研究の背景

 本研究プロジェクトは、学長主導のもとで日本の東洋大学と中国の人民大学、韓国の金剛大学校の間で結ばれた交流協定に基づいて、毎年、三箇国のいずれかにおいて開催されることになった国際シンポジウム、「日・中・韓 国際仏教学術大会」の日本側の受け皿として東洋学研究所を位置付け、これを研究所の研究と国際交流の起爆剤として活用し、研究活動の高度化に図らんとするものである。東洋学研究所では、このプロジェクトを中核として人民大学の仏教与宗教学理論研究所、金剛大学校の仏教文化研究所と共同で毎年シンポジウムのテーマを設定し、そのテーマに沿って研究活動を繰り広げ、また、シンポジウムで成果を発表し、併せて中国や韓国の研究者と意見交換を行い、更に研究を推し進めてゆく予定である。

 この国際シンポジウムは、平成二十九度に六年目を迎え、これまでも多くの研究成果を挙げてきた。このシンポジウムにおいて研究代表者は既に二度研究発表を行っており、研究分担者である佐藤客員研究員も一回発表を行っている。また、渡辺章悟研究員もコメンテーターを担当するなど、本プロジェクト参加者はこれまでもシンポジウムにおいて中心的な役割を果たし、また、その経験を自分の成果に生かしてきた。他の参加者も、今後の発表が予定されており、各自の研究をより高めてゆくことができるものと期待される。

 また、毎年度のシンポジウムの内容を纏めた研究雑誌、『東アジア仏教学術論集』も第六号までの刊行を終えている。この雑誌は、国内外の研究機関に配布され、また、インターネット上でPDFが公開されて、大きな反響を得ている。特定のテーマに関する日中韓三箇国の研究者の最新の研究成果を一冊で概観できるし、それに対するコメンテーターの見解、それに対する回答まで収録するという今までにないものとなっているからである。しかも、同じ内容が中国や韓国でもそれぞれ自国語で刊行され、仏教に関する東アジア三箇国の最新の研究成果を共有するというこれまでにない全く新しい取り組みも行っている。こうした取り組みが、今後の仏教研究に果たす役割の大きさは言うまでもないことであろう。

 このように「日・中・韓 国際仏教学術大会」の開催、並びに研究成果の刊行は、極めて大きな意義を有するものである。

 

研究目的

 国際シンポジウム、「日・中・韓 国際仏教学術大会」の今後三年間のテーマは、事前の調整の結果、以下のように決まっている。

  平成二十九年度「東アジアにおける禅仏教の思想と意義」

  平成三十年度「敦煌仏教文献研究」

  平成三十一年度「仏教疑偽経研究」

 そこで、本プロジェクトでも、この研究テーマに沿って研究を行い、シンポジウムで研究成果の発表を行う予定である。

 

当該分野におけるこの研究計画の学術的な特色・独創的な点および予想される結果と意義

 三箇年の各研究テーマは、いずれも東アジア仏教全般に亘る重要な問題であって、これまでも個別には研究が行われてきたが、日中韓三箇国の研究者が特定のテーマに沿って研究を行い、国際シンポジウムの場でその成果を披露しあうといった取り組みは前例がない。また、その研究成果を各国で自国語に翻訳して出版して知識の共有を図るといった取り組みも他にはない画期的なものといえる。今後のこの分野の研究を促進する起爆剤となることが予想され、また、東アジア三箇国の仏教研究を通じた相互理解、三大学の友好関係、東アジアにおける東洋大学の地位の向上にも大いに資するプロジェクトであると考える。

 

 本研究のメンバーは以下のとおりである。

 

 研究代表者        役割分担

 伊吹 敦    研究員   中国思想史における禅宗成立の意義

 研究分担者        役割分担

 原田香織   研究員   禅思想の日本文化への影響

渡辺章悟   研究員   インドにおける大乗仏典の成立、並びに中国における翻訳と偽経の関係

 山口しのぶ  研究員   チベット仏教文化における禅の影響

 高橋典史   研究員   禅を中心とする東アジア仏教の世界への拡大とその意義

 水谷香奈   研究員   唯識観から中国禅へ

佐藤 厚   客員研究員 韓国仏教と偽経

 舘隆 志   客員研究員 日本における禅宗教団の独立と展開

 伊藤 真   客員研究員 中国における偽経の成立と意義

 

以下に、本研究における、平成二十九年度の学会発表報告、研究調査報告、シンポジウム、研究会、講演会の概要を報告する。

 

日本印度学仏教学会第六十八回学術大会での発表

                             舘 隆志 客員研究員

 期間  平成二十九年九月一日~九月三日

 出張先 花園大学、花園大学国際禅学研究所

 九月二日は花園大学に行き、日本印度学仏教学会第六十八回学術大会に参加する。第九部会の小早川浩大先生のご発表を聴いたのち、国際禅学研究所所長の野口善敬先生と面談し、臨済宗と曹洞宗の学術交流を行なうための助力を請われ、また、禅語録に関する学術的な意見交換を行った。夜に行われた懇親会に参加し、各大学の先生方と交流を深める。

九月三日、特別部会において「中世禅林における菖蒲茶」と題して発表し、龍谷大学の大谷由香先生より質問を頂戴し、活発な意見交換を行う。その後、次の大谷由香先生の発表「南宋代の南山宗義論争と日本」に対して、「律法相承」とは何かについて質問し、古瀬珠水先生の発表「鎌倉期における禅宗」に対しては、論文で使用された史料が禅僧の著作であるとする根拠について質問させて頂いた。その後、特別部会において司会補助をして部会の進行を手伝った。

