世界の諸地域における仏教の哲学的社会学的研究
世界の諸地域における仏教の哲学的社会学的研究
本研究は東洋大学附置研究所の所長が研究代表者となって実施する「井上円了記念研究助成・大型研究特別支援助成」による研究プロジェクトである。
東洋大学の前身は「哲学館」であり、学祖、井上円了による「諸学の基礎は哲学にあり」という理念は、今日も大学のバックボーンとなっている。学祖以来、仏教研究は東洋大学の研究活動を代表するものの一つであったが、その特徴は宗門立の大学とは異なり、完全に客観的な立場でその思想を探求してきたところにある。東洋学研究所は、こうした東洋大学の建学の精神と伝統を現代に生かして、更にそれを発展させるために設立された研究所であり、今回、この存在意義を発揮すべく、本プロジェクトを発案した。
仏教は普遍宗教であるがために、それを生み出したインド文化圏を超えて世界に広まっていった。そして、世界の各地に受け入れられ、社会に大きな影響を与えるとともに、仏教自体もその社会の影響を受けて変化していった。その結果、現在、世界各地で「仏教」が存続し、場合によって非常に強い影響力を持ち続けているが、その思想や社会との関係等において非常に多くの相違を認めることができる。本研究の第一の目的は、各地域ごとにその変化の過程を社会との関係のもとに明らかにし、また、現在、仏教が社会においていかなる機能を果たしているかを明らかにすることであり、それらを相互に比較検討する
ことで、各地域の社会の特性を明らかにすることである。
本研究プロジェクトは、「仏教」をキーワードとして、それを受け入れた諸地域において、仏教と社会の間にいかなる相互関係が生じ、現在、それがいかなる状態にあるかを探求することで、各地域の社会や文化の特性と各地域間の社会的文化的相違を明らかにしようとする試みであるが、このような研究は、これまでに行われたことがなく、それ自体、極めて高い学術的意義を持つものと言える。
この研究によって、「仏教」という鏡に照射される形で、それを受け入れた各地域の社会的・文化的な相違が明確になるものと期待される。また、現在を研究対象とすることで、仏教が伝統を踏まえた上で、今後いかなる展開をなし得るかを明らかにすることができると期待される。また、この研究によって、世界の各地において仏教を受け入れつつ独自の文化を育んだ過程が明らかになれば、グローバリゼーションの進む今日の世界において、異文化を取り入れつつ新たな文化を創造するためにはいかなることが必要なのかを考えるうえで示唆に富む提言をなし得るであろうし、この研究を通して、海外の研究者と親密な交流を持ち、相互の社会的相違を理解しあうことで、現在、喫緊の課題となっているアジアの諸国間の相互理解と国際交流の道が開けるとともに、仏教を介した友好関係の樹立の可能性も見出せるのではないかと期待している。
世界の全域と過去と現在の全体を視野に入れた仏教研究プロジェクトはこれまでになかったものである。仏教を通じた国際交流という点でも、日本と中国の仏教研究者の交流は「日中仏学会議」として従来から行われており、また、日本・中国・韓国の仏教研究者の交流は後述の研究所プロジェクト「仏教思想に見る日本・中国・韓国の共通性と差異」が関わっている「日本・韓国・中国国際仏教学術大会」があるが、東アジアに限られ、しかも過去の歴史研究が主であるのに対して、本研究プロジェクトは、仏教の広まった全域と現代までも対象とするという点で前例がなく、今後の研究の方向性を示す独創的なものと言える。
本プロジェクトの構成メンバーは以下のとおりである。
研究代表者 役割分担
伊吹敦 研究所長研究総括、中国思想史における禅宗成立の
意義
研究分担者 役割分担
渡辺章悟 研究員 大乗仏教の成立と仏典翻訳の意義
山口しのぶ研究員 ネパール・インドネシアの仏教儀礼とその
意味
原田香織 研究員 日本文化と仏教
菊地章太 研究員仏教と中国思想
岩井昌悟 研究員 初期仏教・上座部仏教と社会
高橋典史 研究員 日本仏教の海外布教
水谷香奈 研究員 浄土思想の東アジア的展開
橘川智昭 客員研究員韓国仏教の特質
佐藤厚 客員研究員東アジアの近代化と仏教
研究計画・方法
本研究は、以下の三つの研究ユニットを置く。
第1ユニット:南アジア地域を対象に近世以前において仏教が社会
に与えた影響を中心に研究する。
構成員:
伊吹敦(分担テーマ:中国思想史における禅宗成立の意義)
原田香織(分担テーマ:日本文化と仏教)
菊地章太(分担テーマ:仏教と中国思想)
橘川智昭(分担テーマ:韓国仏教の特質)
林香奈(分担テーマ:中国・日本の浄土思想)
第2ユニット:東アジア地域を対象に近世以前において仏教が社会
に与えた影響を中心に研究する。
構成員:
渡辺章悟(分担テーマ:大乗仏教の成立と仏典翻訳の意義)
山口しのぶ(分担テーマ:ネパール・インドネシアの仏教儀礼と
その意味)
岩井昌悟(分担テーマ:初期仏教・上座部仏教と社会)
第3ユニット:仏教が近代化の中で直面した問題や現代社会におけ
る仏教の役割を中心に研究する。
構成員:
高橋典史(分担テーマ:欧米における仏教の受容)
佐藤厚 (分担テーマ:東アジアの近代化と仏教)
三つの研究ユニットは、それぞれに独自の研究領域をもちつつ、相
互に関連する部分を有しており、相互に情報交換を行いつつ研究を行
う必要がある。そこで、毎年、三つの研究ユニットを横断する形で、
以下のような共通の研究重点項目を設けて研究を推進し、相互の交流
を図る。
平成二十七年度:
世界の各地域において仏教は社会にいかなる影響を与えたか?
