日本における先祖観の研究―古来の先祖観とその変容―
日本における先祖観の研究―古来の先祖観とその変容―
シュレーダー=フレチェットの論文「テクノロジー・環境・世代間の公平」(丸山徳次訳、シュレーダー=フレチェット編『環境の倫理上』、京都生命倫理研究会訳、晃洋書房、一九九三年所収)は、Environmental Ethics の一九九一年の第二版の翻訳だが、放射性廃棄物の未来世代への影響が述べられていて、原子力発電所の事故による放射性物質の流出が問題となっている現在、興味深い論文である。この論文で注目すべきことは、現在の世代が、先祖たちが彼らの後の世代に捧げてきたのと、現在の幸福を可能にしてきたのと同じだけの関心を、質的にも量的にも、子孫に対して持つべき義務がある、という言説について、世代間の相互性の概念を「恩」という日本語の概念を持って定式化されるように思うと述べていることである。シュレーダー=フレチェットは「恩」という概念の意味が「義務」(obligation)という西洋の概念と近いと述べているが、はたしてこの「恩」、先祖に対する恩が現在の日本においてどれほどいだかれているかは疑問の余地がある。
原子力発電所の事故によって先祖伝来の土地を失ったという福島県双葉郡双葉町長の発言があったが、代々長らく住んできた土地から離れざるを得ない状況に追いやられた方たちにたいする責務は、恩ということを重要視するならば、きわめて重いといわざるを得ない。しかるに、放射性物質の除染作業もままならない状況にあり、住民の方たちを軽視した行政は、その方たちの先祖にたいする恩を軽視しているといえよう。日本の自然観や先祖観が議論される一方で、岐阜県揖斐川上流に建設された徳山ダムのために徳山村が消失した事態はなぜ生じるのだろうか。そこで先祖観というものが問題となってくる。小谷みどりの墓参者への調査(『ライフデザインレポート』二〇一〇年七月)では、先祖は見守っている気がするという観念は老若男女問わず根強くあったと報告しているが、先祖観は開発に対してどのような抵抗力となるのか。研究代表者はアイヌの祖霊信仰を研究してきているが、現代日本が見失っているような祖霊に対する尊敬の念を目の当たりにして、このような疑問から、日本における先祖観を見直すべく本研究を立ち上げるに至った。
本研究は、戦後の家族形態の変化による先祖に対する意識の変化、各地で行われている先祖供養の行事への過疎による影響、放射性物質の影響により代々の土地から離散せざるを得ない状況に鑑み、日本における先祖のあり方を考察し、現代日本の都市生活において失われつつある先祖とのつながりをあらためて問いなおすことを目的とする。そこには先祖の霊をどのようにとらえるかという問題があるが、本研究においては、科学的な霊魂の位置づけよりもむしろ、日々の生活において先祖の霊と向き合うあり方を重視する。研究のあり方としては、日本古来伝えられてきた先祖観および霊魂観を把握し、また他界観として、先祖の居所の観念を探究する。そして、現代日本の先祖観のあり方を北方民族の祖霊感との比較、古来の先祖観との比較、地域社会における先祖供養のあり方から理解する。
研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
中里 巧 研究員 研究の総括 北方民族の祖霊信仰を通じての日本の先祖観の把握
研究分担者 役割分担
菊地義裕 研究員 『万葉集』を中心とした上代文学における霊魂観
原田香織 研究員 謡曲にみる霊魂観
川又俊則 客員研究員 地域社会における先祖供養の考察
大鹿勝之 客員研究員 先祖の居所としての常世の研究
次に、今年度の研究経過を報告する。
まず平成二十五年五月二十五日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者は、研究分野におけるテーマ設定と研究計画について話し、相互に研究内容の確認を行った。また、研究発表会の日程と担当者について協議した。
各研究者の研究の概要は以下の通りである。
中里研究員は北海道・網走の北方民族博物館やモヨロ貝塚館を調査し、オホーツク人などの宗教観や生活のリアリティを把握した。また、現代における先祖観の変容に関し、現代に通じる古来の先祖観のリアリティについて、他界と現世とが離反した現代の状況を批判したエンデ(Michael Ende)の考察をもとに探求し、エンデの資料が展示されている、黒姫童話館で調査を行った。
菊地研究員は、古代の喪葬の基本をなす「喪葬令」の規定の語義・内容の整理を行った。また『万葉集』の挽歌作品を対象に、古代の他界観・霊魂観を整理・確認し、合わせて墓所がどのような空間として認識されているのか、その点についての確認を進めている。また古代以来の伝承をもつ墓所での祭祀がどのような内容・意識のもとに行われているのかを把握するために、『日本書紀』にイザナミの命の葬所と伝えられる、三重県熊野市有馬町鎮座の花の窟神社の調査を行った。この実地調査を通して把握した民俗事例や古代の他界観・霊魂観を踏まえて墓所がどのような空間として定位できるのか、その点について検討している。
原田研究員は、中世文学において、地縁の軸と血縁の軸とのクロスする所に生まれる個々の霊魂には独自の「家」の意識が後天的に付与され、個人の性質・人格をも特定していくという特質を指摘し、そこに古来続いている日本人独自の価値観を見いだしているが、その特質を謡曲『海士』関係の文献調査を通じて検討し、平成二十六年二月二十二日~二月二十四日に、謡曲『海士』の舞台と伝承に関して、香川県の寺社および史跡の調査を行った。
川又客員研究員は、伝統的な地方都市かつ観光都市でもある伊勢市における先祖供養維持の実態を詳しく観察し、同時に、住民たちへインタビュー等を行い、維持の中身を含めて考察している。そして、喪葬業者の影響を受けながらも、葬送や墓地維持の形態から、先祖供養を維持する様子を観察し、式年遷宮などでの住民の地域に対する愛着の強さも、先祖供養が維持される背景にあると推察している。
大鹿客員研究員は、那珂湊から高海上人が補陀落渡海したことが記されている、恵範筆の『那珂湊補陀洛渡海記』に焦点をあて、『常陸国風土記』において常世に比せられている常陸国の位置づけ、補陀落渡海において目指された観音浄土としての補陀落と常世との関連性を探求し、先祖の居所としての常世について研究を進めている。
分担者間の討議(前期複数回)
以上の各研究者の考察は、文学研究におけるフィールドワークの意義、能における祈りの要素、西欧哲学思想研究と日本宗教研究の関連、十~十五年ほどのタイムスパンでの現代宗教の変容変化といったテーマで共同討議を重ね、相互に検討されている。