 

韓国近代仏教に関わる調査

                                  佐藤 厚 客員研究員

 期間  平成三十年二月一日~二月七日

 出張先 韓国・ソウル、淑明女子大学図書館、国立中央図書館、東国大学校図書館

 二月一日(木):九時四十五分、東京・羽田空港発。十二時十五分、ソウル・金浦空港着。リムジンバスでホテル(Tmark hotel ミョンドン:ソウル特別市中区)に移動。ホテル到着後、翌日の淑明女子大学図書館での調査に備え、持参した資料を確認し、夕食後就寝。

二月二日(金):十三時、淑明女子大学(ソウル特別市龍山区)にチョンビョンサム先生(歴史学科教授)を訪ね、先生を通して図書館に事前にお願いしていた『三国仏教略史』の韓国語翻訳版を閲覧した。『三国仏教略史』は、日本で明治二十三年(一八九〇)に島地黙雷と生田得能が著した東アジアの仏教歴史書であり、宗派の学校などで仏教史の教材として使われた。同時に中国語、韓国語に翻訳され、近代東アジアの仏教にも影響を与えた。この中、今は韓国語の翻訳書の研究を行っている。日本語の原本と対照させながら見て行くと、基本は同じであるが、構成や内容に少しずつ違いが見られ興味深かった。

 

台湾における偽経信仰の現状調査

                                  伊藤  客員研究員

 期間  平成三十年二月八日~二月十三日

 出張先 台湾、易学仏堂(台中)、地蔵禅院(南投縣)、円照寺(高雄)、大華厳寺台北別院・華厳専宗仏学院(台北)

隋唐代の中国撰述経典といわれる『占察善悪業報経』『地蔵本願経』に基づく信仰・儀礼は日本では見られないが、台湾では両経典が今日でも篤い信仰を集めていることを現調査により実地に検証することができた。

 台中の易学仏堂(面談:黄四明法師)では一般の信者向けに『占察経』による過去現在未来の業報の占いを行ない、今回は実際に礼拝・念仏・占察経の一連の作業からなる占いを行ってもらった。一方、比丘・比丘尼らが厳しい戒律を守る南投縣の地蔵禅院(面談:大湛法師・大願住職)、正覚精舎(面談:天因副住職)、高雄の円照寺(面談:敬定住職)への聞き取り調査では、占察は出家者がみずからの業報を知るために行うもので、在家者に安易な占いを行う風潮を厳しく批判するが、仏典としての権威・正当性は認めている。なお、訪問したすべての関係者が地蔵信仰の基本は『地蔵本願経』の孝道の教えだとし、台湾における地蔵信仰の中心が今世における親孝行だという、極めて卑近な倫理道徳にある点も発見だった。また、『占察経』を批判的に見る動きもある。大華厳寺台北別院(面談:海雲法師、黄探傑法師)では『占察経』の占い部分である上巻を使わず、禅定の実践を説く下巻のみを実践する。また台北の華厳専修仏学院の賢度院長は『占察経』はあくまでも方便だとし、同学院の闞正宗助教授も『占察経』は二〇〇八年以降台湾で活況を呈している一種のブームとの見方を示した。有名法師の説法に大聴衆が集まる今日の台湾の仏教信仰の中に位置付ける見方は説得力があった。

 『占察経』実践など、日本では知られていない今日の台湾の地蔵信仰の一端を実地に検証でき有意義だった。

 

シンポジウム

第六回 日・韓・中 国際仏教学術大会

平成二十九年年七月一日(土)・二日(日)の二日間にわたり、東洋大学白山キャンパス六二一一教室において「第六回 日・韓・中 国際仏教学術大会」が開催された。この国際仏教学術大会は、東洋大学、中国の人民大学、韓国の金剛大学校の間で結ばれた交流協定に基づいて、毎年韓国、中国、日本の順番で開催されている。

今回の大会は、東洋大学東洋学研究所、伊吹敦・東洋大学文学部教授(東洋学研究所研究員)を研究代表者とする、科学研究費助成事業による研究「国際禅研究プロジェクト」(この研究については、国際禅研究プロジェクト研究会と講演会の項を参照)、韓国の金剛大学校仏教文化研究所、中国の人民大学仏教与宗教学理論研究所の共催で開催された。

七月一日(土)の開会式では、谷地快一東洋学研究所所長が大会の開催に対する祝辞を述べ、続けて韓国金剛大学仏教文化研究所・金成哲所長及び中国人民大学仏教与宗教学理論研究所・張文良副所長による挨拶がなされた。

その後、七月二日(日)にかけて、六つのセッションにおいて日本、韓国、中国の研究者が研究発表を行い、活発な討論がなされた。東洋大学東洋学研究所からは、舘隆志客員研究員が「中世禅林における端午」と題する発表を行い、金子奈央客員研究員が舘隆志客員研究員の発表にコメントした。以下舘客員研究員による研究発表の要旨を掲載する。

 

 平成二十九年七月二日 東洋大学キャンパス 六二一一室

  中世禅林における端午

                                 舘 隆志 客員研究員

 〔発表要旨〕端午は中国を由来とする五月五日の節日である。端午の起源は定かではないが、『唐会要』巻二十九「節日」に、唐の高宗皇帝(六二八―六八三)が端午の由来を尋ねた話が収録され、唐代においては屈原が汨羅に身を投じた日とされる。この日に竹筒に米を入れたもの、あるいは筒糉(ちまき)を作り、水に投じたとする説が定着し、以後、この説が受容されていった。端午に粽を食べるのは、この話に基づくという。

