東アジアにおける仏教の受容と変容―智の解釈をめぐって―
東アジアにおける仏教の受容と変容―智の解釈をめぐって―
本研究は「仏教の受容と変容」に関する研究である。これまで仏教は思想的な研究が中心であった。そして、個々の文化現象としての仏教が取り上げられることがあっても、それが思想と結びつけられて、仏教の大きな流れを形成するという考究はほとんど為されていない。そのために、本研究はその第一段階として、仏教の変容の鍵となる思想や信仰(文化現象)を幾つかの側面から分析し、その仏教の潮流に横たわるものを解明しようとしてきた。
本研究はインドに起源を持つ仏教に関し、中国、朝鮮半島、日本などの東アジア文化圏および中国とも歴史的に関連を持つチベット・モンゴル文化圏が、その思想および文化をどのように受容し、また各地域においてどのように変容したかについて、その状況と特色を考察する。またそこに流れる共通性と各地域における独自性を明らかにすることにより、仏教を起点にする文化変容の特質および仏教の文化史上の機能について考察することが狙いである。
そのために、それぞれの専門の立場から、三年間の研究可能な幾つかのポイントを絞って研究することにしている。まず、初期仏教から大乗が成立するうえで、一体何が問題となったのかを授記や菩薩思想などを経典の成立史の中で解明する。また、それぞれの地域で大きく変容する仏教が、何を中心として変容してきたのかを、重層性のある思想や儀礼、または神仏習合などの様相を呈した固有の仏教などを分析しながら、ポイントを絞りこんであきらかにする。
本研究は以下の三点に注目して研究考察を進めている。
(一)仏教の起源であるインドの仏教思想、文化の研究と、チベット及び、中国、朝鮮半島、日本など東アジア各地域における仏教思想、文化の受容と変容に関する考察
(二)東アジアにおける仏教思想、文化とその背景となる歴史的、社会的状況との関連の考察
(三)東アジア地域全体に共通する仏教思想、文化の特色に関する考察
平成二十五年度は、平成二十四年度の研究分担者で、「インド・チベット仏教の交渉と展開」という研究分担を担当していた計良龍成客員研究員が、本務校の学務等により研究継続が困難なことから、平成二十五年度よりバイカル客員研究員が新たに加わり、モンゴル仏教の受容と変遷についての研究を行うこととなった。
研究代表者 役割分担
渡辺章悟 研究員 インド大乗仏教の形成と変容
研究分担者 役割分担
竹村牧男 研究員 日本仏教の形成と変容
山口しのぶ 研究員 インド・チベット密教の形成と変容
岩井昌悟 研究員 初期仏教の受容と変化
林 香奈 奨励研究員 中国仏教の形成と変容
橘川智昭 客員研究員 朝鮮仏教の形成と変容
バイカル 客員研究員 モンゴルの仏教の受容と変容
本研究の最終年度となる平成二十五年度は、東アジアに共通してあらわれる仏教の受容と変容の特色について、各自の研究を進めながら、研究結果を検証し、メンバー各自の研究をまとめた。
中国仏教領域を担当する、韓国の金剛大学校仏教文化研究所に所属する林香奈奨励研究員は、平成二十五年八月に訪日し、八月二十九日に開催された研究発表会で成果発表とディスカッションを行った。なお当日は、本研究プロジェクトに関連する内容の研究発表として、オーダム院生研究員が研究発表を行っている。
バイカル客員研究員は、モンゴル仏教の受容と変遷の研究として、中国・内モンゴル自治区の多倫県とアルジア・リンポチェのシャビー(活仏に所属する庶民)に関するオボー(モンゴルの祭りにおいて建てられる円錐形の建造物)について調査を行った。その成果について、十二月二十一日の研究発表例会において「モンゴルオボー信仰に於ける仏教の影響―アジャ・ゲゲンの十三オボーを実例として」と題する研究発表を行っている(研究発表例会の項参照)。
橘川智昭客員研究員は、平成二十六年一月二十五日に韓国の東国大学校で開かれたシンポジウム「円測思想の再検討」に参加し、研究発表を行った。本シンポジウムは、唐代仏教(唯識)の円測(六一三―六九八)の生誕千四百年を記念して開かれ、主催者である東国大学校仏教学術院より橘川客員研究員に発表依頼があった。