平成二十八年度:
世界の各地域において仏教はいかなる変化を蒙ったか?
各ユニットでは、それぞれに文献資料に基づいて研究を行うだけでなく、実際に研究対象とする地域を実際に訪れて文献資料の収集や当地の研究者・僧侶等との交流を通じた情報の収集を行い、ユニットごとの研究会や公開シンポジウムにおける討論、情報の共有等を通じて研究の進展を図ってゆくとともに、各研究者は各ユニットの枠を超えて研究に参与する。
平成二十七年度の研究については、まず四月二十九日に打ち合わせ会を開催して、研究者の研究の確認を行った後、研究の方向性について討議した。現地調査では、九月に菊地章太氏を奈良に派遣したのを初め、三月には山口しのぶ氏をネパールに派遣する。また、学会活動では、七月には渡辺章悟氏を筑波大学で開催された仏教思想学会に、九月には、水谷香奈氏を高野山大学で開催された印度学仏教学会にそれぞれ派遣した。
次に、講演会・シンポジウムでは、七月二十五日にイタリアのカ・フォスカリ大学のアルド・トリーニ氏をお招きして「ヨーロッパ人から見た道元禅師の『正法眼蔵』」をテーマに講演会、ならびにトリーニ氏と郡山女子大の何燕生氏との討論会を開催した。次いで九月二十六日には、京都大学人文科学研究所教授の船山徹氏による「思想史のための文献学―『梵網経』の研究史と今後の展望」をテーマとする講演会を開催して好評を博した。そして、十一月二十一日、フランスの極東学院教授のフレデリック・ジラール氏による禅と能楽に関する講演会、十二月十二日に、佐藤厚客員研究員がコーディネーターを務め、韓国・東国大学校教授の金永晋氏、青山学院大学教授の陳継東氏をお招きして、「東アジアの近代化と仏教」をテーマとしたシンポジウムを開催、一月二十三日に台湾の中央研究院の廖肇亨氏を講演者に招いての近世中国の浄土詩に関する講演会を開催した。
以下に、平成二十八年二月までの研究調査・学会活動の報告、講演会・シンポジウムの模様の報告を行う。
研究調査
神戸市における道教関連施設の見学と資料収集、および奈良県下の仏教寺院の仏像と荘厳に見られる道教的要素の検証
菊地章太研究員
期間平成二十七年九月十六日~九月十八日
調査地神戸華僑歴史博物館、當麻寺、長谷寺、室生寺、大野寺、法隆寺、中宮寺、新薬師寺、神戸関帝廟
九月十六日(水)十時二十五分スカイマーク183便にて茨城空港出発。神戸空港より新神戸ポートアイランド線にて三宮駅下車。十二時二十分神戸華僑歴史博物館(神戸市中央区海岸通三―一―一)見学(当初見学予定の神戸日中友好協会に連絡したところ、神戸華僑歴史博物館に資料展示があるとの紹介を得たので予定変更)。三宮駅より阪神本線にて近鉄奈良駅下車。トヨタレンタリース近鉄奈良駅前店(奈良市西御門町十一―四)にてSタイプ乗用車乗車。十五時五十分當麻寺(奈良県葛城市當麻一二六三)見学ならびに写真撮影(当初は十七日の見学予定であったが十六日に変更)。井谷屋旅館(奈良県桜井市初瀬八二八)宿泊。
九月十七日(木)八時三十分長谷寺(奈良県桜井市初瀬七三一―一)見学・写真撮影。十一時室生寺(奈良県宇陀市室生七八)見学・写真撮影。十二時五十分大野寺(奈良県宇陀市大野一六八〇)見学・写真撮影。昼食後、十四時四十分法隆寺(奈良県斑鳩町岡本一八七三)ならびに中宮寺(奈良県斑鳩町法隆寺北一―一―二)見学・写真撮影(当初見学予定の法起寺は時間的に無理であったため、見学を断念し代わりに中宮寺を見学)。トヨタレンタリース近鉄奈良駅前店にて乗用車返却後、飛鳥荘(奈良市高畑町一一一三―一)宿泊。
九月十八日(金)八時五十分新薬師寺(奈良市高畑町一三五二)見学・写真撮影。近鉄奈良駅より阪神本線にて三宮駅下車。昼食後、十三時四十分関帝廟(神戸市中央区中山手通七丁目三―二)見学・写真撮影。三宮駅より新神戸ポートアイランド線にて神戸空港下車。スカイマーク一八六便にて十八時三十分茨城空港帰還。
学会活動
仏教思想学会第三十一回学術大会への参加、佐久間秀範・筑波大学
教授と研究会を開催
渡辺章悟研究員
期間平成二十七年七月十一日~七月十二日
場所筑波大学
学会は午後一時から開会し、七名全員の研究発表を聞いた。特に私が指導する大学院生越後屋正行君の「初期仏教の仏の言葉(buddha-vacana)について」の発表が最初にあった。学位論文の一部の発表であり、私が何度か指導したこともあり、比較的良くまとまっていた。東京大学の下田正弘教授からは厳しい質問もあった。