 この中国から始まった端午の習俗は、東アジアの国々に伝わり、受容されていった。日本においては、端午そのものは奈良時代以前の記録にみられ、また、粽の食文化、浴蘭、菖蒲や艾を用いた習俗などが導入されることとなった。

 本発表において、中国の禅林に採り入れられた民間習俗の端午を考察し、その後、日本の禅林に受容された端午を考察した。そもそも、端午そのものが中国の民間習俗であり、これを寺院行事として受け入れることは、それ自体が、禅宗の特色でもあるのだろう。住持の説法では、往々、民間の習俗の話をし、あるいはそれらの習俗を否定しつつも、日常生活や眼の前に厳然とある事象を踏まえ、端午の上堂を行なうのであった。

 端午の上堂のほか、禅林で行なわれた端午の習俗は、主に「蘭湯」「粽」「菖蒲茶」である。このうち、「粽」は鎌倉時代よりも前に日本に入ってきており、禅林で「粽」を食べることは、それほど珍しいことでなかっただろう。また、「蘭湯」については、身を清めるために行なわれていたものであり、唐代の端午で一般的であったか不明であることや、記録からも、そもそも唐代の端午の儀式として日本に導入されたものではないのかもしれない。いずれにしても、平安後期の記録からは、端午の儀式として行なわれたようには見受けられず、端午の蘭湯は禅林ではほとんど行なわれなかったのでないか。ちなみに、この蘭湯が後に現在の日本で行なわれている菖蒲湯になったと考えられている。

 一方、菖蒲茶については比較的に多くの記事が確認できるように思われる。中国では、『勅修百丈清規』にも記され、禅林の一般的な行事として定着したが、日本においても顕著に受容された。しかしながら、興味深いことに、禅宗文献以外では「菖蒲茶」の記事を一つたりとも見つけることはできない。菖蒲茶は菖蒲酒の代わりの飲み物であり、民間では菖蒲酒、禅林では菖蒲茶として飲み分けられていたのである。

 中国式の修行生活を日本に再現することを目指した禅僧たちは、菖蒲茶については宋朝式の儀礼として積極的に受容した。それは、菖蒲茶が禅林のみの習俗であったことにもその一因があろう。すわなち、菖蒲茶は、民間習俗である端午の行事を禅林で受容する過程で発生し、禅林の中でのみ継承された宋朝の禅林文化だったのである。

 鎌倉期、南北朝期などの中世禅林の端午では、粽を食べ、菖蒲茶を飲み、住持が端午の上堂を行なう、このような修行生活が営まれていたのである。

 

国際禅研究プロジェクト研究会と講演会

平成二十九年度より、東洋大学東洋学研究所の伊吹敦研究員(東洋大学文学部教授)が日本学術振興会の科学研究費助成事業・科学研究費補助金研究(基盤研究(A))による共同研究「海外の研究者との連携による中国・日本における禅思想の形成と受容に関する研究」(JSPS科研費JP17H00904)に着手し、東洋大学東洋学研究所内に「国際禅研究プロジェクト」を発足させることになった。

この国際禅研究プロジェクトの研究活動として、平成二十九年十月二十一日、十二月十六日、平成三十年一月二十七日、東洋大学東洋学研究所における本研究と共催で、研究会と講演会が開催された。

 

国際禅研究プロジェクト研究会とラジ・シュタイネック先生特別講演会

 平成二十九年十月二十一日 東洋大学キャンパス 六二一一教室

研究発表

  頂相研究の諸問題

                                  松村 哲文 氏

(駒澤大学教授)

 〔発表要旨〕「頂相」とは、高僧の肖像を描いた絵画(「頂相画」)・彫刻(「頂相彫刻」)のことである。絵画と彫刻とは分けて考える必要があるが、表現上の問題を考察する際には双方の検討が必要となる。

その語義は、仏の頭の頂、つまり肉髻の形という意味である。この「頂相」、本来は、印可証明として師から弟子へと賛を付して渡されたが、『正法眼蔵』における記述からは、宋代の禅院では印可に関係なく製作されていたという。

彫刻を中心として「頂相」の特徴を挙げれば、次のように指摘できよう。面貌は写実性が高い一方、体部は類型的である。着衣は法衣と袈裟、椅子の上に結跏趺坐する姿である。手の表現としては、警策や竹箆などを持ち、禅定印を結ぶ場合もある。この他、頂相像が座す椅子は、曲彔または後屏付椅子であり、足元には踏床の上に沓を揃えて置くのが一般的である。絵画では長爪を特徴とする作例が多いが、これは道元禅師の頃の宋の流行であり、彫刻においては、長爪は避けられる表現であったという。

こうした「頂相」彫刻は、製作者を記す銘文なども確認できるものが少なく、開山堂などに納められていることが多い等の事情もあり、仏像の研究に比べると調査が順調に進んでいるとは言い難い。

ここからは、頂相像の坐す椅子を対象に考察したい。頂相像は高い椅子状のものの上に、多くは結跏趺坐する姿で坐している。上記の通り、この椅子は一般に曲彔または後屏付椅子と称される。頂相像は何故椅子に座る姿なのか、またこの椅子の形状にはどのような意味があるのだろうか? 仏像にも、椅子状のものに坐す倚坐という姿勢のものが存在する。しかしこれは中国起源ではなく、西方の影響によるもので、仏像が座す椅子には肘掛けがないという点に留意したい。

