日本、モンゴル、インド、中国に おける共生的精神文化の諸相
日本、モンゴル、インド、中国に おける共生的精神文化の諸相
3.11 東日本大震災以後、所謂フクシマの問題は深刻化の一途を辿り、放射能と核への懸念は独り日本国内にとどまらず、世界から注目される事態に立ち到った。ヒロシマ・ナガサキからフクシマへという課題は、今や既にグローバルな、地球的命題としての意味を帯びている。
このような事態を前にして、科学技術的立場や政治・経済的見地からのみではなく、事態の究明を根本的、本質的に見直し、考えるべく、精神性・思想性からのアプローチのしかたが、もはや急務のように思われる。物質文明・文化の限界性を打開するためには、精神文化、思想面からのアプローチを措いて有効的な視点は無いと言っても過言ではない。とり分け、ヒロシマ・ナガサキからフクシマへという歴史的な過程を経る間に、ビキニ環礁、チェルノブイリ、スリーマイルズ島の事実も挟んで、現在の事態が生じている以上、この地球的な課題を真に本質的、根本的に捉え直すためには、コトバと物の見方、考え方との相互連関を抜きにして、もはや進展は望めないであろう。
一つの事柄、事態をどのように眺め把握するかは、偏にコトバのチカラに左右されることは言を要さない。或る視点や方向、思想・精神が定められ、構築されるかは、どのようなコトバ、どの種類のコトバで見、考えようとしたかが大きな鍵となる。フクシマの歴史的な命題を、これ迄の各分野の成果を十分に踏まえながら、さらに新しい視点や方向、思想・精神を生み出すべき、創造的なコトバで捉え直すことの可能性を探りたい。
フクシマの問題は、深くはそれぞれの人々の生きる意味や人生上の価値観と密接に関わる事柄である。我々人間にとって、或は人間として、人類的な規模での真の幸福とは一体何か、その事を、目先の応急処置的な視点や利害・損得を主にした現象的な解決策を超えて、真摯に向き合う以外に道はないように思われる。
欧米的な先進諸国の先端技術や科学思想、政治・経済基盤に学びながら、これを吸収消化することを急務として来た明治以来の長い近代化の歴史を経て、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの問題は在る。ここでアジア近隣諸国の人々の英知にも学びながら、いかに共生的な生存意識が可能かを模索していくことが、今こそ重要に思われる。その共生的な精神文化の諸相を確認し、そこから人間本来の心の豊かさを招来する糸口を究明すること。これからの私たちの生き方や死生観、世界観に架橋していくようなコトバ・視点の発掘こそが、その究明糸口の鍵になると考えられる。
上記を趣旨として本研究を立ち上げるにいたった。構成メンバーは日本近代文学、日本近世文学、医療倫理、インド哲学、中国文学、社会学、多文化共生論、モンゴルにおける文学受容論、生命倫理・環境倫理の各分野である。それぞれの専門分野に立脚した、新たなるコトバとその視点の発掘、そしてそこから成る精神性や思想性の諸相を相互で点検、確認する作業を通して、フクシマの命題をグローバルな観点から創造的に捉え直し、提言することを目的とする。
本研究は、日本近代文学、日本近世文学、医療倫理、インド哲学、中国文学、社会学、多文化共生論、モンゴルにおける文学受容論、生命倫理・環境倫理の各分野における研究者が、フクシマの問題に対峙しながら、それぞれの分野における精神性や思想性の発掘作業と点検作業を行い、そこから生き方や死生観・世界観に架橋していくコトバ・観念を発掘し、そのコトバ・観念を研究者間で相互に照らし合わせ、また研究発表会における参会者のレビュー、公開講演会における専門家の見解と意見を照らし合わせ、さらにシンポジウムにおける共同討議から、各分野において見いだされたコトバ・観念を総合的にまとめ、提言として公にする。
本研究のメンバーは以下のとおりである。
研究代表者 役割分担
山崎甲一 研究員 日本近現代文学
研究分担者 役割分担
谷地快一 研究員 日本近世文学
長島 隆 研究員 医療倫理・災害医療におけるトリアージ(生命の選択)論
沼田一郎 研究員 インド哲学
