仏教思想に見る日本・中国・韓国の共通性と差異

研究の背景

　東洋大学東洋学研究所は、東洋大学、中国人民大学、ならびに韓国金剛大学校との間で締結した包括協定、並びに、中国人民大学の仏教与宗教理論研究所と金剛大学校仏教文化研究所との間で締結した「覚書」に基づいて、三大学の協力のもと、国際シンポジウムの運営を行うことになった。具体的には、毎年、三大学が輪番で東アジア仏教をテーマとする国際シンポジウムを開くことになり、昨年度は韓国のソウルで金剛大学が中心となって「第一回韓・中・日国際仏教学術大会」と称する国際シンポジウムを開催し、東洋大学からは竹村牧男研究員、伊吹敦研究員、橘川智昭・佐藤厚客員研究員が参加した。また、平成二十五年度は、北京で人民大学が中心になって、「中国南北朝時代の仏教思想」をテーマに第二回国際仏教学術大会が開催され、東洋大学からは、東洋学研究所客員研究員の倉本尚徳・岡本一平両氏が発表を行い、佐藤厚客員研究員が通訳として、また伊吹敦研究員が幹事として参加した。こうした実績を踏まえて、平成二十六年度は、東洋大学を会場に中国・韓国の研究者を集めて、「東アジア仏教における対立・論争とその意義」をテーマに第三回シンポジウムを開催し、各国の学者と研究をめぐって意見交換を行う予定である。

研究組織

　研究代表者　　　　　　役割分担

　伊吹　敦　　　研究員　 研究総括・全体評価／禅宗の思想と形成過

程に見る仏教の中国化

　研究分担者　　　　　　役割分担

　竹村牧男　　　研究員　日本の仏教思想の独自性とその由来

　渡辺章悟　　　研究員　インド仏教から見た東アジア仏教の特性

　菊地章太　　　研究員　中国の仏教信仰にみる道教的要素

　川崎ミチコ　　研究員　文学に見る中国の仏教信仰

　岩井昌悟　　　研究員　原始仏教から見た東アジアの仏教

　佐藤　厚　客員研究員　韓国・日本の仏教教学に見る共通性と差異

　倉本尚徳　客員研究員　唐代以前の仏教信仰に見る中国的性格

　岡本一平　客員研究員　唐代以前の仏教教学に見る中国的性格

　林　鳴宇　東洋大学非常勤講師　　宋代以降の仏教に見る中国的性格

　松本知己　早稲田大学非常勤講師　中国・日本の仏教教学に見る共通性と差異研究目的、特色、予想される結果と意義

　日本・韓国の仏教は、中国仏教の移入として始まった。しかしながら、例えば、同じ宗派を名乗りながらも、その内容には国によって多くの相違が見られ、それぞれに独自の展開を遂げたことが知られる。このプロジェクトは、三箇国の研究者の個別研究とシンポジウムでの意見交換によって、三国の仏教にみられるそうした差異を明らかにするとともに、その原因を探ろうとするものである。この目的のために、毎年異なるテーマを設け、そのテーマに三箇国の研究者が集中的に取り組むことで、三箇国の仏教間の相違を際だたせるという方法を取る。平成二十六年度は、各国で行われた仏教に関する論争や他派批判を通して、それに関係した各宗派・各学派が各国の仏教において占めた位置を明らかにすることで各国の相違を比較検証し、平成二十七年度は、各国の仏教が異なるものになった原因として国民性や土着思想との関連に着目して研究を行う予定である。

　日・中・韓三国の仏教は相互に密接な関係を持ちつつ発展してきた。それゆえ、それぞれの国で自国の仏教だけでなく他の二箇国の仏教も重要な研究対象となっていたが、相互の情報交換は少なく、内容の重なる研究がそれぞれ個別に行われるような場合がしばしば見られた。こうした中で、いくつかの重要な研究テーマに絞って三箇国の仏教研究者が相互に意見交換を行ない、その記録を出版物の形で広く公表することによって各国の研究者に刺激を与え、東アジア仏教への注目が高まって研究が飛躍的に進み、三国の仏教の相違と共通点が明確化し、ひいては、色々と問題の多い三国間の相互理解を、仏教を通じて推進することができるものと考えられる。そして、このプロジェクトに東洋学研究所が日本側の中核機関として関わることによって、東洋大学全体の学術研究の高度化、学術界における地位の向上に大きく寄与するものと期待している。