中国における坐具の史的変遷をたどれば、古くは床に筵を敷いて寝たり坐したりしていたものが、漢代には寝るための「牀」と座るための「榻」とが確認できる。後漢になると折り畳み式の椅子である「胡床」が登場している。『南史』には、南朝・梁の侯景が「胡床」に脚を垂らして腰かけたという記述が確認できる。隋代に入ると、椅子座は定着して、名称も「胡床」から「交床」へと変わった。その後、唐を経て宋代には一般家庭に椅子が広まって行く。

さて、頂相像の坐す曲彔または後屏付椅子には肘掛けがあり、その多くは先端が曲がって渦を巻く形状である。この形状の源を探ると、中国皇帝の坐す椅子にたどり着く。唐以降、皇帝は足を前に垂らす座り方であったらしく、例えば北宋・太祖像は、肘掛付きの椅子に足を前に垂らして踏み床に脚を置いて座る姿であり、肘掛けには皇帝を象徴する「龍」が表現されている。

一方、頂相像は踏み床に沓を置き、曲彔または後屏付椅子の肘掛けの先端には渦巻き状の形状が表現されていた。高僧は皇帝ではないが、師の肖像としての威厳を持たせるため、肘掛けを、龍を簡略化した形状としたと解釈できないだろうか。すなわち、頂相像が坐している曲彔の形は、仏像の坐す肘掛けの無い台座ではなく、皇帝の坐している肘掛けのある椅子に近いと考えられる。

 

研究発表

鈴木大拙の現代仏教に対する批判

                 ステファン・グレイス 氏

(大正大学講師)

〔発表要旨〕鈴木大拙の晩年のある談話には、〈『仏教の本当の姿』は寺院には存在しない〉という主張が確認できる。では大拙にとって、仏教はいかなるものだったのか?

日本における近代化以降の「廃仏毀釈」や国内外からの思想的批判に対して、明治時代、日本仏教を再構築しようとする動き明治新仏教が存在した。こうした背景のもと、日本宗教代表団が一八九三年にシカゴ世界宗教会議へと派遣されたのである。

代表団の主張や配布冊子からは、当時欧米で批判された「迷信」的要素を排除し、当時の西洋研究者の間に存在した、「古い宗教」を「真正」と捉える見方に反駁し、大乗仏教・日本仏教を喧伝する主張が確認できる。すなわち、①小乗の教えを包含する大乗は小乗に勝る、②「科学的」宗教はキリスト教ではなく仏教である、③大乗は西洋人に合う宗教であり、日本仏教徒はキリスト教徒の回心を希望する、といった大乗仏教観である。

 この代表団の一員であった釈宗演(一八六〇―一九一九)は大拙の師であった。その影響もあるのだろうか、大拙の英文処女作であるOutlines of Mahāyāna Buddhism(『大乗仏教概論』、一九〇七年)は、小乗仏教の優位性を否定し、大乗仏教の「反迷信性」と「科学との適合性」が主張されるなど、上記の冊子と重なる内容が確認できる。

 ところで、上記著作で大拙は、「個人的業」という観念を「似非仏教」と強く否定している。では、大拙にとって「似非」でない、「本当」(「真」)の仏教は、どのようなものなのか?

寺院に対する大拙の戦後の態度はすでに指摘したが、こうした批判と日本禅の衰退については戦前・戦後の発言にも確認できるだけでなく、自分が貢献した西洋への禅仏教の喧伝についてもその展開が上手くいっていないと心配していたのである。

『禅と日本文化』において、禅には特別な理論や哲学はないが、「直覚的な理解方法」があることにより「応用自在の弾力性」を持つと述べられるように、大拙が感じていた日本禅の衰退傾向は、それ自身の持つ柔軟性と関わっているのかもしれない。

しかし、こうした柔軟性の奥にある本質こそが、大拙の仏教観の肯定的側面になっているとも考えられる。

大拙にとっての「本当の仏教」の姿、そこでは「体験」という概念が常にその中心にある。例えば、大拙は「禅の本質に関する序論」において「予の「禅」は「禅宗」と混同してはならぬ」と述べる。この「禅宗抜きの禅」とは、『禅による生活』において「禅は、われわれが普通下す判断に反対はしない。禅を形成するものは、これらの判断の一切に、更に禅が附け加へた「或るもの(サムシング)」…。」と言及されるような禅である。

 さらに、戦後の書簡には、「宗団に頼らない独立の仏教的運動がないと、仏教も社会に力を持ち得ない、僧侶では悉く駄目だ、居士に限る」といった寺院否定と個人的仏教への志向が垣間見える。

結論としては、

①大拙の仏教観は明治期の無宗派的(または総合的)仏教から影響を受けた

②大拙にとっては、仏教の奥義があらゆる宗教の普遍的な本質である

③それが普遍的であるため、寺院への所属よりも個人の体験が大切である

という事実が指摘できるのである。

 

講演

道元と時間論

                 ラジ・シュタイネック 氏

(チューリヒ大学教授)

〔講演要旨〕チューリッヒ大学日本学講座で現在進行中の研究『中世日本における時間』では、中世禅寺院(特に道元の周辺)を対象とした宗教的時間が研究分野の一つである。そこで、本発表では道元の時間論・時間解釈をテーマとする。

