日本における先祖観の研究―古来の先祖観とその変容―
日本における先祖観の研究―古来の先祖観とその変容―
ロバート・J・スミスは『現代日本の祖先崇拝―文化人類学からのアプローチ』(前山隆訳、お茶の水書房、一九九六年新版)において、位牌調査に基づき、戦後家族形態の変化により、都市の家族では供養の形態が家の先祖を祀るあり方から近年の死者への愛情表現のあり方へと移行してきていることを指摘しているが、現在、供養の形態の変化に伴い、かつて行われてきた祖先祭祀が顧みられなくなっている傾向がある。しかしながら、祖先祭祀には先祖を大切にするという先祖観があり、その意味をあらためて問いなおす必要があるのではないか。このような疑問から、日本における先祖観をあらためて考察するべく本研究を立ち上げるに至った。本研究は、戦後の家族形態の変化による先祖に対する意識の変化、各地で行われている先祖供養の行事への過疎による影響、放射性物質の影響により代々の土地から離散せざるを得ない状況に鑑み、日本における先祖のあり方(家にまつわる先祖、共同体における集合的存在としての祖霊)を考察し、現代日本の都市生活において失われつつある先祖とのつながりをあらためて問いなおすことを目的とする。研究のあり方としては、日本古来伝えられてきた先祖観および霊魂観を把握し、また他界観として、先祖の居所の観念を、浄土との関連から探究する。そして、現代日本の先祖観のあり方を北方民族の祖霊観・南方の祖霊観との比較、古来の先祖観との比較、地域社会における先祖供養のあり方から理解する。
研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
中里巧 研究員研究の総括北方民族の祖霊信仰を通じての日本の先祖観の把握
研究分担者 役割分担
菊地義裕 研究員『万葉集』を中心とした上代文学における霊魂観
原田香織 研究員謡曲にみる霊魂観
川又俊則客員研究員地域社会における先祖供養の考察大鹿勝之 客員研究員先祖の居所としての常世の研究次に、今年度の研究経過を報告する。まず平成二十七年六月十三日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者は、研究分野におけるテーマと研究計画について説明し、相互に研究内容の確認を行った。また、パネルディスカッションの日程と担当者について協議した。
各研究者の研究の概要は以下の通りである。
中里は現代における先祖観の変容に関し、先祖観のリアリティ、死者との関わりを可能にするイマジネーションについて、キリスト教正教会における子どもの尊重、エンデ(Michael Ende, 1929-1955)における子どもの心の重視を通じて、子どもの遊びに見られるイマジネーションの豊かさを指摘し、考察をもとに探求し、感情を理性よりも劣ったものと見なす西洋哲学の見方に対し、理性と感情とが織りなす複合的な総体としての人間存在のあり方を探求した。
菊地は、「日本霊異記に見る先祖意識」をテーマに、『日本霊異記』の説話分析を進めた。『日本霊異記』は平安初期の成立と目される仏教説話集であるが、その内容は奈良朝以前を含み、万葉の時代の生活の諸相を反映する。また民衆の生活が在来の伝統と外来思想の受容のはざまにとらえられることを特色とする。仏教思想を背景に伝えられる説話のなかには、古代の霊魂観や生死観の変容を窺わせるものがあり、それらはまた家をよりどころとした、死霊や先祖の供養のあり方を探る資料ともなる。それらの説話分析を通して、氏族レベルでとらえられる先祖観とは異なる、民衆レベルでの先祖意識の把握を行った、原田は、能楽における先祖観に関連して、家名と先祖観のとの関わりについて考察を進めた。室町時代、世阿弥能は、恩愛の情、ならびに血統をつなぐ先祖、墓、家の意識が思想的背景としてあり、作品化されたときに、それが供養という形式になっている。一方中世社会において、権力をもつ家や「名」こそ大切であり、こうした権威性を規範として構築することに政治的な力が注がれた。その結果、祖霊信仰は仏教行事を行いうる権力者の行為となり、供養は国家的な視点から為されることになる。この点で、室町時代の先祖観が、親子の絆など義理人情的な世界観を離れて、仏教的な権威により構築されたことを指摘した。また、京都の各地において、謡曲に現れた、没落の一族についての墓所や地形の踏査を行った。
川又は、居住地である三重県の各地域(都市・近郊・過疎)、和歌山県新宮市において、地域住民、住職、牧師へのインタビューにより、人口の減少と葬祭業者の浸透という状況のなか、葬送儀礼・先祖供養の行動と意識の変化について考察した。また、先祖観の変容というテーマのもと、両墓制に注目して三重県の地域を調査し、現代における両墓制の維持の状況と、火葬の普及における葬送・供養に対する意識の変化について、住職や墓参者へのインタビューを通じて考察を行った、大鹿は、補陀落渡海を試み琉球(沖縄)に漂着したという、十六世紀の僧日秀上人について、文献や先行研究に基づいて考察を重ね、また、日秀上人が漂着したとされる沖縄県国頭郡金武町や、日秀上人が開いた観音寺、再興に努めた波上護国寺、妖怪を鎮めたという伝説のある金剛嶺碑、また、補陀落渡海僧といわれる禅鑑禅師が漂着したという小那覇の海岸を踏査し、その風景のあり方を探求した。また、日秀上人が沖縄での活動の後薩摩(鹿児島県南さつま市、鹿児島県霧島市隼人町)に向かい、寺院を再興・建立した事蹟について調査を行った。そして、補陀落を目指し漂着した風景のあり方、日秀上人の補陀落観と常世・沖縄の信仰との関連について考察した。パネルディスカッション各研究者の研究成果については、公開のパネルディスカッションを開催して、各研究者の発表とパネルディスカッションを行っている。
平成二十七年度は、平成二十七年十一月七日および十一月二十八日
に、公開のパネルディスカッションを開催した。
シンポジウム
平成二十七年十二月十二日に、サレジオ工業高等専門学校准教授の山舘順氏を講演者に招いてシンポジウムを開催し、各研究メンバーによる報告、山舘順氏の講演、討論が行われた。
研究成果報告書
三年間のプロジェクトの成果について、各研究者の報告をまとめた報告書を刊行した。
以下に平成二十七年度に行われた、研究調査、およびパネルディスカッション、シンポジウムの概要を示す。
研究調査
尾鷲市内寺院・墓地等調査、曹洞宗東正寺住職へのインタビューおよび同所で行われているラジオ体操への参加と見学、新宮市の葬儀社・墓地・関連施設の調査、新宮駅周辺の寺院調査
川又俊則客員研究員
調査日平成二十七年八月二十二日~八月二十三日