　仏教の思想について、日・中・韓三国の研究者が連携を取りながら研究活動を行ない、また、一堂に会して研究発表と討議を行い、しかもその内容の全てを報告書の形で、三箇国がそれぞれ自国語で出版するといった試みは、今までに全くなされたことがなく、画期的な研究プロジェクトということができる。

平成二十五年度の研究活動

　平成二十五年度は、上記のとおり、中国人民大学で平成二十五年六月二十二日から二十三日にかけて第二回中・日・韓国際仏教学術大会が開催され、東洋学研究所から四名が参加したが、それに先立って平成二十五年六月八日に上記学術大会の打ち合わせと、公開講演会が開催され、当時韓国の金剛大学校仏教文化研究所長であった金天鶴氏による講演がなされ、その後、研究交流会を開催した。

　また、佐藤客員研究員による韓国への資料調査など、プロジェクトのメンバーによる、各分担課題に基づく研究も進められている。

　平成二十六年二月二十二日には、次年度の国際仏教学術大会についての打ち合わせと、本研究所奨励研究員である林香奈氏（韓国 金剛大学校仏教文化研究所ＨＫ教授）による公開講演会が行われた。

　そして、第二回中・日・韓国際仏教学術大会の論文集『東アジア仏教学術論集』を刊行した。

　以下に今年度の学会発表、研究調査、公開講演会の概要を報告する。

第二回中・日・韓国際仏教学術大会への参加

　　　　　　　　　　　　　　　　 　岡本 一平　客員研究員

　期間　　平成二十五年六月二十一日～六月二十四日

　出張先　中国人民大学

　私は、東洋大学東洋学研究所の一員として、中国人民大学で開催された第二回中日韓仏学会議に参加した。期日は、平成二十五年六月二十二日、二十三日である。本会議は、東洋大学、人民大学、金剛大学の三カ国、三大学で行う国際学術大会であり、多くの仏教研究者の注目を集めている。二十二日には四名、二十三日には六名の研究者が、南北朝時代の仏教思想をテーマとした学術発表を行い、参加者を含めて討論を実施した。

　その中、私は、二十三日に、「浄影寺慧遠の三仏性と二仏性」という学術発表を行った。本発表の概要は、浄影寺慧遠（五二三―五九二）の仏性説を、三仏性（法仏性、報仏性、応仏性）、二種性（性種性、習種性）の観点から考察したものである。この三仏性説は、漢訳文献に見出せないので、三身説に対応するために、中国で独自に創作された概念である。おそらく、慧遠自身が創作したものであろう。しかし、その一方で、仏性と三身の関係は、すでに『宝性論』でも問題にされているので、その遠因はインドに遡及される。また、このような問題が生じた更なる遠因は、如来蔵の語を始めて使用し、「衆生の中に如来が存在する」と主張した『如来蔵経』にある。というのも、『如来蔵経』は、衆生に存在する「如来」について比喩を繰り返すだけで、教義的な規定をしていないからである。

　私の発表に対して、討論者の周斉先生を含む数名の方から、質問をもらい、南北朝時代の如来蔵思想のあり方について、有意義な討論が出来たと考えている。

　また、他の発表を拝聴し、南北朝時代の仏教全般に関する認識を深めた。特に、仏性と種姓をテーマとする発表が多く、中国仏教の研究者の関心が、どこに向かっているのかを確認出来たことは、極めて重要な成果であると考えている。

　この他、発表者以外にも、三カ国の代表的な中国仏教研究者が参加しており、学術上の情報を交換し、議論が出来たことも重要な成果である。中国における如来蔵思想の研究が、新しい段階に入ったことを認識した次第である。

第二回中・日・韓国際仏教学術大会への参加ならびに唐代造像銘拓本資料調査

　　　　　　　　　　　　　　　　　倉本 尚徳　客員研究員

　期間　　平成二十五年六月二十一日～六月二十八日

　出張先　中国人民大学、中国国家図書館

　今回の中国出張の目的は国際仏教学術大会への参加と唐代造像銘拓本資料調査であった。六月二十一日に関西国際空港から北京入りし、北京の空港で伊吹敦教授ら他の日本側の参加者と合流した。その夜に日中韓三国の会議の出席者との晩餐会に出席した。

　六月二十二、二十三日の二日間は、中国人民大学で開催された第二回中・日・韓国際仏教学術大会に参加した。二十三日には「龍門北朝隋唐造像銘に見る浄土信仰の変容」というタイトルで報告を行った。

