日本、モンゴル、インド、中国における共生的精神文化の諸相
日本、モンゴル、インド、中国における共生的精神文化の諸相
3・11東日本大震災以後、所謂フクシマの問題は深刻化の一途を辿り、放射能と核への懸念は独り日本国内にとどまらず、世界から注目される事態に立ち到った。ヒロシマ・ナガサキからフクシマへという課題は、今や既にグローバルな、地球的命題としての意味を帯びている。
このような事態を前にして、科学技術的立場や政治・経済的見地からのみではなく、事態の究明を根本的、本質的に見直し、考えるべく、精神性・思想性からのアプローチのしかたが、もはや急務のように思われる。物質文明・文化の限界性を打開するためには、精神文化、思想面からのアプローチを措いて有効的な視点は無いと言っても過言ではない。とり分け、ヒロシマ・ナガサキからフクシマへという歴史的な過程を経る間に、ビキニ環礁、チェルノブイリ、スリーマイルズ島の事実も挟んで、現在の事態が生じている以上、この地球的な課題を真に本質的、根本的に捉え直すためには、コトバと物の見方、考え方との相互連関を抜きにして、もはや進展は望めないであろう。一つの事柄、事態をどのように眺め把握するかは、偏えにコトバのチカラに左右されることは言を要さない。或る視点や方向、思想・精神が定められ、構築されるかは、どのようなコトバ、どの種類のコトバで見、考えようとしたかが大きな鍵となる。フクシマの歴史的な命題を、これ迄の各分野の成果を十分に踏まえながら、さらに新しい視点や方向、思想・精神を生み出すべき、創造的なコトバで捉え直すことの可能性を探りたい。
フクシマの問題は、深くはそれぞれの人々の生きる意味や人生上の価値観と密接に関わる事柄である。我々人間にとって、或は人間として、人類的な規模での真の幸福とは一体何か、その事を、目先の応急処置的な視点や利害・損得を主にした現象的な解決策を超えて、真摯に向き合う以外に道はないように思われる。
欧米的な先進諸国の先端技術や科学思想、政治・経済基盤に学びながら、これを吸収消化することを急務として来た明治以来の長い近代化の歴史を経て、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの問題は在る。ここでアジア近隣諸国の人々の英知にも学びながら、いかに共生的な生存意識が可能かを模索していくことが、今こそ重要に思われる。その共生的な精神文化の諸相を確認し、そこから人間本来の心の豊かさを招来する糸口を究明すること。これからの私たちの生き方や死生観、世界観に架橋していくようなコトバ・視点の発掘こそが、その究明糸口の鍵になると考えられる。
上記を趣旨として本研究を立ち上げるにいたった。構成メンバーは日本近代文学、日本近世文学、医療倫理、インド哲学、中国文学、社会学、多文化共生論、モンゴルにおける文学受容論、生命倫理・環境倫理の各分野の研究者である。それぞれの専門分野に立脚した、新たなるコトバとその視点の発掘、そしてそこから成る精神性や思想性の諸相を相互で点検、確認する作業を通して、フクシマの命題をグローバルな観点から創造的に捉え直し、提言することを目的とする。
本研究は、日本近代文学、日本近世文学、医療倫理、インド哲学、中国文学、社会学、多文化共生論、モンゴルにおける文学受容論、生命倫理・環境倫理の各分野における研究者が、フクシマの問題に対峙しながら、それぞれの分野における精神性や思想性の発掘作業と点検作業を行い、そこから生き方や死生観・世界観に架橋していくコトバ・観念を発掘し、そのコトバ・観念を研究者間で相互に照らし合わせ、また研究発表会における参会者のレビュー、公開講演会における専門家の見解と意見を照らし合わせ、さらにシンポジウムにおける共同討議から、各分野において見いだされたコトバ・観念を総合的にまとめ、提言として公にする。
本研究のメンバーは以下のとおりである。
