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再発した旅行熱

1.使い難くなったパソコン

去年の終わりの1か月ほどは19インチの新しいパソコンの設定に追われました。主な原因は買ったヒューレット・パッカードに日本語処理機能がなかったこともありますが、15年前、日本を出る以前に買っていた世界地図や百科事典等のソフトウェアが動かなくなって少し時間を取られたことや、3次元ビデオを見れるように装置を入れ替えたりしたからです。それをやっと終え、新年の「コロンビア便り」を書いていた時に、また問題が起こりました。

文章を書き終え、最後に写真画像を張り付けようとしました。そのうち2枚は上下が逆転し、また2枚は横転したままでした。僕はインターネットの検索エンジンにGoogleを使っています。今まではこんなことは一度も起こりませんでした。これはひょっとして新しいパソコンに変え、オペレーティング・システムをWindows7からWindows8.1にしたためかも知れません。

僕の住んでいるコロンビアは日本との時差が14時間遅れています。2016年1月1日の0時はコロンビアでは2015年12月31日午前10時なのです。それで10時半頃から「コロンビア便り」を書き始めました。文章を書き終え最後に写真を張り付けました。ところが先に書いたように、何枚かの写真に問題があったのです。こんなことは2001年に旅に出てから一度も起こったことはありません。僕はGoogleのソフトウェアがWindows8.1に正しく対応していないのではと考えています。

僕が2001年6月に世界一周を目指してアメリカ合衆国に飛び、すぐにBMWのバイクを買いました。バイクの旅を初めてすぐに、日本のエスペランティストであり、僕のスペイン語の先生だった故・平井征夫さんから旅の記録を書いてインターネットに流さないかと言われ、現地でデータ記述言語HTMLの本を買って勉強し、インターネットに旅の記録を流すようになりました。2001年ではまだインターネットは余り普及しておらず、検索キーに松本徹と入れると僕のホームページだけが出てきました。とにかく、現在の「コロンビア便り」もこの言語で書いています。そして、この言語を翻訳して「コロンビア便り」が読まれる訳ですが、写真画像はGoogleの検索エンジンで貼られているのです。今まで写真を貼るのに問題が起こらなかったので、Windows8.1のためではないかと思うのです。

一般的には、パソコン、携帯電話、デジタルカメラ、カーナビゲーション等の製品でも、新しいものの方が古いものよりも性能等の点で改良され進歩しているのが普通です。そしてこのような製品にも勿論コンピュータのプログラムが使われています。このプログラムは日本人で東京大学の坂村健が1984年に開発した、トロンと呼ばれる基本ソフトであり、無料で世界中に供給されていました。しかし1989年、アメリカ合衆国が日本に対し、小中学校で使うパソコンの規格をトロンに決めるなと言ってきました。当時巨額の貿易赤字を抱えていたこの国は、日本に強い圧力をかけてきたのです。そして1995年、Windows95が世界中で販売され、今日に至っているわけです。ご存知のようにこれはトロンと違って高い使用料を取っています。そして、マイクロソフトは世界一の会社になりました。物の発明料には期限がある筈です。インターネットで見るとWindows1.0は1986年に、Windows3.1が1992年に発売され、Windows95は僕も買いました。それからもう20年以上経ちますが、まだ特許権が有効なのでしょうか? インターネットで調べると国際特許権とは別なのかも知れませんが、日本の特許権の存続期間は20年であると書かれています。ひょっとしてWindows7やWindows8を出すたびに発明開始ということになっているのでしょうか。そうするとマイクロソフトは永遠に世界一の会社と言うことになり、アメリカ合衆国が永遠に儲かると段取りになるのですか?

自動車を含め日本の工業製品の品質の高さを、僕は信じて疑いません。世界一だと思っています。それに比べ、たとえばアメリカの代表的バイクであるハーレー・ダビットソンの性能の悪さは最悪だと、買った友達から聞いたことがあるし、アメリカの自動車は日本ではほとんど見かけなくなりました。目に見える工業製品は性能が良くなければ当選ながら市場から姿を消すと言う原則が適用されてきたからです。しかし、ソフトウェアに特許料を取ったアメリカの会社は、改良されなくて逆に改悪されても、永遠に存在を保証されるのであれば、この世の中にあって大問題になると思います。

2.久しぶりに海外旅行(チリ・アルゼンチン旅行)

自由化された海外旅行

コロンビアに住むようになった2004年9月からは、僕の海外旅行と言えば日本に帰国するのと、日本からエスペランティストの西本晋さんが来た時にペルーに妻と三人で旅行しただけでした。国内旅行も、2008年5月に今住んでいるフサガスガに引越ししてからは、全くしていません。主な理由は、この国には泥棒が多くて、家をあけられないからです。2011年に日本に帰国した時には、留守番として向かいの奥さんに頼んで我が家に泊まってもらいました。しかし、僕等の留守中の3か月間は不便だったと言っているので、もう頼めません。ところが2年ほど前に、我が住宅地域では泥棒除けのために、団地入口の門番と夜の警備員の二人を置くようになり、団地の防御壁を高くし、照明塔も増やす等の対策を講じました。それでこのところ泥棒被害は発生していません。家を留守にできるのではないかと思うようになりました。

もう一つの理由は、数年前からこの国の人達にも海外旅行が比較的自由になってきたからです。妻のマリアも、チリ、アルゼンチン、メキシコ、ブラジルへ行くことができるようになりました。

乾期に出発

それで2016年、チリとアルゼンチンに行くことにしました。地球上で一番南極に近い町がアルゼンチンにあります。そこは3月になると雪のため旅行がしにくくなるため、2月に行くことにしました。2月4日に出て、3月6日に帰国することにしました。そのため1月9日にインターネットで切符を買いました。2005年に日本に帰国した時には、首都のボゴタの旅行代理店で航空券を買ったのですが、今はインターネットで支払いまで済ませることができるので、非常に便利です。チリの首都Santiagoまでの航空券は二人で14万円弱でした。

旅館の予約

2001年から4年3か月にわたる南北アメリカのバイク旅では、一度も旅館の予約をしませんでしたが、今回は女房のマリアと一緒なので2~3日後までの旅館の予約をしました。今回最も高い旅館はチリの温泉に近いPuconで一泊12,000円も払いましたが、一泊しただけで4,500円の旅館に移りました。次に高かったのは、この旅で最初の町Punta Arenasでしたが、ここは港町なのに何故か旅館が高く、一泊9,400円を払いました。次はFitz Roy山 のあるEl Chaltenで9,000円払いました。その他は一泊3,400円~7,900円ですが、一般的にアルゼンチンよりもチリの方が安く、Puconの一晩を除くと、一泊4,500円までで泊まれました。夕食は勿論なしですが、なるべく朝食とシャワー室の付いているホテルを選びました。

チリの南へ

2003年4月にはバイクで北中米からコロンビアに入り、半年間滞在して入国期限が切れ10月にエクアドールに向けて出発し、Santiagoに着いたのは2004年1月21日でした。途中、アルゼンチンの南でバイクが故障しましたが、その修理に時間が掛かり修理が終わるのを待っていると、南緯54度48分と地球上で最南端の町であるUshuaiaが冷え込み、走れなくなると聞きました。それでバイクを修理屋に残しバスで行くことにして、Ushuaiaに着いたのが2月24日だった。1か月と少しかかったが時間に追われずゆっくりした旅だったし、今度は全てバス旅行なので1か月あればSantiagoから往復できると考えていました。一月の末になって日程を組んでいくと、1か月で往復は無理なことが分かり、急遽SantiagoからUshuaiaまで飛行機で飛ぼうと思い、さらに日程を組み直しましたが、まだ時間が足りないので、ただ南端の町と言うだけで大したことのないUshuaiaを止め、少し北で南緯53度10分にあるチリのPunta Arenasまで飛ぶことにしました。

2月の初めにPunta Arenasへ

Santiagoから乗った飛行機は、快晴の中、眼下にアンデス山脈を見下ろしながら南のPunta Arenasまで飛んで行きました。今回南米の南に妻を連れだしたのは、氷河とTorres del Paine(2884m)やFitz Roy(3405m)と言った美しい山を見せたかったからです。いずれもパタゴニアと呼ばれる南米の南の端にあって、当然冬は寒いので夏にしか行けないところです。それで出発を2月の初めにしたのです。

