。日本と世界にいる仲間の先生方に対して、これらの目標が実現するよう御助力をお願いして、私の講演の結びとしたいと思います。
シンポジウム
「日本文化の背景となる仏教文化の研究」
平成三十一年一月十二日
東洋大学白山キャンパス 八B一一教室
平成三十一年一月十二日東洋大学白山キャンパス八号館八B一一教室にて、公開シンポジウム「日本文化の背景となる仏教文化の研究」を開催した。このシンポジウムにおいて、二年間の研究を終えるにあたり、本研究を構成する各ユニットの研究者による発表と討論により、研究の総括を行った。
このシンポジウムでは、第一部 パネリストによる発表において、第一ユニットの渡辺章悟研究員が「日本の山岳信仰の独自性―立山信仰をめぐって―」、第二ユニットの谷地快一研究員が「日本の詩歌と釈教―芭蕉連句を軸にして―」、第三ユニットの佐藤厚客員研究員が「島地黙雷、生田得能共著『三国仏教略史』の中国語、韓国語への翻訳―近代日本仏教が東アジア仏教に与えた影響の一例―」と題して発表を行った。第二部 パネリストによる討論・参加者からの質疑応答では、発表者がシンポジストとなって討論を行い、フロアからの質問に答えた。発表および討論では、相楽勉研究所長が司会を務めた。
まず、渡辺章悟研究員の「日本の山岳信仰の独自性―立山信仰をめぐって」では、立山開山縁起に見られる「矢疵の阿弥陀」が、独特な立山信仰の中心になっていることが提示された。また、立山山頂付近を極楽、地獄谷を地獄、剱岳を針の山として見たて、それを図像化した「立山曼荼羅」が知られているという。立山山上は女人禁制であったが、麓では「布橋灌頂」の行事が行われていた。布橋灌頂は女人にとっての儀礼で、芦峅の年中行事中最大のものであるという。対して山上では、女人の依頼を受けた僧による血の池での『血盆経』の供養が行われていた。立山の麓に形成された中世の山岳信仰の独自性、宗教組織の構造について言及された。
つぎに、谷地快一研究員の「日本の詩歌と釈教―芭蕉連句を軸にして―」では、松尾芭蕉の俳諧(連句)に見られる仏教にかかわる題材、「釈教」が取り上げられた。芭蕉の本業は五・七・五・七・七の連想であり、正式なものは百句続くという。その連想の中では、私たちの人生の中で起こりうることがよみ込まれ、それこそ人生の曼荼羅のように展開するとされる。そこで人事、つまり人間に関することを、「神祇釈教恋無常」というまとめ方をするという。芭蕉の仏道に対する結論や、来世に対する覚悟等、仏教に関する考え方について言及された。
そして、佐藤厚客員研究員の「島地黙雷、生田得能共著『三国仏教略史』の中国語、韓国語への翻訳―近代日本仏教が東アジア仏教に与えた影響の一例―」では、近代における東アジア世界との交渉の中で日本の仏教(学)が、中国や韓国に与えた影響について述べられた。島地黙雷・生田得能が著した『三国仏教略史』(一八九〇年、哲学書院)は、仏教学校の教科書として編纂された。中国語訳、韓国語訳が出版され、当時、三国にわたる唯一の仏教史解説書であったという。発表では『三国仏教略史』の原本、中国語訳、韓国語訳の内容が比較考察され、各国の翻訳の事情や、その影響について述べられた。
以上各氏の発表の後、パネリストによる討論および参加者からの質疑応答が行われた。フロアからは渡辺研究員の発表の中で、山岳信仰自体は日本固有のものか、との質問があった。渡辺研究員は、山の信仰は世界中にあるが、日本の山岳信仰はその背景に日本独自の霊山信仰や仏教信仰がある。ただ、立山の大日岳それ自体の独自性はないと思われる。大日という名が付く山は複数あり、仏教信仰を山や尊格になぞらえていると回答した。また、日本と中国、インドの山岳信仰の共通点について述べた。また、現代日本あるいは今後の日本において、仏教などの宗教的なものはどのように日本文化の中に継承されるか、その展望や可能性について質問がなされた。回答で谷地研究員は、十人十色の生き方を認めるためにも信教の自由は大事であること、そして文芸作品に出てきたものを吟味して自分の人生に反映させると考えている、と示した。佐藤客員研究員は、コンピューターなどによって社会は一見便利になっているが、宗教的なものが滅びてしまうわけではなく、生や死の問題など人間の心に宗教的なものを求める気持ちがある限り、必ず何らかの形で求めに応じたものが出てくるのではないか、と述べた。そのほか、日本と世界の山岳信仰の共通性や、これまでと異なる芭蕉の釈教への思い、そして、現在の韓国や中国における仏教の実状等について質問がなされ、フロアからの意見も交えて活発な討論が行われた。
以下に各氏の発表要旨を掲載する。