研究代表者 役割分担
山崎甲一 研究員 日本近現代文学
研究分担者 役割分担
谷地快一 研究員 日本近世文学
長島 隆 研究員 医療倫理・災害医療におけるトリ
アージ(生命の選択)論
沼田一郎 研究員 インド哲学
坂井多穂子 研究員 中国文学・宋詩研究
井上治代 客員研究員 社会学・死者祭祀
大鹿勝之 客員研究員 生命倫理・環境倫理
胡 樹(ホショウ)客員研究員 多文化共生
額爾敦巴特爾(エルドンバートル)
客員研究員 モンゴルにおける文化受容論
研究分担者の井上治代客員研究員は、平成二十七年三月まで本学ライフデザイン学部健康スポーツ学科の教授を務め、研究員として本研究所に所属していたが、教授職の定年退職に伴い、平成二十八年度より客員研究員として本研究所に所属することになった。
本研究第三年度の平成二十八年度は、平成二十八年四月二十七日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者は、研究分野におけるテーマと研究計画について説明し、相互に研究内容の確認を行った。また、研究発表会・シンポジウムの日程と担当者について協議した。
各研究者の研究の概要は以下の通りである。
山崎甲一研究員は、平成二十八年八月二十日~八月二十五日、内モンゴル大学外国語学院で開催されたシンポジウムに参加して、「苗は伸びる、福島と三陸海岸――外と内なる二つの自然」と題する研究発表を行ったほか、モンゴル高原周辺地域の放牧、ゲル・遊牧民族・食文化の実態、生態保護、風力発電群、石炭採掘、エネルギー工場の様子、モンゴル高原の自然、風力発電、煤炭工場の様子を視察した。また、平成二十八年八月三十一日~九月五日、遅筆堂文庫、遅筆堂文庫山形館、宮城県石巻市・気仙沼市、岩手県宮古市・久慈市、羅須地人協会において、三陸地方における東日本大震災の被害・復興状況、および宮沢賢治、井上ひさしに関する調査を行った。
谷地快一研究員は、平成二十八年七月二十七日~七月二十九日、「女川町いのちの石碑」(宮城県牡鹿郡女川町)および田老の防潮堤(岩手県宮古市田老地区)を中心とする、東日本大震災罹災地の調査を行い、三年間の研究成果をまとめ、後述の研究報告書に報告した。 長島隆研究員は災害医療における「トリアージ」論と森鷗外の役割に関して、平成二十八年八月十四日~八月二十五日、ベルリンの森鷗外記念館 Mori-Ôgai-Gedenkstätte において調査を行い、平成二十八年十二月十日の研究発表会において研究発表を行った。
沼田一郎研究員は、ヴェーダ聖典の、初期ヴェーダからウパニシャッドに至る間の内容上の著しい変容について、後代のヒンドゥー教文献の記述と照らしあわせて、その変容や新規の要素を摘出した。
坂井多穂子研究員は、南宋の詩人、楊萬里について、三年間の研究をまとめ、研究報告書に報告した。
井上治代研究員は、日本における新たな共生的精神文化について、現代日本社会の無縁社会の実態における、地縁・血縁に代替する新たな関係性の構築を検討した。
大鹿勝之客員研究員は、環境倫理学において、「~である」という事実から「~すべきである」という義務がどのようにして生じるのかという議論を検討し、論文を『東洋大学大学院紀要』第五十三集に投稿した。またその論文の内容を踏まえ、「原子力発電は発展させるべき」「原子力発電は停止させるべき」といった原子力発電所をめぐる意見について、「べきである」がいかに導出されるのかを検討し、平成二十八年十二月十日の研究発表会において研究発表を行った。
胡樹客員研究員は、シャマニズムと中国の巫教、道教、並びに日本の神道に関して、互いの宗教的特性およびそれによって形成されていた伝統的文化の特徴について考察し、本紀要『東洋学研究』第五十四号に論文「孔子儒教におけるシャマニズム的特性について」を投稿した。