調査地三重県尾鷲市、曹洞宗東正寺(三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿六八六)、和歌山県新宮市二十二日、尾鷲市内の墓地三ヵ所(馬越墓地、折橋墓地、白石墓地)を見学。尾鷲では寺院よりこのような高台に集落の墓地があることを確認した。同地では花よりシキミを供えている。墓参者にヒアリングし、毎週来ている例も見られた。お盆の後ということもあり、ほぼ全体の墓地に参拝された形跡があった。日蓮宗妙長寺青木健斉住職と面会。同市の状況、同寺院の歴史をうかがう。生前から多くの人びとに来てもらえる開かれたお寺を目指した同師四十年の取り組みの一端をうかがった。でくのぼうの会という板に字を彫る会に後日再訪を快諾いただく。
移動。新宮市内サンシャインホテル泊。
二十三日、紀宝町東正寺のラジオ体操及び日曜学校に参加。未就学児から高齢者まで約二十名が参加する夏期ラジオ体操、四名の児童が参加する日曜学校を三十年以上も継続してきた片野晴友住職に、同行事や葬儀・葬後儀礼などをうかがう。親が小さい頃経験したゆえに日曜学校などを、その子どもに参加させている例もある。参加する子どもたちは、般若心経などを覚えている姿に、継続及び小さい頃からの教育の重要性を実感。その一方、子どもたちが遠方で生活しているがゆえに永代供養を希望する人など、今後の寺檀関係で憂慮すべきことは当寺でも見られる現実、近年、兼務を引き受け、多くの葬儀を副住職と何とか対応したとの実態も知った。
日本キリスト教会新宮教会の日曜礼拝に参加。約三十名が参加。男女高齢者中心だが、讃美歌等大きな声で活気あふれる雰囲気だった。阿部祐之牧師に、教会墓地が南谷墓地にあることをうかがう。同墓地、火葬場及び大浜墓地を見学。両墓地でたいへん暑いなか、墓参される市民を散見。その後、市内寺院も見学したが、暑い日中とあって参詣者等は見かけなかった。
葬祭業者新宮公益社社員に同社の資料を頂戴する。あすか斎苑で家族葬が執り行われていたため、ヒアリングはできず、連絡先を教えていただき、後日電話にて補充調査予定。
日秀上人の補陀落渡海に関する調査
大鹿勝之客員研究員
期間 平成二十七年八月二十七日~八月三十日
調査地観音寺(沖縄県金武町)、西原町字小那覇、糸蒲寺跡(中城村南上原)、龍福寺跡(沖縄県浦添市仲間)、金剛嶺碑(沖縄県浦添市経塚)、波上宮、沖縄県立博物館『琉球国旧記』巻七の波上山三社の附記に、日秀上人が高野山で修行し、観音浄土を目指して補陀落渡海を企て、琉球国金武郡の富花津(沖縄県金武町の福花の海岸)に至ったことが、また、『琉球国由来記』巻十一の金峰山補陀落院観音寺縁起に、嘉靖年中(一五二二~一五五六)に富花津に到り、宮を建てたことが示されている。今回、この日秀上人の補陀落渡海と漂着に関する調査を行った。八月二十七日と八月二十八日は、日秀上人が建立した観音寺、福花の海岸を調査した。上記縁起には、北方に富登岳(現在のブート岳)、前に池原という大湖があり、洞窟は窮まることがない、といった金武の様子、三尊(観音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来)を刻み、宮を建て、権現の正体を崇め奉ったことが記されている。観音寺の境内には鍾乳洞があり、この鍾乳洞が上で述べられている洞窟で、鍾乳洞内に入っていくと、「当山鎮守金武権現」の案内板のある場所がある。その案内板には、「この鍾乳洞内に熊野三所権現を勧請し、金武権現宮を建立しました」と記されている。
福花の海岸は、億首川河口付近に港がある。上記縁起に記されている池原という大湖は、かつて大きな池があったとのことであるが、億首川河口も、大池のような様相を呈していた。八月二十七日・二十八日の両日は金武町の「ゲストハウスイチャリバ」にて宿泊。八月二十九日は、小那覇の海岸、糸蒲寺跡、龍福寺跡、金剛嶺碑、波上護国寺、波上宮の順で見て回る。『琉球国由来記』巻十の琉球国諸寺旧記序に、咸淳年間(一二六五~一二七四)、禅鑑禅師が小那覇津に到着し、その僧は「補陀洛僧」であったことが記されている。英祖王は浦添に「補陀洛山極楽寺」と号する寺を建て、禅鑑禅師に居らしめた。この極楽寺は場所を移して龍福寺に寺号が改められ、その跡が浦添中学校の脇にある。糸蒲寺は、『琉球国由来記』巻十四において、住持は補陀落坊主と記されている。この糸蒲寺跡は糸蒲公園となっている。日秀上人が石碑を立て妖怪を鎮めたと伝えられる金剛嶺碑は経塚の碑として現存する。波上護国寺については、日秀上人が再興したことが伝えられている。八月二十九日は「コンフォートホテル那覇県庁前」にて宿泊。
八月三十日は沖縄県立博物館で、日秀上人が入寺した臨海寺に寄進された銅鐘を確認。その後、沖縄県立図書館で『金武町誌』などの資料を調べた。
今回の調査において、地勢は往時とは異なっているが、実地に辿ることができたのは収穫であった。
三重県度会郡玉城町地域の両墓制および火葬場普及における葬制の変化に関する調査
川又俊則客員研究員
調査日平成二十七年十一月十二日
調査地真宗高田派薬師寺(三重県度会郡玉城町伊倉34)両墓制が残る地域として、玉城町で調査した。真宗高田派三縁寺住職愛洲祐昭師が兼務している薬師寺(玉城町伊倉)で、観察と住職及び檀家へ実態を伺った。寺院敷地内にある詣墓には、近隣に住む檀家十数軒の多くがほぼ毎日墓参している。1.5㎞程離れた同町世古に埋墓がある。その墓地は山全体が墓域となっており、他地域の墓所もある。その一画を薬師寺の檀家の方々が、小さな石柱をそれぞれに立て、埋墓として利用している。二十年ほど前に整備し、現在のような整然とした形に直した。そこへも月に一度以上は行き、供えた樒などを換え、草刈などを含めた墓域の管理を個々でしているという。両墓制の維持に負担も感じるものの、かつては徒歩等での移動も、自動車で行けるようになり、自分たちの代までは維持したい思いがあるという。ただ、次世代の大半は同地に居住しておらず、世代交代でどうなるかが課題とされている。また、愛洲師には、同町内で同様に両墓制を維持している場所として、真宗高田派龍華庵(玉城町上田辺)をご紹介いただいた。住宅地内にある寺院敷地に詣墓があり、墓石を個々で整備し毎日のように墓参する檀家が多い。700m程度離れた場所に埋墓が存在し、石柱ではなく木を目印にしており、そちらも、草刈その他の整備で檀家が訪れるという。同町では昭和六十二年に複数地域にまたがる広域をカバーする火葬場を建設し、以後、火葬が普及した。薬師寺檀家最後の土葬は平成五年頃で、埋葬された人は「焼かれたくない」との遺言していた。だが、それ以降は、同寺でも火葬が専らである。だが、埋葬から埋蔵への変化に伴わず、両墓制を維持している実態を改めて知った。尾鷲市および紀北町紀伊長島地区の墓地を見学し、清掃がなされ供花などの様子から、墓参を熱心に行う地域住民の様子を改めて確認した。同時に同地の幾つかの神社も見学したが、平日にもかかわらず、参拝者が何人もおり、神社・寺院を問わず、同地域の篤信者の存在を確認した。