そのほか、インド大乗仏教、仏教論理学、中国仏教、日本仏教と多彩な発表が行われた。この学会に相応しく、それぞれ非常に白熱した質疑応答があり、参加者の関心を引いていた。次いで、会員総会があり、私は議長としてのつとめを果たした。夕方からは懇親会に参加し、参加者と学術的な交流をすることが出来た。研究学園駅前のホテルベストランドにて宿泊。
翌日は筑波大学の佐久間秀範教授と教授の研究室にて、大乗経典、特に般若経に見られる唯識的な要素についての研究会を催し、非常に有意義な成果を得ることが出来た。昼頃に筑波大学を出発し、夕方自宅に帰宅した。
学会活動
日本印度学仏教学会第六十六回学術大会への参加
水谷香奈研究員
期間平成二十七年九月十八日~九月二十日
場所高野山大学
平成二十七年度の日本印度学仏教学会に発表者として参加するため、九月十八日から二十日の日程で高野山を訪問した。十八日は日本仏教の一大聖地である高野山の諸堂や貴重な仏像・資料などを調査するため、金堂や霊宝館などを訪問した。十九日は午前中から高野山大学で行われた学会に出席し、浄土や唯識などに関する最新の研究成果にふれたほか、午後には「道倫集撰『瑜伽論記』と基撰『瑜伽論略纂』」との題で発表、質疑応答を行った。学会終了後に行われた総会では、今年度の日本印度学仏教学会賞の受賞者に選ばれ、授賞式に参列した。夜には懇親会に参加し、国内外の研究者と交流した。
十八日と十九日は高野山宿坊金剛三昧院に宿泊。
二十日は午前中に学会に出席し、また調査の一環として奥の院を訪問し、弘法大師信仰の現状を調査した。午後には帰宅の途に着き、予定どおりの行程で東京に到着した。
公開講演会
平成二十七年七月二十五日
東洋大学白山キャンパス125記念ホール
平成二十七年七月二十五日に、「ヨーロッパ人から見た道元禅師の『正法眼蔵』」というテーマで公開講演会を開催した。イタリアのヴェネチア・カ・フォスカリ大学准教授アルド・トリーニ氏による講演と、講演の後、伊吹所長の司会のもと、トリーニ氏と郡山女子大学短期大学部教授の何燕生氏との対談が行われ、道元のネガティヴなアプローチの由来、道元の表現上のオリジナリティ、『正法眼蔵』を外国語に翻訳するときの困難さなどについての討論の他、フロアからの質問に対するトリーニ氏と何氏の応答において、活発な議論が交わされた。
ネガティブなアプローチで悟りを教える―道元禅師の言語ストラテジーを中心に
アルド・トリーニ氏
(ヴェネチア・カ・フォスカリ大学准教授)
〔講演要旨〕仏教文献の翻訳の難しさは語彙問題(たとえば「悟り」、「心」、「因縁」、「極楽」、「思量」、などの訳語)にとどまるわけではなく、その思想そのものにまで及ぶ。その一つとして、教えの叙述の「ネガティーブ/ポシティーブ」(negative / affirmative・negative / positive)な構造(discourse)を挙げることができる。
西洋のキリスト教伝道では、どちらかというと、ポシティーブな教えの叙述の構造が多いのに対して、東洋の仏教では、ネガティーブなアプローチがよく使われる。例えば、「無心」、「無我」、「不思量」、「非思量」、「無仏性」などはその代表的なものである。また、西洋言語では、否定形が基本的に一つしかないので、ネガティーブ/ポシティーブのコントラストがはっきりしているが、日本語では否定詞が多数あり、そのコントラストのニュアンスがいろいろな形を取って現れるため、西洋言語では訳しにくい。
「悟り」は、西洋の思想にはない観念である。キリスト教の目的は、死後に天国に昇ることほかならない。哲学の専門用語の中で「悟り」に一番近い概念は、恐らく、英語の「ABSOLUTE」つまり、「絶対」であろう。「ABSOLUTE」の語源はラテン語の「ABSOLUTUS」で、その意味は「自由、結束・絆なし、自立」である。「AB」は「から」、「SOLUTUS」「結束・拘束・葛藤から自由になった」、つまり、英語の「UNCONDITIONED」(無条件・無制限)と同樣、「制限から自由になった」「縄の結び目が解かれて、自由になった」という意味である。「煩悩の結び目が解かれて、自由になった」状態ということで、仏教の「無執着」、「解脱」などにかなり近い。