額爾敦巴特爾客員研究員は、郁達夫における日本近代文学の受容の実態を明らかにして、日本近代文学が中国近代文学の形成に果たした役割を検討し、その成果について本紀要『東洋学研究』第五十四号に論文「郁達夫における日本耽美派の受容―「沈淪」「過去」をめぐって―」を投稿した。
また、以下に示すとおり、平成二十九年一月二十八日にシンポジウムを開催し、五十嵐伸治氏・宝力朝魯(ボリチョロー)氏の講演、そしてパネルディスカッションが行われ、フロアからの意見も交えながら、活発な討議がなされた。
そして、三年間の研究成果をまとめた、冊子体の研究報告書を刊行した。この報告書には、代表者の総括と、分担者の報告が掲載されている。
以下に、研究調査、研究発表会、シンポジウムの概要を報告する。
研究調査
「女川町いのちの石碑」(宮城県牡鹿郡女川町)および田老の防潮堤(岩手県宮古市田老地区)を中心とする、東日本大震災罹災地の調査
谷地 快一 研究所長
期間 平成二十八年七月二十七日~七月二十九日
調査地「女川町いのちの石碑」(宮城県牡鹿郡女川町)および田老の防潮堤(岩手県宮古市田老地区)を中心とする、東日本大震災罹災
地
二十七日(水)新幹線で盛岡へ。盛岡から宮古は平常時ならJR山田線快速で約一時間だが、復旧していないために岩手県北バスを利用(106急行)。宮古カーシェアリング(株)で車をレンタルしてまず宮古市役所へ。別棟プレハブにある都市整備部で、主任技師花坂真吾氏と面談、田老地区の特に防潮堤の歴史を学んで、田老地区へ。
ニュースで何度もみた宮古市役所は平常の業務を取り戻していた。同じ海岸線の一方に浄土ヶ浜、その先に防潮堤の長い歴史をもつ田老地区という対照が興味深い。ネットで見る悲慘な景色はすっかり再開発のそれに変わっていた。新しい水門を作り、河口で津波を防ぐ対策をとっていた。タクシーやホテルのバス運転手の「あの日は雪も降っていたし、寒かった」「津波が恐いのだ。地震や火災の被害は諦めがつく」などという話が忘れられない。
翌二十八日(木)は盛岡から仙台に戻り、石巻・女川へゆく。女川町役場・教育委員会を経て、女川中学校へたどり着き、「女川いのちの石碑」に関する情報を求める。教頭の山内芳明氏がいきさつを丁寧に説明してくれた。石碑に関する情報を得て石巻に戻り、かつて集中講義でお世話になった気仙屋旅館(現蛇の目寿司、中央町)で当時の話を聞き、石巻駅前に宿泊。
二十九日(金)は日和山ほか『おくのほそ道』ゆかりの石碑を中心に震災後の石巻をめぐる。最後に元禄二年に芭蕉が宿泊した記念の石碑(石巻グランドホテル)を見て帰途につく。
ベルリンの森鷗外記念館での調査研究
長 島隆 研究員
期間 平成二十八年八月十四日~八月二十五日
出張先 森鷗外記念館 Mori-Ôgai-Gedenkstätte
森鷗外記念館を訪問する。八月十四日に日本をたち、フランクフルトに着いたのが十五日朝七時半であった。(China Airline が台北で、何の理由も示されないで、一時間遅れたため、到着も一時間遅れた)そのため、フランクフルトからベルリンに向かい(五時間かかる)、十五日夕方にベルリンに着く。当初予定していたフンボルト大学のゲストハウスは、手を打つのが遅れたため、フンボルト大学と今回の用務先である森鷗外記念館のちょうど中間地点にあるホテルHotelAmelie Berlin(Reinhardstr. 21 , Mitte, 1011 7 Berlin)に宿泊することになった。
十六日から十八日まで森鷗外記念館に通う。森鷗外記念館の周辺を確認するとともに、鷗外記念館に入り、ベアーテ・ヴォンデ氏に会う。鷗外記念館の現状と今後について話を聞く。その後、図書館を利用して、図書館の性格を確認する。これによると、日本では見ることができなかったものとしては、津和野関係の歴史について、津和野の鷗外との関係などについてのものであった。それらは、初めて見るものであった。二十一日にはNobuko & Werner Fuhrmann 夫妻に会い、津和野と鷗外との関係(特にベルリンと津和野)について話を聞く(奥さんのほうが津和野出身で、津和野と鷗外記念館をつなぐ役割を果たしていた)。とりわけ、鷗外にたいする津和野のほうの評価が低くなり、津和野からの(高校生の)交換留学が途絶えているということである。