オープンパネルディスカッション 各研究者の発表とパネルディスカッション
平成二十五年十一月九日および十二月十四日に、公開のパネルディスカッションを開催した。
公開講演会
平成二十六年一月二十五日に、常葉大学非常勤講師で、「ふるさとの民俗を語る会」を主宰されている吉川祐子氏を講演者に招き、「先祖をまつる民俗意識の変容」という題目で公開講演会を開催した。
以下に平成二十五年度に行われた、研究調査、およびパネルディスカッション、公開講演会の概要を示す。
金剛證寺の開山忌における先祖供養に関する調査
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年六月二十八日
調査地 金剛證寺(三重県伊勢市朝熊町)
伊勢神宮の鬼門を守る寺で神宮の奥の院と言われ、「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の一節にも唄われている金剛證寺は朝熊山の山頂付近にある。その周辺の人々にとっては、臨済宗南禅寺派別格本山でもある当寺の「開山忌」に、先祖供養をする場所でもある。毎年六月二十七~二十九日、本堂で大般若のお札を頂き、開山堂で仏地禅師のお参りと山門施餓鬼、新亡の施餓鬼が、奥の院では先祖供養が行われているという。今回は二十八日午前から昼までの様子を観察した。
伊勢市から臨時バスに乗車。伊勢市駅・宇治山田駅の乗車は十名、内宮近くの浦田町からの乗車も七名ほどであり、うち四名が男性だった(帰りも同程度の人数だった)。バスより自家用車利用が多いようで、寺院の駐車場は五十台、奥の院の駐車場は約八十台があり、常に満車に近かった。貸切バス利用も見られた。奥の院には「卒塔婆の供養林」との看板が立てられ「朝熊岳に卒塔婆を建て、亡き人の追善菩提を弔うのは」「山中他界観が、古代より、私たちに引き継がれているからです」との説明がなされている。極楽門から奥の院までの間の道の両脇に、塔婆が林立。一番地から八番地まで区画整備され、板および柱の塔婆が立っている。柱の角塔婆は三、四mのものが多く、なかには八mほどのものもある。建てられた年ごとにまとまっている。宗派を問わないことは戒名を見ても分かる。また、供物やシキビ、線香などはそれぞれの塔婆前に供えらえていた。ある地域の「回忌」者が集中している塔婆前で七十歳以上女性が十名近く、個包装のビスケットやせんべい、ヤクルト、線香などを置き、「もらいな~」と言いながら廻っていた。周辺住民のみならず、県内外の地名が塔婆に記されており、数多くの人々が塔婆に手を合わせている姿を見て、まさに「生きている先祖供養」の実態を垣間見たように思う。
伊勢神宮式年遷宮の行事、お白石持行事の調査と伊勢市住民インタビュー
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年九月一日
調査地 三重県伊勢市尾上町より外宮まで
二十年ごとに社殿を建て替える神宮(伊勢市)の式年遷宮において、外宮正殿の敷地内に白石を敷くお白石持行事(国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)についての調査。宮川上流の白石を集め、洗い清め、川曳もしくは陸曳で神域に運び、白布に白石を包み、新しい正殿敷地に「自らの祈りを永遠に託し」お納めるものとされている。翌日の報道によれば、内宮・外宮に神領民(伊勢市民)、特別神領民(市民以外)約二十二万人が参加したという。九月一日の最終日、白石を積んだ奉献車を伊勢市浦口から外宮まで約2.5kmにわたって曳き歩く、同行事に同行させていただいた。対象者が所属する尾上町永昌社(奉献団)の様子を中心に見学、その前の宮崎連合、岡本町、その後の岩渕町と四種類の奉献団の様子を見ることができた。
奉献団参加は地元世帯の約半数程度であり、二十年前に比べると同地域では子どもたちの数が減り、二十年前に実施した「子ども木遣(きやり)」も今回はないという(他の報道からも、少子高齢化現象が市内他の奉献団でも見られる)。だが、陸曳をする五百人ほどの人びとを鼓舞する「木遣」二〇~三十歳代の若手の十数名の方々は、一年以上前からの稽古の成果が活かされ、「エンヤー」の掛け声も、うたいも振りも皆上手だった。十二時に集合しバスで移動し、その後、順番を待ち、三回ほどの休憩を入れつつ、奉献車を二本の綱で曳き、下は歩き始めくらいの子から上は白髪の高齢者まで声を出し合う姿、休憩中の水分補給・ゴミ片付け他手際の良いサポートなど、二十年に一度とは思えない周到なチームワークに、地域の連携、世代間のつながり等を感じた。休憩その他で、参加住民たちへ簡単な聴き取りをしたが、同地域では、このような代々伝えられてきている行事等を大事に次世代に継承したいとの意識がとりわけ強いように思われた。
明治初期の神葬祭に由来する宗教法人 祖霊社(神社・葬祭場)および隣
接地の宮崎殿の調査、神葬祭についての担当者インタビュー
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年九月十日
調査地 宗教法人 祖霊社(三重県伊勢市岡本町)
斎主へのインタビュー。年中行事は以下の通り。元旦祭(一月一日)、節分厄除祈願祭(二月三日)、春季例大祭(春分)、春季慰霊祭(三月二十日)、大麻祓会(五月)、 中元祭(八月十五日)、秋季例大祭(秋分)、秋季慰霊祭(九月二十日)、除夜祭(十二月三十一日)。日常には日供祭(毎朝)、月次祭(毎月十五日)を神職のみで営む。明治五年が前身の設立で、昭和二十八年宗教法人化し霊祭講社、昭和五十六年に祖霊社と名称変更。平成に入って斎殿、第二祭殿、平成十六年に永代祭祀納骨の鎮魂殿(やすらぎ公園内)を建設。
檀家は伊勢市民が多く、転居した檀家も全国各地にいる。御霊を祖霊社・自宅で分祀し、五十日祭、一年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭、四十年祭、五十年祭は祖霊社で、それ以外の年は自宅でお祀りしている。核家族化が進み、若い世代が東京・大阪などに他出し戻ってこない。跡継ぎがいない人びとの要望が強く、永代祭祀を受入れ、結果、鎮魂殿を建設。平成に入って、葬祭業者が市内にホール建設を進め、葬儀をホールで行うことが増えた・葬儀後のお祀りをしなくなる傾向。神職の司式内容に変化はないが、喪家側で、かつてのように地域の人が来てずっと祀るようなことがなくなった。葬列もなくなったが、一番新しい葬列は、十五年くらい前(浜郷、中村、二見など)。新しく檀家に入る人たちに神葬祭・神社のことをお知らせするために、かつては中元祭で盆踊りをしていたが、五年前から初盆の祭礼を行う。祖霊社内に檀家有志たちのグループがあり、例大祭の実行委員会として支えてくれたが、中心メンバーが高齢化し現在では神職がほぼ行っている。