Torres del Paine

Torres del Paine

Punta Arenasで2日間旅の疲れを取って、247㎞北北西にあるPuerto Natalesに行くため、14時半から3時間のバスに乗りました。Puerto Natalesはまだチリの町ですが、すぐ東はアルゼンチンです。この町の北にはTorres del Paineと言う風光明媚な山があるのですが、2004年に来た時には、空は曇天で山には霞みがかかり残念な思いをしました。しかし今回は快晴。町から北へ続く道路は、僕らの乗る観光バス以外、家もなく動物の姿も見ない地球の南の果てを走ります。やがてバスはTorres del Paineが見えるところに着きました。2004年に来た所とは感じが違いました。既に大きな観光バスが6~7台着いていました。バスを降りた人の後について事務所のようなところに入ると、国立公園入場料を二人分で6,500円も払いました。その辺をウロウロしていると、小さなバスが時々さらに山の方に向かって上っていきます。また、登山服を着た若い人達は、蛇行する山道を登っていきます。僕たちも分からないままバスに乗りました。4~5kmの距離でしたが、二人で往復2,100円払いました。着いたところからは山は一部しか見えず、大きなホテルが建っていました。これは依然来た所とは全然違っていました。そこで合った山登り姿の若い日本人夫婦に、他にバスで行けるところが無いかと尋ねましたが、無いと言います。前に僕が行ったのは山の反対側だったのかも知れません。ここには公衆便所もないので持ってきたビールを飲んで、また小型バスに乗り大型バスが着いたところに戻りました。こちらの方が山の全景が見えて、ずっと良い所だと思いました。今回は空も晴れ上がって、山も最高に見えたのですが、物価の高さには驚きました。二人とはいえバス代と入山料だけで15,000円も払いました。

チリからアルゼンチンへ

Puerto Natalesはアルゼンチンとの国境に近い町です。チリを出てアルゼンチンに入ろうとしても、アルゼンチンの入国管理事務所がなかなか現れません。10分か15分走った所にありました。チリとアルゼンチンは国境線で揉めていたことを思い出しました。アルゼンチンへの入国検査を終えてバスは走り出しました。ところが不思議なことに、またチリとの国境の方に後戻りしていくではありませんか! チリの国境事務所に着くと老年のアメリカ人夫婦がバスを降りました。チリでの出国事務が不完全だったようなのです。バスはしばらく待っていましたが、彼らを残してまたアルゼンチンの国境の方へ戻りました。二人はどうなったのでしょうか?

砂漠へ入る

我々は地図上ではまっすぐ北にある町、El Calafateに行きます。しばらく北に向かって走りましたが、そのうち東に向かいました。地図を見るとPuerto NatalesからEl Calafateまでの距離は120㎞~130㎞くらいで、地図には道路が書き込まれているのですが、どうした訳かこの道路を走らず東にどんどん走り、大きく迂回し、6時間かけて362㎞走りました。Puerto Natalesからアンデス山脈を越えアルゼンチンに入ると砂漠です。バスでしばらく走ると町が見えてきました。石炭発電の町です。そこを出るとまた何もない砂漠で、時々小さな草原が現れ、牛や羊が見られます。多分誰か持ち主がいると思うのですが、周りには一軒の家も見えません。1時間50分くらい走った所に40軒くらいの集落がありましたが、あとは無人の砂漠です。3時間位走ったところで、ラクダを小さくしたような形のアルパカが5~6頭、何もない砂漠で遊んでいました。

El Calafate

長い長い平坦な砂漠をずっと走ってきましたが、バスはいつの間にか木のない禿山の稜線を走っていました。山を下ってしばらく走ると木々に囲まれた綺麗な街に着きました。El Calafateです。人口が2万程度ですが、砂漠の中にあるオアシスで、綺麗なホテルが軒を連ねています。

氷河

実はこの町には氷河を見に来たのでした。Perito Morenoと呼ばれる氷河は町から西に80㎞のところにありました。見学バスでEl Calafateを出ると砂漠が広がっていましたが、しばらくすると大きな湖に出て、そのうちに樹木が山を覆ってきました。地球温暖化により世界中の氷河が融けて後退する中、この氷河は逆に大きくなっていると言われています。14時30分に氷河に着くと観光バスのガイドが、氷河を船で見学する人たちを募りました。一人2,800円と言います。僕は依然来た時に乗っていたのでマリアが一人で乗ることになりました。マリアを含め何人かがバスを降りた後、僕は他の乗客と同じバスで、氷河を見下ろせる場所に連れて行かれました。

氷河

氷河となって山の西南から下ってきた水は、北と東の方向にY字型に分離するのですが氷となった川は分岐点を完全に塞いでしまった形になっています。僕は氷で塞がれてしまった小山の頂上に設けられた休憩所で、マリアが船での見学を終えて帰ってくるのを待っていました。バスの運転手が見学船は一時間で帰ってくると言っていたので、僕は氷河を上から少しの時間見下ろしただけで、あとは時間の大部分はバス停のところで彼女を待っていました。1時間と少しして、また同じバスが来たのでどうなっているのか尋ねると、氷河の北側の川の船着場から、僕のいる分岐点の頂上の下の方まで道ができているので歩いて来る筈だ、と言いました。それで下の方に降りようとしたら、以前来た時にはなかったのですが、両側を完全に囲まれた木製の大きな歩道が、氷で覆われた分岐点のずっと下の方まで設けられていました。12年前にはあまり観光客もいなかったのに、すごい変わりようでした。しかし、それどころではありません。マリアの姿が見えないのです。僕はその歩道を氷河の下まで降りてマリアを探すことにしました。悪いことにこの歩道は見学者のため、途中で何方向にも分かれていましたので、一度下りて見つからなかったら、また別の道を上がると言うことを繰り返していました。氷河が塞いだ対岸のこの場所には近代的な歩道だけでなく、大きな見晴らし台が数か所設けられているし、急斜面を降りるのに難儀なお年寄りや身体障碍者のためであろうか、エレベータまで設けられているのです。僕はいくつかの見晴らし台に移動しては、氷河に背を向けて上方の歩道からマリアがいないか見続けていました。 ひょっとして船着場に待合室があって、そこで待っているのではないかと思い、17時に見学道を氷河の下の方まで降りて、船着場まで歩いていきました。この時刻になると、さすがに船着場近くには見学者はいませんでした。途中船着場の手前で3人の労働者風の男が立ち止まっていたので、襲われるのではないかと大急ぎで通り過ぎましたが、何事もありませんでした。船着場のすぐ横に待合室のような建物がありましたが、誰もいませんでした。その時、若い男女の観光客が来て、見晴らし台の方に歩いていくのが目に入りました。先ほどの三人組が怖いので、急いで後を追いかけました。アベックと一緒にいる方が安全だと考えたのです。三人組がこちらに歩いて来る前に追いつき、無事何事もなく過ぎました。考え過ぎと言われるかもしれませんが、急に人気のない所に放り出されたからです。

また見晴らし台の方に戻ったら18時前になっていました。観光客の数もずっと減っていました。でもマリアの姿は見当たりません。仕方がないので歩道を、小山の頂上の休憩所の方に登って行きました。帰りのバスは19時30分に出ます。どこかで事故にでもあっていたらどうしようか、と考えたりもしました。しかし、頂上のすぐ近くにマリアを見つけました。本当にほっとしました。18時15分でした。しかし、殆ど氷河を見ず、氷河の反対側を見てマリアの姿を探していたにしては、少しお金を使いました。El Calafateの町から氷河までのバス代が2人で3,600円、氷河への入場料が2人で4,200円、マリアの見学船が、先にも書いたように2,800円、合計で10,600円掛かりました。