また、プロジェクトのメンバーが、島根県松江市で開催された日本印度学仏教学会第六十四回学術大会に参加し、研究発表を行った。そこで、東アジア全体に共通する仏教の特色を明らかにし、底辺に流れる仏教の中心思想と、多様化の状況を考察した。そして、研究成果として報告書を刊行した。
以下に、研究調査、学会活動報告・研究発表会の模様を報告する。
慈恩寺で行われる濫觴会と林家舞楽(一切経会)の調査
渡辺 章悟 研究員
期間 平成二十五年五月四日~五月六日
調査地 慈恩寺(山形県寒河江市大字慈恩寺地籍三十一番地)
五月四日(土)早朝に高崎を出発し、大宮経由で山形へ、左沢線で乗り換えて寒河江に下車し、慈恩寺に到着したのは午後四時頃であった。
早々に連絡してあった慈恩宗本山慈恩寺の役員である管慶舜師に面会し、慈恩寺の案内をしていただいた。本日から、翌日までは慈恩寺の行事が続くため、本来は秘仏の公開などはしておらず、対応していただけないはずであったが、幸いにも時間の都合をつけていただき、おおよその説明を受けることができた。
この日の夜八時から濫觴会(らんじょうえ)が開催され、年に一度だけ本尊の廚子に安置される彌勒佛の塵を住職が祓い祈念する。その間、山門の楽屋から笙などによる音楽が奉ぜられ、併せて約二十名程の僧侶が法相宗を中心とする法要を行った。深夜の境内に、読経と音楽が響きわたる様子は、整然とした儀礼ではなかったが厳粛なものであった。本堂内の撮影は禁じられているため、資料としては残せなかったが、読誦された祈願文などは、奈良興福寺の系統を受けた法相系から天台、真言の密教及び時宗や神道の様々な神祇が含まれ、まれに見る混淆した形式であった。
翌日五日(日)は慈恩寺の「一切経会」とそれに続く林家の舞楽(八番)が行われた。
慈恩寺は天平十八年(一、二〇〇年前)、勅令によって婆羅門僧正の開基と伝承され、この日は本山三ヵ院(最上院、宝蔵院、華蔵院)と十七坊の僧が本堂に集まり、聖武・鳥羽・後白河帝の勅願所としての仏事で、国家豊楽・国家安穏の祈願が行なわれた。
次いで慈恩寺舞楽が奉納される。楽の音を合図に三カ院の住職が出仕し、本堂にて弥勒法座を厳修し、舞台上では声明を唱えた。引き続き、慈恩寺一山衆と林家が慈恩寺舞楽八番の舞を披露した。この舞楽は国指定重要無形民俗文化財に指定されていて、大勢の観光客で賑わっていた。慈恩寺の寺領は、江戸時代には近隣十八か村にまたがり、寛文五年(一六六五)には幕府から御朱印高二千八百十二石三斗余という東北の寺社中の最高の俸禄を与えられていた。
しかし、明治維新後になって御朱印が停止され、年々逓減録が支給されたが、それも明治十四年には打ち切られ、一山は窮乏の渕に沈み、帰農する坊が続出した。現在は薬師三尊などの多くの重要文化財を有する聖地として新たに生まれかわりつつあるが、それまでの激動の時代を経て、現在は僧侶の多くは有髪で儀礼も厳格とは言えない気楽な面が見られ、地元に密着した宗教文化の伝統が色濃いものであった。かつての大寺院も檀家寺ではないため、運営も厳しく僧侶として生活をする困難さがうかがわれた。
正藍旗におけるアルジア・リンポチェのシャビーたちが信仰しているオボー信仰の行事、即ちオボー祭に対する研究調査
バイカル客員研究員
期間 平成二十五年六月十六日~六月二十日
調査地 中国・内モンゴル自治区(シリンゴル盟正藍旗)
一、概要
中国内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗には、アルジア・リンボチェの土地があり、シャビ(属民、庶民〉もいる。約七百人のシャビは、バヤンジホラン・ガチャー、ジェロンゴル・ガチャー、オロンモド・ガチャーなどの三つのガチャー(内モンゴルの行政単位、日本の村)に分かれて生活している。
かれらは、十九世紀半ば、アルジア・リンボチェに布施した家畜を放牧するために、モンゴル各地域から派遣された人々である。今回の調査は主に以下のことを確認した。