伊勢・志摩・明和(内宮・外宮・斎宮の範囲)の特徴は火葬の後の葬儀。山田はここで、宇治の人は宇治祖霊殿で神葬祭を行う。市内は各町で墓地を持っている。
他地域同様、平成年間に入ってからの葬儀社進出にともなう変化がここでも見られた。
北方民族の祖霊崇拝に関する調査
中里 巧 研究員
期間 平成二十五年九月十日~九月十二日
調査地 北海道立北方民族博物館・モヨロ貝塚館(北海道網走市)
九月十~十一日は、北方民族博物館で調査を行った。
北・東・西の地域がそれぞれ、長い間隔絶されていて、交流がなかったことなどをはじめ子細にされていた。グリーンランド先住民は、エスキモーという呼び名で統一されており、生活の子細な様子が報告されており勉強になった。とりわけグリーンランド東海岸イヌイトにみられる「トゥピラク」について貴重な情報を入手できた。これは、敵を呪うための一種の武器であり、敵に呪いの力を作用するための、一種の悪霊である。この悪霊が、近代になってデンマーク人に姿形を問われたエスキモーが、海獣の骨などで造形して、この造形物が今に伝承されている。常設展示の「トゥピラク」は、比較的滑稽でユーモラスな造形であるが、特別展示されていた「トゥピラク」は、十二分に恐怖感の煽られるものであった。特別展すべての展示について、写真撮影をおこない、記録した。
十二日はリニューアルされたモヨロ貝塚館を調査した。貝塚館は、オホーツク人に特化してリニューアルされた。施設はかなり大きくなって、以前の施設の正面、駐車場のあったところから、オホーツク人の墓が多数平成十八年の調査で出土したことが記されており、驚いた。これも今回展示されている。モヨロ貝塚館の、墓域展示の出口脇にある地層の復元で、海獣や動物の骨が、まとめられて一時的に捨てられていると、説明されていた。また、元駐車場から発掘された墓は、地上から四十~五十センチの深さであり、まず頭部にかぶさっていた壷が表れたという。ロケーションや葬送想像図ならびに、実際の遺跡の様子、住居すぐ北脇に墓群があったことから、また、当時、頭部を覆った壷だけは、地上に露出していたと想像されることを含み考えると、死者と生者の関係は、きわめて親密であったと思われる。葬送想像図では、花が添えられていたように描かれている。以上、リニューアルされた貝塚館では、オホーツク人の宗教観や生活のリアリティが、細かに再現されていて、学ぶことが多かった。すべて写真撮影をおこない、記録に残した。
分担課題「先祖の居所としての常世の研究」に関する研究調査
(六地蔵寺第三世恵範が記したとされる『那珂湊補陀洛渡海記』に
示されている、高海上人の補陀落渡海についての調査)
大鹿 勝之 客員研究員
期間 平成二十五年九月十四日~九月十五日
調査地 六地蔵寺(茨城県水戸市六反田町)、茨城県ひたちなか市和田町
研究所プロジェクトの分担課題「先祖の居所としての常世の研究」において、常世と補陀落渡海の関連から、恵範の『那珂湊補陀洛渡海記』に記された、高海上人の補陀落渡海について調査を行った。高海上人は那珂湊から渡海したと記されている。
恵範は六地蔵寺第三世の学僧として知られ、『那珂湊補陀洛渡海記』は明治の作家徳富蘇峰の蔵書として、一般財団法人 石川武美記念図書館(旧 お茶の水図書館)の成簣堂文庫に架蔵されている。跋文に「享禄四(二二と書かれている)辛卯十一月二十八日 心車 満七十」とあり、心車の号は恵範の、「恵」の心の部分、「範」の車の部分をとったものとされる。今回の調査は、恵範に関連した調査と、『那珂湊補陀洛渡海記』に示されている地名の確認と渡海地の風景の有様を把握することを目的としている。
まず初日は、茨城県水戸市六反田町にある六地蔵寺を訪ね、典籍が収められた法宝蔵、室町時代に建てられた山門、本殿を見て回り、恵範のこと、法宝蔵に保存されていた典籍のことなどお話を伺う。その後、茨城県立図書館にて那珂湊市地名研究会編『那珂湊の地名』(那珂湊市発行、一九八六年)などの資料を調べた。
『那珂湊補陀洛渡海記』には大坂の宿に渡海船の資材を集めたことが記されているが、大坂とは、現在水戸市梅香一、二丁目の西側にあたる旧大坂町であるという。翌日はまず、旧町名の表示柱を探し当てた。表示柱には「もとは水戸の台地を南北に横断する通り名であった。のちには南端だけの町名となる」と刻まれている。その後水戸市立図書館の中央図書館で『水戸地名考』の手写本などの資料を調べ、水戸市根本町と青柳町にかかる万代橋から那珂川の様子を把握した。『那珂湊補陀洛渡海記』には、那珂川を下っていく道行文が記され、そこには青柳などの地名や、船が川を下って「渡田ノ磯」に着いたことが示されている。
そして、那珂川河口や、ひたちなか市殿山町の「姥の懐」と呼ばれる海岸から、海の風景を把握した。上掲の『那珂湊の地名』では、『那珂湊補陀洛渡海記』にみえる「渡田ノ磯」は同市和田町にあった磯のことか、と述べられているが、和田の磯は埋め立てられて漁港が建設され、長大な防波堤が築かれている。海岸は往時の様子とはかけ離れているが、それでも『那珂湊補陀洛渡海記』に示された場所を訪ね歩き、海の風景を把握したことは、今後の研究にとって大きな収穫となった。
研究所プロジェクト「日本における先祖観の研究―古来の先祖観とその変容―」に関する、ミヒャエル・エンデの調査
中里 巧 研究員
期間 平成二十五年九月十五日~九月十七日
調査地 黒姫童話館
九月十五日十六日十七日続けて、信越線黒姫駅下車し、宿泊先のホテルアスティくろひめから徒歩五分ほどの、黒姫児童館所収のミヒャエル=エンデ展示およびエンデに関する所蔵資料を調べる。黒姫児童館は、黒姫ゆかりの児童文学作家作品やエンデ作品を中心に、幼児から大人にいたるまで広く対象をとって、児童文学とりわけ童話を啓蒙している。また黒姫童話館に併設して、童話ギャラリー館があり、絵本の原画展示をおこなっている。今回調査に行ったときは、やなせたかしの作品が特別展示されていた。「アンパンマン」や「やさしいライオン」であった。エンデ展示では、生前エンデ自身や没後佐藤真理子夫人から寄贈された学校の成績や母親の絵画など私生活資料とともに、詳細で意味のこもった年表や、エンデ作品が展示されている。また、エンデ家から寄贈された資料は、エンデカタログ資料としてカタログリスト化されており、このリストを通してエンデ自身が描いていた大半の原画や原稿を含むさまざまな資料が、本館に所蔵されていることがわかる。台風十八号が本州に上陸するさなかの日程であり、いろいろ不安もあったが、十五~十七日、1.エンデ展示における年表とエンデ邦訳作品の調査 2.エンデカタログ資料における「3 SL001-14研究書籍」の調査をおこなった。2.については、受付で閲覧の申し出をしたところ、閲覧を快諾していただき、館員上原氏が、「3 SL001-14研究書籍」のうち十二資料を、出してくださった。これらは、生前エンデ自身が受け取ったものであり、ドイツ人や日本人の大学生の卒論や、そうした大学生のエンデへの手紙やエンデからの返事内容などを含んでいる。