『正法眼蔵』「有時」(以下、「有時」)では、「有」は「存在者」、「時」は「瞬間」という意味であるのがほぼ定説に成っている。ただし「時=瞬間」と捉えると、「有時に經歴の功徳あり」の句と矛盾する。この「経歴」とは、ある種の流動性を指している事から、「時=瞬間」説においては、「経歴」は「瞬間の連なり」、すなわち、存在瞬間の動的な特徴として位置づけられる。

道元は「経歴」の言葉で、時間の複合的な動静の在り方を指摘しようとした。「有時」の「時は飛去するとのみ解會すべからず、…。」という句からは、「時間の流れ」(時間が過ぎ去る様子)を認めながら、それだけでは時間の動き全体は掴めないと道元が考えたことを示している。すなわち、「経歴」とは、時間の流動性の他、時間的な秩序の定常性をも意味しているのである。

また、「有時」に「經歴は、たとへば春のごとし。春に許多般の樣子あり、これを經歴といふ。」とある点から、「経歴」は、ある持続性を保つ時節の在り方を示す事が分かる。

ここから、道元は存在者(有)の実体的な持続性を否定しながら、存在者の期間的・内面的様子の推移を含めた持続性を認めているということになる。こうした非実体的・機能的・期間的限定のある持続性が多様性を帯びるからこそ、各存在者は多様な性質を帯びるといえよう。

ここからは、道元の時間論における「而今」を巡る議論を取り上げてみたい。「而今」という言葉を合理的に解釈すれば、次のようになろう。つまり、認識論上では、現在から過去を思うとき、過去は思う我の現在の経験の一部分である。尚且つ、因果律を考えた上でも、現在は過去の行動の結果である限り、過去が現時点で消滅しているとも思えない。さらに、これからの未来も、現在の行動・状況の因縁によって成立するならば、現在に包容されていることになる。

しかし、道元の時間論における「而今」という言葉については、この言葉により超越的な意味を読み込む「神秘的解釈」が行われている。例えば頼住光子氏は、「而今」を〈「空」という無時間〉、〈宗教哲学的な「永遠の今」〉と捉える。「空」としての根源的現実である「而今」には差別・分節がないので、時間の区別もない「無時間」であり、自他の分節もない、といった理解である。

確かに道元の「而今」にこうした神秘的な面があることは否定できない。いわゆる「神秘的解釈」論者は、「空」の次元と「分節された現実」の次元をわけて、前者に根源性を求める。しかし仏教思想史上、「空」を「分節化した現実の在り方」として捉える解釈も存在する。空と分節された現実は表裏一体の関係相互因縁の関係をなす、という見方である。

ところが、道元の時間論において、「而今」根源的無時間としての「永遠の今」と「十二時」分節化された通常の時間・分節化した現実との関係については、いまだ明確になっているとは言い難い。ここから、道元の著作や関連文書における時間測定法・時間記録・時間制御・時間表象を、彼の時間論に照らす研究には大きな意味が残されていると考える。

 

国際禅研究プロジェクト研究会・講演会

 平成二十九年十二月十六日 東洋大学キャンパス 六二一八教室

 研究発表

  愚中周及『稟明抄』と 『宗鏡録』

                                    柳 幹康 氏

(花園大学講師)

 〔発表要旨〕中国の禅僧・永明延寿(九〇四―九七六)により編纂された、百巻に及ぶ『宗鏡録』は、東アジアに伝播した禅宗思想を考えるうえで重要な書物であり、その内容は禅宗所伝の一心を核に唐代以前の多元的な仏教思想を一元的に統合するものとなっている。

朝鮮や日本における『宗鏡録』の受容状況を分析することは、日中韓の仏教思想の展開を理解するうえでも、また東アジア全域に展開する禅宗の思想を展望するに際しても重要という認識に立ち、室町時代に活躍した臨済宗の禅僧であり、『宗鏡録』の撮要本『稟明抄』を編んだ愚中周及と『宗鏡録』との関わりに着目した。

愚中周及は十三歳の時に夢窓疎石のもとで出家して沙弥となり、夢窓の俗甥で弟子の春屋妙葩(一三一二―一三八八)より教えを受け、十七歳にして比叡山で受戒し、翌々年建仁寺に掛錫するが同所の接化に満足せず、貿易船に乗り元に渡って、潤州(現江蘇省鎮江市)金山の即休契了(一二六九―一三五一)に参じ、一三四七 年(至元七)二十五 歳の時に大悟してその法を嗣ぎ、帰国した禅僧である。

愚中周及による『稟明抄』における『宗鏡録』の援用に焦点を絞り分析するのは、

第一に、当時夢窓門下において『宗鏡録』が盛んに用いられていたこと

第二に、『宗鏡録』は愚中自身にとっても重要な典籍であったこ   と

第三に、「愚中が何の為に本書を編んだのか」は、まだ十分に論じられていないこと

という三つの理由による。

『宗鏡録』は百巻にも及ぶ書であるが、愚中はそこから要文を抜粋し、僅か一巻にまとめた。つまり『稟明抄』はごく一部の例外を除き、ほぼ全てが『宗鏡録』の引用から成るが、その例外のうち、巻頭と巻末の部分が注目される。

 『稟明抄』冒頭では、主題を提示する部分(達磨と武帝の問答)は「空」を明かす表現のみで、「心」への言及はなく、末尾で本書の目的を示す部分(願文)では「心」のみが提示され「空」への言及はない。そしてその中間に記される『宗鏡録』からの引用では、この「空」と「心」を結びつける文章が多く見られる。