坂井多穂子 研究員 中国文学・宋詩研究
井上治代 研究員 社会学・死者祭祀
大鹿勝之 客員研究員 生命倫理・環境倫理
胡 樹(ホショウ)客員研究員 多文化共生
額爾敦巴特爾(エルドンバートル)客員研究員 モンゴルにおける文化受容論
本研究初年度の平成二十六年度は、四月三十日に研究打ち合わせ会を開催し、各研究者の研究の方向を確認し、各研究分担者の課題における、フクシマ問題を受けての死生観・世界観に架橋していくコトバ・観念の発掘というテーマについて討議した。本年度の各研究者の研究状況を以下に示す。
山崎甲一は、広島の原爆に関する調査、福島の震災および原子力発電所事故の影響についての調査、青森の原子力関連施設に関する調査を通じて、文学者の向き合う態度を研究した。
谷地快一は、俳句・芭蕉塚を通じての近世の死生観の把握に取組み、その研究について、平成二十七年一月十日に開催された研究発表会で発表を行い、また、東京都墨田区及び江東区の芭蕉塚の調査を行った。
長島隆は災害医療における「トリアージ」論と森鷗外の役割に関して、文京区の鷗外記念館で調査を行うとともに、鷗外のドイツ時代の日記などのチェックを行い、鷗外のドイツ時代の医学研究という側面からの年表を作成した。
沼田一郎は、インド古典法ダルマの対象範囲、行動様式の規定に着目し、ダルマスートラ、『マヌ法典』にみられる林住生活・遍歴生活・死後の世界を精査している。
坂井多穂子は、南宋の詩人、楊萬里の作品を分析し、作品に描かれる自然観の把握を進めた。
井上治代は、宮城県での震災後の墓地の復興状況や「仮埋葬」についての人々の意識を分析するために、被災後の年数の経過に伴う意識の変化などを中心に検討を進めている。
大鹿勝之は、被災地における自己決定の問題を検討しつつ、共生のあり方、助けあいのあり方を考察するために、共感(sympathy)について検討し、論文を執筆した。
胡樹は、伝統的宗教文化の独自的意義を探求するため、シャマニズムと巫教の文献や書籍、論文などの資料を収集し、その両者の宗教的特性の異同について考察している。
エルドンバートルは、異文化と伝統文化の相互関係をどう認識するべきかという問題について、「満州国」時代における東蒙古の文化教育の実相について、資料調査、データ分析などを行い、研究を進めた。八月一日より八月二十日にかけて、日本で調査を行い、また、日本の研究者のレビューを受け、八月六日に東洋学研究所で開催された研究発表会で「日本と“満州国”東蒙古―文化教育の空間」という研究発表を行った。
また、本プロジェクトにおいて、一月十日に公開講演会を開催し(上記研究発表会との同日開催)、尚絅学院大学教授の田村嘉勝氏、尚絅学院大学エクステンションセンター職員の方々を講演者に招き、東日本大震災の被災地に対する取り組みについての講演がなされた。
以下に、研究調査、研究発表会、公開講演会の概要を報告する。
広島の被爆と共生的精神文化に関する調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成二十六年七月二十九日~七月三十一日
調査地 ふくやま文学館(広島県福山市)、広島平和記念資料館、
七月二十九日(火)
新幹線東京駅出発九時十分~福山着十二時四十八分
ふくやま文学館にて井伏鱒二を中心とした関連作家の展示を観る。「黒い雨」関連の資料と文献を入手できた。とり分け、太宰治や大江健三郎との交わり方に学ぶところ大きかった。四時間程展覧し十六時四十八分発の新幹線で広島へ。
七月三十日(水)
終日平和記念館の地階情報資料室(Library)にて原爆と戦争、核についての文献資料を逐一点検し、諸点学ぶ。のち三時間程、平和記念館の展示、東館、本館を丁寧に見学する。
七月三十一日(木)
午前中二時間程平和公園内の原爆関係の諸種記念碑を見る。十三時五十二分広島発の新幹線にて東京着十七時五十三分。
三日間共敗戦時を想起させる炎天であった。
分担課題「モンゴルにおける文化受容論」に基づく、日本における資料収集および研究、研究発表、日本の研究者との交流
エルドンバートル 客員研究員