今回、「3 SL001-14研究書籍」すべては読み切れなかったし、エンデに関する批評やエンデ自身の論評や対談なども重要なので、次回以降も、続けて黒姫童話館において調査を継続する必要がある。今回の調査は、きわめて実質的に成果が大きかった。なお黒姫童話館の開館時期は、四月五日から十一月末である。冬季は休館である。
伊勢やすらぎ公園(公園墓地)の山稜に建設された、宗教法人 祖霊社の納骨殿「四季彩の杜 鎮魂殿(しずたまでん)」で行われる秋季例大祭(永代供養)の調査、および公園墓地の調査
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年九月二十日
調査地 伊勢やすらぎ公園(三重県伊勢市旭町)
二〇〇四年三月に建設された「鎮魂殿」(永代供養の納骨殿)で行われた秋季慰霊祭の見学および、鎮魂殿のある「伊勢やすらぎ公園」の見学をした。
慰霊祭は十一時三十分から十二時二十分まで行われた。斎主の開式のことばに始まり、修祓の儀、祝詞奏上、玉串奉奠と続いた。参列者は百名近くおり、七十歳代以上が八割、女性が七割ほどだった。自らの母を納骨した一人は、永代供養として預けたとはいえ、自分が行けるうちは、春秋の慰霊祭に毎回参加したいと述べておられたように、参列者たちはこの行事を大事にしている様子がうかがえた。閉式のことばで斎主は「永遠に続けられますように」と述べており、神職側も、この行事に対する強い意識も示されていた。終了後、神職たちは、伊勢市・宇治山田駅まで参列者たちをそれぞれ送っていた(自家用車以外で参列する人への配慮と推察する)。その後、自らの墓所へ行く人たちもいた。
報告者は、その後、伊勢やすらぎ公園内を見学した。同公園は神宮外宮の南側にあり、21・5haの敷地に、墓所七、六〇〇区画、伊勢市や宇治山田駅から一日六往復の無料送迎バス(車で十分ほど、報告者が利用した十一時および十二時五十分の便はほぼ満員の二十名が同乗)がある。永代管理制度(三十三回忌まで)も導入されている。見学時は昼どきだったが、二十組以上の墓参者たちを確認した。墓石は仏式が多く、一部キリスト教式などもあった。神式の墓地が多い区画も見られた。
伊勢市は神宮があり、神道的行事も活発に行われているが、墓地等を確認するかぎり、市民と寺院との関係は決して薄いものではない。『伊勢市史民俗編』で「カミサンもホトケサンも一緒」という意識が記述されていたが、墓地などの外形上からもそれは確認された。
三重県熊野市「花の窟神社」調査
菊地 義裕 研究員
期間 平成二十五年九月二十一日~二十二日
調査地 花の窟神社(三重県熊野市有馬町)
平成二十五年九月二十一日・二十二日に三重県熊野市有馬に鎮座する花の窟神社の祭祀調査のために出張した。熊野灘の七里御浜に接して位置する同社地は、『日本書紀』にイザナミの神の葬所と伝えられるところであり、毎年二月二日、十月二日に『書紀』が伝える祭祀の故事に基づいてお綱掛けの神事が行われる。またこれに先だって、関係者によって祭祀で用いられる綱が綯われる。本年は秋の祭祀のための準備が二十二日に行われ、これに合わせて綱の準備状況を把握するとともに、本年二月の祭祀調査を踏まえて、祭祀にかかわる諸点についての聞き取り調査を目的に出張した。二十一日午後に同地に到着し、神社にて氏子総代の方々に翌日の行事の次第等を伺った。また同市の歴史民俗資料館を訪ねて関係資料を披見し、撮影させていただいた。
二十二日には朝八時に同社に赴き、作業を実見しつつ全体の流れを把握するとともに、責任総代はじめ氏子総代の方々に、氏子組織や神社の歴史、準備も含めて祭祀全体の細部、また同社と関係の深い氏神の産田神社のことなど、祭祀の全容を把握すべく聞き取り調査を行った。また、産田神社はじめ周辺地域の地理的状況を把握しつつ、聞き取りの調査を行った。今回は関係者が一同に会する機会を踏まえての調査であり、研究課題にかかわって効率よく有益な情報、知見を得ることができた。
日本基督教団山田教会の礼拝への参加、牧師・信者へのインタビュー、
伊勢市住民インタビュー、伊勢市内の墓地等の調査
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年九月二十二日
調査地 日本基督教団山田教会(三重県伊勢市岩淵)
当初十五日を予定していたが、台風のため一週間延期した調査。
午前十時十五分から十一時三十分まで日本基督教団山田教会の日曜礼拝に参加。本日は四日市教会元牧師が説教(主任牧師は大阪の教会で説教)。約六十名の参加者の大半は七十歳代以上で、七割は女性だった。市内の人が多く、伊勢やすらぎ公園や地区の共同墓地を利用、葬儀等もキリスト教式の儀礼を重視している。伝統ある教会であり、各種集会・中高生の集い・聖書研究等も活発に行っている様子がわかった。礼拝後の報告から、高齢者が多いこともあり、自動車を多く利用して教会に来ていることがうかがえた。 午後は市営墓地(大世古墓地、伊勢市大世古三丁目)、共同墓地(一誉坊墓地および西之坂墓地、伊勢市岩渕三丁目)を見学した。秋の彼岸時期とあって、各墓地とも、日中のたいへん暑い時間帯にも関わらず、墓参者が絶え間なく来ていた。各墓地とも一〇〇~四〇〇区画以上あると思われるが、多くの墓地で近日参拝した様子がうかがえた。仏式がほとんどで神式、キリスト教式はわずかに見られた。仏式墓石脇の塔婆設置場所や墓石前に「彼岸供養」の塔婆を置く例も見られた。
伊勢市の人びとは、現在、墓所として、市営墓地、共同墓地、祖霊社・宇治祖霊殿、伊勢やすらぎ公園等を利用している。いずれも、彼岸やお盆等で多くの墓参者が集まり、死者儀礼・先祖供養を熱心に実修しており、それは高齢者だけではなく、子どもたちを含む若い世代たちも一緒に行っていることで、世代間継承がなされていることが確認された(お盆の様子は昨年確認した)。
なお当日は、式年遷宮遷御の儀(十月二日、五日)を控えた日曜日であり、外宮・内宮の参拝客が多数、伊勢市内を闊歩している様子も見られた。
分担課題「地域社会における先祖供養の考察」に基づく研究調査(宇治祖霊殿の総代へ、歴史・年中行事・利用者等についてうかがう。三重県伊勢市岡本にある宗教法人 祖霊社との違い、神葬祭の現況を知る)