 愚中がこのように、『稟明抄』の冒頭に掲げた達磨の示す「空」と、巻末の願文で提示する「心」とを結びつける文章を『宗鏡録』から多数引用しているということは、つまり愚中にとって『宗鏡録』は、禅宗初祖の達磨が「無功徳」や「廓然無聖」「不識」などによって示したものが人々に具足する一心に他ならないことを説く文献だったということになる。

『稟明抄』は『宗鏡録』から要文を抄出した撮要本であり、その大部分は『宗鏡録』からの引用より成るが、冒頭と末尾には独自に加えられた一段が録されていた。すなわち、冒頭には専ら「空」を明かす達磨と武帝の問答が録され、末尾には悟入すべき対象として「心」を提示する願文が収められている。そしてその間を結ぶ本文の部分には、「空」と「心」を結びつける数多くの文章が『宗鏡録』より引用されていた。このことから愚中は、『宗鏡録』の撮要本『稟明抄』を編むことで、達磨が示したものが人々に本来具わる心であったことを明示しようとしていたものと考えられる。

 

講演

  獨空禪師與明代伏牛山的鍊磨場

(独空禅師と明代伏牛山の錬磨場)

                               呉 孟謙 氏

(台湾国立中山大学助理教授)

 〔講演要旨〕河南嵩県の伏牛山は、明代において五台・少室といった諸山と並び、僧侶らにとって参学必須の聖地と目され、「錬磨場」としてその名を馳せていた。この伏牛山の錬磨場は明代初期の臨済宗の禅僧・独空智通の創始に成る。彼は参究念仏による修行方法を採り入れるとともに、集団で厳しい修行に励み、一定の期日を設けて証悟を得るという形式を用いることで、学徒が昏散を払って修行に精勤し、最終的な目標である入定・開悟へと至るための資助とした。これはまさしく明清以来禅林において盛んに行われた「打七」の、やや早期の形態に当たると言えよう。このような錬磨法門は広く流伝したのだが、学術界においてこの伏牛山仏教に関する検討は現在に至るまで依然極めて稀であり、その歴史に与えた著しい影響に比して全く不釣り合いである。そこで、本発表では、関係する史料を集めることで錬磨場の来歴に対して考察を加え、その起源や内容・特色及び影響を分析し、明代仏教史研究における空白を補うことを目的とするものである。

中国の禅宗史上、期日を設けて証果を得る形式による苦修の伝統は、決して明代に至って初めて出現したという訳ではない。本発表での考察によって知られるように、河南嵩県の伏牛山の錬磨場においては相当完成された打七の規則が既に用いられていた。そこでは参究念仏をその中心とする禅の修法をも含みつつ、昏散を警策するための香板や、動的・静的要素を併せ持つ坐香や行香等々の行法が用いられた。この錬磨法門は明初の禅僧である独空智通によって確立され、明代中葉以後大いに流行するようになったものである。具体的かつ信頼度の高い資料に基づいて推測するなら、禅門における打七の潮流は、少なくとも明初までは遡れるものと思われる。晩清・民国以来、禅林における打七の法は依然不断に用いられた。要するに、「禅七」は近世中国仏教における重要な特色であり、これが独空禅師に濫觴するとまでは断定しかねるものの、彼が錬磨道場を建立したことによって禅七の流行は大いに後押しされたのであって、その功績は禅学史上、決して看過できるものではないのである。

伏牛山錬磨場は明代の人々においては独特の修行環境と法門を提供する一大叢林として捉えられていたのであり、その内に投じて鍛錬・参究することによって証を得た高僧大徳は数え切れない。明代の仏教界に対して与えた影響は甚深かつ広汎であるものの、現在の学術界においては注目されていない。錬磨場の開創者である独空智通に至っては、重要人物であるにもかかわらず、明代仏教史の研究成果においては長きに亘り見落とされてきた。本発表では広く関連史料を集め、これまで先人らによって注目されてこなかった文献を扱うことで、可能な限り独空の生涯や人物背景を考察し、錬磨場の起源・内容・特色や影響について分析を加えた。これによって、明代仏教史研究における空白を補うことが出来たならば幸いである。

(講演は中国語で行われた。本要約は日本語翻訳原稿の要約である。)

 

 講演

 雪竇錄宋元本舊貌新探―以東亞所藏該錄稀見古版為中心

  (『雪竇録』宋元版の原初形態について

―東アジア各地に所蔵される希少古版本を中心に)

                                 商 海鋒 氏

                   (香港教育大学助理教授)

〔講演要旨〕北宋前期に成立した雪竇重顕(九八〇―一〇五二)の語録『雪竇明覚禅師語録』(略称『雪竇録』)は、禅宗語録の先駆け的存在である。本発表では、東アジアの三地域に所蔵される希少古版本(宋版・五山版・元版)を総合的に利用し、『雪竇録』宋元刊本の旧状、およびその東アジアにおける流通経緯に分析を加えた。