島藤博さん

El Calafateのホテルはきっと高いのだろうけど、僕はこの町でFuji旅館と言う日本人宿を経営している島藤博さんと連絡を取っていましたので、トイレ付きで一泊4,500円の2人部屋を予約できました。島藤さんは昔、Buenos Airesに日本人宿を経営していて、僕も2004年4月に20日間泊めてもらったことがありました。そこを売り払って、El Calafateに移り住んだのです。彼は、今ではEl Calafateの中心街にFujiと言う寿司屋を出しています。アルゼンチンでは一番の寿司屋と言うことです。実際、僕も二晩続けて食べに行きましたが、美味しい寿司でした。Fuji旅館は、彼の奥さんが韓国人であるためか、泊り客の半数は韓国人でした。Buenos Aires時代には韓国人は一人も見ませんでしたが、韓国人の海外旅行者が増えてきたためだと思います。今回のチリ・アルゼンチン旅行ではアジア人の15%くらいが韓国人で、日本人と同じくらいの旅行者を見ました。しかし、それよりもびっくりしたのは中国人の多さです。昔は数パーセントの香港からの旅行者を見ただけでしたが、今では中国語をしゃべる観光客がアジア全体の70%くらい占めているように思います。

El Chalten

次は、今度の旅で一番期待していたFitz Roy山です。以前に登った時には曇天でFitz Roy山は全く見えず、近くの町El Chaltenからの山容しか覚えていません。バスで着いたEl Chaltenは、立派なホテルが立ち並ぶ人口1,000人の、見違えるように近代的な町になっていました。人口1,000人と言っても、それはそこに住んで観光客相手に商売している人の数なので、町はそれよりもずっとずっと大きいのです。El Chaltenに着いたのは夕方でしたが、Fitz Roy山が見事な姿で迎えてくれました。

島藤博さん

変わりゆく町

翌日、町を歩いてみて分かりました。町は山に囲まれた小さな盆地のような所にあるのですが、山の麓に狭い土地があって、10mくらいの高さから盆地を見下ろしています。そこへ登って気が付きました。前に来た時にはこの辺に泊まったのだと。50件くらいの家が立ち並んでいて、その何軒かは今も民宿のような商売を続けていました。僕は以前に泊めてもらった山沿いの家を探しましたが、どの家であったか分かりませんでした。ここはEl Calafateの氷河以上の変わりように度肝を抜かれました。今新しいホテルが建っている所には何もなかったのですから…。

絶景のFitz Roy山

島藤博さんに作られた美味しい寿司

2月5日にPunta Arenasに着いてから10日目の2月14日、この10日間は毎日快晴の上天気でした。そして、El Chaltenに着いて三日目、この日も全くの晴天で、いよいよFitz Royの山を登ることにしました。以前に登った時には曇っていたこともあってか、全く登山者の姿を見かけませんでしたが、今回は旅行客が増えたこともあって、すごい数の人達が山を登って行きます。登り始めは急坂でした。12年前には何の苦労もなく登れたのに、今回はマリアを待たせて休み休みの登山です。他の人にどんどん抜かれて、約1.5倍の時間を掛けて3時間後の11時半頃、脇道に入った展望台に着きました。間近で見るFitz Roy山の美しさは言葉では表せない程のものでした。そこで1時間ほど山に見惚れたのち、さらに山を登りました。そこには湖がありました。その湖を前にしてそそり立つFitz Roy山も、また格別なものでした。そこで3時間ほど山の絶景を楽しみ、また展望台に戻り、16時に山を下りました。僕は昔、ネパールの世界第7峰ダウラギリや第10峰アンナプルナを近くで見たことがありますが、山の美しさと言う点に関しては、問題なくFitz Roy山の方がまさっています。 突風がバスを遅らす

今回の旅の目的である氷河とFitz Roy山を見たので、ずっと北のBarilocheに行くことにしました。アンデス山脈の中を走るこの道は、地図を見ると1,500㎞くらいあります。Fitz RoyのあるEl Chaltenから、そのうちの約半分は2004年のバイク旅行の時、道が悪いのでバイクでは無理だと言って止められ、迂回したところです。12年経った今も、一部は確かに未舗装路でした。今回はバスなのでこの道を行き、途中に町があれば下車して泊まれます。地図を見ると中間よりちょっと手前に、Perito Morenoと言う町があります。インターネットでホテルを探しました。しかし、どうした訳か予約を受け付けていませんでした。予約なしで行こうかとも思いましたが、結局、Barilocheまで行くことにしました。21時半出発、翌日の20時半到着予定のバスです。バス停で待っていたら、出発予定時刻を20分遅れて到着しました。遅れた2階建てのバスを見ると、2階の窓が割れて大きく口を開いています。El Chaltenに着く40分ほど前に、強風で破壊された家の一部が飛んできて窓ガラスを破壊したのだそうです。代わりのバスはEl Calafateから出るそうですが、今すぐに出ても3時間はかかります。乗客は、僕とマリア、それに僕と同年代の一人のイタリア人男性を除いて全て20歳代の若者でした。初めは誰も抗議しなかったが、やがて空港職員の女がバス停の建物を封鎖しようとした時に、二人の若い女性が文句を言いました。二人のお陰で閉じ込められずに済みました。そして、結局5時間遅れてバスは着き、さらに30分遅れて夜中の3時に、Barilocheに向けて出発しました。

砂漠を超えてBarilocheへ

朝9時15分に目が覚めました。窓の外は一面が砂漠で、人家ももちろん無く、対向車も忘れたころにすれ違うほどで、殆ど走っていません。10時35分に25軒ほどの村を見ただけです。Puerto Natalesからアルゼンチンに入ってから、ずっと無人の土地を走ってきました。これがずっと北のBarilocheまで、50㎞~100㎞毎に数軒、時には数10軒の集落を見せながら続いています。途中、一泊しようかと思っていたPerito Morenoと言う町から、美しい氷河の町Los Antiguaに着きました。知っていたなら泊まりたいと思った町でした。それからまた15時間ほど走った時に、約1時間の雨にあいました。18時間後に道の東側だけに樹木が見えてきましたが、山は禿山が続いていました。この樹木は植林された感じで、しばらくして消えました。そしてまた砂漠が続きます。19時間後にEsquelと言う、初めて大きな町に着きました。ここは2004年に来た時には小さな村だったのに、今はいくつもの大通りに照明塔が飾られ、カジノまである大きな町に変貌していて驚きました。そしてBarilocheには翌日の朝の3時に着きました。ちょうど24時間かかった訳です。

韓国の女性と知り合う

今回の旅行ではホテルは全て事前に予約していたので、いくら遅くなっても良いとは思っていましたが、安宿なので夜中の3時を過ぎてからでは受付人が寝ているのではないかと心配しました。しかし、きちんと起きていました。ここは山の斜面に立つホテルで、入口からかなり長い階段を上る必要がありました。24時間のバスで殆ど寝ていなかったので少しこたえました。

受付で宿泊帳に記入していると、バスで隣の席の窓側に座っていた東洋系の若い女性が入ってきました。僕は、彼女がバスの中で韓国語で書かれた本を読んでいるのを見たので、韓国人であることは知っていましたが、バスの中では一言もしゃべりませんでした。僕たちの乗った2階建てのバスでは、僕たちはリクライニングできる1階の席なので、2階の人達よりも高い料金を払っていました。しかしバスの事故でバスが交換されたためか、2階の席と同じ座席だったのをマリアたちは気づいていました。その料金返還交渉のことについて韓国人女性と初めてしゃべったのでした。それで一旦寝てから、返還料金獲得のため、もう一度バスに乗ってバス・ターミナルまで一緒に行くことを約束しました。

バス・ターミナルには12時40分に行きました。僕等のバス会社の切符売り場には、若い別嬪の女の人がいましたが、今はお金がないので、今夜か明日に払い戻すと言われました。しかし信用できないので、彼女を前にして待っていました。随分長い間待ったのですが、やはりお金がないと言うので、また暫くしてから戻ってくることにして、一旦引き上げました。返還金は一人3,700円でした。明日に返還と言うのはあまり信用できないので、その日の17時半頃に、また三人で出かけました。そして無事お金を受け取ることが出来ました。そう、書き忘れていましたが、彼女の名前はMi Suk Limと言います。

南米のスイス・Bariloche

チリとの国境近くにあるBarilocheは、南米のスイスと呼ばれる湖と山に囲まれた美しい街です。アンデスの山からの水が注ぎ込み、多くの湖を作っています。人口12万と書かれていますから、今までのこの旅で最大の都会です。湖の周りには西洋風の豪華なホテル等が数多く並んでいました。12年前にはバイクの修理をして、何も見ず、一泊だけして去ったのが悔やまれるような瀟洒な街でした。