その概要を以下に示す。

　本報告は、北朝から唐代にかけての龍門石窟有紀年造像銘に見える天や浄土関係の用語を網羅的に収集し、分類、整理することで、そこに示された天や浄土信仰の時代的変化を読み取ろうとしたものである。特に龍門石窟における浄土信仰の隆盛に善導がいかにかかわっているかについて検討した。浄土教の祖師として知られる善導と龍門石窟との関係について言えば、よく知られているのは、龍門石窟の盧舎那大仏造営の検校僧に任ぜられたことである。

　善導が龍門石窟の浄土関係の造像に影響を及ぼしたことはこれまで指摘されていたが、彼またはその信奉者が直接それに関与したことを示す資料はこれまで提示されていなかった。今回、報告者は、造像銘の収集・整理の過程において、善導撰述『観無量寿経疏』と『往生礼讃偈』を部分的に引用する造像銘記を新たに発見、その時代を特定した。

　以上の報告の内容に対して、中国国家博物館研究員の李翎氏より、有益なコメントをいただき、また、会議の後、中国唐代の浄土美術について意見交換を行った。さらに会議に参加していた中国社会科学院世界宗教研究所研究員で中国仏教美術の専門家である張総氏にも貴重な意見を頂戴した。

　二十四日以降は中国国家図書館において唐代龍門石窟造像銘のうち、阿弥陀や浄土造像に関するものを中心に調査を行った。その主なものは六六〇年趙客師堂造阿弥陀仏像残記、六六九年孔士登造像記、六七五年周遠志造阿弥陀像記、六九四年浄土堂銘などである。この調査により、『龍門石窟碑刻題記彙録』に収録された録文の誤りや判読できていない部分についていくつかの文字を補うことができるなどの成果を得た。二十八日に日本に帰国した。

第二回中・日・韓国際仏教学術大会への参加

　　　　　　　　　　　　　　　　 　　佐藤　厚　客員研究員

　期間　　平成二十五年六月二十一日～六月二十四日

　出張先　中国人民大学

　日本の東洋大学、韓国の金剛大学校、中国の人民大学は、昨年から十年計画で仏教学の学術交流を行っており、毎年一回、持ち回りで学術会議を開催する協定を結んでいる。第一回目の会議は昨年六月に韓国の金剛大学校で「東アジアにおける仏性思想の受容と変容」という主題で開催され、第二回目の今年は「南北朝時代の仏教思想」という主題のもと、六月二十二日（土）、二十三日（日）の二日間にわたり、中国の中国人民大学で開催された。出張者は、この会議において日本語と韓国語の間の通訳を務めた。

　二十一日（金）の午前に羽田を出発し、午後に北京に到着した。この日は夕方から前夜祭が行われ、中国人民大学の食堂において、韓国の金剛大学校からの参加者たちとともに、人民大学の先生方から歓待を受けた。

　二十二日（土）、二十三日（日）の二日間が学術会議であった。最初に中国人民大学の総長による歓迎のセレモニーがあり、引き続き続いて会議が行われた。発表者は、二日間、基調講演を含めて十名（日本人三名、韓国人四名、中国人三名）であった。この中、出張者（佐藤厚）は二つの発表（『涅槃経集解』に関する研究、種姓無為論の起源に関する一考察）に関する、コメントへの応答や質疑応答の通訳を行った。また、二十二日（土）の午前中には、三大学の代表の会談が行われたが、ここでの通訳も担当した。二十三日（日）の閉会式では、日本代表、伊吹敦先生による来年開催校の挨拶の通訳も担当した。学術会議は発表者およびコメンテーターだけでなく、聴衆からもさかんに質問が出て、とても実りあるものであった。二十四日（月）は、午前中は北京大学の近くの書店で本を購入したのち、空港に向かい、午後の便で日本に帰国した。総じて今回の出張は、主題に関する最先端の研究について、三カ国の学者たちの熱心な討論があったおかげで、大変有意義であった。

韓国の学術機関・寺院における、韓国仏教に関する聞き取り調査・実地

踏査・資料調査

　　　　　　　　　　　　　　　　 　　佐藤　厚　客員研究員

　期間　　平成二十五年八月二十七日～九月十日

　出張先　韓国　威徳大学校、曹渓寺、奉恩寺、ソウル仏教大学院大学、妙覚寺、国会図書館、東国大学校ほか　韓国・日本の仏教教学に見る共通性と差異という役割分担のもと、資料収集を行った。取材先の都合により若干スケジュールの変更はあったが、現地の方々の協力により、むしろ当初の計画よりも数多くの成果を収めることができた。