期間 平成二十六年八月一日~八月二十日
調査地 龍ヶ崎市、東京、千葉(中国内モンゴル自治区呼和浩特市
より来日)
東洋学研究所プロジェクト「日本、モンゴル、インド、中国における共生的精神文化の諸相」の分担課題「モンゴルにおける文化受容論」の研究に当たり、資料収集、研究発表、日本の研究者との交流のため、八月一日、日本へ渡航した。八月二日、研究所プロジェクトの代表者である山崎甲一先生のご自宅を訪ね、分担課題の進み情況などを報告し、指示を仰いだ。八月三日、桶谷秀昭先生のご自宅を訪問し、日本文化・文学、「満州国」の問題などについて先生の意見を仰ぎ、研究について助言を頂いた。八月四日、山崎先生のご案内で、東洋文庫に行き、資料調査の申請を提出し、「満州国」、蒙古に関する歴史資料を閲覧した。七日、八日、引き続き東洋文庫に行き、「満州国」時代に刊行された「蒙古新報」「青旗」など貴重な新聞雑誌を調べ、複写した。八月五日、研究発表の準備をし、八月六日、東洋大学で、平成二十六年度より、山崎甲一研究員を研究代表者とする研究所プロジェクト「日本、モンゴル、インド、中国における共生的精神文化の諸相」の一環として開催された研究発表会にて、「満州国」時代日本の対蒙古政策が蒙古に一体どのような影響を及ぼしたのか、実際にどのような変化をもたらしたのか、その実態を明らかにする目的で、「日本と“満州国〟東蒙古―文化教育の空間」という研究発表を行った。八月十日、竹内清己先生を訪ね、銀座にて北村透谷、島崎藤村の通っていた泰明小学校などを見学し、文学散歩をして、日本近代文学研究の現状について先生の話を伺った。八月十一日、十二日、十三日国家図書館にて研究プロジェクトに関する資料調査を行い、八月十四日、十五日は東洋大学図書館にて資料調査を行った。八月十六日、十七日は、神田古書店を見回り、『実録中国踏査記 上海東亜同文書院 大旅行記録』、『支那及満蒙』、周作人著『日本文化を語る』など二十世紀前期に出版された歴史資料を購入し、入手困難な研究資料を収集した。八月十八日、東洋学研究所に行き、今回の日本滞在期間中の行動について報告し、今後の研究活動などについて指示を仰いだ。
今回の日本への渡航日程は、申請時の日本滞在スケジュール通り運ばれ、収穫は少なくない。八月六日の研究発表においては、参会者の皆様から貴重な質問、意見を頂き、または、日本の研究者の批評を仰いだことは今後の研究に大変役立つと思う。
福島県下の原子力発電所事故の影響と被災地の状況に関する調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成二十六年八月二十一日~八月二十三日
出張先 川内村役場庁舎、飯舘村役場、福島県南相馬市鹿島区およ
び福島県相馬市原町の沿岸地域
八月二十一日:
上野より船引迄、東北新幹線・磐越東線にて向かい、船引駅よりバスで川内村役場着。役場の復興対策課長・秋元氏より、復興状況と今後の対策について詳細な話を伺う。近くの葛尾村役場にも足を伸ばしたが、被害のため三春町に移転。近隣の住民の方に被害状況を伺えた。この日は序に草野心平の天山文庫も併せて見学した。
八月二十二日:
飯舘村役場の除染推進課長中川氏より被害状況と今後の対策について詳細に伺う。飯舘村周辺の状況を歩いて確認する。
八月二十三日:
南相馬市原町の海岸(原町火力発電所近く)の被害状況を歩いて確認する。住民より当時の状況を伺うことができた。今回は帰還困難区域に近い周辺を可能なかぎり、三年半を経過した現在の復興状況と当該地に生活されている住民の方の声を直接目にし耳にすることを調査目的とした。見ると聞くとは大違いの現状を、その一端ながら、見聞できたことの意義は思いの外大きいものがあった。上野着二十時二十六分。
『飆風』第五十二号合評会参加および研究打合せ
坂井多穂子 研究員
期間 平成二十六年八月三十日~九月一日
出張先 荒井健(京都大学名誉教授)邸他
宝塚市で開催される『飆風』第五十二号合評会に参加のため、新幹線で関西に出張した。