日本の山岳信仰の独自性―立山信仰をめぐって―
渡辺 章悟 研究員
〔発表要旨〕立山(たてやま)、あるいは立山(たちやま)という言葉が最初に日本史上にでてくるのは、大伴家持の「立山の賦」というタイトルがついた歌であろう。この歌には長歌と短歌があるが、短歌に、「たてやまに 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし」という歌がある。『万葉集』の時代から、立山がこのような雪深いところにあることを物語っている。
立山といっても立山という単独の山があるわけではなく、いくつかの山をあわせて立山という。この立山連峰は古くから修験道の聖地として知られる山岳信仰の山である。現在、立山本峰の雄山に峰本社があり、山麓の芦峅寺(あしくらじ)の中宮(祈願殿) と岩峅寺(いわくらじ)の麓大宮(前立社壇)とともに、三者一体の形を有する。
立山の開山縁起によれば、立山は奈良時代越中の国司であった佐伯宿禰有若の子、有頼によって開山されたという。佐伯有賴は父が大切にしている白鷹を逃がしてしまい、立山の山中まで白鷹を追い、そこで捕獲の邪魔をした熊に矢疵を追わせる。熊を追って玉殿の窟に入った有賴の前に、阿弥陀如来が黄金の光を放って出現する。クマに射たはずの矢はその如来の胸に突き立ち、真っ赤な血が流れていた、等の縁起が伝承されている。この話の最古のものは鎌倉時代初期に成立したとされる十巻本『伊呂波字類抄』所引の「立山縁起」である。これが矢疵の阿弥陀として、独特の立山信仰の中心となっていった。
また、立山信仰の中心にあるのが地獄である。地獄は立山山上の室堂にある。立山徒拝では、宿泊所(立山室堂)に荷を置き、ただちにみどりヶ池、みくりヶ池、地獄谷を見に行ったという。みどりヶ池は水行潔斎所であるが、みくりヶ池は大蛇が棲むと言われ、八寒地獄でもあるという。
この地獄を中心に纏められたのが立山曼荼羅である。立山曼荼羅は江戸後期に生まれたといわれ、全体的に立山の風景を描き、その中に地獄や極楽浄土をちりばめて一つの絵にしたものである。そのうち最も古いといわれているのが、来迎寺の立山曼荼羅(来迎寺本)である。下部(手前)には閻魔堂や姥堂、布橋など実在するものが描かれ、上部(奥)には立山の山並み、そして右手奥には浄土、山の中腹、特に左側には地獄の風景、険しい剱岳は地獄の奥に描かれている。そして宗教者が全国にこの曼荼羅の絵解きをしていった。一般的な仏教の曼荼羅とは異なり、立山独自の宗教文化を示すものと言える。
さらに立山山上は女人禁制であったが、麓の芦峅寺にある姥堂は女人成仏の霊場とされ、布橋灌頂の行事が行われていた。山上の室堂では女人の依頼を受けた僧による血の池での『血盆経』の供養が行われたのに対し、布橋灌頂は山麓独自の女人儀礼であり、明治初期までは宗派を超えて行われていた近隣に於ける盛大な仏教行事であった。布橋灌頂は芦峅の年中行事中最大で、越後・加賀・信濃・尾張・三河からおよそ三千人にもおよぶ信女を集めていたという。
以上、「日本の山岳信仰の独自性―立山信仰をめぐって―」という題目で、立山信仰を取り上げてきた。立山信仰の特色としては、立山信仰には修験や山岳信仰との関わりを無視することはできないが、地獄谷には実際に地獄があるとみられていたこと、立山曼荼羅の絵解きをする宗教者の存在と、その曼荼羅によって示される場が実際にあり、それが立山に登ること、すなわち禅定という考え方につながっていったのである。これが死後と極楽の世界を疑似体験する立山信仰なのである。このように立山信仰には、日本の山岳信仰の中でも死に向き合う姿勢が強いという特色をみることができる。
日本の詩歌と釈教―芭蕉連句を軸にして―
谷地 快一 研究員
〔発表要旨〕日本の詩歌は天然自然の移ろいと向き合いつつ、人生に関わる事柄を主題とする歴史を刻んできた。そこから、大型研究のテーマである「日本文化の背景となる仏教文化の研究」に則して、釈教(仏教にかかわる題材)を取り上げ、松尾芭蕉の思想と作品を軸に話題提供した。その結論は、芭蕉は「一たびは仏籬祖室の扉(とぼそ)に入らむ」(『幻住庵記』)とした時代があったものの、最終的には儒教・仏教・神道の類をイタズラゴト(徒言)、つまり無益な言葉(無駄口)と結論して排除したというものである。
その理由を推測するに、彼は教義に惑わされて、「今(現世)」を粗末に生きるのはイヤだったからではないか。「今」を十分に生きる方便として、俳諧を、儒教・仏教・神道の類と同等、あるいはそれ以上のものと考えていた。「来世を恃まない」という覚悟に帰着するこれは、逆説的にいえば、きわめて仏教的(宗教的)な思索といってよい。