三重県津市白山町における、両墓制および火葬場普及における葬制の変化に関する調査
川又俊則客員研究員
調査日平成二十七年十一月十九日
調査地天台真盛宗成願寺(三重県津市白山町上ノ村一三六一)
天台真盛宗成願寺住職西山眞澄師に、津市白山町・美里町・芸濃町などの両墓制及び火葬場普及について、うかがった。美里町の寺院出28身の西山師は、美里町や芸濃町などで両墓制の習俗が現在も残っていることを教えていただいた。一方、白山町の同寺院等では現在、この風習はない。ただし白山町自体も広範にわたっており、地域ごとに実態の差異があることもうかがった。同寺院では十五年ほど前に、檀家の要請もあって墓地を整備し、敷地内に霊園を開設したところ、近隣の新興住宅地からの利用者も見られた。火葬場自体は、三十年以上前からあり、火葬が定着していた。むしろ近年においては、葬制の変化より、同地域では、近隣に葬祭場が整った平成年間に入ると自宅葬ではなく、会館葬に変わり、葬送儀礼全体の簡素化・簡略化が進んだという(三重県他地域と同様の傾向)。
ただし、当寺院では、盆行事としては施餓鬼会、初盆の火入れと送りなども従来通り続けている地域であるという。また、六十歳代の役員のもと、継続参加者が二十人、多い時には五十人参加する念仏講も第一土曜日に行うなど、熱心な信奉者もいる。同宗派の中本山という格式ある寺院の檀家として、同宗にもとづく年中行事も参加者が多く継続している。信仰に篤い人びとの実態と、にもかかわらず、葬送儀礼の簡素化傾向はあることを確認した。ただし、同霊園内の個々の墓地にもごく最近参拝したような形跡が見られ、墓参を熱心にすること自体は三重県他地域と同様であることも看取した。
三重県津市芸濃町における、両墓制および火葬場普及における葬制の変化に関する調査
川又俊則客員研究員
調査日平成二十七年十二月十日
調査地真宗高田派法光寺(三重県津市芸濃町萩野五四二)津市芸濃町の真宗高田派法光寺住職橘法紹氏へ、同地域および周辺の両墓制や火葬場普及に伴う、葬制の変化について伺った。津市中心部へ通勤・通学が十分可能な当該地区だが、若い世代の名古屋等への転居などを契機にした檀家数減少の傾向は、少しずつだがみられるとのこと。同寺院では、永代経・報恩講などの年中行事について、住職の意思が檀家に伝わっており、現在も、簡素化しない方向で続けてきている。また、天台真盛宗と真宗高田派の住職がともに地域全体で夏に棚経を実施しており、初盆の家があった場合、その家が含まれる組の同行(檀家)が集まって大念仏を行うなど、葬後儀礼の継続もできているという。旧安濃郡(現津市芸濃町・安濃町)の真宗高田派十七ヵ寺は「増信講」を続けている。近年、橘住職は、兼務寺で「増信講」を実施した。当該地区では、地区ごとの墓地に、簡易型火葬施設がある。かつては一晩かけて、座棺の火葬を続けてきた(住職は幼少期に、焼骨を見に行った経験もある)。一九八一年に施設が整備され、寝棺での火葬となった。さらに、二〇〇一年頃からは葬儀を市内の大型斎場で行うケースも出てきた。二〇〇六年の市町村合併以降、ほとんどが、現津市斎場での火葬へ変わった。それ以降、地区の火葬施設を利用したのは、住職の家族の場合くらいであるとのこと。また、同寺院に墓地はなく両墓制を行っていないものの、津市芸濃町・安濃町には境内や隣接地に墓地がある寺院もあり、亀山市の寺院などを含めて、両墓制が残っている地域もあるという。
日本基督教団久居新生教会における、三重県津市久居地域の火葬場
普及およびキリスト教会の葬儀に関する調査
川又俊則客員研究員
調査日平成二十八年二月十日
調査地日本基督教団久居新生教会
(三重県津市久居新町一〇五七―一)
日本キリスト教団久居新生教会牧師濱田真喜人氏へインタビュー。波瀬・大三・久居という三つの教会が一九八〇年に合併して新しい教会を形成。その後、納骨堂を建てた。波瀬教会では地区墓地の一画に、キリスト者用の墓があり、そこを利用しているが、大三・久居の人びとはその納骨堂を利用。十一月の召天者記念礼拝のときは、教会全体で死者を記念する礼拝をもつが、納骨堂利用者はそれ以外のときも、納骨堂に来て、死者を記念していることをうかがった。また、近年、近隣に津市の大きな火葬場・斎場ができたため、そこを利用するケースが多くなった。教会で葬儀を行う場合は、前夜式を自宅で、葬儀を翌日教会で行う。またすでに同地に長くあるので地域の方々は教会の存在を認知している様子。
濱田氏は三年前から着任したのですでに三つの教会出身者という大きな違いは見られなかったが、高齢会員たちの話を聞くと合併当初はそれぞれの特色が強く、合併による苦労もあったという。現在も家庭集会をそれぞれの地域で行っており、牧師が赴いているが、それより、日曜礼拝で一人で教会に来ることが困難な人を近隣の会員が乗り合わせで来ているが、それが(運転者が超高齢化するなどで)難しくなってくると困るという。キリスト教会の葬儀への対応と、津市南部の状況を理解した。
『上野市史民俗編下巻』(平成十四年:一二九―一三四)で紹介されている両墓制における埋葬地(サンマイ)八箇所(佐那具駅~伊賀上野駅沿)の見学および、墓参等をしている住民への聞き取り調査
川又俊則客員研究員
調査日平成二十八年二月十一日
調査地三重県伊賀市坂之下、東条、西条、土橋、大谷他伊賀市におけるサンマイ(埋墓)および詣墓の見学と墓参者へのインタビュー。『上野市史民俗編』に記載されていた、佐那具駅から伊賀上野駅にかけてのサンマイ各所を訪ね、また、詣墓となっている寺院墓地・地区墓地を『三重県の墓制』という平成十九年に刊行された三重県史民俗資料集での記述と比較し、およそ十年後の実態を確認した。千歳地区では、墓参者にサンマイと詣墓の違いを詳しくうかがえた。サンマイは埋葬後四十九日まで出向くが、その後は、詣墓へ行く。年二度、サンマイおよび市道からサンマイまでの通路の整備(草刈など)を地域住民で行っている。伺ったサンマイには、個々に墓標(柱)が建てられ、それが朽ちるまで置いておく。かつて見られたヤグラはなかった。平成二十七年の三基には靴・傘なども置かれていた。同地では平成五年頃までは土葬だったが、その後、大規模火葬場が市街にできて、そこを利用し火葬へ移行したという。服部地区では大正三年に埋葬地として整備されたことが入り口に記されていたが、かつてはあった墓標等はなかった。一之宮地区では十年前とほぼ同様で、サンマイに墓標のみあった。だいたいは十年前とほぼ同じ様子だったが、服部地区のように若干異なるところも見られ、両墓制は維持されていたが、火葬の浸透による墓上設置物の変化を確認した。