西洋でも、特に哲学では、「無条件の真理」が言葉で表現できないので、「apophaticstrategy」に助けを求めることがある。「Apophatic」は「ネガティーブ」という意味で、「apophatic strategy」は、ネガティーブな言語ストラテジーという意味である。「否定」、つまり、「~ではない」という形で真理に近づこうとする方法である。
道元禅師(一二〇〇―一二五三)の『正法眼蔵』でも、ネガティーブなアプローチがしばしば用いられている。例えば、「無の無」が語られ、その少し後で、ありえそうもない「無々の無」が出てくる。更に「諸無の無」が現れて、最後に「無有」について語る。アルド・トリーニ氏と何燕生氏との対談肯定・否定を超えるだけでは、絶対の次元に達するには十分ではない。一方的な否定だけでは不十分で、論理の余地を完全に残さないように、「否定の否定」、「諸否定の否定」にまで行かなければならないのである。
公開講演会
平成二十七年九月二十六日東洋大学白山キャンパス第三会議室
思想史のための文献学─『梵網経』の研究史と今後の展望
船山徹氏
(京都大学人文科学研究所教授)
〔講演要旨〕仏典の中には、長い歴史を通じて一字一句変化なく伝承された経典がある一方で、数世紀の間に次々と書き換えられ、多くの異本を生み出した経典もある。インドでは『法華経』がその好例であるが、中国仏教では偽経(インド仏典の漢訳というふれこみの中国偽作経典)にこの現象が見られる場合がある。とくに東アジアの大乗戒律思想を確立した『梵網経』は異なる種類の写本や版本がかなり多く、原形と異本の歴史や伝承系統から検討すべき本経の価値は大きい。
現代の梵網経研究は望月信亨によって開かれ(一九一七)、その最終案は『仏教経典成立史論』(一九四六)に示され、内外の賛同を得て今に至る。これら先行研究の解明した事柄は多いが、いまだ未解決の事項もある。特に本経の原形(偽作当時の形態)と後の書きかえの状況解明は甚だ不十分である。
従来の校訂法は二種に大別される。第一は、現存諸本から最良本を「底本」として選び、それに校勘(異読情報)を付す、漢字文化圏の伝統的手法である。第二は、現存諸本より想定される原形を本文に示し、諸本の異読を注記する西洋式の方法であり、「批判校訂本(クリティカル・エディション)」と呼ばれる。
これら二種には各々長所があるが同時に無視できない欠点もある。とりわけ、二種いずれの場合も、原形と後代の変化の二つを読者にも分かり易い形で明瞭に示すことは、想像以上に困難である。
『梵網経』の写本や木版本は、重要なものに限っても十五種類を越える。それぞれの文言の歴史的推移変遷を明示しながら原形を提示しようとすると、従来型校本二種の校訂方法いずれにも欠点があるため、二種それぞれの長所を生かしつつ、更に別な形で校本を作成する必要がある。
たとえば梵網経校訂本を縦書きの冊子体で出版する場合、左右見開き二頁ごとに、(一)原形と推定される文言とその校勘記、(二)原形に近いが乖離が始まる時期の写本、(三)現在よく知られている版本の先駆けとなる写本、(四)現在よく知られている版本、(五)関連の宗派で採用された版本など、五種類前後を示し、文言の相違箇所を傍線で示す方法が新たな校本の一例である。これによって、原形成立後の変化を「誤記」や「誤り」として否定するのではなく、原形と後代の更なる発展を等しい価値のものとして示すことができる点に、従来型校本にはない、新たな意義を見出すこともできる。また、木版大蔵経以前の写本を用いることにより、版本問題の更に奥にある思想史解明の一助として、これまでの研究成果を一部修正し、戒律思想史を刷新する可能性も考えられる。
公開講演会
平成二十七年十一月二十1日
東洋大学白山キャンパス六二〇三教室
金春禅竹筆の『六輪一露之記』に於ける志玉注の華厳思想
フレデリック・ジラール氏
(フランス極東学院教授)
〔講演要旨〕『六輪一露之記』は、世阿弥(一三六三―一四四三)の著作群と同様、能の理論書として能の世界で特に重んじられている重要な書物である。一般に金春禅竹(一四〇五―一四七〇?)の著作とされているが、禅竹が考えた「六輪一露」の構想に華厳宗の東大寺戒壇院住職、志玉が注釈を施したものである。志玉が、その講義録である『五教章見聞抄』の中で取り上げている、明恵の厳密系統と考えられる心源上人の和歌(山田昭全説)は、白露、紅葉というテーマを扱っており、志玉の『華厳五教章』の解釈に基づいていることが分かる。