二十二日には、もう一度記念館に行く。この日は、秘書(研究助手)の方がおられたので、彼女の話を聞き、場所を案内していただく。鷗外記念館は、現在すでにフンボルト大学のJapanologie の布置施設になっているが、九月から来年二月まで全体として施設の整備が行われることになる。そして、展示室を充実させるということである(ただし、この場合、鷗外と日本の関係ばかりではなく、近代日本に焦点を合わせたものも行うことになるということである。すでにその試みとして「近代日本の子ども」についての写真などの展示を行ったということである)。
二十三日にフランクフルトに戻り(やはり五時間程度)、一泊、二十四日十一時三十分発のChina Airline で、帰国し、二十五日朝に成田に着いた。
内蒙古大学外国語学院でのシンポジウム参加、内蒙古草原現地踏査
山崎 甲一 研究員
期間 平成二十八年八月二十日~八月二十五日
出張先 内蒙古大学外国語学院内蒙古大学外国語学院
八月二十日(土)
羽田空港九時十分―北京空港十二時五分。北京空港十五時四十五分―呼和浩特(フフホト)空港十七時十五分。市内の賓悦大酒店(ビンユウホテル)にて、額爾敦巴特爾、胡樹、両客員研究員と滞在日程の打合せ。ビンユウホテル泊。
八月二十一日(日)
内蒙古大学中日国際研究交流会(十時~十二時四十分):内蒙古大学外国語学院芸術大楼会議室2F。
研究発表者・山崎:題目「苗は伸びる、福島と三陸海岸――外と内なる二つの自然」。
シンポジウム・出席者:胡樹 内蒙古大学外国語学院日本語系教授、額爾敦巴特爾 同准教授、新巴雅爾(シンバセル)同教授、孟根(メ
ンゲン)同准教授、宝日朝魯(ボリチョロー)内蒙古師範大学日本語系准教授・主任、周硯舒(シューエンシュ)内蒙古大学外国語学院日
本語系専任教師の六名。他に、内蒙古大学日本語系大学院生六名。
研究交流会:胡樹、額爾敦巴特爾、新巴雅爾、宝日朝魯、周硯舒の各氏に、仁琴(リンチョン)内蒙古大学歴史研究センター准教授も参
加。会場:伊克奈爾(イクネル)。
大召(ダイショウ 無量寺)見学。呼和浩特のチベット仏教寺院。
ビンユウホテル泊。
八月二十二日(月)
呼和浩特から車で、桌資県(ジュシケン)、集宁市(ジーニンシ)、商都(シャンド)、化徳(ホアデ)、正鑲白旗(ハイチチイ)、哈毕日嘎(ハビルガ)、正藍旗(ショウランキ)、元上都(ゲンシャンド)遺址、阿斯漢(アスハン)観光地を見学。額爾敦巴特爾氏、胡樹氏の案内で、モンゴル高原周辺地域の放牧、ゲル・遊牧民族・食文化の実態、生態保護、風力発電群、石炭採掘、エネルギー工場の様子等々を初見踏査。正藍旗市内恒峰酒店(ヘンフンホテル)泊。
八月二十三日(火)
正藍旗から額爾敦巴特爾氏知人哈(ハス)氏の車・案内で、五・一牧場(ゴ・イチムチャン:ボクジョウ)、小札格斯台(ショウジガスタイ 小魚湖)、昌閣敖包(チャントオボ)、等の草原、祭場の踏査。桑根达来(サンゲンダライ)から錫林浩特(シリンホト)市までのモンゴル高原の自然、風力発電、煤炭工場の様子を見学。錫林市内の貝子(バイシミョウ)・オボと市内を踏査。錫林市内の滨河酒店(ビンヘホテル)泊。
八月二十四日(水)
錫林浩特市駅から呼和浩特市駅まで額爾敦巴特爾氏と鉄路八時間の旅。窓外からのゲル、放牧、風力発電、草原の状態の説明を受け、確認する。
内蒙古大学本部校舎内の食堂パセンジュサルで終始案内役を勤められた額爾敦巴特爾氏の慰労・反省会。ビンユウホテル泊。
八月二十五日
呼和浩特空港十一時十五分―北京空港十二時三十五分。