　八月二十七日（火）十五時三十五分に韓国・キンポ空港に到着した。八月二十八日（水）には威徳大学校イ・テスン教授より韓国仏教の現状について聞き取り調査を行った。八月二十九日（木）には韓国学中央研究院チェ・ヨンシク教授より、韓国仏教の現状、および仏教学研究の状況についての聞き取り調査を行った。八月三十日（金）には曹渓寺にある曹渓宗宗務院教学院次長のキム・ビョンジュ氏より、現在の曹渓宗僧侶の出家者、教育等についての聞き取り調査を行った。八月三十一日（土）にはハンマウム禅院の僧侶、慧鐘氏よりハンマウム禅院創立者であるテヘン氏の思想についての聞き取り調査を行った。九月一日（日）には韓国中央博物館および奉恩寺を見学した。九月二日（月）には曹渓宗が主宰する寺院体験プログラムを担当するテンプルステイ事務局のキム・ダニン氏より現在のテンプルステイの実施状況、および日本人参加者の状況について聞き取り調査を行った。九月三日（火）には仏教新聞社記者イ・ソンス氏より、現在の韓国仏教の状況についての聞き取り調査を行った。九月四日（水）には韓国学中央研究院図書館にて近代韓国仏教の資料を調査した。九月五日（木）には仏教中央博物館を見学した。特に企画展示である曹渓寺の設立から現在までの過程は、韓国近現代仏教を研究する上で参考になった。九月六日（金）には、曹渓宗僧侶であるカソプ氏、テギョン氏より、曹渓宗僧侶の生活についての聞き取り調査を行った。九月七日（土）、八日（日）は一泊二日で、ソウル北部の華渓寺で韓国寺院文化体験であるテンプルステイに参加し、韓国仏教の礼拝、参禅などを体験した。また同日午後には大韓民国歴史博物館を見学し、近代以後現在までの韓国の歴史の流れについて勉強した。そして、国会図書館で資料調査を行った。九日（月）には東国大学校図書館において、近代韓国仏教の資料調査を行ない、また同校ＨＫ教授のキム・ヨンジン氏より韓国仏教の現状についての聞き取りを行った。十日（火）は十二時五分キンポ空港発の便に搭乗し、帰国した。

公開講演会

平成二十五年六月八日　東洋大学白山校舎　五一〇四教室

　韓国における仏教研究の現状

　　　―韓国仏教研究を中心として―

金　天鶴　氏

（金剛大学校仏教文化研究所長）（当時）

　〔講演要旨〕今回の講演では、韓国における仏教研究の現状というテーマで、韓国の仏教関連学会のうち、重要と思われる韓国仏教学会と仏教学研究会を取り上げ、研究活動、著書、論文について報告し、現在あるいは将来韓国の仏教研究の中心となる研究者や団体を紹介した。

　韓国仏教学会は一九七三年に創立され、韓国の仏教学会の嚆矢となる。毎年春秋二回の学術大会のほかワークショップが開催され、学者だけでなく信者も参加できるような運営がなされている。一九七五年に『韓国仏教学』という学会誌を創刊、年に三回刊行され、本年二〇一三年四月までに六十五輯を数えるに至っている。

　仏教学研究会は一九九八年に創立された、討論中心の学会。毎年春秋二回の学術大会と、夏冬二回の学術ワークショップが学会活動の中心である。学会論文集『仏教学研究』を二〇〇〇年に創刊。二〇一三年現在、三十四号まで刊行。

　最近五年間の研究動向として、ここ五年間『韓国仏教学』に掲載された百二十九本の論文の割合を見ると、韓国仏教関連が約四十％、インド・チベット仏教関連が二十二％、中国関連が十％と、韓国仏教が中心となっているが、インド・チベット仏教関連の研究への関心が高まってきている。

『仏教学研究』に最近五年間掲載された論文（百四十二本）の割合は、韓国関連が二十九％、中国関連が二十二％、インド・チベット関連が十九％で、『仏教学研究』は韓国仏教を中心とする『韓国仏教学』に対して、仏教全般を広く扱う傾向があるが、それでも韓国仏教に関する論文の割合は高い。