「一露」に関する和歌と志玉の解釈は、華厳学の「一心」、「真如縁起」の華厳思想が中心となっているが、一方、「六輪」については、真言密教の六大との関連、中世神道の六根清浄の仏教思想との関連、剣等の三種の神器との関連について精査する必要がある。中でも華厳と禅の祖師である宗密(七八〇―八四一)の思想の要素も取り入れている可能性が大きい。先ず思い浮かぶのは、宗密が禅宗各派の宗風の相違を説明する際に取り上げている摩尼珠の譬え、それから、『禅源諸詮集都序』において、完璧な本覚を現している空の円相から出発して本覚の菩提を証した完全なる空の円相で終わる「十輪」のことである。
禅竹は、これに基づいた上で、当時よく使われた六の数字に改めたのではないかと思われる。これには、法眼(八八五―九五八)が『人天眼目』の「華厳六相義」で、円相の中に物事の基礎構造を総・異・同・別・成・壊という六つの構成原理を利用して説明している図の影響も考えられる。また、同じく東大寺戒壇院住職であった凝然大徳が、声明理論書において、仏教音楽は法界縁起の思想を表現していると論じている点についても、その影響が考えられる。志玉も、法界縁起、真如縁起、一心縁起という華厳や『大乗起信論』の説を提示しているからである。
禅宗の影響では、『六輪一露之記』の跋文を書き、『狂雲集』の一休宗純(一三九四―一四八一)とも親しかった南江宗阮の「六牛図」、或は宋学の「五位説」とかいったスキームも頭にあったと考えられる。趙州(七七八―八九七)の露刃剣の無と、禅竹の剣と露の思想の一致から、その影響を考えるべきであろう。世阿弥と禅竹のいう「向去却来」は禅宗の言葉で、世間から出世間への行くことと、出世間から世間へと戻ることを意味している。それは、悟った人は涅槃に入らないで生死の世界に戻ってくること、生死・煩悩の世界以外に悟りの世界はないという思想を表現したもので、能、特に禅竹の能に、同じ考えがあることを示している。能芸術を理論化するに当たって、禅竹は世俗的なものを悟りの世界と直接的に結びつけるために苦悩した。アメノウズメの舞いを根本的なエネルギーを促す力と理解したのもそれである。
志玉の注釈書では、華厳宗特有の「十」という数字よりも「六」という数字の方が頻繁に出てくる。何々の六義、六種、六門等はその典型である。このような関連を踏まえつつ、志玉の『五教章見聞抄』の注釈と、『六輪一露之記』の志玉注を中心に検討すると、禅竹の思想には、歌人の藤原定家系統の歌論、春日神社系統等の神道観、浄土教、密教からの幅広い影響が考えられるが、「六輪一露」の構想は、主として戒壇院に伝わった華厳の伝統を参照して禅竹が考えたものと見られ、志玉の注釈と禅竹の能楽論との関わりは大きいと結論できる。
西洋の「トラジェデイ」(悲劇)には、筋道に逆転や方向の転換が必要とされている。禅竹のいう「一水」は全てのものの源であるが、その「一水」は穢れたものだと考えられている。これはかなり特殊な考え方であるが、その理由は、人間が始めから完璧であれば、悲劇が起こるはずがない、悲劇が起こるのは人間に欠点があることによるという思想に基づいて考え出したのではないかと思う。
能が音楽や舞いを用いることを仏教思想によって説明することは難い。そのため志玉は、興福寺の僧侶、輪懐(九五〇―一〇二五) の一〇一六年のお告げを引用したし、禅竹は、様々な思想要素を併用することで理由づけを考えた。華厳の「法界縁起」「真如随縁」の説は、煩悩の世界と仏陀の世界を繫いで、悟りの経験を示す一心によって転換できた。また、密教の「感性の錬金術」は、煩悩から菩提への転換フレデリック・ジラール氏を説いているし、禅宗の「逆行三昧」は、根本的な意識の転換を説明している。こうしたアプローチは、能が持つ際立った特色、即ち、トラジェデイに必要とされる筋道の逆転もなく、ただ意識の転換のみによって演劇として成り立っているという特色を理解する上で非常に有効である。今後、こうした方向で研究を進めてゆく必要があると考えている。
公開講演会
平成二十八年一月二十三日
東洋大学白山キャンパス八六〇一教室
近世中国における禅者の浄土詩について