「大原御幸」などの謡曲に現れた、没落の一族についての墓所や地形の踏査
原田香織研究員
期間 平成二十八年二月十九日~二月二十一日
調査地寂光院、三千院、実光院、京都大原野、十輪寺、東山、吉田神社、岩本稲荷神社二月十九日東京を予定通り出発し、京都大原野に向かった。大原野地区は広大な丘陵・山岳地帯で、桓武天皇から陽成天皇、醍醐天皇などの時代において鷹狩などを行った地域で、藤原氏との関係が深く奈良春日社への参詣の不便のために勧請した大原野神社や小塩山などがある。古墳・寺院跡など平安時代から中世にかけての文化的な要地であり、『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』に地名が登場する。
大原野神社・願徳寺・勝持寺・正法寺・小塩・金蔵寺・業平寺と呼ばれる十輪寺・善峯寺の墓所を中心に踏査した。二月二十日一日中、生憎の雨天であったが、京都郊外の大原を踏査した。聖徳太子、伝教大師の時代からの歴史的な場所である。ここも広大な丘陵地である。『平家物語』に登場する不運の皇族である高倉天皇中宮徳子墓・寂光院、また三千院門跡、後鳥羽院・順徳院陵墓、文徳天皇第一皇子である惟喬親王墓等、悲運の皇族たちの眠る地でもある。墓所を踏査し没落隠棲の地であることを確認した。
二月二十一日当日は京都マラソンの日で交通規制が多い。室町文化を代表する東山、吉田神社は中世から近世にかけて日本の神社界において勢力を保持した神社であり、大明神を多く出した。敷地が広く山頂にある大明神の碑と八大竜王の石碑等神仏習合のあとを確認できる墓所のような明神碑の一群がある。また岩本稲荷神社と裏側にある伝在原業平墓標を踏査した。予定通りに帰着した。期間内は二泊とも京都駅徒歩八分のアルモントホテル宿泊。作品で確認した実地の場所は変化があったものの地形などは確認でき有意義な踏査であった。
補陀落渡海僧日秀上人の事績に関する調査
大鹿勝之客員研究員
期間 平成二十八年二月二十六日~二月二十八日
調査地一乗院跡、日秀神社、隼人歴史民俗資料館(鹿児島県霧島市隼人町内二四九六)
平成二十八年二月二十六日より二月二十八日にかけて、東京大学史料編纂所所蔵の『神社調』大隅国の部六、金峯山三光院神照寺の項に記載されている『開山日秀上人行状記』や『三國名勝圖會』巻之四十に記載の『日秀上人傳記』に記されている、日秀上人の事績について、一乗院跡(鹿児島県南さつま市坊津)、日秀神社(霧島市隼人町)を調査した。
二月二十六日、鹿児島に着き、鹿児島県立図書館で一条院跡や日秀神社に関する資料を調べる。二月二十六日と二月二十七日は鹿児島中央駅近辺にあるシルクイン鹿児島にて宿泊。
二月二十七日、鹿児島中央駅のバスターミナルから枕崎行きのバスに乗り、枕崎に着くと、今度は今岳行きのバスに乗り、中坊で下車。一乗院跡に至る道は、坊津歴史資料センター輝津館の前で右折する。坊津はかつて貿易港として栄えた。一乗院跡は、旧坊津学園小学校(平成二十五年に移転)の校内にあり、案内掲示板と仁王像が校内に置かれている。案内掲示板には、仁王像は一条院の山門に安置されていたが、廃仏毀釈によって捨てられ、後に現在地に移された旨示されている。一乗院は薩摩国内の有力寺院であったが、補陀落渡海のはてに琉球の金武(沖縄県国頭郡金武町)に漂着した日秀上人は、沖縄での活動の後薩摩に向かい、一乗院を再興したと伝えられている。一乗院は廃仏毀釈によって廃寺となった。昭和五十六年に行われた発掘調査では、建物の礎石などが検出され、陶磁器などが多数出土した。調査報告は、『坊津町埋蔵文化財発掘調査報告書(1)一条院跡』、一九八二年、鹿児島県川辺郡坊津町教育委員会(当時)によってなされていて、旧校舎の後ろに、一条院跡の敷石遺構が展示されている。また、旧小学校の後ろには、歴代の上人の墓がある一条院墓地があり、五輪搭・無縫搭・宝篋印塔などの様々な石塔が残されている。二月二十八日、鹿児島中央駅から日豊本線で隼人駅下車、日秀上人が再興したと伝えられる大隅八幡宮(現鹿児島神宮)を右手に、鹿児島県道四七三号線を登り「三光院墓碑群」の掲示のあるところで小道を入っていくと、日秀神社がある。日秀神社は、もと三光院といい、日秀上人が建立し、そこで入定した。廃仏毀釈によって破壊されたが、日秀神社として現在残っている。堂内には石塔婆があり、日秀の遺骨が納められているという阿弥陀堂と本堂の間には、日秀上人作といわれる板石に彫られた仏彫刻、また阿弥陀堂の奥には歴代住職の墓碑がある。
その後、隼人歴史民俗資料館にて日秀上人に関する資料や遺品の展示を確認。遺品には、『開山日秀上人行状記』に、渡海中舟底の橛が抜ける時、鮑が穴を塞ぎ、少しも潮水が入ることがなかったと記されている、その鮑の貝殻が展示されているほか、島津義久が日秀上人に贈った笄、日秀上人が使用した硯と眼鏡が展示されている。そして、専門員の方のご厚意により、当館所蔵の『日秀上人行状記』と『日秀上人縁起』(ともに日秀神社蔵という)を閲覧させていただいた。今回の調査では、日秀上人の事蹟を実地に確認することができただけでなく、日秀上人に関する資料も確認でき、収穫を上げることができた。
パネルディスカッション
平成二十八年十一月七日東洋大学白山キャンパス五一〇四教室
発表者
原田香織 研究員
菊地義裕 研究員
研究発表祖霊信仰と供養をつかさどる機構
原田香織研究員