『雪竇録』は当初、七集八巻という構成の写本であった。北宋神宗(在位一〇六七―一〇八五)の時に入蔵を請願する奏上があったが、聞き入れられなかった。だがその後影響力が次第に高まり、徽宗の大観二年(一一〇八)までに初刻本が作られた。さらに南宋寧宗の開禧元年(一二〇五)には、寧波雪竇山資聖寺の住持雪竇徳雲の指導のもと、地元の刻工洪挙により再刻がなされた。中国国家図書館に所蔵される「雪竇四集」がそれであり、これが今日に伝わる唯一の孤本となっている。その後『雪竇録』は理宗の淳祐元年(一二四一)に日本に伝わり、鎌倉時代の正応二年(一二八九)には三刻本が上梓された。これは東山湛照が中心となり開禧本を底本に復刻したもので、五山版初期の代表作である。日本東洋文庫に所蔵されるものが唯一の完本であり、これにより散佚した宋僧徳雲の「序」を補うことができる。また再刻本が刊行された資聖寺は、元の世祖至元二十五年(一二八八)に火災に遭い版木が焼失したが、元の泰定元年(一三二四)に至り、寧波の刻工徐汝舟により四刻本が彫られた。その零本が東京の石川武美記念図書館、ミュンヘンのバイエルン州立図書館、台北の「国家図書館」に所蔵されており、これらにより散佚した元僧如芝の「序」と自如の「疏」を補うことができる。

なお『雪竇録』は北宋初期に成立した当初、七集八巻本であったが、南宋中期に「語録」「偈頌」「詩歌」という体裁により三冊に分けられ、その後刊行された再刻本・三刻本・四刻本のいずれもが由来を同じくする十一行本となっている。明初の建文帝のときにはじめて入蔵したが、その後「頌古」の部分が省略され、明末『嘉興蔵』本に至っては、もはや宋元の旧状を留めていない。

 上述の如く『雪竇録』の初刻本は早くに失われ、南宋の開禧版も「雪竇四集」という孤本が中国国家図書館に所蔵されるのみである。鎌倉時代の正応版は、日本に渡った開禧版を底本とする復刻本であり、東洋文庫に所蔵される唯一の完本から、すでに失われた宋僧徳雲の「序」を補うことができる。元の泰定版には完本が伝わっておらず、東京の石川武美記念図書館、ミュンヘンのバイエルン州立図書館、台北の「国家図書館」に零本が所蔵されているのみだが、それらによって失われた元僧如芝の「序」と「雪竇行状」を補うことができる。以上が現存する『雪竇録』の最も優れた善本であり、これらを合わせ参照することで、その宋元の旧状を辛うじて復元することができるのである。

南宋の「十刹」寧波資聖寺で開禧本が刊行されてから、鎌倉時代に京都「五山」の東福寺で正応本が上梓されるまで、その間わずか八十年である。かくも短い期間に『雪竇録』が伝播していった過程からは、五山制度が中国から日本に伝わった歴史をも窺い知ることができる。また、元の泰定本は中国には現存せず、日本に伝わったものによってはじめて、その真の姿を知ることができる。つまり中国域外に所蔵される漢籍は、東アジアの歴史を研究する上で欠かすことのできない重要な資料なのである。

(講演は中国語で行われた。本要約は日本語翻訳原稿の要約である。)

 

 

国際禅研究プロジェクト研究会ならびに黃青萍先生特別講演会

 平成三十年一月二十七日 東洋大学白山キャンパス 第三会議室

 研究発表

  兀庵普寧の来日と日中禅僧の交流

                                   舘 隆志 客員研究員

 〔発表要旨〕禅宗における中国と日本の交流は、南宋代に盛んになり、百十年の間に百人以上の日本僧が中国に留学している。日本における南宋禅林からの僧は、蘭渓道隆によって始まると言って良い。その後、兀庵普寧、大休正念、無学祖元と続いた。建長寺の開山となった蘭渓道隆や、円覚寺の開山となった無学祖元については多くの論考が見られるが、兀庵普寧、大休正念については、ほとんど手つかずの状態である。

このうち、兀庵普寧の来日は、時の執権である北条時頼に印可を与えるという、日本における禅の歴史展開を考える上で極めて重要な意味をもつにも拘わらず、これまで詳しく考察した研究は管見に触れない。兀庵普寧の来日理由が時頼の招聘か否かについては、鎌倉幕府に招聘された最初の中国僧が、兀庵普寧なのか、無学祖元なのかにつながる大きな問題である。

南宋の時代、多くの日本僧が禅宗という仏教宗派の教えを求めて大陸に旅立った。初期の日本僧たちは、先人たちの参学行程に沿った形で留学をしているように思われる。入宋を志す僧侶たちは、ある程度の情報を共有していたのだろう。当初は、栄西によって天童山への参学ルートが開かれ、次いで円爾によって径山への参学ルートが開かれたのではなかろうか。

そうして、入宋僧たちによって、南宋禅林で中国僧と日本僧との間に交流が生まれることになり、その中から日本に行って禅を布教しようと志す僧が現れた。蘭渓道隆である。その来日は、南宋禅林でわずかながら生まれた交流をたよりに行なわれたのである。この交流は、日本においても継続され、道隆と円爾は、中国ではほとんど会話したことがなかったものの、建長寺建立と時頼という結束点を得ることで密な交流を育むこととなった。

その後、南宋景定元年に兀庵普寧が来日するが、その招聘は、南宋禅林を思慕する時頼の意向を反映したものであり、来日僧の道隆、入宋僧の円爾の協力によって行なわれた。そして普寧は、「径山師席義聚」、「径山道聚之義」を重んじ来日したのである。

以上の点から、普寧の来朝は、時頼による直接的な招聘ではなかったと理解し、鎌倉幕府から直接招聘された最初の中国禅僧は無学祖元であったと結論づけたい。

この招聘によって、時頼は普寧から印可証明を受けた。文永二年、普寧は帰国してしまうが、わずか六年という滞在期間でありながらも、時の為政者たる時頼が禅の印可証明を受けたことは、禅の日本の普及にとって極めて大きな出来事となった。