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年十月十七日
調査地 宇治祖霊殿(三重県伊勢市宇治中之切町)
総代より宇治祖霊殿および北山墓地についてうかがい、それぞれを見学した。
明治初期の廃仏毀釈の時期より、宇治四ヵ町は神社でまとまった。他の伊勢市内では神葬祭を祖霊社で行っているが、宇治四ヵ町は宇治祖霊殿を利用している。事務担当者が事務所に詰めて対応している。年祭(葬後儀礼)は、年間約五十軒程度(自宅で行う人もいる)。春秋の大祭は祖霊社が先で一日遅れて宇治祖霊殿で遂行。彼岸から彼岸の間の半年で亡くなった人のいる檀家へ大祭の案内をしている。初盆は八月一日にお飾りを用意し神官によるお参りが七日に行われる。十五日には夕方から祖霊殿に集まり、精霊を戻している。
また、式年遷宮の影響で全国各地から人びとが集まっている。おかげ横町に近いこの地区では、その影響(交通渋滞)を受け、今年は、祖霊殿での葬儀は家族葬など小規模のもののみ受け付け、他は地域の公民館や葬祭場などを薦めている。
北山墓地は宇治祖霊殿から徒歩十分弱程度。現在墓地は約一、二〇〇の区画を持つ。二〇〇区画程度で継承者の消息が不明である。墓地には自動車を止める場所はなく、急こう配の坂を上るため足腰の弱い高齢者たちから対応を要望されている。見学時、三、四組が自らの墓地を整備し、榊を供えていた。永代供養の共同墓も建設されており、既に小さな墓石が五つ建っていた。墓地の清掃は、総代ら数名で行っている。
葬儀は隣保(互助組織)で行っていたが、近年の傾向に、葬祭業者の介入がある。遠方の子世代が、自らは対応できないと判断し業者を導入し、それが定着している。この四ヵ町はお白石持行事などでかつては別々に組を作っていたが、今回は合同で一つの組を作った。だが、式年遷宮関連行事などで地元の人びとの強固なつながりが確認でき、次の世代も育っていることを実感したという。
皇學館大学教授櫻井治男氏へのインタビュー
(『伊勢市史民俗編』『地域神社の宗教学』等の執筆者。神葬祭、民俗調査を長年してきた見地から、出張者の調査の知見と昭和時代からの変化を確認する)
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年十月二十二日
調査地 皇學館大学(三重県伊勢市神田久志本町)
櫻井治男教授へ今年調査してきた伊勢市の墓地や神葬祭の現況を報告し、それへの応答として、彼の昭和時代から続けてきた民俗調査や伊勢市民としての経験などをうかがった。宇治祖霊殿の墓地以外に、伊勢市内には神式の墓が多く見られる墓地(中村町共同墓地、楠部町北山墓地等)、平成年間に行われた葬列(平成十二年、十五年:伊賀、奈良など)を教えていただいた。伊勢市もかつては葬列が見られたし、葬儀を告げるツカイもいたが、平成年間に入ってそれもなくなってきた。隣保による葬儀の手伝いも徐々になくなり、近隣であってもツキアイがないと、葬儀を知らずに過ごすということもあるという(高齢者が残り、若い世代が伊勢を離れるケースもよくある)。同時に、天理教、立正佼成会、創価学会、霊友会などさまざまな新宗教も一定程度定着していることを確認した。
祖霊社には仏式より安価に葬儀を行えるということが浸透してきたこともあり、かつ、葬儀社とは一線を画した神式での司式をしっかり行っていること、宮崎殿という通夜ができる施設を建てたことなどもあり、平成年間に数百軒も「檀家」を増やしていることなどもうかがった。皇學館大学卒業生も神職として勤めており、祖霊社が講社員向けにイベントを実施していること、『講友』というニューズレターを資料にその活動を分析すること、墓地などについては、皇學館大学紀要の論文や報告書が伊勢市立図書館等に所蔵されている可能性もあると教えていただいた。
伊勢市以外にも、大紀町野原(三十年前は七保牛の畜産業など活発、神葬祭をできる若者を祖霊社に学びに行かせていた)、瀧原、明和町竹川(平成に公民館・神葬祭施設を建設)、志摩市越賀など神葬祭を実施しているとうかがい、次の調査へ向けてのアイディアもいただいた。
神道式墓地の調査、地元住民へのインタビュー
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十五年十一月二十一日
調査地 中村共有墓地(三重県伊勢市中村町)、北山墓地・南山墓地(三重県伊勢市楠部町)
中村町共有墓地の見学。平成二十三年に整備され、水場や可燃物専用置場などが整理されていた。約二百五十区画の多くが神式だった。榊が供えられている区画が幾つもあり、日々、誰かが墓参している様子がうかがえた。同所近辺には一族墓、仏式が多い共同墓地もあり、そちらには墓参者がいた。
楠部町の北山墓地の見学。貝吹山の南側・自動車専用道路向きに切り開かれるような形の墓地。同所では同日の納骨に備えた石屋が作業をしていた。また、「命日と盆くらいしか来れない・・」と言いながら、老人男性が墓地清掃をしていた。同所に墓地を持つ伊勢在住の方に、同墓地の様子をうかがう。同墓地ではお盆の時期に笹飾りをしており、各墓所の前にはその笹を差す穴が備え付けられていた(今回廻った他の墓所、前回廻った墓所にはいずれもそれはなかった)。八月十三日から十六日まで飾り、その一週間前には墓所清掃を利用者一同で行うという。公民館が墓地(今回廻った三か所共)の管理者となっていることは掲示物で示され、さまざまな受付窓口になっていた。同地では改葬などの際に、個別に整備が進んで、現在の様な整然とした様子になっている。神式も多かったが、仏式もあった。同地から徒歩三十分ほど、五十鈴川を渡った四郷小学校先の山の所に南山墓地があり、同所を見学。墓参を終え帰る老人女性に会う。同地は仏式墓地が多数を占めていた。近鉄線の近くに鬱蒼としている森の中にあった。
三か所共、戦没者のためのかなり大きな墓石が並んでいたと同時に、古い墓石等はある程度整備されていることもわかった。
このように、伊勢市内のアザハカは地元民たちが守っていることを改めて確認した。
謡曲『海士』の舞台と伝承に関する寺社および史跡の調査
原田 香織 研究員
期間 平成二十六年二月二十二日~二十四日
調査地 かむろ八幡宮、栗林公園の掬月亭、五剣山八栗寺、志度寺、多和神社、白鳥神社、田村神社、滝宮天満宮、大麻神社、善通寺、曼荼羅寺、出釈迦寺、本山寺、観音寺、神恵院、雲辺寺、粟井神社、妙法寺、高松城址(以上、香川県)
藤原氏関係伝承など古代日本の古い伝承をもつ四国香川県の祖霊・神霊信仰形態ならびに神社仏閣の調査を行った。現在では四国は御遍路信仰が主流であり関係する番所の寺については弘法大師空海の史跡めぐりが活発に行われているが、一方で鳥居などのみが存在する廃社にちかい神社も散見した。