廖肇亨氏(台湾・中央研究院中国文哲研究所副所長)
〔講演要旨〕仏唐代中葉に浄土教が一時隆盛し、浄土に関する著作が続々と生まれ、唐代の詩人のなかにも仏教を貴ぶものが多く出たが、浄土詩はほとんど作られなかった。浄土詩が流行するのは宋代に至り詩禅の流れが生まれてからである。当時、慈受懐深(一〇七七―一一三二)や明教契嵩(一〇〇七―一〇七二)らが浄土詩を作っている。元代の中峰明本は当時を代表する禅僧で、その影響は東アジア全体にまで及んだ。彼の「懐浄土詩」は百首にも及ぶ長篇で、それ以降百首(百八、百十、百二十)の長篇浄土詩を作る者は代々後を絶たなかった。浄土詩をものした元代の禅僧は非常に多く、有名な作者に笑隠大訢(一二八四―一三四四)や石屋清珙(一二七二―一三五二)がいるが、やはり中峰明本の名声には遠く及ばない。中峰明本の浄土詩はその後今日にいたるまで模範として貴ばれている。明初の禅門では最も高い名声を得たのが楚石梵琦であった。楚石梵琦は浄業に勤しみ、「西斎浄土詩」七十七首を作り、明代禅僧浄土詩の模範となった。中峰明本と楚石梵琦を禅林浄土詩史上の双璧といっても過言ではない。明末の仏教復興期の浄土詩には西方浄土と唯心浄土が入り交じっている。万暦三高僧のほか、顓愚観衡(一五七九―一六四六)、無異元来、永覚元賢(一五七八―一六五七)、および雲南の徹庸周理もみな浄土詩を作成している。清代以後、個別に作られた短章の浄土詩(玉琳通琇など)は枚挙に暇がないが、長篇は少なく、玉琳通琇門下の天然居士編「懐浄土詩」と省庵大師(一六八五―一七三四)の「勧修浄土詩」
のみが有名である。作品の数および内容・性質の多元性において、明廖肇亨氏 清期の禅者の浄土詩はみな従来のものをはるかに上回っており、かくして禅僧の浄土詩はその黄金時代を迎えることになった。
近世禅者の浄土詩は、禅と浄土の歴史的交流を反映したものであり、また仏教詩学の重要なテーマでもある。六朝から近現代に至るまで、浄土詩を作る者が数多く出た。浄土詩が発展する流れから見て、宋代は重要な転換期であり、明清は流行期であると言える。歴史上、長篇の浄土詩が次々と作られ、特に重要な作者として、中峰明本・楚石梵琦、および―やや知名度は下がるが―徹庸周理がいた。中峰明本の浄土詩は自性の弥陀というイメージを大量に用いており、それは実際のところ、唯心浄土の変形にほかならない。その作風はその後清代中葉に至るまで、禅者の浄土詩の基調になったと言えると思う。また清代中葉に省庵大師が浄土詩を作成した後も、依前として心の作用が強調されたが、その気風は自性の弥陀を高らかに歌う従来のものとは違っていた。浄土詩と山居詩、さらには山水詩には、情趣と典故の二点において重なる部分もあるが、主題や目的・読者の諸点で大きく異なっている。近世の禅者により作成された浄土詩を見ることにより、近世中国仏教の思想展開と文芸発展の理解につながる様々な啓発が得られるものと考える。
シンポジウム「東アジアの近代化と仏教」
平成二十八年十二月十二日
東洋大学白山キャンパス六一〇二教室
平成二十七年十二月十二日に東洋大学白山キャンパス六号館一階六一〇二号教室にて、公開シンポジウム「東アジアの近代化と仏教―知識人は仏教をいかに再生させようとしたか」を開催した。このシンポジウムでは、青山学院大学教授の陳継東氏が「章炳麟と明治仏教学」、韓国・東国大学校教授の金永晋氏が「張明基の韓国仏教論と全体主義」という題で発表を行ったほか、専修大学特任教授の佐藤厚客員研究員が「井上円了における仏教の近代化」という発表を行い、この講演の後、発表者がシンポジストとなり討論を行った。講演および討論では佐藤客員研究員が司会を務めた。まず陳継東氏の「章炳麟と明治仏教学」では、章炳麟が日本の明治期の仏教者や仏教学者と親密な交流をしている点を挙げ、章炳麟が日本仏教の他力的な浄土信仰と戒律の退廃を批判する一方、明治期の仏教学を積極的に吸収しようとしていた姿勢があることを述べた。また後に章炳麟は宗教の役割を最高の理想境と世間道徳とを実現させることにあると考え、革命道徳を提唱したが、この革命理論は、仏教の学説を用いて構築され、明治期の仏教学を媒介として形成されたものであるとしている。