マリアがバス・ツアーを申し込みました。15時過ぎに小型バスが僕らのホテルまで迎えに来ました。それから何人かの客を拾って、最後は豪華なホテルでアメリカ人女性二人を乗せました。乗客は全員、年配の人ばかりでした。バスは湖岸沿いに走り、日本のスキー場にも良くある二人乗り用リフトのある所に着きました。頂上から見た眺めは、晴れ上がった空の下に湖に囲まれた山が重なり、抜群でした。しかし、僕は登りのリフトでカメラのケースを落としてしまったので気分は最高とは言えませんでした、リフトで下に降りたら、バスが我々をLlao Llaoと言う最高に立派なホテルに連れて行きました。僕はすっかり今日の観光コースだと思って、年配の上品そうな夫婦に続いてバスを降りようとしたら止められました。バスはツアーが終わったので二人をホテルまで送って来ただけでした。それにしてもこのホテルは一泊どれほどするのだろう、と考えてしまいました。僕には全く縁のない高級ホテルでありました。

Fitz Roy山

日本レストランの主人と

この日は、日本レストランがあると聞いたので、地図を見ながら湖水沿いを歩いて行きました。“Akemi”と言う、そこそこ広くて中々感じの良いレストランでした。すぐに店主がやって来ました。東洋系の掘りの深い顔で、目も大きいのでアルゼンチン人との2世か3世だと思っていましたが、純粋の日本人だと言われました。4歳までアルゼンチンに居て、 その後35歳まで大阪の伊丹に住んでいたと聞いて、急に親近感が沸いてきました。伊丹は大学の教養の時通っていた場所の近くでもありました。彼はアルゼンチンの首都Buenos Airesに帰って来てからまだ2年ほどで、ここ7か月ほど前にこの店を開店したと言っていました。メニューを見ると、寿司もありましたが、それよりも親子丼とカツ丼と書かれてあるメニューに惹かれました。親子丼を注文しました。最高の味でした。日本でも食べたことのない美味さでした。食事に招待した韓国のMi Suk Limさんも満足していました。 それで次の日も行きました。この日はホテルの部屋をトイレの無い部屋に変えると言われたので、別のホテルに移りました。Limさんも6人の相部屋が良くないと言っていたので同じホテルで三人で寝ることにしました。部屋代は8,000円ですが、Limさんが前のホテルと同じ料金1,600円を払ってくれたので、僕にとっても宿泊料が少し安くなりました。しかもホテルの好意でドアによって区切られた2部屋を与えられました。そしてBariloche最後の夜、どこかに観光に行ったLimさんが19時にはホテルに帰ってくるから、もう一度“Akemi”に行く約束をしていましたが、帰ってきません。19時半まで待ちましたが、諦めて二人だけで行くことにしました。 この夜が最後なので、この日はカツ丼に加え、餃子 と春雨も注文しました。少し残してLimさんに持って帰るつもりでした。ところが、食事を終え、日本では経験が無いのですが、無理を言って持ち帰り用に餃子と春雨を包んでもらったところにLimさんがやって来ました。それで彼女の食事を注文し、餃子と春雨も食べてもらいました。この夜のカツ丼も申し分の無い美味さでした。もし“Akemi”が我が家から60~70㎞離れたコロンビアのボゴタにあるのなら、毎月1回は食べに行くのに、と店の主人に言いました。Barilocheは遠いので、もう行くことはないかもしれません。本当に残念です。

60㎞離れた国境線

10時5分にBarilocheのホテルを出ました。そして12時35分にアルゼンチンの国境を出ました。普通、2国の国境事務所間の距離は目で見えるくらいの近さなのですが、この国境が異常に長かったことは未だに覚えています。以前バイクで走った時の距離計では60㎞と出ていました。今回はバスで45分掛かりました。行けども行けども続く森林の山を見ていると、誰の手によっても開発される危機のないこの国境の土地は、アマゾンの森林伐採等が地球の環境を変えてしまうのではないかと考えられている現在、却って有効ではないかと思えてくるのです。

チリとアルゼンチンの休日が終わるこの日の国境は、帰省する車の長蛇の列がこの長い国境線を埋め尽くしていました。そしてやっとチリの国境事務所に入ったと思ったら、今度はバスの乗客全員が事務所内に並ばされ、バッグ等の荷物も事務所内やバスの外に並べられました。厳しい入国検査だなあ、と思っていると犬が出てきました。バックの中に麻薬等が入っていないか、荷物を嗅ぎ分けているのです。僕らの荷物はもちろん問題なかったのですが、二つ三つの荷物が引っ掛かっていました。こんなに厳しい入国検査は初めてでびっくりすると同時に、興味深いものでした。結局、13時20分から始まった入国検査は15時5分まで続いたのでした。

Puconの温泉

Barilocheを出たら、僕は、国境からチリに入ってしばらく行くとPuyehoeと言う温泉があることは覚えていたのですが、この一軒家の温泉のホテルは2004年に行った時に宿泊料の高さに、どうしようかと思案した末、思い切って泊まる決心をした所でした。インターネットで値段を調べると一泊5万円以上となっていました。とても泊まれる値段ではないので、温泉宿の沢山あるPuconへ行くことにしました。2004年にもこの辺りに良い温泉があって3か所の温泉に行った記憶があります。

Barilocheを出る前に、Limさんに僕たちはPuconに行くと言うと、図らずも彼女もそこに行くつもりだ、と言いました。それなら同じバスで行こうと言うことになったのです。

Puconには21時25分に着きました。Limさんと別れて22時過ぎに予約していたホテルに行きました。このホテルは便所も共用なのに12,000円とこの旅で最高値だったので、翌日ホテルを出て、4,500円の安宿Hospedaje Castilloに移りました。 Puconの近くには温泉が沢山あります。温泉があると言うことは火山があると言うことになります。日本も火山の多い国ですがチリもそうです。火山が多いと地震が起きます。1960年にPuconの近くの海岸地方に発生した地震は世界最大で、マグニチュード9.5でありました。したがって日本ほどではありませんが、温泉も数多くあります。僕は温泉が大好きです。日本では天気さえ良ければ、土曜日からバイクに乗って温泉で一泊していました。取り合えず公共の観光案内所に行って聞きました。地図で以前に行った温泉の付近を指し示すと、その付近の12か所の温泉名と入浴料等を書いたパンフレットをくれました。そのうちバスで行ける5つの温泉に丸印を付けてくれました。地図を見ると以前に行った温泉の更に上流に温泉が一つあって、その上流にはもう温泉がありません。

韓国人のLimさんと

一番上流の素朴な温泉

入浴料を見ると一人1,400円です。他の温泉と比べて安いと思いましたが、案内所の職員の話では、この温泉の入浴時間は3時間に限られていると言うことでした。しかし行ってみることにしました。Puconの町から36㎞離れたこの温泉に着くと、受付のおばさんが居て、この温泉は一番上流にあるので水が最もきれいだ、と言いました。当たり前のことですが、なるほどそういう見方もあるのだと感心しました。その温泉の湯船はプールのようにセメントを貼られたものでなく、石を組んで作られていましたので、日本人には本当の温泉のような 感じがしました。湯船は6つありましたが、もっとも上流の湯船は何故か冷水で、2番目の湯船の温度が関西人にはもってこいの温度でしたが、3番目からは次第に温度が下がり、最後の湯船は足を浸けただけで入るのを止めました。 二日目はずっと下流の温泉に行こうと思っていましたが、前日の受付のおばさんの、上流の温泉の方が水がきれい、と言う言葉を思い出し、行くのを止めました。 また同じバスに乗って昨日より3㎞下の温泉に行きました。ここは昨日の温泉とは違って時間制限はありませんが、その分、料金が上がって一人2,900円します。12年前にはこの温泉に入ったと信じていました。しかし入ってみると様子が違います。三階建てくらいの建物の下にプールのような浴槽が設けられています。まさに温泉プールです。朝10時半のバスに乗って来たので、まだ客数も少なく、またこの浴槽は温度が高いので多くの人は避けて、もっと湯音の低い浴槽の方に行っているようです。一人のお婆さんが入っているだけでしたので、僕は水中眼鏡を付けて泳いでみました。僕はボゴタの北にある温泉にも同じような浴槽があったのを思い出していました。