八月日、午前より、兵庫県宝塚市の荒井健先生(京都大学名誉教授)宅にて開催され、莫砺鋒著、緑川英樹・大平幸代訳『莫砺鋒詩話』「雪」についての書評を担当した。この書は、南京大学中文系の莫砺鋒教授が中国古典における詩人や作品を批評したものである。
私はその「雪」についての批評や誤訳の指摘をおこなった。
莫教授は宋詩の研究で知られる著名な研究者であり、その著作から得るものは多く、大いに啓発を受けた。
このほかにも、主に周作人について書かれた論文の書評に参加した。
参加者は荒井先生のほかに、東京大学、日本大学、京都大学、大谷大学、追手門学院大学、神戸市外国語大学、大阪市立大学など、数多くの大学の研究者が参加した。
合評会のあと、同市にて開かれた懇親会にて研究交流を深めた。
下北半島の原子力施設と青森の文学に関する調査
山崎 甲一 研究員
期間 平成二十六年九月二日~九月四日
出張先 青森県上北郡六ヶ所村尾駮、青森県下北郡東通村大字小田
野沢字見知川山、むつ科学技術館、青森県近代文学館、石
川啄木記念館
九月二日:
上野駅六時三十八分発はやぶさで七戸十和田駅着九時三十五分。 六ヶ所村原燃PRセンター見学。原燃サイクル施設、環境とエネルギーとの関わり、原子エネルギーの必要性等を展示と職員の説明で学ぶ。
六ヶ所村一帯の風力発電の状況を実地に確認する。 東通原子力発電所PR施設のトントゥビレッジ見学。原子力発電の構造と原子力エネルギーについて学ぶ。
東通村庁舎にて当村と原子力発電所との不可分な現状を職員から説明を受け、関係資料を入手する。
夕方むつ市内着
九月三日:
午前中 むつ科学技術館見学。原子力船むつの原子炉室、原子炉格納容器、制御室等を学ぶ。職員より説明を受け、関係資料を入手する。
午後 青森県近代文学館見学。太宰治、石坂洋次郎他県を代表する作家群の文学と風土、自然との関連から学ぶ。三浦哲郎特別展は圧巻。太宰治に関する貴重な資料も入手できた。
九月四日:
新青森駅八時三十七分発はやぶさで盛岡着九時四十二分。 石川啄木記念館と周辺の見学。啄木のコトバと自然・風土との視点から収穫があった。
盛岡発十四時五十分はやぶさで上野着十六時五十八分。
東京都墨田区および江東区の芭蕉塚の調査
谷地 快一 研究員
期間 平成二十七年二月二十一日・二月二十七日
出張先 二月二十一日 要津寺、長慶寺、臨川寺、大島稲荷神社
二月二十二日 旧安田庭園駒止神社の先、龍眼寺、亀戸天神以下の調査地において芭蕉塚の調査を行った。
二月二十一日
(一)要津寺(墨田区千歳二―一―一六)
「芭蕉翁俤塚」(碑面)が現存。芭蕉の七十回忌、雪中庵三世大島蓼太が建立。「蓼太が夢中に芭蕉の亡母の面影を見て画像を描き、塚に埋めた」という伝承がある。他に「ふる池や蛙飛こむ水の音 はせを」という碑もある。
(二)長慶寺(江東区森下二―二二)
「芭蕉翁桃青居士」(碑面)という墓碑があったが、戦災で焼滅。その跡を撮影し、当時を忍ぶ資料を撮影した。
(三)臨川寺(江東区清澄三―四―六)
この寺は芭蕉参禅の師である仏頂ゆかり。門人支考が宝永七年(一七一〇)三月十二日十七回忌に洛東雙林寺に建立した墨直しの碑を模したものがあったが消滅。いま、昭和三七年の再建碑がある。これと、これに関連する「梅花仏」他、関連の碑を撮影。
(四)大島稲荷神社(江東区大島五―三九―二六)
「女木塚」が現存。これとこれに関わる碑文を撮影。碑面に「秋に添て行はや末ハ小松川 芭蕉翁」とある。其月庵社中建立。はじめ新義真言宗愛宕山勝智院(大島稲荷神社隣。昭和四十一年千葉県佐倉市に移転。荒廃した出張所が現存)にあった芭蕉塚で、第二大島中学校(大島五)に移されたこともあるが、また本来の場所(大島稲荷)に戻されてある。
二月二十二日
(一)旧安田庭園駒止神社の先(墨田区横綱一―一二―一)
「みの虫の音をきゝにこよ草の庵」(碑面)という芭蕉塚がある。これを撮影。享和三年の建立と伝えるが詳細未詳にて、すべては今後の検討課題である。
(二)龍眼寺(江東区亀戸三―三四―二)