次に金永晋氏の「張明基の韓国仏教論と全体主義」では、日本の東洋大学に留学した張明基は一九四〇年に韓国仏教を全体主義と規定しており、これには時代思潮である全体主義と韓国仏教との性格を一致させ、韓国仏教の特殊性を貫こうとした意図がみられるとしている。後に張明基は、終戦後仏教全体主義から総和仏教論を主張するようになるが、この総和仏教論において、「和」を統一という意味で多用している。このような概念が韓国で使用されたことは稀であり、日本的な脈絡であるとしている。そして佐藤厚氏の「井上円了における仏教の近代化」では、近代日本を代表する哲学者、仏教者、教育者の井上円了がどのようにして仏教を再生しようと考えたのか思想面と実践面という二つの方面から述べている。まず思想面においては、伝統仏教思想を西洋哲学によって「再解釈」することにより仏教を再生させようとしたとし、実践面においては、伝統寺院を「道徳教育機関」とすることにより仏教を再生しようとしたと結論を提示している。以上各氏の講演の後、「東アジア諸国の近代化の中で仏教や知識人が果たした役割をいかに評価するか」と「仏教を中心とする知識人たちの国際的な相互影響関係をいかに評価するか」という二点を中心に討論が行われた。その中で、民族・国家・戦争・ナショナリズムという近代思潮と知識人との関係や、仏教者が仏教・宗教・哲学・道徳という人間の普遍的な問題をどのように結合していったのかという議論もなされ、活発な討論が行われた。以下に各氏の講演要旨を掲載する。
章炳麟と明治仏教学
陳継東氏
(青山学院大学教授)
〔講演要旨〕章炳麟(一八六八―一九三六)は、変法自強運動の失敗によって日本に亡命した。それ以降、彼の思想が飛躍的に展開したことが明らかになっているが、彼の思想の核心的な部分、つまりその仏教理解と明治期の仏教学との関係についてはいまだ十分に解明されていない。仏教の学説を用いて構築された彼の革命理論は、まさに明治仏教学を媒介として次第に形成されたものであり、彼の思想と日本仏教の関係は、章炳麟の思想形成を考える上で無視できない問題である。
章炳麟は、日本に亡命していた五年間に日本の僧侶と親密な交流を持ち、切磋琢磨して仏教思想を学んだが、最後まで日本仏教の世俗化した形態を認めることができなかった。日本仏教に対する批判とは裏腹に、章炳麟は日本の仏教研究(即ち「仏教学」)を積極的に吸収した。例えば、章炳麟は「原型観念」を用いて阿頼耶識を哲学的に説明したが、既に指摘されているように、これは姉崎正治の影響である。また、章炳麟は、日本で問題になっていた「大乗非仏説」や『大乘起信論』の真偽問題を最初に論じた中国人でもあった。こうして得られた仏教思想は、やがて彼の革命理論の不可欠の構成要素にもなったのである。では、考証学に立脚した伝統的な学問を基盤としていた章炳麟が仏教に関心を持つようになった理由は、どこにあったのであろうか。
先ず、道徳への関心である。彼においては、宗教は道徳の根源であった。宗教の役割は最高の理想境と世間道徳とを実現させるところにあると考え、「道徳の衰亡こそ、まことに亡国滅種の根本なのだ」として、革命道徳を提唱した。革命道徳とは、一人一人が戦死の覚悟を決め、前の人が倒れれば後の人が奮起して続くことである。このような革命道徳を増進する宗教は、功利主義者たちの説でもなければ、儒教やキリスト教でもなく、最も徹底した平等主義に立つ仏教であると主張した。道徳重視は革命に携わった彼の実践からの要求にほかならない。そして、ここから彼が日本仏教を批判し続けた理由を窺うことができる。
次に、哲学への関心である。章炳麟は、仏教、特に法相唯識は、哲学性という点で時代に適合しており、高い理想を掲げるものであるという。彼によれば、唯識学はカントやショーペンハウエルの哲学に通じるのみならず、それを補完するものでもある。彼の考えには、伝統に立脚しつつ普遍的な哲学の構築を目指すという、グローバル化に抗しつつも、グローバル化に参入しようとする主体性を看て取ることができる。
最後に、歴史的研究の自覚である。近代が仏教研究にもたらした重大な変革として歴史的研究という方法論の導入と確立を挙げることができる。これこそまさに明治期の仏教学が成し遂げた最も偉大な成果であった。章炳麟はそれを積極的に取り入れ、同じ土俵に立って、日本の仏教学者を相手に議論を行った。これによって章炳麟は、近代中国における仏教の歴史的研究の先駆者となったのである。