Chillanの温泉

Chilanの温泉は、12年前にバイクに乗って行きましたが、道路が舗装されていず、大きな石が転がっていたので苦労したことを覚えています。プールのような湯船ですが、そこから山を見下ろす景色が良いのでもう一度行きたいと思いました。温泉が遠いのでバス代に二人で2,200円払いました。その一方、Puconとは違って、入浴料は安く一人900円で済みました。バスが止まり、全員が降りました。しかし12年前に来た温泉とは様子が違います。以前に来た温泉は、4角形のプールのような湯船が二つあり、そこからの眺めが良かったのに、こちらは円形の湯船が三つ設けられています。従業員に聞いてみました。以前に行った温泉はもっと山の上の方にあると言われました。見上げると照明塔のようなものが見えます。多分、そこなのだろうと思いました。我々が入っている温泉は公共のものですが、上の温泉は民営のものと言われました。以前はバイクだったので自然と上まで上がったのでしょう。

Rancaguaの温泉

旅の終点Santiagoに行くまでに、その北西110㎞の所にあるVino del Marと言う町の日本旅館に寄りたかったのですが、祭りがあって混雑しているということなので止めにして、Santiagoの手前86㎞にあるRancaguaという町に寄ってみることにしました。ガイドブックに温泉があると書いていたからです。

Rancaguaはこの旅では今まで最大の街で、人口20万人を超える都会でした。2010年にはマグニチュード8.8のチリ中部地震で被害が出たそうです。街の中央には広場に囲まれた美しい教会が建っていました。

また、この街には寿司屋が多く、街の中心地付近だけでも20件くらいの寿司屋があると聞きました。中華料理屋まで寿司を出していたのには驚きました。そこでも食べましたが、この街に限らず、チリやアルゼンチンで出される寿司は、El Calafateの島藤さんの寿司屋を除いて、全て南米風の変わった味の巻き寿司でした。

Rancaguaに着いて二日目は、鉄道駅を見に行きましたが、入り口のドアは閉められ無人の状態でした。この日は土曜日だったので観光列車でも出ているのではないかと思っていたのですが、営業中止といった状態でした。それで近くの中央魚市場に行き、魚介類の沢山入ったスープをマリアと半分ずつ食べました。

まだ昼過ぎなので、RancaguaからSantiagoの方向に35㎞ほど行った所にあるカジノに行くことにしました。僕は2001年に合衆国ネバダ州のLas VegasとRenoに行ったことがありますが、マリアは初めてなのです。ここはLas VegasやRenoと違って、一軒のカジノがあるだけで、知らなければ確実に通り抜けてしまうと言う所でした。賭博場に入るのには料金を払わなければならないし、僕たち二人は賭博には全く関心がないので、カジノの建物内の商店やレストランを見て時間を潰しました。ここからの帰りのバスが一人900円もして、RancaguaからSantiagoに行くバスよりも高かったのにはたまげました。 僕たちが泊まっていた旅館の主人は、日本車スバルの4輪駆動Subaru Foresterと言う クルマを持っていました。そして、15日前に買った新車だと言いました。僕たちは温泉に行こうと思っていると言うと、その新車で連れて行くと言ってくれました。9,000円と言うので断ると5,400円に値下げしてくれたので行くことにしました。奥さんも一緒にクルマに乗って4人で出かけました。着いた温泉には20台ほどのクルマが駐車されていましたが、そのうち何と4台が同じ型のスバルだったのには驚きました。行った温泉は、小さな浴槽の付いた個室で、入浴時間がわずか20分で、一人1,400円と言われました。止めようかと思いましたが、風呂を見ただけで550円払わなければならなかったので入ることにしました。着替えを入れて20分ですから、大急ぎの入浴でした。クルマ代を入れて二人で8,200円は、高い風呂でした。

Santiago

Santiagoには12時15分発のバスで13時25分に着きました。この街には市内中心部に日本旅館があることをインターネットで探したので、その部屋を予約すべくメールを送ったのですが、返事がありませんでした。そこはSantiagoの中心の中心、Plaza de Armasに面して立っている建物の中にありました。インターネットでPlaza de Armasの写真を見ていると2004年に見た彫像が目につきました。僕はこの前にある7階建ての建物の5階に住むエスペランティストRicardo Bravoの部屋に泊めてもらったことがあるのです。その時もこの場所からそれほど遠くないホテルに泊まっていたことを思い出しました。Plaza de Armasの近くで安宿を探したらいくつも表示されたので、連絡がつかない日本旅館に一応予約取り消しのメールを打ちました。

Plaza de Armasを見下ろすホテル

Santiagoに行く前に、インターネットで見るとPlaza de Armasの北東方向に貸アパートや安宿があると書かれていたので、重いリュック・サックを背負って探しに行きました。そしてホテルを3軒見つけましたが高いのです。一泊2万7千円とか言われて、這う這うの体で逃げ去りました。近くにいた人に、安宿はどの当たりにあるかと尋ねると、Plaza de Armasの西側だと言うのでそちらに行きましたが、安宿らしいものが一軒あっただけでした。しかし聞いたらラブ・ホテルと言われました。それで、そこから北の方面を調べました。僕の2001年に買ったガイドブックによると安宿が多く存在する地域です。しかし、この辺りは古い商店や住宅は全て壊され、高層ビルに変わっていました。安宿などある筈がありません。もう2時間も探し回って疲れたので、連絡がなく断りのメールを打った日本旅館に行くことにしました。インターネットで見た住所どおりに行ったのですが、インターネット・カフェになっていました。日本旅館は何年か前に閉鎖したと聞きました。しかし店の主人がRicardo Bravoの住んでいた一階上の6階に安宿がある、と教えてくれました。行って驚きました。5泊で23,300円、一泊が4,660円と安いではありませんか。6人部屋だと1,100円と言う安さです。もっと驚きました。僕たちが通された部屋はドアを開けると鍵のかかる、そしてシャワー付きの実に大きなトイレの付いた独立した部屋が二つありました。そして二つの部屋を出たところには、大きな台所兼食堂があり、さらに、大きなガラス戸を開けるとこれまた大きなテラスが設けられ、そこからはPlaza de Armasが 一望できました。 なぜ、こんなにも素晴らしいホテルがこんな値段で出されているのか、全く考えられません。それに、1泊目と2泊目は隣の部屋は空室になっていたので、最高でした。

ケーブル・カーに乗る

2004年に来た時には、Ricardo Bravoと若いエスペランティストDanielに連れられて、少し街を見下ろせる近所の公園に行ったことを記憶していました。そこに行きたいと思って地図を見たのですが、よく分かりません。しかし、ホテルの北側で、4~5ブロック歩いたところに川が流れていて、その北東方向に小高い山があることを知りました。地図で見るとかなり高い山なので、この辺りではないと思いつつ、とにかく、その方向にマリアと歩き出しました。川を渡り東に道を取ると、中国の商店が並んでいました。その中国店の一軒に入ると、中国や日本の菓子、ラーメン等の食べ物、お茶、食器、それにびっくりしたことに僕の記憶から完全に消えていた炭酸飲料のラムネまでありました。僕は日本の餅菓子を7袋買いました。さらに歩いていくとケーブル・カーの乗り場があったので、もちろん乗りました。頂上からはSantiagoが一望でき、目的もなく、ただ足の向くまま気の向 くまま歩くのも、なかなか良いものだと思いました。

ケーブル・カーを降りて、そのまま南へ下り、川を渡り直すと、岡が見えました。サンタ・ルシア城と書かれていました。そこへ入ってかなりきつい階段を上ると展望台になっていました。ケーブル・カーの頂上に次いで、またSantiagoの街を見下ろしました。 山の傾斜地に作られた動物園