1、オボー祭の概要
旧歴(農暦)五月十一日(西暦二〇一三年六月十八日)は、年一回しか行わない祭祀日である。祭祀は十三オボーの中心オボーであるバヤンジホラン・オボー(モンゴル語でイヘ・オボー、即ち大オボー)で行われた。
1、祭祀の時間:早朝六時から七時半
2、祭祀責任者:当番の遊牧民
3、祭祀担当:僧侶(六人)
4、参加者:モンゴル各地域から来た信者たち約二百名
5、供養品:羊の肉、牛乳、お菓子、茶
2、オボー祭で行うナーダムの概説
相撲大会(六十四人が参加。賞品:二歳の馬、羊、賞金、その他)と競馬大会(二十七頭出場、30 ㎞。商品:羊と賞金、その他)。
3、インタビューした人々
ゴ・ラシジャブ 男性、詩人、作家。 ナソンバト 男性、銀行マン。 ソヤラ、男性、遊牧民。お父さんが、アルジア・リンポチェと深い交流があった。ウリジブレン、法名:ロブサンジンバ、男性、僧侶、正藍旗政治協商会委員、錫林郭勒盟仏教協会理事、チャハル格布西五世活仏継承者、正藍旗モンゴル医院医師、正藍旗マラルト寺副主任。
二、成果
1、祭祀の実態を把握した。
2、オボー祭祀の全過程を撮影することが出来た。
3、アルジア・リンポチェと、十三オボーについて資料収集することが出来た。
4、中国人民大学、北京中央民族大学、内モンゴル大學、内モンゴル師範大学の教授たちと、オボーに関して意見を交換することができた。
東洋学研究所の研究所プロジェクトの研究発表会における発表、日本印度学仏教学会第六十四回学術大会での研究交流、資料調査
林 香奈 奨励研究員
期間 平成二十五年八月二十八日~九月三日
出張先 東洋大学、島根県民会館
報告者は現在、金剛大学校仏教文化研究所HK教授として韓国に在住しているが、研究所プロジェクトの研究発表会における発表、日本印度学仏教学会第六十四回学術大会での研究交流、資料調査のため来日した。
八月二十八日、予定どおりの便にて日本に一時帰国した。
八月二十九日に、東洋学研究所の研究所プロジェクト「東アジアにおける仏教の受容と変容―智の解釈をめぐって―」における打ち合わせ会に出席して研究計画について討議し、その後、上記プロジェクトの公開研究発表会に、「中国仏教における般若説の展開について」との題目で、発表者として参加した。発表内容は、インド仏教で成立した「般若」という概念を中国仏教がいかに受容し、変容させていったかを、実相般若、観照般若、文字般若などの中国仏教独自の般若説に注目して考察したものである。公開研究会ということで、一般参加者が多い中、なるべく専門的な話はしないよう心がけたが、プロジェクト責任者である渡辺章悟先生をはじめ、多くの先生方や参加者の方々からご質問、ご意見をいただき、大変勉強になった。いただいたご意見などは、本発表内容を論文としてまとめ、プロジェクトの成果報告書に掲載する際に、その回答となる内容を含むことができるよう努力したいと考えている。
八月三十日から九月一日にかけては、島根県松江市で開催された日本印度学仏教学会第六十四回学術大会に参加した。八月三十日はくにびきメッセにて行われた大会記念講演会に参加した。八月三十一日から九月一日は、松江市県民会館にて学会に参加し、インドの瑜伽行派、中国の浄土思想、日本の聖徳太子信仰などに関する最新の学問成果を拝聴するとともに、東洋大学や駒沢大学の先生方をはじめ、ふだんは私が海外にいるためお会いする機会の少ない先生方と交流を深めた。また、近年印度学仏教学会は海外からの参加者も増えており、韓国から来訪した研究者とも交流した。
九月二日は資料収集のため東洋大学図書館を利用し、勝鬘経に関する先行研究や日本の法相宗についての論文などを収集した。これらの資料は、筆者が執筆を進めている慈恩大師基の著作や思想に関する原稿に利用する予定である。
九月三日、予定どおりの飛行機にて韓国に帰国した。
日本印度学仏教学会第六十四回学術大会への参加および研究発表
渡辺 章悟 研究員
期間 平成二十五年八月三十日~九月二日
出張先 島根県民会館(学会会場)