「濡て行人もをかしや雨の萩 芭蕉」という芭蕉塚がある。明和五年に幕府御書院番で葛飾派の長谷川馬光門の素丸が建立。これを撮影した。なおこの他に、これと同じ句が門塀の石板にもう一基刻まれている。これは大正十年に老鼠堂永機が筆をとったもの。穂積氏。通称は善之。父六世其角堂鼠肝に俳譜を学び、其角堂七世を嗣承。このプロジェクトは江戸時代の芭蕉塚を対象とするので、直接には調査対象外だが、その師系を尊んで、資料として保存することとした。
(三)亀戸天神(江東区亀戸三―六―一)
撮影対象は「しはらくは花の上なる月夜かな 芭蕉翁」という芭蕉塚。嵐雪・吏登・蓼太、すなわち雪門著名俳人の句を添える。享和二年二月二十五日、雪中庵完来が芭蕉百十回忌を修した際のもの。今後は碑文に見える夜雪庵普成・葎雪庵午心の名を手掛かりに、古人の顕彰と共生の問題を整理することになる。
研究発表会
平成二十六年八月六日 東洋大学キャンパス 五三〇五教室
日本と「満洲国」東蒙古 ―文化教育の空間
エルドンバートル 客員研究員
〔発表要旨〕内モンゴル近代文化教育について検討するとき、「満洲国」統治時代における蒙古人の文化教育を無視してはならないし、当時の蒙古地域に教育が要請されるようになった内因を考える必要がある。「満洲国」統治時代における日本対蒙古の文化教育政策について従来の研究では、植民地政策、奴隷化政策という風な動機論的研究が殆どだが、「満洲国」統治時代、内蒙古に実業的・実学的近代式の新しい教育システムが形成し始め、それが当時の特殊な歴史、日本の対蒙古政策と関係がある。本発表では、日本の対蒙古政策が蒙古に一体どのような影響を及ぼしたのか、実際にどのような変化をもたらしたのか、その実態を明らかにしようと努めた。
先ずは、十九世紀末期から、清朝がヨーロッパ列強の半植民地となり、蒙古地域は列強の利権獲得競争の要地の一つになった歴史的背景を顧み、一九一一年の中国辛亥革命と同時に広がった、外蒙古を中心とする全蒙古の民族の自由を獲得するための運動、清朝統治の打倒、外蒙古の独立宣言、中華民国の袁世凱を初めとする軍閥とロシアの蒙古に対する圧迫などについて論じながら、民族の存亡に関わる危うい時期に、一部の民族心を持つ王家貴族と知識人が蒙古民族全般の生存の危機を意識し、政治的・武力的闘争をすると同時に教育を以て民族を振興する道を摸索し始めた経緯を検討してみた。以上の内容を前提として、「満洲国」建国(一九三二年三月一日)後、蒙古人に対して実施した文化政策を教育、新聞雑誌の面から具体的な考察を行い、分析した。
日本の扶植により「満州国」が建国された後、日本は内蒙古の東部地域の蒙古人に対して他民族と異なる優遇政策を取り、一般教育、高等教育、教師教育、職業教育、実用教育などの分野を作り、ネットワーク的なまとまった教育システムを打ち立て、一九三二年から一九四五年までの間、相次いで各種の学校が作られた。また、日本への留学生派遣も満州国時代の東蒙古教育の一つの特徴であり、日本対蒙古教育システムの一部分になっている。
「満州国」統治時代、東蒙古では『蒙古報』、『蒙古新報』『青旗報』など前例のないほど多くの新聞雑誌が刊行された。
ロシア及び袁世凱を初めとする中華民国、軍閥の圧迫のもとで、日本関東軍の文化政策の条件の下で、東蒙古に前例のない数多くの近代式の新しい学校が作られたこと、多くの新聞雑誌が創刊されたこと自体は、蒙古の文化教育に発展の土台を構築し、多くの蒙古人が閉塞の状態から離れ、世界を知り、自分を知ることに否定できないプラスの影響を与えたことは確かである。
研究は政論ではない。動機には二律背反する場合がある。特に、文化共生共存の理念が重視されている今日、感情的動機論の枠を乗り越え、歴史文化の問題を再認識する必要があるように考えられる。
研究発表会
平成二十七年一月十日 東洋大学白山キャンパス スカイホール
死者と共に生きる ―脇起こし俳諧の可能性―
谷地 快一 研究員
〔発表要旨〕死はまことに閑かである。宗教の話ではないから教義による批判は御免被るが、死の向こう側からこちら側に届くものがない以上、こうした断定も許されてよい。死に関わる動揺のすべては死のこちら側にある。壊れて動かなくなった時計を前にした不安や哀しみは、新しい時計を手に入れることで治癒するわけではない。それはその時計が刻んだ時間を思い起こす、まだ生きている者の側に課された難問なのだ。