二日後マリアが、動物園があると言うので出かけました。地図を見ると、二日前に行ったケーブル・カーの近くでした。歩いていくと、またケーブル・カーの乗り場に着きました。動物園はどこですかと聞くと、もう一度ケーブル・カーに乗って途中下車するか、いやなら近いので歩いて行けと言われました。そういえばケーブル・カーで少し上がった所に降り場があったことを思い出しました。二人で700円くらいですが、しゃくに障るので歩くことにしました。ところが動物園の入口は少し登っただけの所にありました。動物園は、そこから山を登って行く傾斜沿いに作られているのです。こんな動物園は生まれて初めて見ましたが、なかなか良いものでした。マリアはまずペンギンのいる水槽に行って、長い間ずっと見ていました。彼女は、この旅行で最初の町Punta Arenasでペンギン鑑賞のボート・ツアーに乗れなかったので、大喜びでした。その他、象、ライオン、豹、キリン、シマウマ、熊、ラクダ、カンガルー、カバ、ゴリラ・チンパンジー等各種のサル、ダチョウ・フラミンゴ・コンドル・鷹等の鳥類等々、何十年振りかで見た動物園は、なかなか新鮮でした。

動物園の帰りに、12年前にRicardo達と行った公園のことが、ますます気になっていました。前の日に、僕が12年前に撮った写真が残っていたのでマリアに見せると、マリアはそれが何処なのか、ホテルの従業員に聞きました。二日前に行ったサンタ・ルシア城の下にあると言われました。それは、僕たちが入った入口と反対側の入口にあったのです。期待して行ったのですが、大した建造物ではありませんでした。

ホテルの前の広場で音楽会

我々のホテルPlaza de Armas Hostalの前の広場は、午前中は死んだようにひっそりしていますが、夕暮れになると沢山の人が集まって来てベンチに腰を掛けています。アジ演説をしている人が居るかと思えば、音楽を奏でる人たちも居て、なかなか楽しい所です。特に音楽は盛んで、毎日ほど大きな楽団が来て演奏会を行ってくれます。 人々はもちろんお金を払わずに音楽を楽しめる訳です。僕たちは一日だけ広場に出て聴きましたが、その他の日は広いベランダに置かれているテーブルにビール等を持ち出して、音楽鑑賞に浸っていました。音楽演奏は20時ころには終わっているので、それからは1リットル450円位で売られている、アルコール分50度の酒を飲んでいました。そう、チリもアルゼンチンも、酒だけは安いのです。

広い公園

Santiagoには広い公園があります。先に書いたように、我々のホテルの4~5ブロック北側を流れる川の南に沿って長い公園があります。その公園に沿って立つ10階建てくらいのアパートは環境が抜群で、もし都会に住むのならこんな所に住みたいと思いました。しかし、おそらく恐ろしいほど高いので、到底僕には縁のない建物です。

マリアがSantiagoには大きな市場街があると言うので行ってみました。僕たちのホテルから地下鉄で南に6駅行った所です。巨大な一階建ての建物がいくつも建てられていて、それが魚屋、果物屋、家具屋、電器屋、洋服屋等に分けられています。歩いて見ているだけで疲れました。

この駅の一つ手前の駅から次の駅のまだ向こうまで、大きな公園です。日差しがきついので樹木の影を選んで歩きました。Santiagoは南緯33.5度なので、南北は逆ですが、日本で言うと四国の高知くらいの位置にあります。1月の気温が40度を超えていたと言いますから、湿度が低いので日本の夏のような蒸し暑さはありませんが、日向ばかり歩いていると頭がくらくらします。広い公園で、人は殆どいませんでした。しばらくして大きな池の ふもとの日陰になっているベンチに腰を下ろしました。広い公園には、僕とマリアしかいませんでした。それから暫く歩くと大阪城ホールや大阪ドームのような建物が見えて来ました。サッカー場かと思って、その辺の人に聞いてみたら、多目的ホールだと言っていました。そのホールの横がコンクリートの長い長い広場になっていたので、広場の右端の少しだけ木の生えた部分を歩きました。こんなに太陽が気になったのは初めてでした。

不親切な空港

Santiago を発つ三日前に航空機の予約に行こうとしました。来るときはチリの航空会社LANでしたが、帰りはブラジルのSan Paulo経由でブラジル航空会社のTAMになっています。TAMの事務所が無いので一駅の距離を歩いて、開かれていたLANの事務所に行きました。予約の受付は搭乗の24時間以内だと言われ、その場を去りました。翌日、また同じ事務所に行きました。この日はSantiagoからSan Pauloの予約は取れたのですが、どういう訳かSan Paulo~Bogotaの予約は取れませんでした。出発の朝、もう一度行きましたが、やはり取れませんでした。

僕たちの泊まっているホテルでは、一番目立つところに空港へのタクシー料金は4,700円と書かれていました。貧乏旅行者が集まるホテルでこんな張り紙がしてあるのは、ひょっとして空港バスがないのではないかと思いました。ホテルで聞くのは気が引けるので、外の誰かに聞きました。地下鉄で二駅ほど離れた所にバスが付くと言うので、行ってみました。なるほど10分毎くらいに出ていて、料金は一人290円でした。残り金が少なくなっているので助かりました。

一か月の旅が終ったので、Santiagoの空港に行きました。San Paulo~Bogotaの予約が取れていないので早めに空港に行ったのです。搭乗手続きをしましたら何の問題もなくBogotaまでの2枚の搭乗券をくれました。とにかく、これでコロンビアまで帰れそうです。離陸時刻の45分前に搭乗のため3列に並ばされました。ところがなかなか搭乗させてくれません。離陸時刻になりましたが、まだ並ばされています。そのうち係員の古手の姉さんが、パイロットが遅刻していると言いました。こんなことは初めての経験です。さすが南米だな、と思いました。航空機は35分遅れて出発しました。

San Pauloの空港には3時間25分かかり、0時30分に着きました。Bogotaへ飛ぶのは5時55分なので随分時間があります。Bogota行きの搭乗口は広い空港の反対側にあったので30分ほど歩かされました。搭乗機の表示が出ていたので、搭乗口の案内は出ていないが、この辺にいれば乗れると思っていました。離陸案内表示装置には僕等の搭乗機の表示が出ています。時間が経つにつれ案内装置の航空機名に次々と搭乗口の番号が記入されていくのに、我々の航空機の搭乗口は空白のままになっています。だんだん出発時刻が迫ってくるのにおかしいな、と思っていたら、4時10分、突如我々の航空機の案内が消えました。ええっと思って、その辺の空港係員に聞くと、最初に着いた国内線の搭乗口に戻るように言われました。それでまた30分歩きました。何も案内がなかったので、他の乗客はどうしたのだろうと心配でした。これもブラジルだからかも知れないと思いました。僕は海外で何回も飛行機に乗っていますが、今回のようなことは初めてです。まあ、そんなにアクセクするな、と言うことかもしれません。

稚内から与那国島までの距離を移動

今回は2月4日から3月6日まで、チリの南の端のPunto Arenasから途中でアルゼンチンを通り、チリの首都Santiagoまでバスで旅行しました。いい加減に地図を見て計算すると、その距離は3,400㎞位になります。この距離を日本地図で見ると、大雑把に稚内から西の端の与那国島くらいの距離になると思います。大急ぎの旅のように思われるか知れませんが、そんなに急いだという記憶はありません。町が少なく、ほとんどが何もない砂漠だったからかも知れません。

最後に所要経費について書いておきたいと思います。航空券はボゴタ~Santiago 3,760,124ペソ=138,018円(1円=27.2437ペソ)、Santiago~Punta Arenas 4,401,400ペソ=157,771円(1円=27.8974ペソ)で合計 295,789円でした。ホテル代、バス代、飲食代等の経費は245,566円(旅行者小切手=563ドル=67,566円、クレジット・カード=178,000円)で、総合計は541,355円でした。32日間で1日平均1.7万円ですから思ったより使っていない気がします。

3.陽子さんが来た

12年振りに再会

2004年2月24日から3月2日まで8日間、最も南極に近い町アルゼンチンのUshuaiaの日本人宿に泊まっていた時に会った陽子さんから、2016年5月13日にメールが届きました。彼女は8年間勤めていた仕事を止めて、4月12日にUshuaiaで会ったユウ子さんに会いにエジプトのシナイ半島の先にあるDahabと言う町に行って5月12日に日本に帰ったそうです。そしてすぐに僕にメールをくれ、5月25日にコロンビアに来るとメールをくれたのです。