〔発表要旨〕能に描写される供養という事柄について、本来的に供養は親族を中心に年忌として行われるものであるが、能においては「哀傷」というテーマをもつ作品群のなかで全体構造のなかで供養が行われる。室町時代において、戦乱や人身売買などまさに乱世の時代であり、困難な時代であった。能は複式夢幻能形式においては彼岸と此岸とを行き来するために、供養は重要なテーマとして設定されている。また血縁ということについては、恩愛の情をテーマの中心に据えた義理能的なつくり能が一方の系譜としてあり、夫婦間や親子の絆というものを主題として作品として定位している。それは思想的な観点からすれば、親子間の濃密な恩愛の情すなわち仏教的にみれば「煩悩」を描写することにより、そこから翻って「菩提」が得られるという思想によるためであり、その点を能の作品より検討していった。血縁が意識される親子物狂能の系譜には、子の失踪から始まり、親子間の生別、死別によってより強い絆が再認識されるが、逆縁ということで供養はなされる。つまり祖先や祖父母という形で、より高齢な者が順番に冥界に赴くことが価値観としては大切なのであるが、逆縁は悲劇的な劇内容となる。室町時代は武士の時代であることから、能の思想的背景として血統をつなぐ先祖や、墓や、家の意識が作品の底流に確認できるが、祖霊信仰としての作品造形は少ない。それは室町時代が過去や未来よりは、現実の今、このとき、この瞬間を生き抜くことに重要な価値をみたためであり、禅的な価値観もここに還流する。祖先信仰、祖霊信仰が一方の問題であるが、祖先は養子縁組によってももたらされ、「家」の一族という意識のほうが強い。一連の曽我物などはそれらの例となろう。また血統を示すための墓は、この世とあの世をつなぐために特に重要なものであり、また仏舎利信仰から発展していった枯骨思想もあり、輪廻転生思想が一方ではあるものの同じ血筋に生まれ変わるという祖先と子孫の間で転生すると考える例もあり、地域社会と血族が結びつく中で、戦乱の時代に合ったこれらの関係性は複雑といえる。一方中世社会において、権力をもつ家や「名」こそが大切であり、こうした権威性を規範として構築することに政治的な力が注がれた。
その結果、祖霊信仰は仏教行事を行いうる権力者の行為となり、供養は国家的な視点から為されることになる。この点で、室町時代の先祖観が、親子の絆など義理人情的な世界観を離れて、権力者による王法仏法という権威により構築されたことがわかり、これらの権威性と祖霊信仰がすり替わっていったことが確認できる。
研究発表奈良朝における先祖意識の一考察―『日本霊異記』に注目して―
菊地義裕研究員
〔発表要旨〕『日本霊異記』には、奈良朝以前の社会を舞台にした仏教説話が多く収められている。死者ゆかりの報恩譚・蘇生譚もその一つで、それらは死者の側から現世を相対化した説話として整理できる。性格上、個々の説話は、因果応報の理など仏教思想によって枠取られるが、説話の基盤を成しているのは当時の生活である。旅の途次、血縁者に殺害され、野ざらしの髑髏と化した死者の霊が通行人に救われ、その恩に報いることを骨子とする報恩譚(上巻12話、下巻27話)では、十二月晦日、実家で営まれている魂祭りに救済者を誘い、供物を饗して恩に報いることが語られる。魂祭りの対象は家の「諸霊」であり、二話は当時の先祖祭祀を基盤にした話と解される。また閻羅王
が支配する他界(黄泉・地獄)からの蘇生を語る蘇生譚は、上巻に二話(5・30話)、中巻に五話(5・7・16・19・25話)、下巻に八34話(22・23・26・30・35・36・37話)あり、蘇生は「殯」の期間、遺体は火葬されず残存していることを類型とする。なかには火葬されて遺骸が失われ、霊魂が元の身体に戻れない話(中巻25話、下巻36話)もあり、蘇生譚もまた「殯」といった前代以来の喪葬儀礼や古来の霊魂観を基盤にした話となっている。報恩譚・蘇生譚は、在来の霊魂観や先祖祭祀を基盤とし、これに仏教的要素を加味して成立しているところに特色があり、こうした説話の構造に注目すると、仏教思想が先祖祭祀を支えたとは言いがたいことが知られる。
そもそも、蘇生譚の背景を成す閻羅王の冥府信仰は、衆生が生前の業因によって六道に生死を繰り返すという輪廻転生の思想と表裏を成す。この思想に従えば、死者は六道で輪廻を繰り返すのであるから死霊が祭られる必然性はないことになる(加地伸行『沈黙の宗教』筑摩書房)。むしろ先祖意識を根幹で支えたのは、律令制の社会を反映して儒教思想であろう。上巻30話には、閻羅王に召されて他界に赴いた膳広国が地獄の責め苦にあえでいる父に会い、こうなった訳を聞いたことが記される。そこでは、生前、殺生・不正な取り立て・強奪・姦通・親不孝・目上への不敬・不穏当な発言など、たぶんに儒教思想を背景とした社会の道徳的規範を遵守しなかったことが語られ、儒教的善行の実践によって死後の安寧の得られることが示唆される。儒教思想の浸透と深くかかわった『孝経』(古文孝経)「開宗明義章」などが述べるように、父母への孝は立名の思想を介して父母の顕彰、引いては祖先の顕彰に通じており、儒教的善行の履行は家の継承の論理を内在させて、奈良朝の先祖意識と深く結びつくものであったと考えられる。
パネルディスカッション
平成二十七年十一月二十八日東洋大学白山キャンパス五一〇二教室
発表者
大鹿勝之 客員研究員
川又俊則 客員研究員
中里巧 研究員
研究発表日秀上人のみた風景―補陀落、常世、他界観―
大鹿勝之客員研究員
〔発表要旨〕十六世紀に補陀落渡海を試み、沖縄に漂着した日秀上
菊地義裕研究員大鹿勝之客員研究員
人にまつわる記録や伝承は、渡海が行われた後どうなったのかを示す稀有な例である。今回の発表では、漂着したときに日秀上人がみた風景を、補陀落、常世、沖縄の他界観から考察した。『琉球国旧記』巻七の波上山三社の附記、東京大学史料編纂所所蔵の『神社調』に所収されている『開山日秀上人行状記』には、日秀上人が十九歳の時に、人を殺害し、日々懺悔して、菩提の大願を発して高野山に登り、師について修行に精進し、密法の奥旨を得て、両部、金剛界と胎蔵界の源底を極め、補陀落に到らんと欲した旨が記されている。また、『琉球国旧記』巻七の波上山三社の附記には、補陀落渡海せんと欲し、槎に乗り、櫓を用いず、海に浮かんで波に随い、流雲洋上に漂い、天外にまで漂蕩し、ついに琉球国富花津に到ったことが記されている。『開山日秀上人行状記』では、或る時、発願して、娑婆界の塵を去って補陀洛の浄刹に到ろうと欲し、一扁舟を求め、櫓も棹もなく、手に香爐を採って漫々たる海上に浮かび、風波の流蕩に任せ、大洋の頂に到り、舟底の栓が抜ける時、鮑が穴を塞ぎ、少しも潮水入ることがなく、漂蕩は昼夜止まらず、南方に向い流れ、ついに琉球国に着いたことが記されている。『琉球国由来記』巻十一の金峰山補陀落院観音寺縁起には、まず、南瞻部州中山國、金武郡金武村、金峰山三所大権現は、彌陀・藥師・正觀音であり、日秀上人が自ら造ったこと、開基を按ずるに、封尚清聖主の御宇、嘉靖年中、日域比丘日秀上人が三密を修行し、ついに補陀落山に趣こうとして、五点の般若に随い、かの郡中富花津に到ったことが記されている。金武郡金武村は現在の沖縄県国頭郡金武町、富花津とは現在の福花の海岸にあたる。そして、上人は自ら心を安んじて、誠に補陀落山となることを知り、どこに行って此を求めるのか、錫杖を留めて安住しよう、この地霊は幸いであることよ、と歎じ、その風景が描写される。北方には蓬莱山に似た富登嶽(現在のブート岳)があり、衆峰が連なり、前には池原という、かつて存在していた大池がある。