平成二十三年(二〇一一)三月十一日の東日本大震災とそれに伴う津波という天災、それに十分な対策が講じられていないために引き起こされた原子力発電所の事故という人災で二万人を超える死者・行方不明者が出た。
もちろん、長い歴史を振りかえれば、大震災の例はめずらしくなく、たとえば壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する元暦二年(一一八五)は、都を中心に大地震が襲い、鴨長明の『方丈記』はその惨状を、山は崩れ、海は傾き、土は裂けて、岩は谷底に転げ落ちたと伝える。兎を追いかけ、小鮒を釣った山川、すなわち山青く水清きわたくしどもの故郷は、実はこうした天変地異が創造する桃源郷ではなかったか。震災で親しい者を失った人々の心の傷が深いのはそのためである。
震災から三年が過ぎ、四年を迎えようとするいま、桃源郷復興の努力は続くが、いかなる復興デザインが描かれても、そこに死者の復活は望めまい。では死者と共に生きるすべをどこに求めるか。正岡子規がその権威を以て排除しようとした連句(俳諧の連歌)の、「脇起こし」にそのひとつの可能性はあるまいか。
連句(俳諧の連歌)とは、和歌の五・七・五の十七音から成る長句と、七・七の十四音から成る短句を交互につなぐ唱和の文芸で、第一句目を発句(立句)、第二句目を脇(脇句)という。その形式のひとつに、古人の句を立句(発句)に迎えて、脇句から唱和するものがあり、この会席を「脇起こし(俳諧)」という。それは死者を招いて慰める、あるいは慰められるという意味で、盆踊りや能(謡曲)に通ずる死者との共生である。そこで、芭蕉供養の歴史をその象徴的な世界と予測し、芭蕉塚の調査を開始した。この度はその序説として、素盞雄神社(東京都荒川区南千住)の「行春塚」を取り上げた。
公開講演会
平成二十七年一月十日 東洋大学白山キャンパス スカイホール 当日は上記研究発表会の後、「三つの〈つ〉のパワー~繋げる・続ける・伝える」と題する公開講演会が開催され、尚絅学院大学教授・尚絅学院大学エクステンションセンター長の田村嘉勝氏、そして同大学エクステンションセンターの庄司則雄・松田久美子・佐々木真理の三氏による講演が行われた。長時間にわたる講演となったが、被災地への取り組みについての貴重な講演を聴くことができ、また会場からの質問や講演者の応答において活発な討論がなされ、きわめて有意義な講演会となった。内容については以下の講演要旨を参照されたい。
三つの〈つ〉のパワー~繋げる・続ける・伝える
田村 嘉勝 氏(尚絅学院大学総合人間科学部子ども学科教授・尚絅学院大学エクステンションセンター長)
〔講演要旨〕「二〇一一・三・一一」という日。それは仙台から灯りが消えた日であり、私が幼少年時代に海のかけらをいっぱい吸って遊んだ気仙沼市小泉海岸(赤崎海岸)からすべての松がなくなった日であり、そして尚絅学院大学から間近に仙台湾を望むことができるようになった日でもある。これだけではない。瞬時にして大地が一変したところはまだまだ多くある。人によっては、これら変貌を、被災地当事者への配慮もなく、恰も自身が体験した如くに自身の言葉で表現している。しかし、その人に選ばれて表現された言葉より、不恰好でもいい体験者の素直な言葉がどれほどあの日の真実を語っていることか。
被災地当事者の苦悩はこの日から始まった。「復興」を掲げて確かに回復の兆しは見えているかもしれない。だが一学生の「復興にゴールはない」との虚飾ない発言が私の脳裡からはいまだに離れない。
尚絅学院大学の学生によるボランティア活動は震災の翌日から始まった。微力であったかもしれない彼らの活動は地元の人たち、そして地元以外の人たちとともに大きな活動へと広がっていった。この時、もちろん電車、バスはなく、自宅から避難場所まで自転車があればいい方で、学生によっては長い距離を毎日徒歩で通いとおしたという。当然、大学も活動に動き出し、本学教職員のみならず本学卒業生、さらには本学エクステンションセンター主催の講座に出席していた人たちによって活動の輪は尚一層大きくなった。そして、時間の経過とともに活動の場は避難場所から仮設住宅へと移り、活動の内容もかわった。これは被災当事者にずっと寄り添い、毎日のように仮設に赴くことによって当事者の心的変化を察したことによる。その察しは当事者の真意から大きく外れることはなく、日々の仮設での活動が相互理解につながっている証となろう。被災された人たちの「元気をもらった」「勇気をもらった」などの発言は近頃「お世話いただいた私たち」は「これから少しでも恩返しをしたい私たち」へとかわってきた。