18時50分にボゴタの着くと連絡があったので、マリアがボゴタに住む姉に連絡して空港まで迎えに行ってもらいました。そしてその夜は同じボゴタに住む母親の家に泊めてもらいました。翌日、僕とマリアは同じフサガスガの街に住む和合さんのクルマで、陽子さんを迎えに行きました。

Cartagenaへ

僕たちは去年行ったカリブ海の観光地であるCartagenaが良かったので、もう一度行こうと3月にホテルを予約していました。5月の29日から8日間の予定でしたが、陽子さんも行くことになりました。去年はホテルを3軒変えましたが、今年はその内の一軒Hotel Stilに泊まることにしました。すぐ近所に美味しい中華料理屋が2軒あるし、またホテルの朝食もビュッヘ形式で素晴らしいからです。

天気予報を見ると12月から4月までは殆ど雨が降らないのに、5月からは一か月に10日から15日雨が降ると書かれています。2~3日は雨が降るだろうと思って出かけましたが、6月1日の夕方、Cartagenaの沖合にある島に泳ぎに行って帰ってきた後、少し降っただけでした。この日は快晴の上天気の下で泳いでいたのに、雨が降るとは驚きでした。

Cartagenaでは去年同様、城壁で囲まれた旧市街や20階~30階の高層ビルが林立する新市街、城砦跡等を歩きました。Hotel Stilの10階の部屋から見たCartagenaの高層ビル街には、この一年間でさらに高層ビルが増えていました。そしてHotel Stilを出た所にある通りにはボゴタのTransMilenioに似たバス専用線が設けられていたので乗りました。ここもボゴタ同様いくら乗っても一定料金なので、端から端まで乗りました。それで分かったのですが、僕が知っていたCartagenaは観光客のための地域で、そこに続いて旧Cartagenaとでも言うべき大きな街が続いていて、専用バスはその地域に入って行きました。Cartagenaは観光客だけの街ではなかったのです。

ある日、新市街に残る2階建ての土産物屋街を見に行きました。そこを出た時に、何か物売りのようなオジサンがマリアに話しかけて、彼女をすぐ近くの店の入り口まで連れて行きました。何だろうと思って看板を見ると宝石と書かれていました。ネパールはエメラルドの算出で有名です。世界のエメラルドの55%を算出するばかりではなく、品質も世界最高と言われています。店内はエメラルド美術館のように作られていて、美人の案内嬢が店内に保管されているエメラルドを見せながら、世界のエメラルドについて説明してくれました。そして最後に販売価格の着いたエメラルドを見せるのです。陽子さんはイヤリングに見入っていました。一番小さくて安い物なら1万円前後であります。彼女は80ドルの物を買いました。その時マリアの顔の表情が少し変わったので、僕は「ああ、マリアも欲しいのか」と感づきました。彼女に聞くと指輪が欲しいと言いました。金の指輪の着いたエメラルドは安いものでも20~30万円もしました。とても買える値段ではありません。すると案内嬢は銀の指輪の着いたエメラルドを出してきました。一番小さくて、しかも安い物が1万円ほどであったのでそれを買いました。すると陽子さんはネックレスも良いと言って買いました。負けておれないマリアは耳飾りを買いました。石の玉が好きな女心は全く理解できません。

フサガスガの近くを案内

6月10日、和合さんがクルマで来てマリア、陽子さんの4人で10㎞ほど離れたArbelaezと言う町に行きました。Cartagenaから帰って来てフサガスガの街ばかりを見ていた陽子さんに、初めて別の町を見せることが出来ました。この日は金曜日だったので夜7時ころ、ボゴタから友達のHernanがバイクでやって来ました。4人で1時ころまで飲んで寝ました。

あくる日は、また和合さんのクルマでAlbelaezと反対側の山にある和合さんの別荘地に行きました。山の上から見下ろすフサガスガの街は、いつもながらなかなかの絶景でした。

日曜日は、Hernanがバイクの後部座席に陽子さんを乗せて、38㎞離れたSan Bernardoと言う町に行きました。この町にはミイラが教会に保存されているのです。気候が特殊なのか、遺体が腐らずにミイラになってしまうそうです。

6月13日月曜日、Hernanは休暇を取って、陽子さんにボゴタを案内すると言って出かけました。そう言えば陽子さんはコロンビアに着いた夜にボゴタで泊まっただけで、まだボゴタは全く見ていないのです。それで陽子さんは6月17日までHernanの家に同居する娘のMatzudyにボゴタと周辺の街を案内してもらい、6月18日(土)にマリアの母親の家に帰ってきました。実は翌日早朝に、マリアの姉 Constanzaとその夫Carlosに誘われ、ボゴタから北に200㎞ほど離れた湖等にバスで日帰り旅行に行こうと誘われていたのです。当日は4時40分に起床しました。姉夫婦の娘Andreaとマリアの母親Lolaの6人で出発しました。湖に行くには4,000mを超える山を越えて行きます。陽子さんは、山が大きく雄大で、日本の景色とは全く違うと言って楽しんでいました。

ケーブルカーから見たSantiago

サッカーのコパ・アメリカ大会

コパ・アメリカをインターネットで調べると、「南米サッカー連盟が主催する、世界で最も古いナショナルチームによるサッカーの大陸選手権大会」と書かれています。今年はその100周年記念の大会で南米10か国に中米以北の6か国が加わり、16か国で行われました。

初戦のコロンビア対USA戦は6月3日に行われ、僕たちはCartagenaで見ました。コロンビアが2対0で勝ちました。6月5日に帰宅してからも毎晩ビールや酒を飲みながら見ていました。陽子さんは学生時代からスポーツ万能で、サッカーにも大変詳しくて、いろいろ教えてもらいました。

大会は6月25日に3位決定戦、6月26日に決勝戦が行われ、コロンビアはアメリカ合衆国に1対0で勝ち3位に、チリ対アルゼンチンの決勝は0対0のままゴールキック戦の後、チリが優勝しました。ゴールキック戦で最初に蹴ったアルゼンチンの世界的名選手メッシーがゴールを外し、その責任を取って今後アルゼンチンの代表として出場しないと発表しました。

メデジンへ

6月23日(木)コロンビアの第2の都市メデジンまで陽子さんと3人で出かけました。フサガスガのバス・ステーションから大型バスに乗りました。この辺の田舎のバスには冷房、暖房はありません。しかし、このバスはペルーまで行く長距離バスで冷房が付いています。フサガスガから30分ほど行くと標高500mくらいまで降りるので汗が流れ落ちてくるのが普通ですが、冷房の効いたこのバスは快適でした。バスは一時間ほど山脈の暑い谷間を走り、また山を登ります。峠は4,500mくらいの高さがあります。また山を下った所の街Armeniaで2泊しましたが、バス停の近くのホテルで一番上等そうなホテルに泊まったのですが、3人で1,800円くらいでしたが、窓のない粗末な部屋でした。

翌日は近くのアミューズメント・パークに行き、珈琲園を見たり、ロープウェーで公園を見下ろしたりしました。

6月25日は北へ1時間20分バスに乗り、Salentoと言う山の上の観光地に行きました。ここでは観光客は少し高い丘に登って景色を楽しむのですが、僕は止めて広場にある珈琲店で美味しい珈琲を2杯飲みました。この辺りは珈琲の名産地で、贅沢な珈琲が一杯40円位で飲めます。最も我が街フサガスガでも同じような値段で美味しい珈琲が飲めますが…。丘に続く道には土産屋さんが立ち並んでしました。