洞窟は無窮の深さで、千万里の先に竜宮に通じているが、誰もその根源を知らない。このように風景が描写され、日秀上人がここに阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩を掘って奉り、宮を建て、三尊を熊野権現の正体として崇め祀ったことが記されている。宮とは現在の観音寺にあたるが、観音寺は、福花の海岸から西方に二キロばかり登った所にある。往時、観音寺の北西には大池が広がり、その向こうに富登嶽を望むような景観が実在したといわれる。さて、日秀上人が漂着した時の様子は、『開山日秀上人行状記』では、「顔炎過人」(顔炎は人に過ぐ)と書かれているが、金武の福花に漂着した時は、瀕死の状態であったと伝えられている。また、金武に漂着してから、現地の村人たちに農法を教え、豊作をもたらしたことなどから、神人かみんちゆと崇められていた。神人かみんちゆとは神と村人たちとを仲介する存在者とされている。村人たちにとってみれぱ、日秀上人は海のかなたからやってきた、神人かみんちゆに他ならなかった。そして琉球には、海のかなたに他界があるというニライカナイの信仰がある。以上の日秀上人の漂着と活動についての伝承をみると、日本文徳天皇実録の斉衡三年(八五六)十二月の条にある、大奈母知(大穴牟遅)と少比古奈命(少名毘古那命)が、石像として、常陸国の海岸に再出現した様を述べた一文が浮かんでくる。大奈母知と少比古奈命が、ある人に憑いて、昔この国を造りおわり、東の海へ去っていったが、民を救うためにまた返ってきたというが、東の海は、常世を指している。この一文と、神のニライカナイからの来訪、そして、日秀上人の漂着を重ね合わせてみると、日秀上人は常世とみられるところからやってきたと、考えられてもおかしくはない。そして、補陀落渡海と常世信仰との習合が指摘されているが、はるか彼方の補陀落浄土をめざした補陀落渡海の結果、日秀上人は、はるか彼方から来訪した存在として見られることになったとみることができる。おそらくは、日秀上人も、そのような存在としてみられていたことは認識していたことであろう。そこて、『琉球国由来記』巻十一の金峰山補陀落院観音寺縁起に記されている、日秀上人のみた風景は、渡海の果てにみた風景の感慨と、金武での生き様が反映されているといえよう。
研究発表葬制の変化と両墓制の現在―三重県の事例から―
川又俊則客員研究員
〔発表要旨〕遺体の埋葬地と墓参など祭祀行為を行う石塔の空間的隔たりを両墓制と呼び、近畿地方中心に各地で事例報告がある。これに対し、埋葬地に石塔を建てて祭祀する形態を単墓制、一定期間仏壇に安置し後に本山へ納める浄土真宗では個人で墓地を持たないため無墓制とも表現される。両墓制は、柳田国男およびそれに続く民俗学者たちから、霊魂を重視する認識が強調され、遺体と霊魂の分離を前提に解説されてきた。原田敏明はこれに対し、仏教信仰にもとづき「家」の形成を前提に祖先祭祀思想の展開を説明した。そして、厳密な概念規定なきまま一九七〇年代以降、研究自体は停滞化した。だが近年、これらを乗り越えようとする議論も起こりつつある。岩田重則は「処理形態・処理方法・二次的装置」という新しい分類を提唱し、前田俊一郎は著名な事例の場所を再調査し、葬制の複線化(単墓制と両墓制の両立)という新たな発見を示した。
両墓制は、二〇〇七年の報告書で、伊賀市・志摩市・合併した津市など三重県各地に残っていることが示された。報告者は玉城町で二事例の両墓制を調査した。居住地から1~2㎞ほど離れた場所に埋墓(埋葬地)があり、そちらは一ヵ月に一度程度、管理整備を兼ねて墓参し、日常は自宅近くの寺院内にある詣墓(石塔)へ毎日墓参している檀家がいる。同地では昭和末年に広域火葬場が建設され、それにともない火葬への移行が進んだ。同時に、自宅葬から会館葬へと場所も移動し、葬後儀礼も簡略化して進められている。二〇〇七年の報告では、埋葬地に石塔を建て、そこに火葬後の骨を埋め一元化がなされるところもある。そしてそれらは現在も維持されている、六十~八十歳代の檀家たちは、両墓制を当たり前のこととして受け入れている。ただし、次世代への継承困難さは今まで見てきた年中行事その他と同様である。農村社会学の見地から、過疎農村地域の実態を分析するときに、周辺の地域に在住しつつ過疎地域世帯と関係を持ち続ける「修正拡大集落構造」という見方もあるが、墓の維持についてそれが妥当かどうかはさらなる検討が必要となる。森謙二は、葬送領域の市場化(第一の近代化)から葬送の自由(第二の近代化)への変化を批判的に論ずる。平成年間に入り、三重県でも同様の変化が起こりつつある。そのなかで現在、両墓制が続けられている地区では、いつまでそれを続けることができるのかは、適切な継承者を想定しえない人びとにとって大いなる関心事であろう。
研究発表無垢・子どものこころ・死者のためのとりなしの祈り
中里巧研究員
〔発表要旨〕本発表では、キリスト教正教における死者とつながりうる能力を、イマジネーションとして捉え、イマジネーションと子どものこころとの関連について論じ、認知症患者とのコミュニケーションにおけるイマジネーションの重要性を指摘した。今日までデンマークの哲学者キルケゴールの研究をしてきているが、キルケゴールの研究において大きな問題、自由意志をどのように理解するかという問題に立ち往生していた。キルケゴールは保守的なルター派であり、ルター派は原罪説に基づき自由意志を認めないからである。しかし、キリスト教正教は原罪を認めない立場を取り、自由意志を認めている。そして、キリスト教正教とキルケゴールには、主張が重なるところがある。キリスト教正教には、死者のためのとりなしの祈り、パニヒダがあり、このパニヒダにおいては、生者の死者への祈りのみならず、死者が生者のために祈ると解釈する教父がいる。そして生者と死者が共に祈りあうという側面がキリスト教正教の最近の教理にも見られる。先に触れた、キリスト教正教が原罪を認めないことについて、以下の解釈がなされている。アダムとイブの罪によって人間が損なわれ、自由意志が傷つけられても、自由意志は残っていて、また子孫には責任がない。このような解釈において、子どもを大切にし、天国には、子どものようなこころを持たなくては入れないという。すなわち人間は生まれながらにして神に近いこころを宿していて、すべて汚れてはいないというのである。この子どものこころをエンデ(Michael Ende, 1929-1955)に関連づけてみると、エンデは子どものこころについて何度も言及し、また絵本作家や童話作家も子どものこころを非常に大切にしている。