北京空港十六時三十分―羽田空港二十時五十分。
三陸地方における東日本大震災の被害・復興状況、および宮沢賢治、井上ひさしに関する調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成二十八年八月三十一日~九月五日
出張先 遅筆堂文庫、遅筆堂文庫山形館、宮城県石巻市、宮城県気仙沼市、岩手県宮古市、岩手県久慈市、羅須地人協会
八月三十一日(水)川西町遅筆堂文庫、かみのやま温泉遅筆堂文庫
山形館の井上ひさし蔵書を点検す。ホテルメトロポリタン仙台泊。
九月一日(木)石巻市街、旧北上川沿岸、日和山公園。女川町、漁港の復興状況を踏査す。並に仙台―女川町間の湾岸地域の復興状態も視察す。女川ステイイン鈴家泊。
九月二日(金)女川町内の復興状況調査。南三陸町復興状況視察。ホテル観洋泊。
九月三日(土)語り部バスで南三陸町志津川地区の被害と復興状況を視察。陸前高田、大船渡、盛、釜石、大槌町、吉里吉里、山田湾岸地域の復興状況を視察。宮古ホテル沢田屋泊。
九月四日(日)宮古田老地区の復興状況踏査。〈学ぶ防災ガイド〉の小幡実氏の案内で当時の被害状況と復興状態を見聞踏査す。久慈市街と漁港周辺を踏査。久慈グランドホテル泊。
九月五日(月)久慈―八戸―盛岡経由で花巻空港駅。「羅須地人協会」(宮沢賢治の家)を見学。新花巻より新幹線にて上野帰着。
※昨年の踏査地と重なる地域もあったが、昨年の震災後四年半、今回の五年半の節目の時々に、その被害状況と復興状況を自分の眼と足で具さに踏査し、視察できたことは、本年のプロジェクト完成年度に当たり収穫大なるものがあった。
研究発表会
平成二十八年十二月十日 東洋大学キャンパス 六二〇二教室
原子力発電所と「である」「べきである」の問題
大鹿 勝之 客員研究員
〔発表要旨〕原子力発電所についての賛成反対の意見をインターネット上のホームページでみてみると、「原子力発電はどんどん発展させるべきです」、「原子力発電は停止させるべきです」という意見がみられる。本発表では、こうした意見に見出される「べき」に注目して、「である」と「べきである」の関係について検討した。
ヒューム(David Hume)は、『人間本性論』A Treatise of Human Nature (1739-1740)の第三巻・第一部・第一節「道徳的区別は理性に由来しない」Moral distinctions not deriv'd from reason の最後の段落において、今まで出会った道徳の体系で、その著者がしばらくの間通常の推理の仕方で論を進め、神の存在を打ち立て、あるいは人間の事柄について所見を述べると、突然、「である」(is)や「でない」(is not)という命題の普通の繋辞に代わって、出会う命題は、どれも、「べきである」(ought)や「べきでない」(ought not)という語を繋辞とするものばかりになることを見出すという。そして、この「べきである」や「べきでない」という語は、ある新しい関係ないし断定を表わすのだから、その関係ないし断定がはっきりと述べられ、説明される必要があり、同時に、この新しい関係がそれとは別の、まったく種類の異なる関係からの演繹であり得るとは、およそ考えられないと思われるのだが、いかにしてそうであり得るのか理由が挙げられる必要があることを指摘する。
ヒュームが指摘した、この「である」から「べきである」がいかに導出されるかという問題について、サール(John Rogers Searle) は、『言語行為』Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language (1969)において、以下の言明を検討し、「である」から「べきである」の導出を試みている。
1 「スミスさん、あなたに5ドル払うことをこの言葉において約束します」という言葉をジョーンズが発した。