陽子さんと湖の上で

2段のロームウェーで上がるManizalesのホテル

この日は周りを高い山に囲まれたManizalesに行きました。以前に来た時にはな かった2段のロームウェーが出来ていました。ロープウェーのすぐ近くのホテルに泊まったのですが、このホテルの部屋からは街全体が見下ろせ、素晴らしい景色でした。宿泊代も3人で3,000円とまずまずでした。2泊したのですが、少し離れた大きな教会堂のあるすぐ近くに、もっと景色の良いホテルを見つけました。宿泊代も1,300円と安いので、来年にまたこの街を訪れるつもりですが、ここに泊まろうと思っています。街の郊外には温泉地がニか所あります。その一か所には温泉が二つありました。一つは高級ホテルにあり以前に入ったので、今回は前に見逃していたもう一つの温泉に入りました。この温泉は周囲を囲む山の絶景を楽しむことができました。また来年はもう一か所の温泉にも行ってみたいと思っています。この街には日本人の友人の女の方が住んでいるのですが、あいにく日本に帰っていてお会いできませんでした。 27日にはコロンビアの第2の都市Medellinに行きました。夕方暗くなってから観光案内所で紹介してもらったホテルに着きました。ダウンタウンは危険と言うので、紹介されたホテルに行きました。何と窓も鍵もトイレも机も一切ない部屋に2段ベッドが二つ置かれた、ユースホテルのような所で、一泊一人1,100円くらいで3人分3,300円くらい払いました。高いと思いましたが、近所にホテルを見なかったし、外は暗くなっているので泊まることにしました。ところが大変な所でした。何か虫がいたのか、体中を噛まれました。その噛み痕は2週間も腫れていました。 この街にはコロンビアで唯一の鉄道が走っています。翌日、早速乗ってみました。

MedellinはManizales同様、山に囲まれた街でその鉄道から山の上までロープウェ ーが設けられていて、鉄道の利用料金の80円ほどを払えば、そのまま乗ることができます。以前に行った時にはロープウェーは一本しかなかったように思うのですが、今回はさらに2本追加され、あと一本は現在建設中でした。鉄道の旅券は改札の自動検札器で取られてしまうので、後は乗り放題です。4時間乗って、Medellinの端から端まで電車から、またロームウェーの頂上から眺めました。

Medellinを走るコロンビアで唯一の鉄道

29日、2時間バスに乗り一枚岩でできていると思われるPenolの岩山へ行きました。垂直に近い岩山に740段の階段が山頂まで設けられています。僕は依然来た時 にも、下でマリア達を待っていましたが、今回も下の食堂でジュースを飲みながら待っていました。ここの食堂は大きな窓ガラスで囲まれ、岩山とその麓に広がる湖水が広く見渡せることができるので、全く退屈しませんでした。でも、僕もいよいよ年寄りになったのかもしれません。 最後はやはり温泉です。MedellinからArmeniaの4時間手前まで、8時間バスに乗りSanta Rosa de Cabalの温泉に行きました。ここは恐らくコロンビア第一の温泉で、2か所に温泉があって、どちらにも過去に行ったことがあります。その一つ、小さな温泉の滝が湯船に落ち込む温泉に行こうとして、乗り合い4輪荷物車に乗りました。依然来た時には気付かなかったのですが、着いたところに大きな滝が落ちていて、その下に5~6層の大きな湯船があるではありませんか?しかし、そこはまた明日入ることにして、4輪荷物車の運転手に頼んで、さらに1㎞先にある温泉に行きました。

Penolの岩山

予約していなかったので多分泊まれないと思っていたその温泉に空き室がありました。その日は木曜日、金曜日から週末にかけては勿論満室です。朝食付き3人で1万2千円ほどしましたが、便所にはシャワーはなく、しかも小さなトイレで、左足が洗面台の排水管に当たって真っ直ぐには座れませんでした。浴槽は3つあって、滝から流れ落ちる湯の温度は、高温好きの日本人にさえ熱過ぎるく らいでした。僕たちは入浴時間の最終の23時まで入っていました。こちらの人達も長湯で、一日中入っています。 翌日は以前に行った温泉に行くつもりでしたが、1㎞手前にあった温泉に行ったら、気が変わりました。巨大な滝を背景にした温泉は、滝を見ているだけでも素晴らしいものでした。

Santa Rosa de Cabalの温泉

巨大な滝を背景にした温泉

日本では、東北の片田舎に温泉の滝があって入ったことを覚えていますが、そこは着替え場もない無料の温泉でした。湯舟も滝壺だけでしたが、ここは大きなプールが並んでいます。どの湯槽も少し温めだったのが残念でしたが、一か所、屋根の上から湯水が落ちて くる所があって、そこの湯温は火傷をしそうなくらい高温でした。その近くでは冷水が常に注がれていました。冷水を止めれば日本人に快適な温度になるのに、と思いながら落ちてくる高温の湯水の近くに留まっていました。 温泉からArmeniaに向かって3時間バスに乗った所にPereiraと言う街があります。バスを降りて中心街に行きホテルを探しました。安い良いホテルがあったのです。3人朝食付きで3,000円でした。全面大きな窓が設けられ、大きな部屋に大きなシャワー室が付いていました。翌日は、自宅のあるフサガスガから2時間のIbagueと言う街まで行きたかったのですが、この日は7月2日の土曜日で街ではお祭りをしているのでホテルが取りにくいとマリアが言いました。それで祭りのしていないこの街にさらに1泊することにしました。 7月3日に家に帰りました。陽子さんは7月6日の昼にボゴタを出ると言うので、7月5日の夕方、空港から比較的近いマリアの母親の家に行きました。彼女はコロンビアを出た後、カリブ海の島々と南米のベネズエラの東にあるガイアナ等3国を旅行すると言って我が家を経ちました。2週間ほどの旅で6~7泊すると言っていましたから、僕には考えられないスケジュールです。その後、彼女の日本の女友達がロス・アンゼルスに5日くらい遊びに来るので彼女と会ってから、またカリブ海の島々を巡り、8月にはまた別の日本人女性が、今度はアメリカ合衆国西海岸のカナダとの国境に近いシアトルに来るので、また10日ほど一緒に旅行すると言っていました。彼女は9月の18日頃に日本に帰国しますが、残りの日々はカナダからアメリカ西海岸を旅するそうです。その頃はお金を使い果たしているから、安い旅館に籠って何処にも行けないかも知れないと言っていました。彼女は昔、4年間旅をしていたそうです。僕はその時に、南米の端のUshuaiaと言う町で彼女に会ったわけです。この8年間は働いていたそうですが、また昔の病気が出て来たのではないか、と少し心配(?)しています。僕の方も、住宅地の泥棒対策が進んだので、また旅行熱が出てきました。今年は先にも書いたように、2月4日~3月6日までチリ・アルゼンチン旅行、5月29日~6月5日までCartagena、6月23日~7月3日までMedellinまで旅行と続きました。

4.帰国します

今年は日本へ一時帰国するため、3月の中旬からからマリアのアメリカ合衆国と日本のビザを取る作業をしてきました。アメリカ合衆国のビザが7月6日に取れたので、その日に日本のビザを取ろうと日本大使館に行きました。

5年半前に帰国した時にも、同じ手続きが必要だったのですが、あの頃は簡単でした。手続きの書類を出したら、次の日に貰えたのです。ところが今回は事情が異なっていました。15時45分に日本大使館に行くと3グループのコロンビア人がいて、日本のビザを申請していました。僕たちが待っている間にも6~7グループの人がビザの手続きに入って来ました。全てコロンビア人でした。そして受付の所ではビザの手続きには10日かかると書かれていました。それで、その日はマリアの母親の家に帰りました。

次の日にフサガスガの自宅に帰りました。その後、7月12日に日本大使館から電話があったので、翌日の13日にビザがもらえるものと思って行きました。ところが身元保証人の戸籍謄本と預金口座の書類が必要と言われ、何もせずに帰宅しました。

これらの書類を姉に頼むため電話しました。25日、書類が揃ったので書類の確認のため日本大使館に電話したら、これらの書類はEメールで送れば良いと言われました。非常に助かりました。さらに、戸籍謄本等実印の押した原本は今回に限り不要だと言われました。郵便で日本から送ると2~3週間かかるので、日本に出発するまでに受け取り、大使館に持って行けるのかどうか心配でしたが、ほっとしました。しかし、すこし理解できなかったのは、身元保証人を姉の順子に頼んで大使館に送ったのですが、僕がマリアの身元保証をする書類も必要だと言われました。なぜ姉のものだけで足りないのか分かりませんでしたが、こんなことで揉めるのは不要なので、すぐに送りました。

ビザは8月の初めに降りると聞いています。日本へは8月19日に帰国し、11月15日にコロンビアに戻ります。今回は9月の初めから3週間ほど北海道を旅行するつもりです。僕は北海道に行ったことがないので楽しみです。