その子どものこころは自己の内なるこころであって、それをイマジネーションと呼ぶことができる。このイマジネーションを想像や空想と訳すと、虚構と受け取られがちだが、虚構ではなくして、ある種のリアリティなのである。児童心理学では遊びにおける「見立て」がいわれているが、子どもは掌を飛行機に見立てるように、目の前にあるものを何かに見立てて、遊ぶことができる。あるものを飛行機と見立てる場合、飛行機の意味を取りだして他のものに意味を吹き込むということを行っているのだが、このことを可能にするイマジネーションは、近代合理性をもってしては説明できないものである。この子どものこころは、認知症患者にも見出すことができる。認知症患者は通常コミュニケーションがきわめて困難であるが、人形など何らかの要素をきっかけにして患者のこころとつながることがある。そのようにして患者の世界が把握できることは、一つの人間理解を実感することである。この実感も子どもの見立てということに重なってくる。
以上述べてきた子どものこころにおけるイマジネーションは、理性を重視する立場からすれば低い位置に置かれ、幼稚なものとして捉えられるが、それはキリスト教正教における死後の世界や神に通じる、世界の内容を豊かにするものであるということができる。
シンポジウム
平成二十七年十二月十二日東洋大学白山キャンパス六三一九教室
十二月十二日にシンポジウムを開催し、研究代表者・研究分担者に
中里巧研究員
よる報告、山舘順氏による講演がなされ、その後、補陀落渡海の出帆地の風景や補陀落として描かれる風景、人口減少の傾向と宗教的行事のかかわり、現在のアニメにおけるイマジネーションのあり方などについて、討論と質疑応答が行われた。
研究報告の概要と講演要旨を以下のとおり示す。
研究報告
理想郷と死の世界―補陀落渡海と常世―
大鹿勝之客員研究員
折口信夫は「彼らの行くてには、いつ迄もいつ迄も未知之国がよこたわつていた。その空想の国を祖たちは常世と言うて居た」(「批が国へ・常世へ異郷意識の起伏」、『古代研究民俗学篇1』、『折口信夫全集』第二巻、中央公論社、一九六五年、七頁)と述べているが、常世は豊穣をもたらす世界であるとともに、死の国としてもとらえられていた。常世の存在位置が東方海上に位置することが論じられる一方、位置や時間を凌駕した場所としても常世は捉えられている。この常世との習合が補陀落渡海に見いだされることが指摘されている。補陀落とはサンスクリット語のポータラカの音写であり、観音菩薩(観自在菩薩)の住処であるが、神野富一は「補陀洛山」の観念について、〔Ⅰ〕南インドの補陀洛山、〔Ⅱ〕「写し」としての補陀洛山、〔Ⅲ〕死後浄土としての補陀洛山、〔Ⅳ〕南海の彼方の補陀洛山という、四つの補陀洛山の類型を抽出し、補陀洛渡海の歴史的変遷について、十一―十六世紀に見られる、観音の理想郷到達を信じて補陀洛に到達しようとした渡海が、十六世紀半ばごろには、海への入水往生(投身)によって霊魂の補陀洛往生を目指した補陀洛渡海が発生したことを指摘しているが(神野富一『補陀洛信仰の研究』、山喜房佛書林、二〇一〇年)、それは決してファナティックなものではなく、目指すべき方向は示されていた。また、なぎさがこの世とあの世との境とみたとき、浜辺で描かれる豊饒の世界でありながらも死者のゆく世界である常世、海彼に描かれながらもその場所を比定し得ない常世は、境界における多義性をあらわにしているということができ、このことは、補陀落渡海の出帆地としての浜辺についてもいうことができる。
先祖を祀る意識と行動の「臨界点」
―三重県でのフィールドワークより―
川又俊則客員研究員
地方の過疎化に伴い、地方消滅の議論、それに対する反論としての地域での取り組み、自然災害などが引き金となる地域消滅への「臨界点」が指摘されるなか、宗教団体の消滅、寺院消滅という事態が議論されるようになった。後継者の問題にかかわる廃寺の報告を受けて、今後十年~二十年で宗教集団が、維持できなくなる「臨界点」に立つ可能性も出てきた。
報告者は、離島で行う集団墓参、伝統行事の変化、高齢者の出家のように第二の人生として宗教者となること、兼務寺院の増加、寺院が行う行事などみられる宗教集団と地域との関わりについて調査を行ってきた。また、他の調査では、地域住民は、自らの住むムラの活性化のため、各地で独特の様々な試み(虫送り、みなと祭り他)をなしていることを把握した。転出者への帰省を促すものあれば、外部から新たな観光者を呼ぶものもある。しかし各地域で人口減少の流れは止まらず、現在、墓参他、先祖祭祀に関する行事がかろうじて維持できても、現在の遂行者たちの後を継ぐ者の存在は、それぞれ曖昧な状況となっている。宗教集団は、現状維持していくための工夫が切実に問われ、それが不可能な「臨界点」を過ぎた場合、「消滅」も現実的な視界にあるだろう。また、非信仰者が七割以上を占める日本社会において、信仰を持つ者はマイノリティである。先祖祭祀自体はこれまで全国各地で継承されてきたが、それが今後永続するような状態ではない。宗教集団の継続ばかりではなく、先祖祭祀そのものも近い将来、「臨界点」を迎えるのだろうか。今後も継続調査を続けたい。
能楽における墓と魂魄観
原田香織研究員
能楽における墓・塚という墓所を示す言葉には、霊魂観とともに、五輪塔の思想があり、下方より地輪、水輪、火輪、風輪、空輪の五部を積み上げ、地・水・火・風・空の五大を表すものとし、この形態を胎蔵界大日如来の三昧耶形(仏・菩薩が一切衆生を救済する誓願を象徴)とする。五大思想は密教の思想、特に空海(「即身成仏儀」)や覚鑁上人(「五輪九字明秘密釈」等)の影響が強く五輪塔の生まれる原理、理論となり、日本独自の五輪形態をなし平安中期頃から作られる。それは霊魂観つまり、心身二元論と輪廻転生思想からなり、魂魄観とも関連する。墓標は供養の対象であり、衆生救済という象徴となっている。
霊魂思想の中にある魂魄という概念は、魂と魄という二つの異なる存在があると考えられ、魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられた。魄は地に残り、生きた記憶が残る。そこで怨念や妄執が残り、修羅道に生きることになる。能はその魄の救済を描くが、そこで描かれる墓はこの世とあの世との境界として存在し、生きている人間を守るべく誓願をなす、衆生救済を示す象徴として考えられた。
『万葉集』を中心とした上代文学における霊魂観と先祖意識
菊地義裕研究員