八月三十日(金)早朝に高崎を出発、東京経由で羽田発十時十五分、昼過ぎに米子空港に到着。空港からバスで松江市内着。夕方八時より、印仏学会の常務委員会に出席。
翌三十一日(土)および九月一日(日)には、日本印度学仏教学会・第六十四回学術大会学会に参加。開催組織は公益財団法人中村元東方研究所、およびNPO法人中村記念館東洋思想文化研究所の共催であった。この学会で初めて大学以外の組織で開催されたと言うこともあり、開催地にかかわる「出雲神話と日本仏教」というパネルや、松江市出身の故中村元博士の思想を研究する発表があったりして、地方の文化にかかわる特色のある学会となった。また、「儒教・仏教・道教の三宗教の交渉」をテーマとするパネルに見られるように、「東アジアにおける仏教の受容と変容」の研究に大いに裨益する点があった。
私は二日間、二回開かれた理事会に参加したが、それ以外は十部会二百五十名からなる個人の研究発表、特に東洋学研究所の研究員の発表は漏れなく聞くことができた。また、私自身も九月一日の午前に「般若経の三乗における菩薩乗の意味」というテーマで研究発表を行った。早い時間での発表にもかかわらず、三十五名ほどの聴講があった。この研究成果は今年度の『印仏研究』に掲載される予定である。
九月二日は、開催校主催のエクスカーションに参加し、中村元記念館や出雲大社などを訪問し、午後に米子空港を出発し、夕方七時頃に羽田空港着、夜十時頃に自宅に帰った。
今回の松江の出張は、学術大会会場は島根県の県民会館であり、島根県と松江市の理解が有り、懇親会には島根県知事、松江市長の挨拶があるなど、従来にない学会となった。また、佛教文化や神道などの交渉についての研究もあり、東洋学研究所のテーマに沿った盛りだくさんの学会となったと考える。
日本印度学仏教学会第六十四回学術大会への参加
岩井 昌悟 研究員
期間 平成二十五年八月三十日~九月一日
205 (東洋大学東洋学研究所活動報告)
出張先 島根県民会館(学会会場)
平成二十五年八月三十一日(土)~九月一日(日)に島根県松江市の島根県民会館において開催された平成二十五年度日本印度学仏教学会第六十四回学術大会に参加した。今回の学術大会は公益財団法人中村元東方研究所および特定非営利活動法人中村元記念館東洋思想文化研究所の共催で行われた。
主に第二部会に参加し、多くの興味深い発表を聞くことができた。特に第二部会の三十一日の午後の八人の発表者のテーマはすべてジャイナ教に関わるもので、学界の新たな動向として歓迎できるものであった。
懇親会では諸研究者と親睦を深め、意見交換をすることができ、大変有意義であった。
また九月一日の午前中に行われた、ゲッティンゲン大学でDFG研究プロジェクトに参加されている山中行雄氏の発表は、パーリ語研究の最先端を紹介するものであった。
九月一日の午後には中村元記念館を見学し、故中村元博士のおよそ三万冊といわれる貴重な蔵書の一端を見ることができた。
学会活動
韓国の東国大学校で開かれたシンポジウム「円測生誕千四百年記念学術コロキアム」への参加・発表
橘川 智昭 客員研究員
期間 平成二十六年一月二十四日~一月二十六日
出張先 東国大学校仏教学術院
《行動概要》
初日 一月二十四日(金)
往き:大韓航空KE二七〇八便 羽田一二:二五→金浦一五:〇〇一六:三〇 Astoria Hotel(所在地:ソウル特別市中区南学洞一三―二)に到着、学会運営者・参加者と合流。
一七:三〇~二〇:三〇 運営者との打ち合わせ・会食(崔鈆植・金天鶴・金龍泰・吉村誠・落合俊典・橘川)。
Astoria Hotel に宿泊。
二日目 一月二十五日(土)
「円測生誕千四百年記念学術コロキアム」に参加・発表。
九:三〇~九:五〇 金鍾旭氏(東国大学校仏教学術院長)を表敬訪問。
一〇:一〇~一一:〇〇 落合俊典(国際仏教学大学院大学教授)
「徳川美術館蔵『神通論』の著者について」
一一:〇〇~一一:五〇 吉村誠(駒澤大学教授)「中国唯識における円測の位相―三性説を中心に―」