いつまで続くか予定の立たない活動を、尚絅学院大学はこれからも継続していきつつ、それが被災者へのささやかなかかわりとなればいいと思っている。このことは本学の日々の活動から生まれ、そして育まれた尚絅学院大学のボランティア精神と決して異なることはない。
尚絅学院大学ボランティアステーション
――始まりから現在そして……
庄司 則雄 氏(尚絅学院大学エクステンションセンター課長)
〔講演要旨〕二〇一一年三月十一日午後二時四十六分M9.0の大地震とそれに伴う大津波が東北地方一帯を襲い甚大な被害をもたらし、これまでにない恐怖と混乱そして大きな悲しみを経験することとなった。仙台平野中央に位置する名取市閖上地区も十メートルを越す巨大な津波に襲われ多くの命が奪われ平穏だった生活が失われてしまった。同じ名取市でも山側にある尚絅学院大学は校舎・施設の被害は軽微であったが、被災地にある大学として、震災復興への責任と使命とを自覚し、教職員、学生、本学同窓生、生涯学習講座受講生、地域住民とが一体となって被災された方の支援の活動を続けることになる。
いち早く支援の活動を開始したのは被災した学生たちだった。時間の経過とともに避難所には多くの被災者が収容された。混乱と憔悴の中で弱者を気遣い譲り合い慰め励ます光景がそこ此処にあった。支援の活動が機能し始めると、全国、全世界から救援品や活動の担い手が集まり復旧復興に地域の方たちとともに取組んだ。市内各所で心を癒すコンサートも頻繁に開かれた。被災された方が住む仮設住宅が設置されると、定期的にお伺いし励ましを続けている。励ましの輪は幾重にも重なり広がり繋がりを拡大している。「私たちをひとりにしないでほしい、こんな津波には負けたくない、立ち上がる姿を見守ってほしい」と云う被災者の声で始まった寄り添い励ましのボランティアは今も続いている。新たに加わる新入生らは対応に戸惑いながらも真摯に現実と向き合い、経験と学習を積み重ね逞しく成長を続ける。必要とする支援や繋げるそして伝えるべき事柄をみんなで導き出している。新鮮で新たな企画も仮設自治会メンバーとともに作り上げ実施することで、連帯と信頼がより深まりネットワークが広がる、これらは自信と希望に繋がり復興へ弾みをつける。
仮設住宅は高齢化率が高く支援の在り方も多様さが求められる、新たな支援体制の構築、人材育成、資金調達など時間との競争である。そんな中でボランティア不要や終了を論じる声も大きくなりつつある。支援の原点である「私たちをひとりにしないでほしい、こんな津波には負けたくない、立ち上がる姿を見守ってほしい」被災された方の願いを今こそ再度確認してともに歩み、真の復興へ繋げていきたい。
いのちを守る、災害を防ぐには「備える」ことの大切さを学びました。物も、知恵も、地域との連携も備える。そしてそれを伝え、繋がり、続けることを使命として。
宮城県名取市の仮設住宅でのボランティア活動について
松田久美子 氏(尚絅学院大学エクステンションセンター職員)
〔講演要旨〕二〇一二年の六月に大学内にボランティアステーションが開設し、学生達の活動の幅も広がりました。私はこのボランティアステーションで学生たちと共にボランティアの企画を立て、日々行われている仮設住宅の支援活動スタッフとして実際の現場に携わっています。
地元名取市には仮設住宅が八箇所、雇用促進住宅が一箇所設置されていて、尚絅学院大学ではその内二箇所の仮設住宅に入り継続的支援活動を実施しています。平日の日中に各仮設七回程度のサロンを開いている他、隔月の土日に学生主体のイベントや自治会主体のお祭りに参加し住民の方々とのふれあい寄り添いを大切にしながら活動も行っています。