　なお、韓国仏教の研究の動向についていえば、新羅・高麗・近現代の仏教研究が主流を占めていたことに対し、最近朝鮮時代の仏教研究が進められている。

　最近五年間の韓国仏教研究の主な成果をあげてみると、崔鈆植（韓国学中央研究院教授）『校勘大乗四論玄義記』（二〇〇九年、五九〇頁）、金星喆（東国大学校教授）『僧朗―その生涯と思想の分析的探求―』（二〇一一年、五六八頁）、金龍泰（東国大学校教授）『朝鮮後期仏教史研究―臨済法統と教学伝統―』（二〇一〇年、四二九頁）といった著書、金剛大学校仏教文化研究所編『華厳経問答』の諸問題（二〇一二年、二一九頁）、韓国学中央研究院編 円測『解深密経疏』の「勝義諦相品」研究（二〇一三年、二二九頁）といった論文集がある。

　最後に、韓国の国家事業として行われている仏教研究について触れておきたい。韓国のＨＫ（Humanities Korea 人文韓国）事業に四十三の研究所が支援を受けているが、仏教関連は金剛大学校仏教文化研究所と東国大学校仏教学術院の二つのみである。両者のＨＫ事業を比較すると、金剛大学校仏教文化研究所は東アジアの仏教を視野に入れているのに対し、東国大学校仏教学術院は韓国仏教研究を中心とし、韓国仏教を世界に知らしめようとするグローカルな性格を持っている。

また、東国大学校仏教学術院はＡＢＣ事業（Archives of BuddhistCulture）という国家事業により、世界にある韓国仏教文献を蒐集して、テキストデータベースの構築を進めている。この点からして、今後東国大学校仏教学術院が韓国仏教研究の中心センターとなるものと思われる。

公開講演会

平成二十六年二月二十二日 東洋大学白山校舎 １２５記念ホール

　弥陀・弥勒両信仰の交渉について

　　　　　　　　　　　　　林　香奈　氏

（金剛大学校仏教文化研究所ＨＫ教授）

　〔講演要旨〕仏教にはさまざまな思想が包含されており、歴史的な過程において対立したものも少なくない。阿弥陀信仰と弥勒信仰もその一つであり、特に隋から初唐期においては、玄奘を中心とした法相宗が重んじた弥勒信仰と、道綽から善導へと続く中国浄土教が強調した阿弥陀信仰との対立が明瞭になった時期でもあった。両信仰は類似点も多く、古くから東アジア全域に影響を与えてきたが、阿弥陀信仰に比べて弥勒信仰については詳細な先行研究が少ない。そのため、本発表ではまず阿弥陀信仰と弥勒信仰の概要を説明した。阿弥陀信仰が『無量寿経』などの浄土三部経を所依とするのに対して、弥勒信仰も『弥勒下生経』や『弥勒上生経』などを所依とすること、および阿弥陀信仰も弥勒信仰も浄土往生を目指すが、阿弥陀仏の極楽浄土に対して、弥勒菩薩の浄土には兜率天と下生後の地上世界の二種類があることなどである。浄土三部経はいずれも大乗経典だが、弥勒経典には竺法護訳と伝えられる『弥勒下生経』のように、阿含経典に由来するものも含まれる。

　ともに浄土往生を目指す阿弥陀信仰と弥勒信仰は、中国に受け入れられた当初は混同されることもあり、北魏時代には西方往生と弥勒下生を同時に願う碑文も発見されている。両者の区別が行われるようになるのは七世紀前半頃に道綽や迦才といった阿弥陀信仰の論師が、兜率天と西方浄土の優劣を比較し、西方往生を熱心に勧めるようになったことに端を発すると考えられている。しかし、中国浄土教の大成者である善導の影響力の大きさが『続高僧伝』に記録されている一方で、善導の弟子であった懐感は、『摂大乗論』が訳出されて以降、西方往生は死後直ちに叶うのではなく、はるか未来のことだとする「別時意説」が普及して、阿弥陀信仰が下火になったと述べている。懐感が活躍したと思われる七世紀後半は、玄奘とその一門が弥勒信仰を宣揚した時期でもある。玄奘門下の一人である基は『弥勒上生経賛』を執筆して道綽らの主張に反論しており、懐感はその流れをふまえて『群疑論』で弥勒信仰にも一定の配慮をしつつ、西方往生を勧めている。

　このように、七世紀は両信仰の対立が最も激しかった時期であり、新羅の憬興は『無量寿経連義述文賛』で西方浄土と兜率天の往生の難易を論じ、西方往生は容易とする道綽らと、兜率往生こそ容易とする基の主張に対して、西方往生は「難生中之易」であるとする独自の見解を出している。また、元曉の『遊心安楽道』（偽撰説あり）にも、両信仰の対立を諫める見解が述べられており、阿弥陀信仰と弥勒信仰の緊張関係が当時の東アジア仏教に広く影響を及ぼしたことが看取される。