一一:五〇~一三:一〇 昼食
一三:一〇~一四:〇〇 張圭彦(金剛大学校仏教文化研究所HK研究教授)「円測の種性理解をめぐる幾つかの問題について」
一四:〇〇~一四:五〇 橘川智昭「円測の『無量義経疏』について」
一四:五〇~一五:一〇 休憩
一五:一〇~一六:〇〇 白真順(東国大学校准教授)「円測教学の研究動向に関する批判的検討と提案」
一六:三〇~一七:三〇 総合討論
一八:〇〇~二〇:〇〇 懇親会
Astoria Hotel に宿泊。
三日目 一月二十六日(日)
一〇:〇〇~一二:〇〇 英文舎(仏教学関係の出版社。所在地:ソウル特別市中区筆洞一〇- 五)を訪問。在庫図書の見学・購入。出版に関する打ち合わせ等。
一二:〇〇~一三:〇〇 昼食
帰り:大韓航空KE二七〇九便 金浦一六:二五→羽田一八:三五
《成果》
本シンポジウムは円測の生誕千四百年を記念して開かれたものであり(円測は六一三~六九六年の人)、円測教学を共通テーマとする。円測は新羅の生まれで唐に渡って玄奘三蔵の門下で活躍し、法相宗初祖の慈恩大師基と双璧とされた唯識学者である。従来橘川は円測の思想を扱ってきたが(博士論文「円測の五性各別思想」、二〇〇一年東洋大学)、円測研究者の数が少ないのが実情であり、専門的に踏み込んだ議論の場をもつことがなかなかできなかった。今回、円測を専門に扱ったことのある日韓の研究者が一堂に会して活発な討議を行い、日本国内のこれまでの学会を超えるきわめて密度の濃いシンポジウムとなった。また韓国仏教および韓国唯識学の全体像を最新の成果とともに知ることができた点など益するところが多く、さらに多くの韓国人研究者との情報交換等、様々な交流を深めることができ、大変有意義であった。なお本シンポジウムの成果報告として、二〇一四年度中に東国大学校より論集(単行本)が出版される予定とのことである。
研究発表会
平成二十五年八月二十九日 東洋大学白山校舎 第三会議室
モンゴル語訳大蔵経の成立について
オーダム 院生研究員
〔発表要旨〕モンゴル語訳大蔵経は、八世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に翻訳して編纂されたチベット仏教経典のモンゴル語訳が主体となり、それに一部はウイグル語やインド系言語、あるいは漢文からの重訳を含む仏典の集成である。本発表では、モンゴル語訳大蔵経の成立に関する歴史的段階、すなわち、元朝時代、北元時代、そして清朝時代などの三つの段階に基づいてモンゴル語訳大蔵経の特徴を明らかにした。
まず元朝時代に活躍した有名な翻訳官チョイジオドセルの翻訳したモンゴル語訳仏典を取り上げた。刊行年代が明確にされているものの中で最も古い仏典は、トルファンから出土した一三〇七年刊行の『入菩提経』の断片である。その奥付によると、本経をチョイジオドセルが武宗ハイサン・ハーン治下の一三〇五年にモンゴル語に翻訳したと記している。続いて、一三一二年の木版で刊行された『入菩提経疏』も彼によってモンゴル語に翻訳された。そのほか、同地出土の資料はいずれも微細な断片であるが、その中で、成立年代が『入菩提経』と前後すると見なし得る仏典としては『般若心経』『聖吉祥実名経』の版本断片がある。
また、同時期のものと推定されているオロン・スメから出土した大量の仏典写本断片の中に、『入菩提経』『金剛般若経』などが含まれている。
続いて、北元時代のアルタン・ハーンとその後継者時代に翻訳されたモンゴル仏典について紹介した。その結論は、『アルタン・ハーン伝』と清朝時代に成立したモンゴル・ガンジョールに所収されている『一万頌般若経』の奥付に基づいて、この時代に成立したモンゴル・ガンジョールはだいたいナムタイ・セチェン・ハーンの時代からボショクト・ハーンの時代に至るまでに成立したという結論を得た。