その後、日本は大休正念、無学祖元などの禅僧が来日し、日本で南宋禅林を再現しながら、禅を普及する時代が到来することになる。そのきっかけは、南宋禅林を舞台とした日中禅僧の交流であったのである。

ただし、普寧の帰国に際して、『元亨釈書』巻 六「釈普寧」で虎関師錬は「然遇六群之猖獗作一錫之返飛」(大日仏 一〇一・二一三)と賛しているが、普寧の来日以降の布教活動は決して平坦なものではなかった。禅宗草創期、入宋僧の栄西や道元、来日僧の蘭渓道隆が苦心しながら布教したように、普寧もまた禅宗草創期の僧侶として苦心したのである。道隆滅後に来日した無学祖元の頃になって、禅僧たちが比較的安定して日本で布教できるようになるが、それまでは、多くの困難のもとに布教が行なわれていた。普寧の来朝は、まさにこのような禅宗草創期の困難の時期に、日中禅僧の交流によって成し遂げられたのであった。

 

  敦煌文獻中的北宗禪及其硏究價値

(敦煌文献に見る北宗禅とその硏究の意義)

                                   黃青萍 氏

(台湾 銘伝大学助理教授

 〔講演要旨〕「北宗」とは中国の唐代に成立した禅宗の一派で、神秀と弟子の普寂、義福等によって代表されます。かつては大変な影響力を持っていましたが、長安・洛陽を主な地盤としていたために、会昌の破仏で大打撃を受けて次第に衰え、その文献も散佚してしまいました。幸いにも一九〇〇年に発見された敦煌の蔵経洞に保存されていた古文書には、北宗の文献も含まれておりました。しかし敦煌写本はいくつかの国や個人によって収蔵されて各地に分散し、完全な形で保存されたわけではありませんでしたので、その研究には多くの困難が伴いました。

北宗文献の中で最も早く知られたのは、「五方便門」の写本、『観心論』、『楞伽師資記』、『伝法宝紀』等でした。そのため、八十年代までは北宗文献の中では、灯史の研究と「五方便門」の諸写本の系統づけが中心でしたが、八十年代、九十年代になってようやく『頓悟真宗要訣』、『修心要論』の連写本、『円明論』等の文献が注目されるようになりました。

 私は、これらの北宗文献や関連する研究を読んで疑問を抱き、また、従来とは異なる考え方をするようになりました。そこで、私は先ず写本を集め、読解して本文を校訂したうえで、その内容から内部的な証拠を求めるとともに、他の文献から外部的な証拠を見出し、その後に北宗文献の分類について自分なりの考えを打ちだしました。

 現在のところ私は、敦煌の蔵経洞で発見された写本を「主要文献」と「議論の余地のある文献」の二つに分けています。これは非常に野心的で、過去の研究を覆しかねない主張ですので、先生方や研究者の皆さんを当惑させることになるかも知れません。

 南宗による「看心看浄」・「払塵看浄」・「方便通経」といった北宗批評の文言を手掛かりとして、私が「主要文献」と考える文献は三つです。第一は智達禅師の『頓悟真宗要訣』であり、第二は普寂系の「五方便門」の写本群であり、第三は降魔蔵系に擬せられる『修心要論』等の連写本で、これら三人の禅師たちはいずれも神秀の弟子です。一方、「議論の余地のある文献」には、『観心論』や『円明論』が含まれます。これらの文献は、私の考えでは神秀の著作などではなく、また、北宗の「主要文献」でもありません。

文献内容の分析と外在的な証拠を通して考察を行った結果として、北宗の三つの「主要文献」には、禅思想と修行方法の点で共通する特色があります。つまり、「心性」については、単に本性清浄心だけを立て、染心と浄心を分けたりせず、また、染心に対処することで妄想を除こうなどとはしないのです。修行方法については、北宗は修行を簡素化し、直接にもともと清浄な自心に取り組もうとしました。坐禅での「看心」によって、妄想に執着せず、心に念を起こさないようになり、本来の清浄へと回帰する。ただこれだけを絶えず行うことで、静かで動ずることのない自分の心そのものを維持しようとしたのです。また、禅思想の面においても、「守心」から「看心」への展開を挙げることができます。従って私は、禅思想と修行方法が大いに異なる『観心論』や『円明論』を「疑問の残る文献」と見做しているのです。

最後に、私が得た研究上の知見を提供しておきます。それは敦煌の蔵経洞で発見された北宗文献は、北宗禅自体を明らかにしうるだけでなく、他の研究にも大いに役立つということです。例えば、「五方便門」の諸本の系統を明らかにすれば、その諸写本の系統に基づいて普寂系の人々の後世における変化を解明できます。また、「『法性論』系の『修心要論』連写本」に基づいて、摩訶衍系の人々の敦煌地方における展開を論じることができます。更に、写本における文献連写の状況から明らかになる文献相互の密接な関係性から、禅宗と他宗との交渉を研究することができます。そして最後に、大量の敦煌禅宗文献と蓄積された研究成果を用い、それを敦煌学・文献学・禅宗思想史に関する知識と結び付けた研究方法を確立できれば、禅宗の研究だけでなく、敦煌文書の真偽の判定にも役立てることができると思います。(講演は中国語で行われた。本要約は日本語翻訳原稿の要約である。)