まずは、空海の生誕の地でもあり少年時代を過ごした地区を中心に廻った。曼荼羅寺、出釈迦寺、本山寺、観音寺、八栗寺は空海の伝承をもち山伏修行の場でもある。志度寺、多和神社など近隣の地区は、古代日本の伝承をもつ。
次に、白鳥神社、田村神社、滝宮天満宮、大麻神社、善通寺、神恵院、雲辺寺、粟井神社、妙法寺等を廻った。弘法大師空海関係の場所と、藤原氏や天皇家関係場所では参拝客が異なり、場所に拠り由緒をもちながらもその現代における盛衰が極端に出ている。また現代の御遍路信仰は特殊な集団に所属せず、弘法大師と自己との関係性のなかにある一方で白装束や金剛杖などで独自の様式性を保つことにより、宗教的な形態を顕示していた。
さらに、かむろ八幡宮、栗林公園の掬月亭、高松城址等の地区を廻った。こちらは近世の高松藩の歴史的な場である。武家倫理のなかで何を美学とするかを調査した。
先祖観の研究として、古代から続く先祖観とその変容として近世においては主従関係と地区とが合体して、地縁が先祖信仰をより強める形になっていることが明らかになった。
パネルディスカッション
平成二十五年十一月九日 東洋大学白山校舎 六三一二教室
発表者
大鹿 勝之 客員研究員
中里 巧 研究員
研究発表 常世と補陀落渡海
―『那珂湊補陀洛渡海記』にみる補陀落渡海―
大鹿 勝之 客員研究員
〔発表要旨〕このプロジェクトでは「先祖の居所としての常世の研究」という課題で研究分担を担当しているが、常世は、東方への位置づけが指摘される一方、「どこにもない」「どこにもないともいうことができない」ところとして理解されている。この常世の多義性について、山口昌男『文化と両義性』の議論から検討し、そして常世信仰との習合が指摘される補陀落渡海について、その補陀落の位置づけを『那珂湊補陀洛渡海記』を題材にして検討した。
山口真男は、日常生活において一元的な意味作用しか行わないと思われるような記号も、意味論的にいえば、そこには多義的な意味を担う可能性を秘めているといい、意味作用は、単独の範疇では成り立たず、関係項の存在を前提とし、特定の文化的記号のパターンの意味論上の価値は、対の項における対立要素と異なるという点にあるという。
そこで、山口は、対立は必然的に排除の関係をも前提とし、より広汎にとられた範疇の中では、等質の要素を含みながらも、これらの対立項は、別のレヴェルでは互いに排除し合わなければならない、という。そして、山口は、日本民俗においても、秩序だった農耕儀礼を中心とする年中行事の合間を縫って、或いは、その一部として、反良俗、反秩序の醸成を前提としているとしか思えないような行事が組み込まれていることを指摘する。
ここでの山口の指摘は、日本民俗において、秩序だった日常と、それに対する反日常の対立項がみられ、日常に対する反日常の行為が日常を際立たせるという点において注目に値する。この対立項を常世のあり方に当てはめて検討してみる。
勝俣隆は、伊勢国風土記逸文から常世が東方海上にあり、常陸国風土記と文徳天皇実録の記事も、常世国の東方性を示していることを指摘する。相川宏は、「常世」とは、〈いたるところに‐どこにもない〉という奇怪なリアリティの痕跡にすぎない、いや、痕跡ではなく〈いたるところに‐どこにもない〉というその名付しがたいリアリティを「常世」と名指したとたんに〈どこにもないどこか〉として暗に彼方を指してしまうそのことによって、ついにそのリアリティを取り逃がしてしまう名辞の罠だといったほうがよい、と述べている。常世について、その東方への位置づけがなされる一方で、〈いたるところに‐どこにもない〉という、否、そのような記述をすることによってそのリアリティを逃してしまうようなあり方は、山口のいうような対立項を示しているといってもいいだろう。
この常世の特質を、常世との習合が指摘されている補陀落渡海からみていくと、『那珂湊補陀洛渡海記』における補陀落の位置づけについては、先に述べた常世の多義性に照らしていえば、出帆地の那珂湊について、常陸国が常陸国風土記において常世に比せられ、日本文徳天皇実録に常陸国は、常世国への出入口の国として観念されていたという勝俣の指摘から、那珂湊が補陀落渡海地としての特異性を示しているといえよう。しかしながら、『那珂湊補陀洛渡海記』には、見送る様子が描かれているだけで、渡海の先については記されてはいない。補陀落渡海地の特異性と補陀落のどこにでもないというあり方は、常世の方向とどこにでもないというあり方に通じ、そこに対立する多義性をみることができる。
研究発表 キリスト教正教と北方アジアの霊性
―罪・自由・聖愚者をめぐって―
中里 巧 研究員
〔発表要旨〕キリスト教は、唯一神という点に排他性がみられる。学校教育、その背景にある、江戸末期から明治にかけての近代の特殊性にもよるものと思われるが、キリスト教とは西ヨーロッパ、西洋のものであり、東アジア文化圏、日本文化圏とは異質なものではないかと考えられている。しかしながら、キリスト教の原点となるものを探ってみると、キリスト教は排他的ではなく、日本にとって異質なものではないことがわかる。
キリスト教は、ローマンカトリックおよびこれから分離発展したプロテスタントの専有物では決してない。一〇五四年に起こった東西教会の大分離により、ローマンカトリックはキリスト教の正統性から乖離したといえる。原罪論はローマンカトリックやプロテスタントの教義であり、原理的には自由は認められないが、三八一年第一次コンスタンティノープル公会議において成立したニケア=コンスタンティノープル信条を遵守する正教会では原罪論が認められず、人間の自由意志は罪性によって破損していると理解したうえで認められている。ニケア=コンスタンティノープル信条においても「罪の赦し」という言葉があるが、その罪が原罪であるとは記されていない。
コンスタンティヌスによる三一三年のキリスト教公認以後、イエス=キリストの信徒は急速に、教会を援助するローマ皇帝の政策に妥協していき、迫害期における純粋な信仰から離れていった。これを嫌う信徒は、教会に追われ迫害される事態に直面した。そして四世紀中頃に、迫害期の純粋な信仰に復帰するため、教会との摩擦を避けて、エジプトの岩山や砂漠の地をさすらい、孤独にただ独り洞穴などで居住して神と向き合い不断の祈りに生きる一群の人々が出現した。こうした砂漠の父祖たちと呼ばれる人々の信仰は、汎神論的な面や、他の神々も容認するような面もあり、信仰の内容が多義的で自由であったことがわかる。