古代日本では、人は生命の象徴として霊魂を持つと信じられ、霊魂はタマと呼ばれた。タマは人間にも自然物にも内在し、遊離、浮動する一方、憑依するものと見られ、分裂し、増殖するものと考えられた。こうした霊魂の観念にもとづいて、病気や死は霊魂の衰弱や遊離によって引き起こされるものとされ、それが補われれば元に戻ると考えられた。また健康な体でも、あらたに霊魂が取り込まれればさらに活性化するものと見られていた。
この霊魂観が古代の葬制に見られる。古代の喪葬は一般に「殯」と「葬」(ハフリ)(埋葬)とに分けられ、殯(モガリ・アラキ)は埋葬に先立って遺骸を喪屋に仮安置しておくことである。「殯」は本来、復活・蘇生を願う期間であったが、「大化の薄葬令」(『日本書紀』大化二年(六四六)三月二十二日条)において、殯が禁止され、このときにはすでに殯が形骸化しつつあり、殯の形骸化によってもたらされるのは、殯における復活の観念の衰退と古代における「葬り」の意識の拡大である。そして、墓所に死者と生者との連帯空間としての性格を見ることができる。奈良朝の氏族の先祖意識について、大伴家持の『万葉集』巻十八の天平勝宝元年(七四九)五月の「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌」や、巻二十に天平勝宝八年(七五六)六月の「族を喩す歌」に注目してみると、ともに武門の家柄にかかわって「祖の名」(先祖伝来の職務)がうたわれ、祖名の継承がうたわれる。この奈良朝の先祖意識を支えるものについて、仏教説話集である『日本霊異記』に注目すると、報恩譚や蘇生譚からは十二月晦日の魂祭り(先祖祭祀)や殯の習俗が民俗慣行として窺われ、そうした習俗を基盤に仏教思想を加味して『日本霊異記』の説話は成り立っていると考えられる。そして、社会の秩序、家とのかかわりは儒教思想において看取される。儒教的善行の履修は、父母への孝、引いては祖先の継承、家の継承に通じるものであり、奈良朝の先祖意識と深く結びつくものであったと考えられる。
キリスト教正教の死生観と無垢ないしは子どものこころ
中里巧研究員
キリスト教正教の、死者のためのとりなしの祈りには死者への祈りとともに、死者の生者への祈りがあり、生者と死者とのつながりを見ることができるが、キリスト教正教の人間観は、人間はマインドとハートに分けられ、知恵はハートにあるものとされる。ドイツの作家ミヒャエル・エンデは、作品には生命が宿るものと考え、その生命を読み解くのは子どものこころと考えた。子どもは、何らかのもの(要素)を飛行機などに見立てて、遊ぶことができる。それは虚構として見なされるものではなく、何らかのリアリティがあると考えられる。そのような子どものこころのはらたきをエンデはファンタジーエン(Fantasien)あるいはファンタジー(Famtasie)と呼んでいるが、報告者はイマジネーションと呼んでいる。この子どものこころのはたらきは、老いに見ることができる。認知症患者に対しては通常コミュニケーションが困難であるが、何らかのきっかけで患者の世界にかかわることができる。例えば、岡野雄一の漫画『ペコロスの母に会いに行く』(西日本新聞社)は、認知症の母と息子の物語だが、息子が帽子を取り、形姿を露わにすると母親が息子と認識することが描かれている。そこでは、息子の形姿の特徴が母親と息子をつなぐきっかけになっている。すなわち、認知症の患者はこころが壊れているのではなく、また虚構の世界を生きているのでもなく、患者にとってのリアリティの世界に生きているのであり、何らかのきっかけを通じてそのリアリティにかかわり、理解することができる。また認知症というのは患者だけにみられるものでなく、誰しもが直面している、現代社会におけるかかわりの希薄さにも認知症の特徴を見ることができる。そこで、自己と他者との閉塞状況を破る大きな要素として、老いということに注目するべきではないか。そして、知性を狭義の合理的知性に限定することから、広義の、感性や情緒と複合的にはたらく複合的知性に気づいて、単なる意味ではなく、感動や感銘に連なるような存在価値の意義に着目した、学問や社会を形成することが今後の展望になると思われる。
講演
江戸東京近郊における先祖観の変遷
山舘順氏(サレジオ工業高等専門学校准教授)
〔講演要旨〕本講演では文政六年(一八二三)武州東中野村(現八王子市東中野)の八歳の小童小谷田勝五郎が、突然自分の前世が程久保村(現日野市程久保)の藤蔵だと語り出し、江戸で評判の世間話となったいわゆる「ほどくぼ小僧」の説話について、説話の形成とその評判の広がっていく様子を追い、この世間話を取り巻く社会史的な状況を概観した。
世界でも類のない具体的に自分の前世を語った説話を巡り当時の名だたる文人大名だった池田冠山、平田篤胤等が述べた言説は、やがて民俗学者柳田国男の「先祖の話」にも引用され、日本人の代表的な他界観へとつながっていき既に明治二十年代に小泉八雲によって英訳紹介された。
本講演では従来の勝五郎研究においては取り上げられることの無かった説話の舞台、南多摩地域の近世後期社会と民俗を具体的に紹介し、程久保村周辺が十四世紀の板碑が立地する中世以来の地方霊場としての性格を持つ地域であった事、丘陵尾根に昭和四十年代まで他界との境界を示す松樹が存在した事、勝五郎がしばしば訪れた金剛山高幡不動尊裏の丘陵が愛宕山と称され周辺の村落から祖霊鎮留地とみなされていた事などを紹介、説話の成立の背景として重要である事を指摘した。
その上でこの世間話を育んだ地元の民俗宗教的な性格と前後を含む同時代の現地社会の状況とがこの説話を広げていく原動力になったことを指摘した。さらにこうした現地の民俗宗教的な土地柄がその後どのような変化を迎えたのかを追った。高度成長期における急激な住宅開発と人口増加が尾根において上記松樹の伐採を引き起こしたこと。また地元の古刹である高幡不動尊に対する関心が、宅地分譲の時代には一時低くなり、祖霊鎮留地という性格がほぼ忘却されたこと、それでも宅地内の小公園に「おっさん松公園」の名で微かな表徴を留めている事を述べた。
さらに低成長期となり、少子高齢化が進行すると改めて地元の文化、歴史への関心がよみがえり、現在地元日野市による委託事業となって「ほどくぼ小僧探求調査団」が結成され、郷土資料館を拠点として様々な啓蒙活動を行っている事をまとめとし、二十一世紀現在における先祖観の復活と現状を紹介した。
特に東日本震災ののちバブル期までは関心の外だった先祖観がよみがえり、しかしそれは従来の伝統的なものと異なる同時代性をはらむものであり、また郊外住宅地の核家族が高齢化の中徐々に解体しつつある現状で、一種あるべき家族像の参考事例として江戸東京近郊の農民家族と彼らの持っていた先祖観が見直されている状況を指摘して結びとした。