2 ジョーンズは、スミスに5ドル払うことを約束した。
3 ジョーンズは、スミスに5ドル払う義務を自己に課した(引き受けた)。
4 ジョーンズは、スミスに5ドル払う義務がある。
5 ジョーンズは、スミスに5ドル払うべきである。
サールの議論においては、「約束する」という発言が約束するという行為を意味し、そこで約束という仕組みを発動させているかのような事態が生じ、約束という行為には義務を伴うと解され、「べきである」が導出されている。
マッキー(John Leslie Mackie) は、『倫理学』Ethics: Inventing Right and Wrong (1977) において、サールの議論を検討しているが、「約束」という言葉をその制度内部的な意味を十分に込めて用いていることはすでに、実質的な仕方でその制度を承認すること、一定の明確な行動様式を採用・支持することであるとともに、他の様式を非難することなのであると述べ、ある制度の内部で語ることよってのみ、どのような価値語も隠していないような純粋に事実的な一群の「である」を含む言明から、仮言的に命令する「するべきである」を含む言明のみならず、道徳に関する「べきである」を導き出すことができる、という。
このマッキーの見解にしたがうならば、制度の内部で語ることにより「である」から「べきである」が導出されるが、その場合どのような制度を採用して引き受けるかが問題となる。また制度を採用する根拠が問われる。原子力発電所の議論については、どのような制度に結びつく議論が展開されるのかが問題となる。また、制度の採用に議論が結びつかない場合は、「べきである」内容が実行されるようになるためには、聞き手が議論されている「べきである」内容を引き受けるような、説得力ある議論が求められる。
研究発表会
平成二十八年十二月十日 東洋大学キャンパス 六二〇二教室
鷗外記念館―津和野、そしてベルリン
長島 隆 研究員
〔発表要旨〕軍医としてドイツに過ごした森鷗外は、戦地や災害時の医療において治療の優先度を決定するトリアージについて、生命の選択に反対の立場を取っていた。本プロジェクトにおいては、生命倫理・医療倫理の役割分担において、鷗外が医学から何を学んでいったのかということについて研究を進めたが、本発表では、研究期間中に行った、津和野の森鷗外記念館、ベルリンの森鷗外記念館Mori-Ôgai-Gedenkstätte の調査について報告した。
津和野の森鷗外記念館および津和野周辺には、平成二十八年三月十四日から三月十六日にかけて調査を行った。森鷗外記念館では、鷗外の幼少期からのテーマに並べられている資料を閲覧し、また、起念館報を確認した。また、鷗外墓所を調査し、鷗外の両親をはじめ森一族の墓が「森林太郎の墓」という墓標の右側にあり、父親静男、母峰の墓碑、祖父の白仙の墓碑があったことを確認した。また、鷗外の孫の富(トム・於兎の長男)の墓碑が「森林太郎」の墓標の左後ろのほうに新しく建てられていたのを見て、森一族の墓としても現在まで機能していることを感じさせた。しかしながら、津和野における鷗外の評価は、鷗外が津和野を出てから戻ってこなかったということから、否定的な傾向にあることが窺えた。
平成二十八年八月十四日より八月二十五日にかけて調査を行ったベルリンの森鷗外記念館は、ベルリン・フンボルト大学のJapanologie(日本学)の附置施設になっている。所蔵資料については、津和野の森鷗外記念館との連携があったということで、津和野の郷土資料などが配架されていたが、鷗外研究としては文献が少ないという印象を受けた。逐次刊行物に関しては、森鷗外記念館の年報として、Japonica Humboldtianaという年報がベルリン・フンボルト大学から発行されている。この年報は森鷗外記念基金が一九九七年から二〇〇五年まで、東芝国際交流財団が二〇〇八年から二〇一二年まで支援している。もう一つ、Kleine Reihe という小冊子がベルリンの森鷗外記念館の刊行物として刊行されていて、第六十五号まで刊行されている。この刊行物はベルリンの森鷗外記念館のホームページでPDF を閲覧することができる。また、注目すべき資料としては、ベルリン大学への日本人留学生についての調査資料がある。フンボルト大学は、Japanologie の学科があるほか、記念館、語学センターがあり、Japanologie 研究の拠点となっている。