こうした信仰がキリスト教の原点であるとするならば、またこうした信仰の特徴が日本の信仰にもみられるならば、キリスト教は日本文化圏にとって異質のものではなく、つながりもみられるのではないかといえる。その共通の特徴は聖愚者にみることができる。聖愚者は、家も私有物もなく、ほとんど裸のまま放浪し、この世の権威に対して一切恐れず、貴族と大衆双方から尊敬を得ていた。アレクサンドリア近郊の岩窟で終日神への祈りを捧げていた砂漠の父祖たちは、聖愚者の発端に位置しているであろう。また、昔日の聖愚者像は、今日の正教会においては、教会組織の一構成員であるとはいえ、長い間、森奥の洞穴や岩窟に身を潜めて、できるかぎり他の人々との接触を絶ち、もっぱら祈りに専心する正教会の隠修士にみることができる。
こうした聖愚者は日本にも存在していたのであって、その聖愚者の特徴を、北アルプスの槍ヶ岳を開山した僧、播隆(一七八六―一八四〇)と、福岡県にある篠栗新四国霊場第二十八番札所篠栗公園大日寺の住職、庄崎良清(一九三〇―)にみることができる。
播隆は、念仏を文字どおり生き抜いた人であった。その播隆にとって念仏を唱えるということは、阿弥陀如来へ心を向け続け、片時も思いを他へ移さないということであった。播隆と聖愚者や砂漠の父祖たちの間で、ほぼ共通しているのは、教会組織や既存の教義からの自由を希求している点や、社会から隔絶しているかに見えて、一般信徒の魂の救済を真剣に願い、とりわけ貧窮者が訪れて救いを請えば、彼らは拒まずできるかぎり、そうした願いを傾聴したということである。
庄崎良清は、熱心なカトリック信者であったが、神仏の声に素直に聞き従って、衆生済度をおこなうようになった。自分の利益を求めず、質素な生活をおくり、大日寺の再興に尽くした。良清は、カトリックのように神社仏閣への参詣を禁止する非寛容さは、日本人の御祖先を迷わせるのでよくない、と考えている。良清の生き方もまた、ひとつの聖愚者の生き方といって間違いない。
このようにしてみると、諸文化の営みというものは本来、たとえ個々の文化が如何に異なる要素を内包しているにしても、共有する要素を少なからずもっているものであり、どこかしら、深く共鳴し合う部分を持ち合っているものであるということができる。
また、今回の発表に関連して、先祖観についていえば、庄崎良清は相談を受けて加持祈祷などを行うが、その際に先祖様が迷っているので救うという。こうした祖先を大切にするということは、古くからの文化の層、そのおかげで現在生きていることができている連綿性を絶ってはならないことであり、聖愚者においても、そのように受け継いできたものを否定することはない。
パネルディスカッション
平成二十五年十二月十四日 東洋大学白山校舎 五一〇四教室
発表者
原田 香織 研究員
川又 俊則 客員研究員
菊地 義裕 研究員
研究発表 継ぐを以て家とす―世阿弥の先祖観
原田 香織 研究員
〔発表要旨〕『申楽談儀』は世阿弥の芸談を次男元能が整理した書物であるが、父観阿弥のことを「先祖観阿」として、その芸風をたたえる。ここには次男元能の筆録者としての意図が働いているのか、世阿弥自身は伝書において「亡父にて候し者」という表現をしている。
実は近年、観阿弥の出自については伊賀説をめぐり、表章氏と梅原猛氏との論戦があり、梅原猛氏『うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成』(二〇〇九 角川学芸出版)において「私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う」とされて観阿弥と楠正成の関係を主張した論があるが、表章氏『昭和の創作「伊賀観世系譜」―梅原猛の挑発に応えて』(二〇一〇 ぺりかん社)において、表氏は梅原猛氏の挑発を受け、伊賀観世系譜を総合的に考察し、昭和に創作された偽系図であることを論証する。観阿弥は大和申楽結崎座を継ぎ、観世座初代棟梁として活躍したが、観世座にとって能が大成化される際それぞれの座の名人については「先祖の風体」とする。道の先祖として「一忠〈デンガク〉・清次法名観阿・犬王法名道阿・亀阿、是、当道の先祖といふべし。」つまり、田楽の一忠や喜阿弥、近江申楽の犬王など他流のものも入っている。
これは先達という意味以上の芸道における濃密な関係性を示している。血縁か芸跡か。世阿弥の伝書においては、道を伝えるべき子孫という意識と先祖という意識がある。
また、世阿弥の過去帳は奈良県磯城郡多村(田原本町)にある宝陀山補巌寺(フガン)というところにあることは、昭和の能楽史上の大発見として香西精氏『世阿弥新考』(昭和三七年 わんや書店)所収「ふかん寺二代」・「ふかん寺二代余考」に詳しい。禅寺である。一方、観阿弥の血を引くが、世阿弥の弟の子供である音阿弥の墓は、酬恩庵一休寺にある。所在は京都府京田辺市薪里ノ内一〇二である。一休寺の墓地には、観世流三代音阿弥(一三九八~一四六六)、十五代元章(一七二二~一七七四)、十九代清興(一七六一~一八一五)の墓がある。墓石は、文化二年(一八一五)に、十九代清興が建立したという。一休寺の総門の芝生を「金春の芝」と呼ばれ、金春禅竹が一休和尚のために能を演じた場所という伝承があり、「薪能金春芝跡」の石碑が建っている。
以上、伝統芸能は家元制度の確立により血縁が重視されているような観を与えるが、実際には芸統は養子縁組なども含めて、その技術を正確に伝えるものが継ぎいくという、芸跡という点が重視されている先祖観であることを報告した。
研究発表 式年遷宮のマチの先祖供養
―伊勢市の墓地と神葬祭をめぐる一考察―
川又 俊則 客員研究員
〔発表要旨〕伊勢市に焦点を当て、同地域での先祖供養の現状を考察した。同地でも仏教寺院の先祖供養が支配的だが、神葬祭は他地域より広く行われている。
今年は、二十年ごとに社殿を建て替える(伊勢)神宮の式年遷宮があった。そのうち、外宮正殿の敷地内に白石を敷く「お白石持行事」を見学した。宮川上流の白石を集め、洗い清め、川曳もしくは陸曳で神域に運び、白布に白石を包み、新しい正殿敷地に「自らの祈りを永遠に託し」納めるもので、内宮・外宮に神領民(伊勢市民)、特別神領民(市民以外)約二十二万人が参加していた。何度も経験してきた老人たちの思い、一年に亘る練習を重ねてきた二十~三十歳代の木遣、小学生の子ども木遣りなど世代継承の姿も見られた。しかし、地域住民全員参加ではなく、数地区合同もあり、他出者や他地域住民がイベントとして楽しむ参加も見られた。