平日のサロンは映画上映、体操、昔ばなしをきく会など多様で、なかでもカラオケ教室やランチを作り皆で食べる「わいわいランチ」などに人気が集中し住民の方々とのコミュニケーションのためには絶好の場となります。
活動を続けていく中で、このまま同じ内容の活動を行っていてよいのかと葛藤したこともありましたが、住民の方々の「いつも来てくれて私達に寄り添ってくれてありがとう」という言葉で本当に大切なのはサロンの内容ではなく、どれだけ住民の方々の心に寄り添えるかということに気づかされました。
震災から間もなく四年がたちます。尚絅学院大学では被災した方々に日常を取り戻して頂きたい、そして少しでも寄り添っていたいという一心で継続し活動を続けてきましたが、仮設住宅生活が長期化していく中で住民の方々には新たな悩みが浮上してきました。それは先の見えない将来への不安、やっと築き上げた集会所でのコミュニティが復興住宅への移行に伴い崩壊してしまうことへの不安、そうした不安が募るばかりなのです。住民の方々は最近になって三月十一日震災当日の話を語り始めるようになってきましたが、それも震災の事を、津波の恐ろしさを皆に忘れて欲しくないという強い思いからきているようです。
閖上の町はようやく復興の兆しが見えているようですが、住民の方々の心の復興はまだ始まったばかりで今後もずっと続いていく問題です。私達ができることはこれからも仮設に通い続けること、たとえ支援の形が変わったとしても継続していきたい、そして今あるコミュニティが崩壊してしまったとしても新たな地で新しいコミュニティ形成ができるような環境作りのお手伝いができればと、このおもいはいつまでも変わりません。
学生ボランティアチームTASKI(たすき)の活動と ボランティアステーションについて
佐々木真理 氏(尚絅学院大学エクステンションセンター課長補佐)
〔講演要旨〕
【被災地支援活動について】
尚絅学院大学の被災地での支援活動は、三.一一東日本大震災の直後、地元名取市に居住していた学生たちが中心となって自ら被災地に赴き、「名取市災害ボランティアセンター」のスタッフとして活動することから始まった。同年八月にボランティアセンターが閉所した後は、名取市内の仮設住宅のうち、主に二か所(愛島東部・植松入生)での支援へと移行し、現在も継続して活動している。
【支援活動に対する学生の思い】
二〇一一~二〇一二年度は、被災の状況を目の当たりにした学生たちがとにかく何かしたいという思いから、被災者の日常の取り戻しのために、また仮設住宅の皆さんに少しでも笑顔になってもらえるよう、集会所において体操や歌、映画などを楽しみながら交流する場を提供し、餅つきや夏祭りなど、季節ごとにイベントを行ってきた。
二〇一三年度からは集会所だけではなく多くの方々と交流したいと、畑作業や花壇づくりなどの日常作業をとおして、少しの時間でも住民の皆さんと顔を合わせて言葉を交わすことに努めた。二〇一四年度には自治会主催の秋祭に準備から参加するなど、全てを提供するだけではなく住民の皆さんと共に力を合わせて活動したいという学生たちの思いがあった。
【ボランティアステーションの役割】
ボランティアステーションは震災から一年半後の二〇一二年六月に開設し、学生たちのボランティア活動を支える場所となってきた。また、学生と被支援者をつなぐだけではなく、縦横のつながりや居場所を求めている学生たちの道標となる役割も担ってきたように思う。被災直後の活動を牽引してきた学生たちの卒業やリーダー不在の時期など、全てが順調だったとはいえないが、そのたびにスタッフである教職員同士が協力、連携し、あくまでも学生たちの目線に立ってそっと背中を押してきた。学生が持つ「若さ」は多くのことを実現可能にするパワーを持ち、活動をとおして培われた「自分自身を見つめる力」は学生たちの大きな財産となっている。
尚絅学院大学ボランティアステーションは、人と「つなげる」、あきらめず「つづける」、次へと「つたえる」場所であり、私たちスタッフは、「寄り添う」という姿勢を受け継いできた学生たちを誇りに思い、これからも見守り、応援し続けたい。