しかしながら、ドイツではJapanologie が冬の時代に入っている。その背景には、ナチス時代に対する反省とネオナチ運動に対する警戒から、日本の右傾化の傾向(たとえば、政治家の靖国神社への参拝)に対して否定的にみているということ、独立した位置づけをされていたJapanologie がアジア学・アフリカ学の一群として位置づけられてきているように、日本への関心が低くなっていることがあげられる。このような状況に対しては、交換留学生や研究交流を活発にしていく必要がある。
シンポジウム
平成二十九年一月二十八日 東洋大学キャンパス 第三会議室
講演
「福島」と「フクシマ」
五十嵐伸治 氏
(宮城学院女子大学・仙台白百合女子大学非常勤講師)
周辺地域を視野に入れて中国と日本の共生的精神文化を考えたら
宝力朝魯(ボリチョロー) 氏
(内蒙古師範大学外国語学院准教授)
パネルディスカッション
パネリスト
五十嵐伸治 氏
宝力朝魯 氏
山崎甲一 研究員
額爾敦巴特爾 客員研究員
「福島」と「フクシマ」
五十嵐伸治 氏
〔講演要旨〕 人類初の広島への原子爆弾投下の惨劇は、井伏鱒二の「黒い雨」や峠三吉の「にんげんをかえせ」、原民喜の「夏の花」といった作品に表象され、反核・反原子力を訴えた文学を生んだ。戦後生まれの作家たち一連の作品でも、現在の平和と自由な生活、そして未来に向かう開かれた世界は、過去の様々な歴史の上に立つものとして広島、長崎を振り返る。一方、戦後の疲弊した国力回復、経済活性化の一役を担い、仁科芳雄や吉村昌光といった物理・化学者たちは、核の平和利用としての原子力発電開発に精力を傾けた。こういった科学と文学の二つの流れが今日の日本の核・原子力問題をリードしてきた。
そのようななか、東日本大震災が起きた。福島第一原子力発電所の水素爆発の放射能飛散事故は、スリーマイル島やチェルノブイリ原発事故を想起させ、人びとはあらためて核・原子力の恐怖の記憶を呼び戻し、震撼した。長崎で被曝した林京子は〈メルトダウンにまで至った原発事故は、放射能物質と人間、生命との共存が不可能であることを、十分に教えてくれた〉と言い〈ノーモアヒロシマからはじまった戦後の日本に、ノーモアフクシマが加わった〉と言い切った。多くの作家も、林京子のニュアンスで反原発の姿勢を示した。そして、木村朗子は、原子爆弾によって生じた修羅場のような悲惨な出来事は、大量死のイメージと重なって〈フクシマは、ヒロシマ、ナガサキには似ていない〉とする多くの見解に対して、原子爆弾と原子力エネルギーが実質的には同じで、被曝したことで後遺症や死に不安を抱きながら生き続けることは、「死に向かう被曝ではなく、生の抱える被曝」において同列と言う。
しかし、「フクシマ」の問題は、核の威力を知るために科学的実験として広島や長崎に投下された原子爆弾の惨劇とは異なる。そこには戦争という背景があり、無慈悲な戦略がある。「フクシマ」の問題は、スリーマイル島やチェルノブイリ原子力発電所で原子炉が爆発し、見えない放射能が東欧や北欧にまで拡散したことと同じである。放射能こそ柳広司が「黒塚」に描いた〈鬼婆〉恐怖と同じであり、福島在住の作家、玄侑宗久も〈ホーシャノー〉こそが問題だというメッセージを「光の山」で発信した。