神葬祭の中心的役割を果たしているのは、伊勢市民全体を対象にする祖霊殿と宇治四地区対象の宇治祖霊殿である。同施設は、明治以降広がり、第二次世界大戦後、宗教法人化した。平成年間に入って現代的施設を増設した。他の地方都市同様(あるいは過疎地域のように)、高齢者が残り、若い世代が伊勢を離れ続け、人口減少と高齢化が進んでいる。跡継ぎがいない人びとの要望から、平成十六年に永代祭祀納骨施設を建設した。平成以降、葬祭業者が市内にホール建設を進め、自宅で行っていた葬儀を公民館やホールで行うことも増え、葬儀後のお祀りをしなくなる傾向がある。かつては隣保で葬儀を協力(テツダイ)していたが、業者を頼り、葬列もなくなった。
伊勢市の墓所は共同墓地(アザハカ)、市営墓地、伊勢やすらぎ公園等がある。とくにアザハカが多いのが特徴である。お盆や彼岸では、各墓地で、多くの墓参者が集まり、笹飾り(北山墓地)を続けている所もある。高齢者だけではなく、子どもたちを含む若い世代たちも一緒に、熱心に実修している。
朝熊山の山頂付近神宮の奥の院たる金剛証寺(臨済宗)へは、葬儀後のタケマイリも、開山忌(六月二十八日)の先祖供養も、宗派を問わず、伊勢市・鳥羽市・志摩市の人びとによって実修されている。供物やシキビ、線香などはそれぞれの塔婆前に供えられていた。周辺住民のみならず、県内外の地名が塔婆に記されており、数多くの人々が塔婆に手を合わせている姿に、「生きている先祖供養」の実態を垣間見た。
伊勢市に住む人びとは「カミサンもホトケサンも一緒」という意識で先祖供養を熱心に続けている。だが人口減少が続く中でそれらが維持できるかどうかは不透明である。
研究発表 墓所の機能についての一考察
―伊弉冉尊の葬所伝承地を事例として―
菊地 義裕 研究員
〔発表要旨〕本発表では、先祖意識の形成に深くかかわると考えられる「墓所」に注目して、その機能について考察した。考察に際して注目したのは、本年度調査した三重県熊野市有馬町の「花の窟」の祭祀と『万葉集』の墓所関係歌である。「花の窟」は『日本書紀』巻一に伊弉冉尊を「紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」という伝承をもとに、土地で伊弉冉の葬地と伝えられてきたところである。『日本書紀』には、その御霊を「花の時」には「花を以て祭る」ことが記され、「花の窟」ではその故事を踏まえて、毎年二月二日と十月二日に伊弉冉の御霊を祭る「お綱掛け」の神事が行われている。この祭祀は『日本書紀』の伝承をもとに、地域で営まれてきた墓所祭祀であり、共同体における墓所の機能を考えるうえで一つの指標となり得る例として注目した。発表では、神事の概要を紹介し、営まれる神事が「お綱掛け」の形態をとる点に注目して、次の点をその特色として指摘した。①神事は二月・十月に行われ、播種・収穫の時期に対応し、農耕祭祀的要素が見出されること、②伊弉冉の御霊を祭るべく張られる綱について前回の綱が残っているときは豊作と伝えられ、綱は神意の現れと意識されており、綱は御霊を迎え祭るための依代と解されること、③これらの点から、「お綱掛け」は伊弉冉の御霊を迎えて、その祝福を念じた豊穣祈願と収穫感謝の祭祀と理解されること、また神事で撒かれる餅が「子宝餅」「安産餅」と呼ばれ、神事に豊穣多産的要素が見出されるのはこの点を裏付けるものであること、の諸点である。以上の分析を踏まえて、墓所は本来凶事の空間であるが、そこは御霊を他界から迎えてその祝福を乞う、聖地としての意味合いを持ち、生者と死者の、いわば連帯の空間であることを述べた。また、『万葉集』の墓所関係歌を分析し、①奈良朝の挽歌では墓所が死者を偲ぶよすがとして表現されること、②大伴家持の歌(巻十八の四〇九六)では墓所が祖先顕彰のよりどころとしても表現されることを指摘し、墓所で祭祀が行われれば、そこは死者や祖先を追慕し、その加護を願う空間ともなり得ることを述べて、古代の例からも墓所の機能は同様に考えられることを述べた。最後に、上記の考察を踏まえて、人が墓所を祭る営みは、個々人が死者をよりどころに、自身をその血脈に位置づけつつ自身の現在を確認する行為であり、墓所の多様化、祭祀の希薄化が進む現在、墓所をどのように営み、また祭祀するかは、現代の我々があらためて考えるべき問題であることを指摘してまとめとした。
公開講演会
平成二十五年一月二十五日 甫水会館四〇一室
先祖をまつる民俗意識の変容
吉川 祐子 氏
(常葉大学非常勤講師)
〔講演要旨〕柳田は、先祖には二種類があるとした。ひとつは、田地を家の永続のために残した人で、個性を失わないでまつられる存在。ふたつめは、死霊(ホトケ)が供養を繰り返されて清まると祖霊になり、その後弔とい切りをすませると「先祖」といわれる没個性の存在になるというものである。このふたつめを五来重は霊魂昇華説と名付けた。この霊魂昇華の流れは、長い間人々に受け入れられてきた先祖への流れにちがいない。だが、近頃この流れに異変が起きている。
「大歳の火」といわれる昔話がある。家の火を守るのは女性で、火は祖霊と同等の立場で子孫と向かい合い、これを晦にまつれば正月には子孫に恩寵をもたらすと語るものである。晦に訪れる霊の話は、九世紀の『日本霊異記』上巻十二にもある。ここでは、晦に来る霊は晦に戻ってしまい、元旦には別の神々をまつっている。この晦に来る霊は「なき人」だと『後拾遺和歌集』の和泉式部の歌や吉田兼好の『徒然草』にある。『日本霊異記』も晦に来る霊は「なき人」であり、元旦にまつる神々はこの「なき人」と同系列の柳田がいう「先祖」を示すものと思われる。まつられる先祖は子孫に恩寵をもたらす。これを「大歳の火」は伝えてきたのである。
さらに、祖霊をまつる代表的な年中行事に盆がある。これは、近世から寺院が人の死に積極的に関与して、民俗行事としての盆に関わってきた行事である。いっぽうで、寺院は年忌法要で人々に常に祖霊に関心を持つ機会を与え、先祖崇拝の維持に功績を残してきた。
この二大年中行事のほかにも、先祖を意識する先祖祭りは、遠州の「地の神」や若狭大島の「ニソの杜」、岩手の「十月ぼとけ」や遠野の「ゴシ」などの、家の年中行事あるいは一族や講の年中行事として繰り返されてきた。
こうした行事は、家族が循環し家が継続してこそ意味をなすもので、核家族化が進む現代ではこれらの継承はむずかしくなっている。核家族化の進行は、先祖崇拝を支えてきた家の永続性や系譜性を失わせてしまう方向に動いているように思われる。永続性は「大歳の火」が語るように、女性が家の火を守ること(味を引き継ぐことも含めて)で果たされ、男性は仏壇や墓を引き継ぐことで系譜性を維持してきた。しかし、今日実家は空き家となり仏壇を引き継がず、父祖の地の墓は無縁墓地化し、祖霊から先祖への移行過程の保証が難しい時代になった。それどころか実家消滅の時代である。霊魂昇華の流れは止まり、柳田の先祖論は今や通用しなくなりつつあるのが現状である。