趙明基の韓国仏教論と全体主義
金永晋氏
(韓国・東国大学校教授)
〔講演要旨〕趙明基(一九〇五―一九八八)は植民地時代に日本の東洋大学に留学した韓国の仏教エリートである。彼は解放後、東国大学校教授として、そして総長として教育界と学界において大きく活躍した。彼は主に韓国仏教史の研究に集中し、数編の韓国仏教史関連の著作を刊行した。中でも一九六二年に刊行した『新羅仏教の理念と歴史』が最も有名であるが、彼はここで韓国仏教に対する自身の見解として「総和仏教」の概念を提示した。これは自身の韓国仏教論である。そして、この本の第四章「仏教と総和性」は総和仏教論の思想的な出発であるといえる。
ところでこれは植民地時代に趙明基が発表した「朝鮮仏教と全体主義」を、タイトルだけ変えたものである。彼は「全体主義」や「正体性」という表現を「総和性」と変えただけで、内容はほとんどそのままである。趙明基はここから出発して一九六〇年代と一九七〇年代に「総和仏教」、「統和仏教」などの概念により韓国仏教のアイデンティティの議論に直接、参与した。趙明基は韓国仏教のアイデンティティは通仏教、あるいは総和仏教であるという学説を作り出すのに大きな役割を果たした。こうした趙明基の例からわかるように、植民地時代に生産された知識は解放以後にも継承され、全体主義ではなく民主主義の一環として作動した。これは解放以後の韓国内の植民地知識の再生と連続であると言えるであろう。
井上円了における仏教の近代化
佐藤厚客員研究員
(専修大学特任教授)
〔発表要旨〕井上円了(一八五八―一九一九、以下、円了と略称)は、近代日本を代表する哲学者、仏教者、教育者である。円了の大学卒業後の活動は一八八七年(明治二〇)(二十九歳)から一九一九年(大正八)(六十一歳)までの約三十年間であり、この間、日本は、大日本帝国憲法の発布(明治二二)、教育勅語の発布(明治二三)、日清戦争(明治二七―八)、日露戦争(明治三七―八)を経過しながら西洋列強に肩をならべるようになり、第一次世界大戦(大正三―六)後に世界五大国の一つに数えられるようになった。本発表では、円了の活動を時代背景の中に置きつつ、思想と実践の両面から考えてみた。
思想面的には、円了の「仏教学」とは伝統仏教思想を哲学によって「再解釈」したものであったと言える。これは、仏教の存在意義自体が問われていた明治二十年代においては、きわめて意義があったものである。しかし、仏教界の変動が収まり、原典研究を中心とする仏教学研究が盛んになるにつれ、円了の方法は意味を失い、時代遅れになっていった。
しかし、ここには大きな問題が含まれているように思われる。「再金永晋氏解釈」とは価値づけである。円了は、仏教を哲学との対比を示すことによりその価値を説明した。現在の「仏教学」は、基本的には、それ自体の価値を説明しなくともよい状況にあるが、本当にこれでよいのか。このことを考える上で、円了の仕事は大きな示唆を与えるものだと言える。
一方、実践面では、当初、円了は伝統仏教僧侶を仏教護持の担い手と考えていなかったが、徐々にそれを認め、彼らの社会化を促すようになった。それは彼らが日本の道徳教育の教会の役割を果たすことを期待したからであり、更には、国家による仏教の保護も主張するようになった。こうした円了の態度は、明治三十年代に、国家の保護干渉を否定し仏教の自由討究を掲げて誕生した仏教改革のグループ・新仏教運動とは立場を異にするものである。
この理由は、円了の場合、国家と仏教の関係は、欧米における国家と教会との関係をモデルとしたものであったという点に求めることができる。円了は世界視察を通して、西洋世界の教育、宗教のあり方に衝撃を受け、教育においては日本主義を唱え、さらに国家と宗教との関係については国家による宗教の保護を主張するようになった。このように欧米をモデルにして日本の問題を考えたところに円了の特徴があると同時に、その限界もあったと考えられる。最後に、こうした円了の思想、行動はどのように評価すべきであろうか。思うに、円了は思想であれ実践であれ、それが「どのようなものであるか」に止まらず、「どうあるべきか」を絶えず構想し、そのために「どうすべきか」を考えていたと思われる。この意味から円了は、日本の近代における「仏教学者」というよりは「仏教者」であったと考えられる。