和合亮一は故郷福島を愛する詩人であるがゆえに〈ホーシャノー〉によって穢され、誰もいない、人も住めない異空間となった故郷を〈フルサト〉と怒りを込めて表象する。そして宇江佐真理は〈福島第一原発は、東京に、より多くの電力を供給するために設けられた〉だから東京に住む人々は、〈他人事と思ってはならないのだ〉と言ったが、この発言は、住み慣れた故郷という文化地から異郷の地に縛られた福島原発の被災者は、東京の犠牲者だということに繋がる。また〈フクシマ〉という言辞は、何か特別な属性として差別するものとなる。福島の人々にとって故郷福島は、福島・ふくしまであって、〈フクシマ〉ではないのだ。
福島第一原子力発電所の事故は、核爆発の驚異的な熱エネルギーを利用し、地球環境の保守や経済の活性化を狙うといった未来への理想的な核の平和利用への転換によって生じたヒューマンエラーである。大気に飛散した〈ホーシャノー〉が人びとの生活を脅かし、未来への展望も挫くという意味で〈福島〉は、現代における、いや未来へ警鐘を示す歴史的な地であるということである。
周辺地域を視野に入れて中国と日本の共生的精神文化を考えたら
宝力朝魯 氏
〔講演要旨〕
一、信仰上の共通点
中国と日本では原始宗教として自然崇拝・鬼魂の崇拝・生殖器の崇拝・祖先崇拝・原始神話・原始祭祀・呪術・占いがあった。その後天神と天を崇拝していたが、中国から儒教・陰陽五行説・老子と荘子の宗教思想・仏教・道教が日本に伝わり、又ヨーロッパからキリスト教が中国と日本に伝わった。現在中国と日本では科学主義だけを信じる人も現れている。モンゴル地域の信仰も上述とほぼ同じである。
二、文字と語彙による共通点
方言によって同じ漢民族同士であっても話し言葉で通じない場合がある。その時、漢字で書いたらすぐ通じる。一方、日本の『例解国語辞典』(一九五六年)の53・6%の語彙が漢語である。これによれば、中国人と日本人は53・6%の事を同時に同じ文字と語彙で考えたりしていると言える。
三、血縁的な繋がりの可能性
秦の始皇帝は長寿不老の薬を取りに徐福を命じて東蓬莱山に行かせた。当時徐福が率いた人数は男女三千人・男女数千人・男女五百人という三種類になっているが、いずれも皆帰らず、日本人になったという伝説として一致している。一方、日本人の三分の二の赤ちゃんのお尻に蒙古斑があると言われている。また、モンゴル地域で昔モンゴル地域から五百名の男の子と五百名の女の子が日の出る所に行って日本国ができたという伝説が伝わっている。
四、経済的な繋がり
中国は自由貿易地区を増やしている。又、一帯一路の建設方針を打ち出す一方、アジア太平洋地域の国々との経済関係を重視している。日本もアジア太平洋地域の国々との経済関係を重視している。もし、日本は中国の一帯一路の一帯をよく利用するならば、経済的なメリットが沢山あって、将来中国の建設する一帯一路によってアジアとヨーロッパは経済的に更に密接に繋がると思われる。
五、平和共存は何より
アジアでは中国・日本・インドは影響力のある三つの大国である。互いに矛盾があれば、「無常」なので、厳しくてもガンディーの不協力思想を活用するぐらいで、なるべくその非暴力思想に従って、更にマンデラの寛容思想を持って、「誠」を話し合って問題を解決して、平和共存することは何よりである。そうであれば、中国と日本及びその周辺地域はそれぞれの生存空間があって、太平洋・インド洋・バイカル湖及びこの広い地域の河川と湖さえあれば、原子力に頼らずに生きていける時代がやってくると思われる。
講演の後、二名の講演者と山崎甲一研究員、額爾敦巴特爾客員研究員がパネリストとなり、パネルディスカッションが行われた。パネリスト間での討論では、文学は国家、経済、文学に無関心な人々にどのように訴えることができるのかといった問題が議論され、フロアからの質問と、パネリストの応答において、国民の精神的なあり方、原子力発電所事故の避難者への接し方などについて質問が出され、活発な議論が展開された。