同じく北元のリグデン・ハーンの時代の章に、モンゴル語訳『八千頌般若経』の四種のテキストを列挙した。その結論は、リグデン・ハーン時代に成立したモンゴル・ガンジョール百十三巻はチベットで一四三一年に成立したテンパンマ写本カンギュルに遡るものであり、一三五一年に成立したツェルパ写本カンギュルの流れを汲む北京版のモンゴル・ガンジョールとは別系統であることを証明した。最後に、清朝時代に成立した北京版モンゴル版ガンジョールの成立過程と内容の構成について説明した。
この三つの時代にわたってモンゴル大蔵経の成立について検討した結果、リグデン・ハーン時代に成立したモンゴル・ガンジョール百十三巻はチベットで一四三一年に成立したテンパンマ写本カンギュルに遡るものであり、一三五一年に成立したツェルパ写本カンギュルの流れを汲む北京版のモンゴル・ガンジョールとは別系統であることを明らかにした。特に第二次仏教弘通において重要な役割を果たしたトゥメド・トゥメンとチャハル・トゥメンにおいて重層的に成立したことは、モンゴル大蔵経がいかに重要視されたかを証明している。また、康熙帝の勅令によって開版された百八巻モンゴル・ガンジョールは、リグデン・ハーン時代に成立した、百十三巻モンゴル・ガンジョールを底本とした。しかし、その改訂と編纂にあたって、旧系統であった経典を削除し、新たに新系統の北京版チベット大蔵経の訳を加えた。そのため、リグデン・ハーン時代に成立したモンゴル・ガンジョール百十三巻はモンゴル大蔵経の形成過程を考える上で重要な情報をもつ文献であることを明らかにした。
研究発表会
平成二十五年八月二十九日 東洋大学白山校舎 第三会議室
中国仏教における般若説の展開について
林 香奈 奨励研究員
〔発表要旨〕中国では、異国で成立した概念である般若をどのように理解するかについて、中国的な視点から工夫が重ねられてきた。その一例が実相、観照、文字という三種般若に代表される般若の分類である。浄影寺慧遠の『大乗義章』では、三種般若とは、文字般若、観照般若、実相般若のことであるとし、文字般若とは般若を説いている般若経典、あるいはその経典の文字のことであり、観照般若とは智慧としての般若そのものであり、実相般若とは観照般若つまり智慧の認識対象、すなわち諸法実相を指すとする。
この三種般若の根拠について、平井俊栄氏は吉蔵の著作を研究され、「智及智處皆名般若」といった文が三種般若説の根拠とされていることを明らかにされたが、このような一文は『大智度論』などには見あたらない。発表者は、この文の前半が鳩摩羅什訳『坐禅三昧経』一部とほぼ同様であることを発見し、鳩摩羅什によって般若思想が本格的に中国に紹介され、般若とは何かが論じられる中で、『大智度論』における大乗仏教特有の智と、その智の対象となる諸法の実相を般若とする解釈、そして智や実相は自らの心の内にあるのだとする禅的な思想を帯びた『坐禅三昧経』の一句が組み合わさり、「智及び智処を般若と名づくと説く」という文章が作られたのではないかと推測した。
続けて、平井氏らの先行研究に基づきつつ、南北朝時代における北地の大智度論師と慧遠、南地の持公と智顗、そして般若について最も深い関心を寄せた吉蔵の三種般若説をそれぞれ概観してから、先行研究ではあまり扱われていない中国法相宗の基の五種般若説について考察した。五種般若とは、実相、観照、文字の三般若に、一切諸法である真俗二諦を意味する境界、六波羅蜜の万行である眷属が加わって、五種般若とするものである。基の五種般若説の最大の特徴は、実相般若に含まれていた真俗二諦が境界般若として独立し、それによって観照般若がいわゆる空理を対象とする無分別智だけではなく、後得智も含むとされる点である。また、先行研究では吉蔵の『大品経義疏』にある五種毘曇と、五種般若との関連が指摘されており、発表者もそれを確認した上で、眷属般若については基自身の説よりも後代の解釈において五種毘曇の一つである共有毘曇の定義が強く影響していることを指摘した。
こういったさまざまな般若説はみな、大乗の特色たる般若を理解しようという、当初からの中国仏教思想の流れの中に位置づけられおり、インドで生まれた般若という思想が中国仏教の中で受容され、独特の教義として変容していったことをあらわす一例である。