以上のことを説くために、〔話題1〕として俳諧(俳諧の連歌)が扱う人事(神祇釈教恋無常)というテーマを紹介し、釈教が和歌・連歌・俳諧で、仏教に関係のある題材を詠んだものを指すことを前置きした。また、〔話題2〕として、芭蕉は連歌俳諧が卑俗・滑稽、あるいは言語遊戯であった時代を克服し、消閑の遊びから人生を把握する手段として熟成させた人物であることを説いた。
その上で、〔話題3〕に既成の規範や道徳に対する芭蕉の結論「俳諧の外は心頭にかけず、句のほかは口にとなへず、儒・仏・神道の弁口(べんこう)、共にいたづら事と閉口々々」(元禄元年十二月五日付其角宛芭蕉書簡)を紹介し、この言説と『おくのほそ道』その他に語られる、神仏尊崇や高徳敬慕の世界とを矛盾なく解釈してゆく必要性を指摘した。
さらに、〔話題4〕から〔話題6〕で、来世を頼まない覚悟で生きていた参考資料として、①かつて内縁関係にあったとされる寿貞死亡の報を受けて返信した元禄七年(一六九四)六月八日付猪兵衛宛書簡、②同年の郷里における盂蘭盆会の「尼寿貞が身まかりけると聞きて」を前書とする発句「数ならぬ身とな思ひそ玉祭り」(『有磯海』)、③「爰に至りて申し上ぐる事御座なく候」と言い切る兄(半左衛門)宛遺書を取り上げた。
そして、〔話題7〕〔話題8〕において、こうした思想に手応えを感じ始めた時期の作品『ひさご』から釈教の付合をあげて、「軽み」という境地との関わりを説いた。
島地黙雷、生田得能共著『三国仏教略史』の中国語、韓国語への翻訳
―近代日本仏教が東アジア仏教に与えた影響の一例―
佐藤 厚 客員研究員
〔発表要旨〕島地黙雷、生田得能共著『三国仏教略史』(以下『略史』)は一八九〇年(明治二三)に刊行された仏教通史である。これは当時の仏教学校(教校)の教科書として編纂されたものであるが、近代最初のインド、中国、日本の三国にわたる仏教通史であった。本書は、中国語訳、韓国語訳が出て中国、刊行に紹介された。本発表では原本と翻訳の事情を紹介し、影響について考察する。この研究は当時の日本、中国、韓国の仏教界のつながりを具体的に明らかにする一助になるであろう。
まず『略史』は、真宗本願寺派の島地黙雷(一八三二―一九一一)と真宗大谷派の生田得能(一八六〇―一九一一)の共著である。体裁は上中下三冊からなり、上巻がインド仏教、中国仏教、中巻が中国仏教、下巻が日本仏教である。凡例が十項目あるが、その中、六項目がインド仏教についてであり、とくに釈迦の年代などについての諸説について述べていることが注目される。また『略史』はインド、中国、日本の三国の仏教史であるが、中国の最後の部分には朝鮮仏教に対する記述があることも注目される。日本仏教の記述は、明治十七年に教導職が廃止されて宗派の権限が各宗の管長に移管されたことで終わっている。
続いて中国語訳を紹介する。中国では、一九一一年の辛亥革命にともない仏教界も新たな動きを見せた。その中で『仏学叢報』という雑誌が刊行されたが、一九一二年から一九一三年にわたり『略史』が翻訳された。訳者は聽雲と海秋という人物で、訂正の役を李翊灼が行った。翻訳は日本語を忠実に訳している。さらに一九三〇年代には雑誌掲載の翻訳を集めて単行本として刊行された。ただ、シュケタンツ氏も指摘しているように単行本の広告に「仏法の東流は支那が淵源で、朝鮮、日本が支流である」という言葉があり、中国の優越性を示したいという意欲が窺える。
続いて韓国語訳を紹介する。一九一三年に通度寺の仏教学校で翻訳したもので、翻訳者は姜永明である。現在、淑明女子大学校図書館所蔵本(上下巻、通度寺講院印)と東国大学校図書館所蔵本(上巻のみ、梵魚寺明正学校印)が残っている。体裁は原本が三冊なのに対して上下二巻になっている。翻訳は基本的に原本に忠実であるが、大きく違う部分もある。第一に、原本にあった朝鮮仏教の部分は削除されていること。第二に、原本にはない朝鮮仏教の歴史を挿入していること。第三に日本仏教の明治時代以後の記述が大幅に増稿されていることである。この第三については、明治時代以後だけ独立して「日本明治維新仏教三十年史」という題名になっており、内容も原本にはない情報も盛り込まれ、明治三十年間の日本仏教の動向を収録している。これは梵魚寺、通度寺といった韓国南部の寺院の学校で使われた形跡があることから、当時の仏教学校で仏教史に関する知識を得るために使われていたと考えられる。
中国語版と韓国語版を比べると、翻訳の時期が近いことが注目される。よって、これらは別々に翻訳された可能性もあるが、一九一二年に中国語版が中国の仏教雑誌に掲載されたことを見て、韓国の僧侶が翻訳を思い立った可能性も考えられる。